収集と流通の関係とオタクと呼ばれるモノについて

日記の方でも少し言及したが、フィギュアやモデルガンを収集することは、その世界が自己完結すること、また、生産性や認知度が低いという理由で、コアな趣味として扱われる。また、扱っている店も少ないことから、決してメジャーではないが、商業的には、わりと採算がとれるようで、脈々と、あるいは細々と経営が出来る。これが多競争でも商業が成り立てば、立派なメジャーな商売になるが、ならない理由として、アニメに対する一般の認知度が蔑視を含んだモノがある。また、美少女モノやプロレスネタに関しては、物好きと片づけられて、マイナーな位置に葬られる。特に、美少女モノに関しては、性的表現が含まれ、ときに、幼女趣味とかアブノーマルと社会で位置づけられて、そうしたフィギュアを愛好することは、非社会的としたまなざしがある。同様に、モデルガンもガンという暴力的なイメージと即物的に片づけられて、社会では眉をひそめる手合いとなる。また、そうした、玩具を愛好することは、幼稚とされ、精神的に未熟であると見る向きがある。アニメを愛好する。マンガはある程度市民権を得ているが、男性が少女マンガが好きだと言い切れる土壌は一般社会にはない。要するに、社会人にとっての趣味とは、一般に認知されているモノ、スポーツ(一般に認知されているモノ、空手などは暴力的なイメージが強く、あまり奨励されない)やテレビ、または、大衆音楽を聴いたり(コアな音楽を聴いていてもあまり相手にされない)、読書(もちろん売れているモノや認知の高いモノ)、いわゆるステータスの高い知的文化〜将棋や囲碁(人によっては麻雀など。しかし、賭博性の高いモノは好ましく思われない。パチンコ、競馬、宝くじはよい)などや家族サービス(SEXもそうか?)やドライブで行楽地に行く。土いじり、ボランティア、地域活動など「奨励されているモノ」に「はまる」ことである。
さて、収集であるが、奨励されているモノは、一般に生産的であるとされ、消費され、流通の中で、わりと自然な状態にある。そうした行為に対する商業は、あらゆる準備は怠りなく用意されていて、誰でも容易に手に入る。流行なモノで、定着しているモノならなおさら良い。
しかし、人々の世代が違い、10年前に流行ったモノに固執して、収集しようとした場合、そこには、資本的な壁が立ちはだかる。それが、今も扱われて、認知されているモノであれば可能である場合があるが、本なら古本屋や改訂を重ねているので流通に残っている、そもそも、本や音楽はその本質が流行り廃りでなくなるモノである。(本や音楽そのものが世の中からなくならない限りである。)
しかし、集めようとしている作者やアーティストが、廃れて、流通からなくなった場合、あらゆるルートを駆使して入手しようとすることが、ここで言う収集である。こうなれば、すでに流通とは関係なく、自分の世界の構築にはいることになり、ひとつのオタクへの道をたどる。
しかし、本や音楽の収集は、一種のこだわりとして認知される。それは、本や音楽そのものが一つのステータスを獲得しているからである。
また、何かにこだわるとか収集するという場合、何らかの仕事に結びつくことや生産性がある。その仕事が資本社会にとって有為なモノであるとされる場合は、時には高尚なモノとして、あるいは有効なモノとして認められる。
しかし、前述したように、フィギュアやモデルガンはどうであろうか。確かに、商業的には成り立っているが、認知度が低い、資本的に有為なモノでないと認識されている。しかし、収集を通して、自分の世界を構築するという行為は、誰でもあるはずである。フィギュアを集めることで、何らかのモノとの作用が自己の中で働き、充足されるのであれば、それはそれで、立派な趣味であろう。しかし、フィギュアは、その時代のアニメなどのメディアを題材にしていることが多いため、そのメディアそのものが廃れると、連鎖して、フィギュアそのものの流通がストップしてしまう。しかし、同様なメディアが絶えず生産されるため、似たようなモノを集めることは可能である。(それが出来ないで、立ち止まって収集するのが、コレクターという人種ではあるが)さらに、そうしたなくなっていくモノ、今はないモノを何とかして集めるのがコレクターの醍醐味の一つでもあるが。
同様に、カードゲーム(TRPG含む)などは、カードゲームは何らかの形で生産され続けているが、ゲーム業界が廃れると、カードそのものが流通しなくなり、廃れる。これは、玩具(大項目)という形態はなくならないが、カードゲーム(中項目)がなくなる可能性はあるということである。さらに、カードゲームでも2年前に流行って容易に手に入っていたモノ(小項目)もいつしか、手に入らなくなってしまう。しかし、カードゲーム愛好者からすれば、そのゲーム(小項目)そのものの様々な収集を試みるだろう。そして、ときには、親しい、理解ある友人とプレイをして、充足されるだろう。そうして、似たような形態を集めたり、時には逸脱して様々なゲームを集めて一つの世界を構築するだろう。そして、自分の構築してきたモノを分析したり、蘊蓄を持つようになると、オタクが誕生する。
わたしは、あえて肯定的に捉えている。こうした人は、話していて面白く、そして、慎重に言葉を選んでいる場合が多い。また、熱っぽく話していても、知らない人に対する気遣いや優しさがある。(それが出来ない人は、オタクをやめるべきだ!)
人と違ったことをする人や収集したり、思考したりする人は、ときに、理解不能として拒絶される傾向にある。それは、資本社会にとって、良き消費者でないことがあるから。服や車や社会的なステータスに興味がない人は、社会の敵である。しかし、我々は、収集を通して、消費をしているのであり、その消費がある限り、商業は成り立つ。それがメジャーであるか、マイナーであるかの違いがあるだけである。
ときには、全く手に入らないモノを収集しようとする人もいる。そうしたときには、コストが高く、時には、成金の道楽として、認知されているモノもある。(絵画は、日本においては資産として捉えているモノもある)ここで言う収集とは、全く違う性質のモノであると認識している。


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