エリクソンの自我同一性獲得の要件として、あるいは、心理−社会的な視点で捉えた場合、社会の影響を能動的に、あるいは受動的に自己の中で社会性を形成するのかで、その社会の与える価値観は重要である。そこで、エリクソンは、イデオロギーという大きな枠組みを提示できる社会が必要であるとも述べている。健康な自我同一性を獲得するためには、忠誠の概念が必要であり、これは、いわゆる社会に帰属しているということの納得した状態であり、それが個々人の生産性や創造性に結びつく心のあり方を示している。ライフサイクル全体においても、発達段階は生涯続くものであるし、ある段階で、前に問題になった発達段階が再び試練として立ち現れることもあるとされる。
また、エリクソンは、歴史的に相対的に個々人は規定されるとも述べている。このことは、今の時代はどのような価値観があり、集団的に何が同一性を求めているのか、そのことを考察することが必要となる。しかしながら、現在に生きる個々人が、その社会について述べることは非常に難しいとされる。エリクソンは、精神分析医として、どのような同一性の観念があり、どのような同一性の喪失が子どもや成人に顕在化しているのかというのに限定している。私は、現代に生きるものとして、マスメディアやいわゆる一般的に理解しやすく共感した価値観を引用しながら、現代の日本における世界観の解体や日本的な同一性を読み解きながら、エリクソンの自我同一性獲得のための要件や展望などを述べたいと思う。(なぜ共感したのかなども出来れば述べたい)

世界像の解体について
世界像とは、集団的な価値観であり、個々人が生きていくための世界の秩序であり、規範であり、また自分なりに取り込む積極的な価値観を含んでいるものである。エリクソンで言うところである、儀式化であり、自我同一性を構築していくための様々な要因となる。この世界像は、近代に入ってから不安定なものになり、現代においてはかなり流動的に、多様になっている。特に日本においては、価値観の多様性が逆に不安になっていることが多く、「大人のための哲学」においては、解体のスピードが速いとされる。

その理由として

一つは「後発近代的世界像」であり一つは「理性と啓蒙の物語」であった。
「後発近代的世界像」とは、明治以来からの日本は欧米に比べるとまだまだ遅れている。底を何とか追いつけ追い越そうとしているという感覚である。特にアメリカに対する独特の愛憎の混じった感覚を90年代になってからの青年にはあまり見られない。アメリカに原爆を落とされた、戦争に負けたという憎の一方で、アメリカ文化に対する憧憬という両方の感情を特に抱いていない。
また、
1.国家に貢献すること、家を繁栄させるという価値観が大事にされてきた。
2.文化・都市的なものへの強いあこがれ
こうした価値観は、明治時代から始まるが、幻想であっても、確かにある時期までの日本人の中にある。しかし現在は中央思考は薄れつつある。
3.人生のパスポートとしての学問、高学歴への思考が薄れてきている。
75年位すると高学歴と豊かさが行き渡る。良い大学に行ったらすばらしい世界で活躍できるという夢もなくなる。勉強することの意味がはっきりしなくなる。

こうした世界像の近代化は村落共同体的なものが壊れて、人やものが広い範囲で行き渡るようになり、欲望が解放されてくるため、共同体の価値規範や宗教的な価値規範が自ずと壊れていく。
日本の敗戦による価値基準の大破壊が関係しているとも思われる。

1.強く人を引きつけるような目的や規範が与えられない。
目的や方向性がはっきりしないと、生きていること自体がぼんやりとしてくる。

2.共生感の喪失
自分が社会や時代とつながっているという感覚が、多くの人の間で喪失しているのではないか。まだ、80年代では、老若男女が聞いて分かる歌という、国民的なものが存在していた。かつては、我々日本人という感覚が良くも悪くも生きていたが、そういう感覚も怪しくなってきている。

3.方向感覚の喪失
時代や社会のあり方に見通しがつけられない、いったいこれからの日本はどうなるのだろうかという感覚が強くなっている。原則としてここをおさえればよい。そのためには具体的な手段としてこれこれがあるというプランを打ち出すことが必要である。環境問題など

全体として、ニヒリズムが蔓延して、生きる意味を模索することが困難になっている。様々なマスコミや世代的に伝えられてくる物語がある。こうした物語の共有が人々の世界像に大きな基本的な枠組みを提供する。他方で、自分の経験から自分なりの物語を作り上げていく。その中に、後発近代の物語があり、進歩すること啓蒙する物語が喪失している。啓蒙と進歩の喪失は、マルクス主義から全体主義への悪い意味でのナショナリズムの敗北であったり、相対的なものから脱し得ないニヒリズムであったりする。

実際に、私の場合は、70年代に生まれて、小学校から大学を経て就職、結婚と一応のステップを踏んできているという確信はあるが、それが立派であるという感覚はない。また、強い義務感もない。もっとも、子どもはしっかりと育てたいという気持ちはあるが…。その間のバブルを経て、現在においては不況のただ中であるが、私の親の中にも高学歴志向はあったし、いわゆる教育家庭であった。私が高校生の時は、まだ、バブルで就職することに対してそんなに苦労なく、いわゆる大企業に勤めることが容易であった。高学歴、高収入は男のステイタスとして機能していたと思う。しかし、私が大学を卒業するあたりから、なんとなく、空気が変わってきていたように思う。名だたる大企業の倒産、不正、政治のスキャンダルの蔓延化どことなく白けたムードが全体に漂っているような気がするのは気のせいだろうか。一昔前に、ある外国人が日本を「不機嫌な社会」と称していたが、妙に印象に残っていて、当を得ていた表現と記憶している。そして、就職して、若い人(主に実習生だが)と話をする機会が多いが、携帯電話の普及で、コミュニケーションの形態が明らかに違うことに気づく。また、どうにでもなるし、どうにもならないという気分的なものが強く感じられるのが、(何も考えていないわけでもない)世代的にも違ってきているのだろうか。情報社会が進む一方で、情報に対しての白痴化も進んでいるのも気になるが。今の青年期の精神的な形態について論じるのは個々では略す。

日本における自我同一性について
エリクソンにおける自我同一性は、主に西洋であり、そのパーソナリティ形成においてもやはり西洋としての視点が中心となる。よって、東洋としての自我同一性や日本固有の自我同一性については、自分たちで考えて行くことが必要となる。しかしながら、日本的な自我同一性を語るとき、国民性や日本論については、その著者によって様々であり、切り口も多様である。しかしながら、よく言われるのが、「あいまい」であるという事である。西洋に比べて、東洋とくに日本においては自己が曖昧であると言うことが西洋人に限らず日本の中でも言われている。ここでは、大江健三郎のノーベル賞受賞時に講演した「あいまいな日本の私」と木村敏の「人と人との間」という二つのテキストを中心に日本における自我同一性についてまとめてみたい。大江健三郎に関しては、西洋に向けて、文学というものを媒体にして広く講演をしている。昔から、日本について述べるには、古今の日本の文学であり、それを読み解くことは、日本人についての根本を読めるのではないかという意図であり、木村敏については、精神分析として、哲学的にも深い考察を持っている方であり、その日本におけるアイデンティティについてのスケッチが面白いことが理由となる。また、このあいまいと言うことにもかなり面白い考察をしている。

日本における集団的なアイデンティティを述べると言うことはかなり難しいし、様々な見地から様々に述べられているのが、ここでは、「あいまいさ」ということを中心に述べていきたい。
我々日本人に表されている日本人の集団的アイデンティティが、西洋人のそれと違って個人的レベルというものではなく、超個人的な血縁的、それも血縁史的なアイデンティティである。それは、個人の自我同一性とか、それの集合としての自我同一性ではなく、各々個人がそこから生まれてくるような、個人以前の何ものかに関する自我同一性である。
自己と自己ならざるもの、私と汝、個人と個人がそこから同時に成立する、この何かのある場所は、いわば人と人との間なのであるから、仮にこう呼んでおく。
この人と人との間は、いつでもどこでもあるものである。
血縁史的アイデンティティについては、この人と人との間、自己実現の仕方、世代から世代へと受け継いできた、何ものかへの関与の仕方の同一性といえる。さらに、人間が生きるという場合には常に自然との営みに他ならないため、自然との関係の同一性であり、人間との関係において捉えられた自然の、すなわち風土の同一性でもある。

良く昔は、日本人は、勤勉で几帳面で、義務感、責任感が強く、他人に良く気を使う俗に言う苦労人が美徳とされてきた。こうした人たちは、精神病理的にはメランコリーの親和性が高いとされるが、日本においては、西洋のメランコリー観とは異なり、自然的に、自生的に悲哀や寂寥が美につながっていて、西洋のように、陰鬱で感傷的な風情に恋人への切々たる思慕の年委託されるというのとは違う。日本人のメランコリーに対する一種の審美的な態度には、自然そのままを肯定する、といった傾向が伴っている。心の動きを動くままに動かせて、その動きに身を任せ切っている状態が、美しいとされる。このような傾向の底には、自然も人の世も、それ自体移ろいやすいもの、図り知ることのできないものであって、これに対して我を張り我を通すことなく、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という、日本人古来の一種の処世術のようなものが流れ続けているのではないか。

義理と人情
西洋においては、義務や道徳は究極的主体が神であり、拘束力を持ち、自己へ働きかけるのに対して、日本における義務は、自己の体面を保ち、他人によって非難されたり、自己の名が汚れたりすることを避けるため、あるいは、意地としてという人と人との間に下ろしたものであり、人情とは、情がものや事に触れて感動することによって生まれたのが「もののあわれ」であり、それが人に発動することによって人情となるとすれば、道徳以前の根源的な心の動きとなる。

世間に顔向けが出来ない〜これもまた、人と人との間の社会であり、関係が修復不能になった場合、日本においては、あらゆる人と人との関係、血縁、地縁、に向けられる。それは、他者としての先祖や世間ではなく、自己の存在の根拠そのものとしての、人と人との間にある何かにでのである。〜こうした意識は、罪と言うよりもむしろ恥の観念である。

日本人においては、自己がそこから自己となってくる源泉としての、人と人との間という場所について。つまり日本人にあっては、自己は自己自身の存立の根拠を自己自身の内部に持っていない。「脚下照顧」と言われて自己自身の足下に置かれているかに見える自己の基盤が、実は自己の絶対的外部にある。しかし、これもまた、他者にとっての内部ではなく、外部であり、いかなる人にとっても内部でない、人と人との間である。

外部的強制力によって善行を行う。

西洋人は垂直に神と結びつき、日本人は水平的に人と人との間に自己を見いだす。

風土としての日本

エリクソンの自我同一性と日本について
一つに、日本という固有の問題に限らず、世界像が解体している日本の問題
世界的(グローバル)に、世界像の解体は進んでいるところとそうでないところがあり、アメリカにもアメリカなりの解体による、個々人の不安が存在し、そのことが、その国々で精神的な障害に結びつく症例となっているケースがある。同じような要因で、同一性を喪失していても、その風土によって、環境によって症状は違うと思われるが、根本的にはこの世界像の解体は何らかの不安をもたらす。それをどのように乗り越えるのかは個々人の社会の捉え方にかかっているが、エリクソンの存命中にも、自我同一性の混乱が時には、肯定的に捉えられている社会現象もまたあると述べていることから、社会側からの価値観の提示や安定のためのイデオロギーは長期的なものを提示することは難しいとされている。〜景気対策、公務員への就職を希望する現在の状況は、一つのモデルとなってるが…これもまた、安定への希求の現れともいえるのではないだろうか。

一つに、古来からある、自我同一性形成のための集団的な価値観が喪失、あるいは見失っている状態。
血縁的な結びつきや人とひととに生起するコミュニケーションを大事にするとされる日本特有の自我同一性が、西洋やグローバル化によって、個性や自己への強い保持などを必要とされる近代化とのギャップが、日本を逆に否定的に捉える一つの要因となっているのではないだろうか。大江健三郎のように、バランスをとることを大事にすることを説く一方、いままで西洋に向けて日本を発信してこなかったことを悔いているような人が多いのではないだろうか。むろん、西洋に向けて発信することは必要であるし、これからは、西洋や世界に対しての視点は必要であるし、後戻りは出来ないが、心の拠やどのようなルーツがあり、どのように日本の精神性はあるのかということを自分の中に確認し、自我同一性を形成していくこともまた必要である。そうした意味でも、木村敏の考察は一つの方向になる。

おわりに
エリクソンの自我同一性と物語について再び論述する。

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