福祉施設利用者と援助者のケアにおける関係性についての一考察
-ケアの理論および倫理を手がかりに-
W学園 kuma

要旨: 福祉施設に勤務する援助者は,長期間にわたり,利用者へ身体的ケアを行ことが業務の大半を占めている.その際,援助者は,そのケア過程で,利用者の生活の質や情緒の満足を追求することが求められる.
 本論では,そもそもケアの意味とはいったい何か.あるいは,なぜ他者である利用者に長期間ケアをし続けるのか.これら問いは,援助者の専門性を考える上でも,あるいは福祉施設で勤務する意味を考える上でも避けて通れないこととして取り上げた.
 先行研究から,ケアの言説を3つの視角,(1)源泉,(2)効用,(3)システムとして分類・整理した.その上で,(1)ケアは公共的であること, (2)ケアは,他者の生の肯定や自己成長などを意味すること,(3)ケアは,相互浸透的な関係下で行われることなどを考察した.
 そして,実際のケア過程では,相互浸透的な関係下で利用者のサインに感応し,ケア行為が始まることから,援助者は受動的な立場にあること.ケア行為は他者の生の肯定であるが,そのことを通じて自己の生の肯定に結びつくことを明らかにした.

キーワード:社会福祉施設,ケア,倫理

1.問題の所在および研究目的
 福祉施設援助者(以下,援助者)は,福祉施設利用者(以下,利用者)と排泄や食事あるいは入浴介助など,いわゆる身体的ケアを通して多くの時間関わっている.その中で,援助者はケアの展開過程で,利用者の心理面や情緒面への配慮が大切であり,そのことで利用者の生活の質や情緒の満足を追求することが専門職として求められる.そして,その追求は利用者との信頼関係を築くことが欠かせないと考えられている(広井1997)[1]
 このように利用者と援助者の関係性を考える場合,まず福祉専門職としての望ましい姿勢や視点〜援助者の「あり方」(専門職性)に主眼がおかれる言説が多い.例えば,利用者の視点に立ってとか,パターナリズムに陥らない振る舞い方を身につけるなどである.
 確かに専門的スキルを学ぶことは大事である.しかし本論が問題とすることは,それ以上に,福祉施設では,まずもって日常業務の大半を占めるケアとは何かを知らないといけないのではないかである.例えば,なぜ見も知らない他者(利用者)にケアをし続けるのか.そのケア行為は,いったい有意義なことなのか.仮に有意義だとして,どうしてそう言い切れるのかを知ることである.それなしには,援助者としてのあり方〜専門性を考えることはできないのではないかという視点に立っている.
 さらに別の視点から,利用者は福祉施設で長期に渡り生活することが多いため,援助者は同一の利用者と間断なく関係を続けていかないといけないことが特徴として挙げられる.しばしば指摘される問題としての施設内虐待や不適切対応の原因は,援助者の倫理観が組織によって希薄化していることと,この長期化するケア関係が密接に関わっていることが明らかになっている(空閑2001).よって,ケア行為を遂行する援助者のモラル確立と共に,この福祉施設におけるケア関係の内実を考えることは,援助者の「あり方」と密接に関係する重要な問いと考える.
 つまり,本論ではケア行為に内在する意味を明らかにし,利用者と援助者の関係性の基盤を再確認することを研究目的としている.

2.研究方法および範囲
 ケア理論研究の視角は多様にある.例えば,「ケア」という用語が文献上どのように使用されているかを調査し,抽出したもの(生野2003)[2].代表的なケア理論・思想(メイヤロフ,ギリガンなど)を分析し,ケアの意味を抽出し考察したもの(木立2000;広井1997;鷲田1999)[3][4].あるいは,ジェンター理論と結びつけ,ケアの社会性や公共性を論じているもの(村田2002;森岡2000;廣森2001)[5]など,その幅は広い.本論では,これらの先行研究を目配せしつつも,特定の思想・学説を巡る議論の詳細には踏み込まない.
 本論の研究方法は文献研究とし,研究範囲は,ケアの意味性に焦点を当てた学説の整理,抽出を行う.そして,抽出されたケアの意味が,福祉施設の実際的なケア行為の中でどのように機能するのかを検証する.

3.ケアの学説の整理
 ケアの学説について,特に意味性を論じていると考える先行研究から,論点をあえて単純化すれば,以下の1〜3に整理・分類できると考える.
 以下,1〜3について概説を行う.

3-1.ケアの源泉
 人がケアに向かわせる動機や心情(=要件)には,共通性や普遍性があるとされ,その要件の一つ一つを取り出して論究する.
 例えばケアの要件には,気遣い,配慮,慈悲,利他的行為,思いやり,憐れみの情(コンパッション),信頼,共感,傾聴,専心,良心,献身,奉仕などがあるとされる(森村2000;浜口2004;木原2005;田中2000)[6].そして,その要件の本来的な意味を宗教・哲学・倫理学の観点から,語源の探求,あるいは,学問上どのように議論されてきたのかを考察していく.例えば,木原(2005:4)では,コンパッション(Compassion)は「14世紀後期ラテン語を語源として,「共に」「苦しむ」com+passion(cum+pati)という意味である」[7]と論じ,コンパッションの哲学的な議論,根源としてのキリスト教福祉思想へと展開していく.
 なお参照した先行研究の中には,そもそも「ケアとは何か」について直接言及しないものもある.しかし,そこで論じられる要件が,他者へケア行為に向かわせるものであり,そのことでケアの奥深さを明らかにしているという共通性がある.
 いずれにしろ,論者によって取り上げる要件が異なるとはいえ,ケアへ向かわせる人の心情などは「客観的に対象者を認知して傍観者として眺めていられるような感情ではなく,…中略…,一方で排他的な親密さだけに限定されることのない関係性に基づくもの」(木原2005:14)であると考えられている.つまり,ケアは広く人間の本性として認められるものであり,なにかしらの(時には衝動的な)行動を伴うものと考えられている.

3-2.ケアの効用
 ケアを行うことで援助者は,ケアの受け手〜利用者から自己実現,人間的成長,自己充足,生の肯定,多様な価値観への気づき(豊かな感性の醸成)などの効用が得られるとされる(森村2000;鷲田1999;廣森2001;尾崎2002).
 3-1との関連では,例えば,援助者は「本来的な気遣い」への考察を行い,実践することでケアの効用が得られると考えられる(山下2002;木立2001;安井2002)[8].あるいは,本来性を指向することの必要性(援助者の望ましい態度)が論究される.例えば,尾崎(1999:31-82)は,先行研究から「共感」を巡る学説上の議論をレビューしながら,自らが関わった事例を提示,考察している.そこではケア関係下における援助者の心の葛藤を,共感というファクターで濾過している.最初,援助者は「共感」を「感情移入」と混同していたために利用者のとっては迷惑な存在であったこと.長い期間関わることで,利用者を「他者」として認めることに援助者が気づいたことで,利用者の世界(多様な価値観)への理解が進んだことを考察している.さらに共感は,社会にとってどのような意味があり,作用するのかまで論考している.
 いずれにしろ,援助の望ましい態度には様々な見解があるが,ケアの効用を援助者が得るには,受け手との対等性や相互性が重要であることが多く取り上げられる.なぜなら,私たちは「一人で生きていくことなどあり得ない.生きることが,そのまま〈他者〉へと影響していくかぎり,私たちは〈他者〉との関わりの中で生きていくしかない」(森村2000:83)ことが根底にあるからとされる.その上でケアは決して一方通行ではなく,ケアは人が互いに生きていく上で欠かすことのできない行為であり,その意味で,公共性や社会生活の基盤として位置づける必要性について論じられている(森村2000;松倉2001;村田2002;広井1997;鷲田1999;木立2000)[9][10][11]).

3-3.ケア関係におけるシステム
 ケア関係におけるシステムとは,ケア関係の具体的な所作,例えば,身体に触れる,あるいはケアを通じた非言語・言語コミュニケーション等を考察する.キーワードとして,身体の共同性,相互浸透,共同体と異邦性(他者性)などが挙げられる(鷲田1999;阿部2001;田中2005).
 先行文献では,最終的に3-2へ考察がなされていくことが多い.しかし,このケア関係のシステムを中心に論じているものは,どちらかといえば,ケア関係(行為)の身体性を重視し,そこからくみ出される心の交流の襞を描くことに主眼がおかれる.例えば,田中(2005:117)は,重度脳性麻痺のある女性と援助者の会話〜女性の「お願い」と発する言葉から,「「お願い」を出発点として経験される一連の行為が,様々な困難やためらいを伴いながら,どのように始まり,推移し,終わっていくのか,その過程を辿って」いる.そこでは,「お願い」という言葉が,援助者にいかに解釈されるのか.あるいは,すれ違うのかなど,身体の共同性,他者性などを中心に考察されている.
 いずれにしろ,身体に触れ,心を通わせるケアの行為は,「自/他,内/外,能動/受動という区別を超えたいわば相互浸透的な場に立ち会う」ことになる.そして,「相手と自分を含む一つの力動的な場の布置に一つの切り口を通して参入」(鷲田1999:176)することである.さらに,相手の世界を理解するとは,他者が自分とは違う(自己同一性に回収されない)からこそ出来るなど,自己と他者という哲学の命題が含まれている.

3-4.考察
 このように,人が人にケアへ向かわせる要件の一つを取り出して,その語源の探求や意味づけを考察する方法.援助者が利用者に求められる姿勢を中心に,ケア行為に向かわせる要件または,対人援助で使用される学術的用語をどう考えればよいのかを論じていく方法.利用者と援助者のケア関係で生起する空間や時間から,どのような心情が働くのかを考察する方法があり,そのことを大まかであるが概説してきた.
 とはいえ参照した先行文献では,一つの文献の中に,例えばケアの源泉を論じながらも,ケアの効用へ展開するもの.ケア関係のシステムを論じながらケアの効用を考察しているなど重複している事が多く,単独で例えば,ケアの源泉だけを論じたものは少なかった.このことは,ケアを考察するとは,様々な道筋があるが,最終的にはケアを行うことの有意味性を模索することにあるのではないかと考える.
 次に,3の学説の整理から,さらにその中で論じられているケアの意味性を取り上げていく.

4.ケアの意味性
 3の整理を踏まえて,さらに論点を絞って,ケアの意味を抽出していく.本論では,

4-1.ケア関係における対等の意味
 一般に援助者と利用者は,ケアの「与え手」と「受け手」の関係にあると考えられがちである.そのため,利用者が一方的に支えられるだけの存在に置かれることによる援助者の権力性がしばしば問題になる.そのため,援助者と利用者との対等な関係を築くことが大切であると説かれる.あるいは,利用者から援助者はケアされることもあると言う.そして,もし利用者からケアされていることに気づくならば,受け手も与え手も互いにケアをしあっていることになるから関係は対等であるとされる.しかし,通常,援助者は利用者に何かケアをしてもらっているとは考えにくい.では,何をどう考えれば利用者からケアされていると言えるのか.
 先行研究では,3-2で主に論じられ,3-1でも触れられるが,その理由の一つに,目の前に(障害のために)生きづらさを抱えている人へ手をさしのべることは自然なことである(安井2002).あるいは,障害者に人間としての弱さを見いだし,その弱さに引き寄せられるように興味を持ち,関わりたいと思うことで,援助者自身の弱さに気づき,逆に利用者から教わることがあったり,むしろ勇気づけられることがある.つまり,介助する人が介助されるというケアの逆転が起こるとされる(鷲田2001)[12]
 こうした弱さに人が引き寄せられるのは,そもそも人は一人では生きていけないという根本的な弱さに起因している.なぜなら,人は,誰もが誰かから服を着せてもらい,食べ物を与えられ,言葉を教えてもらった経験〜根源的に受動的な側面があるからである.この人の受動性とは,「無条件に存在を肯定された」ことのある経験と言う(鷲田1999).
 例えば,「静かにして」とか「お利口さんだったら」と言った留保条件なしに,「乳首をたっぷり含ませてもらい,髪を,顎の下,脇の下を丁寧に洗ってもらった経験.相手の側からすれば,他者の存在をそのまま受容して為される「存在の世話」がケアの根っこにある」(鷲田(1999:252)からである.この「存在の世話」も「無条件の存在の肯定」は連綿と続いてきた人類の営みである.そして,それのみが人を人たらしめていると考える.
 なぜなら乳児期に限らず,もし自分の存在全てが,誰かに条件付けられないと生存が許されないのであれば,その条件を満たせない人々の存在は選別の名の下で否定されるだろう.こうした選別は,歴史的あるいは現在も,いたるところで行われているが(竹内2005)[13],根源的には,生んで生かすことが唯一譲れないこととしてあったからこそ,互いの生は肯定されてきたのである(小泉a2003)[14].つまり,誰もが誰かから「存在の世話」が為されてきたのである.
 こうした根源的な人としての受動性は日常的には感じにくい.しかし,それが生きづらさを抱えている人を目の前にした時,そして手をさしのべる(ケアする)ことを通じて,改めて気づかされる.あるいは分かりやすい形で提示されるのではないだろうか.そのことで,その人の存在(生)を肯定していると共に,自分自身の存在を肯定していることに繋がっているのである.
 いずれにしろ,ケア関係において,この根源的な受動性と他者の存在の肯定が自己の存在の肯定に結びついていることに気づかされるという意味で,ケアは一方通行ではなく,むしろ逆転現象が起こりうると言える.

4-2.ケアにおける他者性
 ケアにおける他者性あるいは,他者をどう捉えるかについては,先行研究では,主に3-3を中心に,3-2でも論じられる.
 乳幼児の自分を世話してくれた他者(母親だけではない)は,世話することで自分が癒されるとか自分の成長があったということが実感として話されることがある.メイヤロフによるケアの定義でも,ケアは他者の成長や自己実現を助ける行為であり,そのことによってケアする人もまた成長や自己実現が為されると考えられている.そしてケアすることは,単にお世話好きを意味していないとされる(森村2000)[15].しばしば,援助者は,何もかも世話を焼くことによって独善に陥り,全能感に支配される傾向がある(尾崎1997)[16].しかし,何もかも相手の世話をすることは,単なる自己満足に過ぎず,相手の成長の芽を摘むだけではなく,自分の成長もないと考えられている.そのためケアの前提に,相手は自分とはまったく相容れないもの,異質なものであるという視点が必要である.そして,ケアの主導権はあくまでも「される相手側」にあると考えるべきである.
 例えば,自分が相手にとってよかれとしたことも,相手には大きなお世話だったこと.あるいは,相手の要求(欲求)に気づかずに,自分を押し通して関係に齟齬が起きる場合がある.そのためケア関係において大切なのは,まずもって,相手が何を望んで,何をしたいのかによって決まること.それには援助者は「自分の同一性をいったん放棄して,相手を迎え入れ,入り込むこと」(鷲田1999:236)が求められる.とはいえ,相手のことを知ろうとすればするほど,思い通りにいかない,あるいは自分の狭い了見ではどうにもならない他者であることに気づいていく.ここに相手を迎入れることの難しさ,異質なものとの出会いがある.そして,その出会いは,知らず知らずのうちに,自分を異他化し自己変容させられる.ここに多様な価値観への気づきなど,自己成長の契機があると考える.
 そして,長くケア関係を続けていく中で,こうした相手があるからこそ,自分の存在があることに気づいていくという意味で,ケアは自分の方へ世界(多様な価値観・他者への認識・他者の生のあり方など)を集極させるのではなく,他者による私への呼びかけの中で,自分(私)の存在がその都度世界の中で確証されるといえる(鷲田1999;木立2001)[17]
 むろん,利用者も同様に,ケア関係において援助者という異質的なものとの出会いによって自己変容がなされる.つまり,ケア関係とは援助者と利用者双方が,自己変容〜多様な価値観に気づくなどによる自己成長を含みながら,互いの生の意味を満たしていく(世界における存在の確証)ことである(木立2001).

4-3.ケア関係における相互性
 4-2を引き継ぐ形でケア関係における相互性についてさらに考察を加えていく.
 日常のケアの中で生の意味を満たしている事を感じることはなかなか難しいが,ケアの主導権が利用者にあることについては,利用者の微細のサイン,例えば,目の動き,かすかな体のふるえから援助者のケア行為が始まるという事実から認められる.
 かすかな体のふるえは例えば,排尿の要求であると利用者に感応する契機になる.その意味で,ケア行為は,まずもって利用者の要求に応える形式で始まるが故に,ケアの主導権は利用者にあり,援助者は受動的に行っているといえる.そして,排泄介助をするのが仕事とはいえ,それは条件もなく行わなければいけないという意味で,…やや無理があるかもしれないが,それでも「存在の世話」をしているともいえる.
 一方で,その利用者は援助者のケアなしでは排泄が出来ないという意味で,援助者に体を預けている.つまり,利用者の身体は受動的である.しかし,利用者が,その時々で自分の要求を実現〜行為化(主体化)させるために,その時,その場所で関わる援助者へ働きかけることで,援助者を自分へ引き寄せる強制力(能動性)がケア関係にある.
 つまり,援助者は,利用者の能動性を引き受けるという受動性がある一方で,援助者は利用者の欲求を叶えることが出来る決定権があるという能動性がある.このように,ケア関係においては,受動性と能動性が援助者と利用者相互でもつれ合って存在している.
 とはいえ,この利用者の要求が,援助者によって行為化(実現)されること自体,利用者の主体性の証拠であり,それは優れて社会的で,能動的な営みであると考えられる(田中2005).
 また,ケアは主に身体を介して行われるが,その意味で援助者と利用者はケア空間の中で身体を共有しているといえる(木立2000)[18].しかし,例えば,体のふるえによって発信される利用者の要求を援助者が了解しアクションを起こすにはタイムラグが存在する.あるいは要求を読み違えたりする.そこに,空間を共有しているように見えても,このタイムラグによるずれによって,やはり利用者は自分とは相容れない他者であることが分かる(田中2005)[19]
 いずれにしろ,ケアの相互性とは,利用者と援助者双方に受動性と能動性があること.そして,ケア空間では,感応にタイムラグがあり,そのことが,他者性を意識化させることなど,人と関わることの奥深さがあるといえる.

4-4.ケアの社会性
 このケアの社会における有用性は,先行研究では,主に,3-1や3-2で論じられている.その中から,自分の存在を無条件で肯定されてきたからといって,アカの他人まで存在を肯定できるのかという問いを中心に考察する.
 自分を無条件で肯定してくれたのは父や母など身近な人であって,アカの他人が自分の無条件で存在を肯定してくれたわけではない.その意味で,ケアはあくまでも親密圏の出来事であって,ケアは公共・社会の中では無力なのではないか.この様に考えるのはケアが,これまで,あるいは今も根強く私的領域(家族・看護・介護)に押し込められているためである.特に子供の世話をするのは母親の役割とか身内の高齢者は嫁とか妻がするものだと「名指し」されてきた.そして,ケアする人は美徳を体現した立派な人だと祭り上げられてきた.あるいは,ケアは「生や死,命と言った人間の本質的な部分への洞察が深められること,共感体験の中で感動,自己成長や自己実現への手応え」(廣森2001:35)があるからだという.
 ケアがそんなにすばらしいことなら,まず名指しをする人こそ率先して行うべきだし,広義には社会が積極的に行うべきだと考える.しかし,ケアを引き受けざるをえなくなった人以外は,何かと理由を付けてケアを回避する.自分の存在を賭けてまで他者へケアをすることに恐れをなす(鷲田1999).なぜなら相手の襞に踏み込み,自己変容をも厭わない態度で他者へケアを行う-責任を持つこと-は,己の存在が“ゆらぎ”,場合によっては同一性が崩壊する危機に直面するからである.ケアを配慮とか気遣いと捉えれば,強弱の差はあれるが誰でも行っている.しかし,本当の意味でケアを志すことは難しい(木立2000)[20]
 確かに本当のケアを志すことは難しい.しかし,人と社会の関係は,個人の価値観は社会に規定される側面と個人の価値観が社会に影響を与えるという相互性がある(阿部2001)[21].よって本当のケアを指向することは難しいからと言って,自分がケアすることの責任や指向性を封じる必要はない.むしろ,他者へケアすることに責任を持ち,それを実践しようとする過程で,職員集団,施設全体ひいては社会全体へ波紋のごとく影響を与えることができると考える.つまり,ケアの持つ意味〜他者もまた自分と同じように無条件で生を肯定するといったベクトルが社会に立ち現れることは,社会の複合性や多様性を生み出すことになる(村田2002;鷲田2001)[22]

4-5.考察
 これまでの論述から,ケアの意味を抽出すれば,
 次に,これまでの論考をもとに,福祉施設での利用者とのケア関係について検証を行う.

5.福祉施設でのケア
 福祉施設で日常業務上考えるべきことについて,4で考察したケアの意味の抽出から更に検証を行う.その論点は,

5-1.日常業務でのケアの相互性
 福祉施設では毎日のケア行為がルーティンワークとして存在し,忙しさの中でケアの意味が日常の中で埋没しがちになる.例えば,本論では,援助者は利用者の体の動きなどに感応してケアを行っていることを論じた.その意味で,援助者は受動的な側面があると考察した.ところが実際の日常業務にはやるべきこと(ケアサービスの内容)があり,利用者に従ってもらうことで日常生活〜集団生活を維持している事が多い.さらには,集団生活の規律,援助者の支援計画や意図が介在し,むしろ利用者の主体性が意識されることなく業務が行われている場合もある.しかし,それでもやはり援助者は実際の業務の中で濃淡はあるが,利用者のかすかな筋肉の動きや目の動き,あるいは言葉の端々に感応していると考える.
 例えば,援助者が利用者に服を着せるとき,利用者が袖を通す腕の動きを待ち,着づらそうであれば,着やすいように方向を変えたり手を添える.あるいは,どんなに急いでいても,口を開かない利用者に食物を詰めたりはしない.やはり,咀嚼を確かめ,嚥下を待ち,口が開かれてからスプーンは運ばれるのである.そこには利用者の状態が優先される〜利用者が主導的な立場を確保していると見ることができる.そして援助者の行為は,相手を迎入れ,気遣い,配慮するというケアの要件が専門職であるかどうかという以前になされている.
 その一方で確かにケア行為は利用者の主導で行われるが,それでも利用者の依頼が無条件で行われるわけでもなく,時には少し待ってもらう,場合によってはその依頼を断るという援助者側の能動性も入り込んでいる.ここに双方の承認・否認・妥協等々が錯綜したコミュニケーションが絶え間なく行わられていることが分かる.そして,このコミュニケーションを通して,利用者は自らを主張し,主体化させる(例えば,服を着ないと拒否することで,別の要求を訴えるなど)という社会性が存在しているといえる.
 いずれにしろ,こうした繊細なコミュニケーションに援助者が気づくならば,ケア行為の奥深さや豊かさを知ることができると考える.

5-2.福祉施設でケアをし続けること
 福祉施設で働くとは誰かのケアをすることである.自分の知り合いが利用者でいるからではない.その意味で,そこに勤めるまで誰をケアするか分からない.援助者は確かに個別に例えばAさんをケアする.援助者はAさんの障害特徴や個性を把握し,ケアの内容をオーダーメイドする.とはいえ,ケアの関係においてAさんだからケアするのではない.援助者にとってケアに向かうべき人(他者)としてたまたまAさんが目の前に現れたのである.
 援助者にとってAさんがいなくても生きていけるし,Aさんも特定の援助者がいなくても生きていける.もっというなら,たとえ,その施設が無くなっても,誰かがどこかでAさんをケアするだろう.その意味で,特定の福祉施設だけが,その人の生を支えているわけではないといえる.
 とはいえ,とりあえず重要なことは,今時点,Aさんは,その施設にいて生活をしていることである.そして援助者は,Aさんの生活を支えることを通じて,人が名も知らない他者の支えによって,あるいは広い意味で,社会の中でどんな形であれ,生きていけることを知ることである.言い換えると,例えば,子どもを育てるのは母親であるといった親密圏では説得力のある「無条件の世話」というケアの言説が,社会においても為されていることを援助者は体現しているのである.なぜなら,施設という空間の中でもっとも濃密な親密さが利用者と援助者の中にあり,それは,時に決められた業務以上に成立しているからである.無論,福祉施設自体が利用者本人の行動を抑制する管理的な面があることも否めないがそれでも,連綿と続く,生を支え合う関係は,仕事の衣をまといながらも援助者と利用者の間には確実にあるといえる.
 そしてケアの効用から学べることは,他者を知ろうとし,相手から教わることを通じて自分という枠が広がっていく,その出会いがそこにあることであろう.そして,その関係は,長期化することで一過性では得られない他者を知ることの奥深さをじっくりと考えることが出来るのである.そして,繰り返しになるが,私(援助者A)ではなければその人(利用者)が生きられないと考えるのではない.その人が複数の他者のケアによって生きていること.その事実が,自分(援助者A)が社会の中で生きていることを実感するのである.言い換えると,人は自分自身のために生きていながらも,他者のために生きていることに気づくのである.

5-3.考察
 4の意味の抽出より,5では,二つの論点に絞って4の言説が福祉施設においていかに説得力を持ち得るのか(機能するのか)を検証してきた.5-1では,ともすれば援助者主導で行われていると見なされやすい業務も,微細にわたってみれば,やはり利用者側の要求や主導によって行われていることが確認できた.そして,ケアは専門性とは何かとか介護スキルとして意識できないくらいに当たり前のように行われていることを明らかにした.
 5-2では,5-1と深く関わりながらも,働きがいとは何か.その意味について検証した.長期化するケア関係に焦点を当て,その中で他者を知ることが自分の幅を広げることなどを論じた.
 とはいえ,利用者が思うようにならなくて困惑したり,そのことで援助者自身の無力さに苛まされたりすることが日常的にはむしろ多いだろう.時にはカッとなったり,怒鳴ってしまいたいと思うこともある.それでも援助者は,内なる声に導かれるように,他者へのケア行為を自らのこととして引き受け,働き続けているのである.そこには政治的に使われる奉仕の精神とか福祉の心(渋谷2003)[23]とは別の次元(小泉b2003)[24]で,自他の生を肯定するといった根源的な関係性が基盤としてあるのである.

6.今後の課題
 本研究では,改めてケアとは何かについて考察したが,実際のケア行為“そのもの”を意味づけることの難しさを実感した.なぜなら,ケアの意味を問えば問うほど,“言われてみれば当たり前”となり,その一方で根源的には“他者の生の肯定”など今ひとつ実感できにくいところに行き着いてしまう.それでも,というか,だからこそ援助者一人一人は日常のケア行為の意味をより具体的に考え抜き,自らのケア行為が他者と自己にとって意味のあることだと常に再確認し続けることが求められる.そこに理論と実践の絶え間ない緊張関係があるといえる.
 そのような意味で,今後の課題として,ケアの言説は多様に存在し,本論はそのほんの一部を論じているに過ぎない.さらに,論じた範囲についても論考不足や説明不足がある.よって,より多様な言説に目配せし,論考を重ね,ケアの意味を豊かにしていきたいと考える.


[1] 広井は,感情労働ではなく,ケア産業として位置づけている.特色として,相互性,時間,評価と分類している.中身としては,これまで述べてきた感情労働の特色と同じであるが,ケア産業がこれまでの経済のカテゴリーに含まれない要素を持っていることを明らかにしている.
[2] 生野は,国会図書館のレファレンスから,ケアがどのような形で文献上扱われているかを調査している.一般に,ケアとは,「介護」や「看護」という意味で使用される.また,ケアは,単独で使用されることは少なく,在宅ケア,プライマリケアからネイルケア,ヘヤーケアなど複合で使われることが多い.
[3] 広井はケアをメタ科学として考える.あるいは,鷲田は,ケアの関係性を私的なものから出発して世界につながっていることを臨床哲学の視点で捉える.
[4] 木立(2000:390)で,「ケアおよびケアリングの定義には,未だ定説はないようである.アメリカにおいては看護領域を中心概念として30年追求されてきたにもかかわらず現在でもケアおよびケアリングとは何かについてコンセンサスは得られていないと言う」
[5] 家族介護や職業上の看護・介護に女性が圧倒的に多いこと.そして,奉仕の精神や自己犠牲を強調し,介護をアンペイドワークとする女性への社会的差別が挙げられる.同様に,ケアを美徳の一つであるとすることで,逆に家族が「家事労働や介護労働からの撤退は非道徳であるとさえ非難される場合もまだまだ多い」(村田2002:67).
[6] 浜口では,キリスト教に見られる教義からケアの要素について考察している.木原は,コンパッションが公共性の中でどのように論じられるべきかまで考察を進めている.
[7] ComあるいはConについては,浜口(2004)においても考察されている.このConに関して,「〜と共に」「〜と一緒に」を意味することから,相互依存の関係を示唆していると述べている.
[8] 対人援助技術の本質論は,ケアの本質への考察が多くを占めていると言える.
[9] 広井はケアをメタ科学として考える.あるいは,鷲田は,ケアの関係性を私的なものから出発して世界につながっていることを臨床哲学の視点で捉える.
[10] 木立では,ケアの定義は未だ確立していないとされながらも,ケアの概念は,「関係」を属する概念として,そして,人々の道徳的「源泉」として社会政策決定の基盤として位置づけようとするところまで議論が及んでいる.そして,この議論を通じて,倫理学にも影響を与える段階にきていると考えられていることを論じている.
[11] 森村は,メイヤロフ『ケアの本質』の解釈に基づく.生の肯定については,松倉を参照.松倉は一義的な(適応や訓練)を通した対象への働きかけではなく,多様な生き方を認めること,他者への理解への努力を通じて,その人固有の生の多様性に気づくことが生の肯定であると述べる.
[12] (鷲田2001:181)では,「弱さはそれを前にした人の関心を引き出す.弱さが,あるいは脆さが,他者の力を吸い込むブラックホールのようなものである.そういう力を引き出されることで,介助する人が介助される人にケアされるという,ケア関係の逆転が起こってくる」とされる.
[13] 言うなれば,こうした選別は,障害の有無だけではなく,資産,職業,性差など様々行われている.中でも分かりやすい例では,能力主義による選別であるが,竹内(2005:124)は,「いわゆる能力主義とは,一般的に資本主義的・管理社会的な競争原理の中核をなす,支配のための原理であり,人間の差別・選別序列化の近代的原理である」と述べている.
[14] やや論点が広がってしまうが,小泉a(2003:68)では,「難民はそれでもと言うべきか,だからこそと言うべきか,子供を生んでいます.子供を生むことにおいて,悲惨な人生と死を癒すような意味を見いだすと言うことではなく,そうではなく,どこからともなく発せられているとしか,今のところ言いようのない使命に促されて,子供を生むのだと考えてみたい」と述べている.
[15] 森村の,メイヤロフの定義を引き合いに論じているものを参照。
[16] 尾崎では,全能感,メサイヤコンプレックスなどについて言及し,相手の立場に立つにはどのような振る舞いが望ましいかを論じている.
[17] 木立では,それを観念的自己分裂という.
[18] 木立(2000:401)では,「ケアするものとケアされるものは,ケアの関係の中で,互いの意味世界の中に共通の意味ある内容を形成していく.それと同時に,ケアされるものとケアするものは,ケアの絆を通じて,お互いの意味世界を共有する.孤絶していた意味世界に水路が開かれ,意味という水の流れが生じる.このようなケアの関係は,全てを包み込む一つの世界の出来事なのである」と述べる.
[19] 田中(2005:124)では,「障害のある身体とない身体との間になされるこの実践は困難を伴うが,ここにおける関係は,新たな身体のあり方の可能性を提示するものである」と考察し,介助者の意識のズレや対応を利用者が引き受けていることを考察している.
[20] 木立(2000:401)において,ノッディングズの言葉を借りて「私たちがどんな人でもケアできるわけではないと言う認識は,ケアという方針では何も出来ないわけではありません.むしろ,これは,喜んでケアをしようとする?そしてケアできるほど親密な?人々が,実際にそれが出来るような諸条件を確立し,維持することを目指して,わたしたちは運動するべきだと言うことを意味するのです」と述べる.
[21] 阿部は、ルーマンによる相互浸透概念は,社会に規定される側面と社会に及ぼす個人のスタイルが社会に変革をもたらす契機になることを述べている.その上,社会には多様な価値があると同時に,それは個々人の中でさらに多様な価値観を創出する.それは,一見反道徳的で社会から逸脱しているような行動や思考形式であっても,それが個人から発せられることで,社会に新たなものとして提供され,社会がより複合化していくのである.
[22] 村田はノッディングズを手が掛かりにケアの公共性などを論じている。
[23] 渋谷は,いわゆる介護は無償の愛によって為されるべきだとする言説によって,社会的介護もまた無償であるいは価値の低いものとする政治的な言説があることを明らかにしている.
[24] 小泉bは,ケアをすることは,根源的には,誰を助けるのかという政治談義に現れる境界や閉域とは無関係であることを倫理を手がかりに明らかにしている.
引用文献
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浜口吉隆(2004)「キリスト教の愛と看護職」『アカデミア(人文社会科学編)』(南山学会)78,1-35.
広井良典(1997)『ケアを問い直す』ちくま新書.
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生野繁子(2003)「ケアの本質とジェンター」『アドミニストレーション』(熊本県立大学総合管理学会)9(3・4),75-104.
木原活信(2005)「福祉原理の根源としての「コンパッション」の思想と哲学」『社会福祉学』(日本社会福祉学会)46(2),3-16.
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小泉義之a(2003)『生殖の哲学』河出書房新社.
小泉義之b(2003)『レビィナス』NHK出版.
空閑浩人(2001)「組織・集団における「状況の圧力」と援助者の「弱さ」」『社会福祉学』(日本社会福祉学会)42(1),44-53.
松倉真理子(2001)「社会福祉実践における『他者』の問い」『社会福祉学』(日本社会福祉学会)42(1),1-11.
森村修(2000)『ケアの倫理』大修館書店.
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尾崎 新 編(1999)『「ゆらぐ」ことのできる力』誠信書房.
尾崎 新(1997)『対人援助の技法』誠信書房.
渋谷 望(2003)『魂の労働』青土社.
竹村章郎(2005)『いのちの平等論』岩波書店.
田村京子(1998)「「知的障害」の問題における倫理的な問いの発生」『慶應義塾大学日吉紀要(人文科学)』13,1-20.
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鷲田清一(2001)『〈弱さ〉のちから』講談社.
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安井理夫(2002)『ソーシャルワークにおける「弱者」の視点』『同朋大学論叢』85,227-247.

Social welfare facilities user and 1 consideration about the relations in the care for the care worker
- The theory of the care and ethics, in the clue, -

Kazufumi Kumagai]

a line thing occupies most of the business for a long time in the care worker who works in the social welfare facilities to the user. On that occasion, the care worker is asked to pursue the satisfaction of the quality of the user's life
and the emotion in that care process.
With main subject, in the first place, as for the meaning of the care, on earth,something.
Or, do you keep caring for it to the user who is others why for a long time? These questions were taken up as not avoiding it after it thought about the specialty of the care worker or after it thought about the meaning to work in the welfare facilities.
Classification put the word opinions of the care in order as three angles, (1) source, (2)effect, (3) system from the preceding research.
As for (1) care's being like public society, (2) care is what means others' live
affirmation, self-growth, and so on that. As for the (3) care, what and so on
was done under the interpenetration- like relations was examined.
Then,there should be a care worker in the passive position from a care act's
beginning in the actual care process from a place to sympathize with the user's autograph under the interpenetration-like relations. A care act cleared the matter that it was connected with the own live affirmation through that though it was others' live affirmation.

Key word social welfare facilities, care and ethics
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