結局のところ、理念と現実の格差があまりにも大きいのではないか。
 さまざまな理念は確かにすばらしい。地域福祉の推進や在宅福祉への転換などがいわれて久しいが、障害者についていえるのは、福祉の箱(施設)の中にいるとある程度、衣食住が充足されるが、それ以外では、はたして生活できているのか。在宅や地域のなかで生きようとすると、障害年金を持っていても、一人で生活するには生活保護を受けないといけないのが精神障害者に関しては唯一の道である。生活保護に関しても、本質的には、あるいは理念としてはすばらしいが、行政側の指導や取り組みの歴史の中から、スティグマとしての意味合いがとても強い。(ケースワーカーの話を聞くと)

 日本において、どういう状態がハッピーなのかという問い。精神障害者は今ある状態からどうあればハッピーなのかという問いに関して。
 私は個人単位で考えると健康で、所得が保障された状態ではないかと思われる。もちろん、所得を生むためには就労していることが前提になるが、それが何らかの形で自己実現というか、生きている実感を伴ったものであればなお良い(要するに納得できるものであれば)
 と考える。他にも、恋愛とか結婚とか子どもとか地域への帰属意識とか存在証明とかあると思われるが。基本的に、所得の保障としての就労と健康ではないかと思われる。
 このことを考えると、障害者は健康ではなく、就労による所得の保障の場も乏しい。仮に、衣食住が整った状態で就労したとしても所得の保障がなされているケースよりは、そうでないケースが圧倒的に多い。精神障害者はそれが顕著である。もちろん、障害が重く症状に悩む人も多いが、社会的に孤立、家族による抱え込みによる社会的な排除、そもそもの精神障害者に対する偏見はなお根深い。保健所の事務員が、確かに昔よりは良くはなってきている…しかし、人の心はそう簡単には変わらないという言葉が印象的である。
 私は、様々な状態や制度の中に精神障害者がいるが、そういうのをひとくくりに敢えて、精神障害者にとっての福祉的にハッピーな状態は、現在の社会資源の中では、グループホームに居ながらに一般就労をすることであると思われる。なぜなら、グループホームでというのは、アパートでも良いが、福祉的にある程度病状などをスタッフが見守りながら一般就労で、社会的に働いているという「自立」なり「自信」が確保された状態が、福祉の中ではベターであると考える。
また、福祉的な生活と制限したのも、他の障害者についても同じように、地域的に生活する、市民として一般社会で生活するということが実際には難しく、なんらかの福祉の資源の「中」でしか生活していないのではないだろうか。
 また、障害があるから働けないという状況は、明らかに法律違反であるが、普通でも働けない人がいる状態で、一般就労に結びつくのもまた難しいもので、福祉的就労もまた、手段ではあるが、生活に結びつくのもまた難しいという理由で福祉的就労はベターではないのではと思う。
 こうした視点から、生活保護の利用をしながら作業所などの福祉的就労をしている人たちもまた就労という喜びが自分に納得した形で主体的に取り込まれる何らかのものがあればよいが、生活保護に対する拒否感は本人たちにとっても予想以上に大きく、受給していることが自己の虚無感に包まれている発言などが多く見られた。
 もし、生活保護を受けるということに対するスティグマ感を払拭できるのであれば、要するに主体的に受けるというものがあれば、所得の保障と就労が結びつき、ある一面においてベターなのではないかと思われる。

 行政批判や制度の未成熟さを批判したり、未だ充実していない社会資源や偏見の強いことに対する異議申し立てや義憤を論文として組むことはできるだろうが、それ一色になることに対する警戒感もある。かといって、現状だけを論じることの無味乾燥さも避けたいところである。私の研究するゆえんは、そのどちらでもあって、どちらでもないというバランスの上に何らかの提言ができるものであると思う。

 歴史的に確かに精神障害者の人権は改善されてきたという意味で、変わっては来ている。しかし、現状では未だ十分ではない。という視点で研究をしていきたい。
 その時の方法論として、生活保護を受給している精神障害者は、いまだ十分ではないという側面が強く反映しているし、精神保健福祉の推進は歴史的に改善されているという側面を持っている。また、生活保護=遅れた施策、精神保健福祉=推進しつつある施策と極分化して捉えるのではなく、現状の中でギリギリの中で論述できればと思っている。

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