A.はじめに
精神保健演習(スクーリング)では、現在、私の職場での立場は、勤続年数としてちょうど中間にある。そのため、上の世代と下の世代の間に挟まり主に調整役となっている。このことは、ある程度、職場にとって期待される立場にあることを意味していると思われる。期待される役割と自己の仕事に対するとり組み方に「なんとなく」ギャップを感じ、少なからずストレスになっていることやそれに伴う、仕事に対する意欲が減退しているということをスクーリングで提起した。
演習では、仕事や個人的な問題を一度大きな枠組みの中で捉え直すことは、現在の自分の事象を客観的に捉えることが出来る「一つの見方」を自分の中に持つことができるとアドバイスをいただいた。
そこで、
1.自分自身の現在のライスサイクルを捉えること
2.社会と自分自身をライフサイクルの中で位置づけること
を中心に組み立てて考察をしていきたい。いずれにしろ、社会−自己の相互作用の中で自我同一性が発達すると思われるが、1はどちらかといえば、年齢や個人的なライフサイクルであり心理発達的な影響を中心に、2はより自己と社会を結びつける相互作用を強く意識した視点で述べたい。

B.自我同一性確立と現在について
自我同一性の形成については、主に大学生の頃、私は、取り立てて目的意識や社会的な役割の中で与えられた機会などを意識したことが無く、「すんなり」と「なんとなく」就職ができたという意識が強かった。就職してからは、職場のチームワークや対象者(利用者)に対してに求められる接し方や上下関係、世代間の認識の違いなどにすごく苦しめられた思いが強い。その職場に同一化すること、存在証明を立てるなどが課題であった。幸い、良き指導者や両親のアドバイス、仕事のある寛容さ(余裕)などを知ることによって、徐々に、職場における同一化が自己の中で内面化されていったと思われる。上記をライフサイクル論に当てはめると、過去において準備された内的な斉一性と連続性とが、他人に対する自分の存在の意味「職業」という実体的な契約に明示されているような自分の存在の意味の斉一性と連続性に一致するという自信の積み重ねである(*1)が徐々に形成されてきたと言える。
その後、全く違う利用者の職場に異動になるが、若干の職場への適応が課題になるが、同一法人であることもあり、ある意味共通のルールがあり、無意識にすぐに適応することができる。すでに、職業人としてある意味、確立しているという自信と職業に対する自己の問い直しなどを適宜行い、ある一面では距離をとりながらとり組むという独自のスタンスで対応できるようになる。
その一方、仕事上で余裕ができた頃、今の伴侶となる女性とつきあい始める。大学生の頃は異性や性的なことよりも同性や趣味を同じくする人たちと群れて「遊び」に没頭している面が強かったが、このころはその女性とのつきあいが生活のほとんどを占めていたように思う。ここでは、ライフサイクルにおいて前成人期における親密性と孤立の命題が主になる。また、結婚という一つの通過儀礼の中で、家族、世代、他者としての親族の形成などは、親密性にみられる関係を守り続ける道義的強さを発揮する能力(*2)があったからこそ一つの課題−結婚の成立が成り立ったと思われる。
その後は、親密性、自我同一性の形成は、ある一面では、社会を捉える視点の自己の再構築と親密性としての他者(妻)を螺旋状に行ったり来たりしている。しかし、一人であったときに比べると妻との対話(時には独話になるが)の中で、再確認や苦悩が行ったり来たりしながら形成されていっていると思われる。
第一子の誕生は、生殖性へのライフサイクルの要素を含んでいると思われる。このサイクルの年齢区分は、成人期、メンタルヘルスの分野では「停滞」が中年の課題となるとされるが、私は、子供が産まれた時点でこの生殖性は内包していると思う。「世話」ということがとても意識されるからである。また、単に心理−生理的に結びついた後の妊娠という形態から、子どもが誕生した後の思考は、選択的になり、ある意味拒否性を有していることに気づく。それは、それまであまり気にもとめなかった児童虐待や子どもに関する様々なことに強い興味を覚えるようになって来たことにも関係がある。その背景にあるのは、有形無形の国家などの広範囲の集団同一性が語りかけてくるなんらかのより普遍的な世話の原理(*3)があると思われる。

C.社会の役割と私について
Bで述べたように、様々な形で自我同一性が社会的にも心理−生理的にも変化していっていることが認められる。結婚する前の職業に対する悩みについては上述したように、自己と社会の急激な出会いの中での自己の再編成であったことに起因すると言える。また、子供ができるまでは、会社は何を求めているのか、どうしたら認められるのかという他者にとっての自分の在りようが問題であったのに対し、現在は、自分は会社に何ができるのか、また何を求められているのかという自分の社会への役割を強く意識するようになる。このことは、あくまでも推測であるが、生殖性の命題に沿ったものに近いと思われる。(自分自身の)さらなる同一性の開発に関わる一種の自己、生殖を含めて、新しい存在や新しい製作物や新しい観念を生み出すことを表している(*4)と思われる。また、親密性における相補的な関係を確実に持ちうる個人たちと、その同一性を共有するようになり、意義ある犠牲や妥協を要求することもある具体的な提携関係に自分を投入する能力を有している(*5)にも当てはまるのではないかと思われる。いずれにしろ、社会−心理的な視点で自我同一性を自分に置き換えて考えると、自我同一性は青年期に一度統合されてからも親密性、生殖性など成人期においても再編成されていくのではないかと思われる。
先に述べたのは、どちらかといえば肯定的な側面であるが、その反面、意義がある妥協や要求に対する提携関係については心許ないところがある。バーンアウトするまでには到らないが、自分の働きが評価されずに空しくなるような感覚に陥ることもある。また、何となく意欲を無くしてしまって出社拒否まで行かないが、かなり抑うつな状態になることもある。これは、プライベートでもそうであるが、相補的な関係を確実に持ちうる個人たちという意味が果たして自分の含めてそうなのであるかという疑念などが強く出るときがある。これは、いまだ成熟していない生殖性の命題に対する過剰な気負いなどが働きかけているのではないかと推測する。家庭人として歩みだしたこと。子どもを養わないといけないこと。妻や子どもに気遣い、会社においても上下の世代の期待や役割をこなさないといけないこと。なにより、大人としての振るまいを身につけないといけないという気負いが、時折、プレッシャーとなってのしかかって、何もかもが嫌になると言う感覚に陥ることがある。これは、親密性の否定的な孤立、生殖性の否定としての停滞などが当てはまるかと思われるが…いずれにしろ、心理的なエネルギーが社会に向かっていくのではなく、内向化し、時には、退行しているのではないかと思うほどに落ち込むことがある。
この問題に対して明確な答えがあるわけではないが、そうしたネガティブな状態が長く続かない所をみると、いくつかの仕事以外の趣味や友人との交流、家族や父母の一言や見守りなどが適度に挿入されていることが意識できる。仕事以外の趣味や友人との交流は、ライフサイクルでは、「遊び」の重要性を意味していると思われる。(*6)この趣味や交流から新たなエネルギーを得ているのではないかと思われる。また、家族や父母の一言や見守りなどは、単に社会経験や人生経験の豊富さという意味だけではなく、ライフサイクルの中で、父母は世代継承的連鎖の中で私の自我同一性を形成してきた重要な存在である。彼らの気遣いや一言は、自分もまたライフサイクルの中で生きていることを実感させてくれる。それは、また、自己を再確認し、勇気づけられるのである。同じように、家族の存在は、時には、負に働くこともあるが、ライフサイクルの中で捉えたときに親密性の肯定的な側面や生殖性の期待などを語り合うことが、結局ネガティブからポジティブへと反転させることに気づかされる。

D.おわりに
今回は、青年期から成人期にかけての自我同一性の確立について考察したが、自分の学童期や幼少期などまで遡っても、自分は自分であったのではないか、自我同一性の形成のプロセスを自分なりに考察することは有意義のことのように思われる。
やや、主観的に論じすぎた嫌いがあるし、1と2を厳密に切り離して論述できなかったという反省もあるが、自己を内省的に捉え、社会的な文脈の中で捉え、さらにそれを相互に結びつけるにはライフサイクル論は自己をイメージ豊かに考察することができることが分かる。いずれにしろ、ポジティブな側面とネガティブな側面は、その場面、その時によって揺れているということが今回の論述で気づくことができたし、その反転の理由なども一面ではあるが論述することができたと思われる。

引用文献
*1『幼児期と社会1』p.336
*2前掲p.339
*3「ライフサイクル、その完結」p91
*4前掲p.88
*5前掲p93
*6前掲p.63-64:「戯れ」は仕事と遊びの境界をなくすことについて論じていると思われるが、玩具などの操作を通じて新しい秩序の構築、思考の創造性などを与えるという意味で引用する。