A.はじめに
日本のおける自我同一性(アイデンティティ)や社会、家族、文化などの捉え方も多様であり、様々なマスメディアや書籍などで氾濫し、何が病理なのかそして何が正常なのかを論じることは難しい。
ここでは、日本の自我同一性について、エリクソンの思想を出来る限り慎重に援用しながら、自分なりに日本における現代の社会の様相が、個々人の自我同一性確立が困難な状況ではないかという問題意識や日本における集団的な自我同一性とは何かということを考察し、まとめを行いたい。(家族に関しては、多様な社会環境の個々人の捉え方から形成されるため、その背景にあると思われる社会の特色を中心に述べる。)
B.日本社会において、自我同一性確立が困難な理由について
エリクソンは、自我同一性確立のために社会は時には、能動的にあるいは受動的にイデオロギーを与えているとされる。ここでいうイデオロギーとは、伝統的なものから政治的なもの、または、歴史的なものから、社会的なもの、あるいは理想や日常に含まれる様々な価値観に根ざしているものとして捉えられている。
また、イデオロギーは、整合性に欠け、偽善的であるという批判もあるが、集団同一性を形成する重要な要素として捉えられている。学問や理論的なもの、哲学的なものとは違い、社会性が強く、流動し、限局性を持つ。しかし、現代のテクノロジーやナショナリズム、または、普遍的な、広範な広がりを現代には認められているが、それもまたイデオロギーとして捉えられている。
現代の青年がアイデンティティの拡散をむしろ積極的に選び取っている背景に、自由な社会の中で構造化が少ないが故に葛藤が多いのではないかと推測される。
いわゆる、イデオロギーとは人が依って立つ世界像や集団的な同一性であり、自我同一性を確立するために判断する要素であるとされる。
日本においては、歴史的に近代より保ってきたイデオロギーは「後発近代的世界像」であり、現代においてその世界像が終焉し、価値観の流動化が加速し、それまでの社会構造が崩壊したことによって自我同一性に対して様々な不安や葛藤を引き起こしていると思われる。
「後発近代的世界像」とは、明治以来からの日本は欧米に比べるとまだまだ遅れている。そこを何とか追いつけ追い越そうとしているという感覚である。こうした価値観は、富国強兵や高度成長期を支えた要因にもなってきたが、現代では、中流意識の浸透による豊かさの享受という反面、現代の不況や能力主義などの新しい状況の中で揺らいでいる。
他に、後発近代的世界像を支えた価値観として
- 国家に貢献すること、家を繁栄させるという価値観が大事にされてきた。
- 文化・都市的なものへの強いあこがれ。
- 人生のパスポートとしての学問、高学歴への志向が薄れてきている。
1.2に関しては、明治時代から始まるが、幻想であっても、確かにある時期までの日本人の中にあった。しかし現在はこうした感覚は若い人ほど薄れつつある。
3.に関しては、1975年位すると高学歴と豊かさが行き渡り、良い大学に行ったらすばらしい世界で活躍できるという夢もなくなる。勉強することの意味がはっきりしなくなってきている。
こうした世界像の近代化は村落共同体的なものが壊れて、人やモノが広い範囲で行き渡るようになり、欲望が解放されてくるため、共同体の価値規範や宗教的な価値規範が自ずと壊れていく傾向にある。また、この世界像の終焉は、以下のような同一性混乱の要因を生み出す。そして、日本においては特に顕著であると思われる。
1.強く人を引きつけるような目的や規範が与えられない。
2.共生感の喪失
自分が社会や時代とつながっているという感覚が、多くの人の間で喪失していると思われる。1980年代では、老若男女が聞いて分かる歌という、国民的なものが存在していた。また、かつては、「われわれ日本人は」という感覚が良くも悪くも生きていたが、そういう感覚も薄れつつあると思われる。
3.方向感覚の喪失
時代や社会のあり方に見通しがつけられない、いったいこれからの日本はどうなるのだろうかという感覚が強くなっている。
C.日本における集団的同一性の特色について
上記のような現代における「世界像」の揺らぎが、自我同一性の葛藤を個々人に引き起こしているとすると、古来から言われている日本人像はどのようなもので、どのような特色があるのだろうか。
今回は、日本という自然や風習や慣例など様々な形で自然に享受している生活の裏にある根本的な傾向について、以下の事について述べる。
- よく昔は、日本人は、勤勉で几帳面で、義務感、責任感が強く、他人に良く気を使う俗に言う苦労人が美徳とされてきた。こうした人たちは、精神病理的にはメランコリーの親和性が高いとされていたが、日本においては、西欧のメランコリー観とは異なり、自然的に、自生的に悲哀や寂寥が美につながっていて、日本人のメランコリーに対する一種の審美的な態度には、自然そのままを肯定するといった傾向を伴っている。心の動きを動くままに動かせて、その動きに身を任せ切っている状態が美しいとされる。このような傾向の底には、自然も人の世もそれ自体移ろいやすいもの、図り知ることのできないものであって、これに対して我を張り我を通すことなく「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という、日本人古来の一種の処世術のようなものが流れ続けていると思われる。
- また、よく日本人は体面を気にするという面がある。これは、いわゆる義理を重んじる、あるいはその逆に世間に顔向けが出来ないといった表現でなされることがある。西欧における義務や道徳は、究極的主体が神であり、自己の内部に拘束力を持ち、自己へ垂直的に働きかける。それに対して日本における義理の意味は、自己の体面を保つ。他人によって非難されたり自己の名が汚れたりすることを避ける。あるいは自分の意地としてという「人と人との間」に水平的に下ろしたものである。よって、世間に顔向けが出来ないということは、義理を欠いたことによってあらゆる人と人との関係、血縁、地縁などと自己との関係が修復不能になったと思う意識である。これは西欧における自己の内部にある神に自己を問いかけるのとは違い、日本人は、自己と他者(ここでいう他者は自分を形成して取り巻いているあらゆる外部)との「間」にある「何か」を意識していることである。〜こうした意識は、罪と言うよりもむしろ恥の観念であることを意味していると思われる。
このことは、西欧から見ると自己の内部に確固としたものが無く、あいまいに映るとされる。しかし、日本においては、自然を客体としてみるのではなく、主体として取り込み、同一化していること。他者と自己と厳密に区別するのではなく、人と人との間を相互拘束的に「われわれは日本人である」と規定する傾向であるからだといえる。
D.まとめ
日本における自我同一性というと、主に後発近代的世界像の崩壊によって個々人の同一性の混乱が広がっているという病理的な面が強調されすぎていると思われる。その反面、日本人の心性とはどのような特徴があるのかということを考察するとき、時に古めかしいものを覚え、あまり考えないように思える。しかし、この心性としての集団的同一性とは何かと模索し、現代の諸相と結びつけてとらえ直すことは、日本人の自我同一性獲得に必要な考察であると思われる。
本レポートでは、そうした日本人の心性としての集団的同一性は「あいまいさ」であることを強調し、取り上げた。その理由としては、自然への同一化と人と人との間に自己を規定していることである。このことはまた、後発近代的世界像を推進してきたことと深く関係している。近代においても村落共同体的なものがあり、日本における美徳や社会的な関係のモデルが形成されていたと思われる。現代の中流意識も「世間体」という形でこの心性が働いていると思われる。また、その反面、これからの日本はどうなるのだろうかという方向感覚の喪失や不安は西欧のとは違い、日本的に、この人と人との間に相互拘束的に自己を規定する特性が強く作用しているのではないかと思われる。
現代日本における自我同一性確立については、
- 近代から現代にかけての世界像は、グローバルなものであり主に西欧主導であるため自我同一性もまた西欧的なものを要請しているのではないか。
- 日本人は古来から自然の流動性に対して同一性を持ち得ていたが、近代からの世界像の流動性に対して同一性を持ち得ていないのではないか。
- 日本人の自己の規定は人と人との間にあり、内部に自己を規定する明確なものが存在しない。よって、世界像と日本的な心性の間に摩擦があると思われる。
- 日本における自我同一性確立として、この世界像と心性のすりあわせは、日本的に語り合い、共有し、新しい枠組みをつくることであると思われる。そのとき今一度、日本人の心性としての集団的同一性とは何かと問い直し、決して、後ろ向きに捉えるのではなく、現代の世界像と流動化に沿いながら、人と人との間に、自然と人との間に置き直し、語り合い、いまある自分の根拠を確かめることが必要である。
参考文献
エリクソン関連の書籍の他、
『大人のための哲学授業』(西研,大和書房,2002)
『人と人との間』(木村敏,弘文堂,1998)など