第9章 倫理について
はじめに
 福祉職は倫理性が重要であるとされている(太田〔2004〕,鈴木〔2002〕)。中には、職業上弁護士や医師、あるいは聖職者と同等の意味で語られることがある(阿部〔2003〕)。なぜなら、福祉従事者は、社会的弱者の救済や権利擁護に直接関わるので、自分を律し、他者に倫理的な態度で振る舞う必要があるからである。
 ところで、倫理とは何であろうか。倫理は幅広く論じられているが故に、何を持って倫理とするのか、分かっているようで実は、よく分かっていないのではないだろうか。本章では、倫理を巡る言説を幾つかの文献を頼りに整理をする。

第1節 倫理についての問題提起と範囲
はじめに
 倫理とは何かと言うことは、様々な見解や視点、あるいは多様に使用される。公共倫理、宗教倫理、倫理思想等々である。本節では、個人が直接的に感じる倫理とは何かについて取り上げ、整理を行う。

第1項 倫理を語る難しさ・無力さ
 倫理は、様々な形で定義される。社会レベルでは、一般社会の価値判断、規範、道徳(モラル)(相澤〔1999〕)である。個人レベルでは、人権の尊重、正義、愛、公平、公正、平等などの価値を重視することが倫理的な態度であるとされる(秋山ら〔2004,P.124〕)。そして、現代社会では価値観が多様化し、倫理が忘れられているとか、見失われている(高橋〔1997,P.20〕)といったよく表現で使われる。
 この場合の倫理は、人としての「善き行い」とか共同社会で「守るべき規範」や「道徳」といった意味で使われている。そして、倫理とは、一般に承認されている規範の総体であり、法律のような外面的強制力を伴わないが、個人の内面的な原理・道徳規範に働きかける(秋山ら〔2004,P.125〕,鎮西〔2002,P.39〕)とされる1。つまり、上記の例は、個々人の価値基準が多様化して、一般的な社会で承認されている規範がいかなるものか、善き行いとは何かが明確にならないことを意味している。
 ところで、昔から規範や道徳に普遍性があったのだろうか。仮定として、道徳や規範とは、善い行いと悪い行いを区別する基準を示しているとする。ところが、この善き行為の基準は、国家のイデオロギーや思想・宗教によって変化する。例えば、儒教思想をもとにする家父長制では、家の主人に従うことが道徳的に善いことになる(秋山ら〔2004,P.127〕)。しかし、現在では、家族は父親への服従よりも個の主張や民主性が尊ばれると変化している。
 変化したとはいえ、家父長制は長きにわたり、有効な言説として機能してきた。そして、家父長制を強化する教訓話や道徳教育によって浸透していた。そして、現在でも家を継ぐとか親の面倒を見るのは嫁の仕事といった家父長制の言説が根強く残っており、その考えの下で今も自分の生き方を決定することがある。この一例からも道徳は、政治や支配に便利な言説としてその都度利用されていることが分かる。そして、歴史的に政治は、規範や道徳から抽出された「善き行為」を国民に示すことで、共同体に生きる個人を制御し、拘束してきたのである(圓岡〔1999〕)。
 また、道徳や規範は簡単に覆る(作り替えられる)ことは歴史が証明している。例えば、明治・大正に連帯と民主性が良いものとされ、社会福祉(社会事業)が醸成していたことは、第2部で述べた。しかし、日中戦争、太平洋戦争の15年間社会福祉の価値がファシズムによって民主性が覆い隠された歴史がある2。そして、社会事業が早い時期にファシズムに賛同した事実がある3
 更に、普遍的と思われる道徳や規範も時代や状況によって変化する。例えば、殺人はいけないことだと道徳で教わるが、「歴史上、一種の大量殺人によって偉人の地位を得た人が大変多い」(前田〔2001,P.28〕)4ことは、周知の通りであるし、戦争下において敵兵を憎み、殺すことは良いことだと道徳教育が施される。そして、今も世界中で殺人は繰り返されている。略奪や搾取によって富を得るものと貧困に陥る人があちこちにいる。日本は、後進国からの搾取によって今の生活水準が保たれている(吉田〔2000,P.303-308〕)。こうした事実に倫理はどのように応えることができるのだろうか。
 上記の問いもさることながら、仮に、倫理の探求や実践は人としてよりよく生きる上で大切なことであり、人に生きる意味を与えるものだとする。しかし、倫理とは何か、生きるとは何かと悩むことは贅沢なことではないだろうか。「何のために生きるのかと悩む余裕さえ奪われ、生き延びるために必死になっている人間もいるというのに」(小泉〔2003,P.7〕)。生きる意味について悩めるのは、余裕のある暮らしぶりを送りながら、かすかな居心地の悪さを感じているにすぎないだけではないか。生きる上で、倫理など考えなくても生きていけるし、むしろ、考えることは無駄ではないか。せいぜい共同体の中で悪ことさえしなければ良いのではないか5
 最後に、そもそも倫理は、考えたり意識できるものなのかどうか。言い換えると、倫理とは何かであると表現しようとすれば、どこかと捉えどころがなく、言葉の限界を思い知らされるものである。
 
第2項 本論における倫理の範囲ついて
そもそも倫理に範囲があるのかは、不明であるも、論じる上で、便宜上範囲を設定する。
倫理とは、
1.共同体としての道徳や規律の総体である。
2.心のありようの根本であり、よりよく生きる上で大切なことである。
 第1項で述べた問題意識は、倫理が共同体の道徳や規範の総体である立場をとる限り、共同体のイデオロギーによって人は容易に人殺しも搾取も理由づけられ正当化されてしまう。そこまで極端ではなくても、政治的に、善き生き方が設定され、従わない場合は悪い生き方として排斥されてしまう危険性は常につきまとう6。かといって、2のような心=主観の問題であるとしただけでは、何が善き行いなのかは明らかにされない7ことであった。
 本来、倫理を語る際、哲学の言説を紐解き、解釈を施し、宗教に踏み込み、これが善き行いだと提示するのが手順として正しいと考える。しかし、筆者には強烈な宗教体験も強固な信念もない。よって、筆者は、1のような今生きている共同体の思想や社会背景に依拠しながらでしか、倫理とは何かと述べることしかできないことをあらかじめ断っておく。
 
第2節 規範と道徳
はじめに
 倫理を語る際、道徳や規範と同一に語られる場合がある。本節では、まず、規範と道徳についての整理を行い、区別を図る。

第1項 規範と道徳の役割
 規範や道徳は、人間の行為や意図に関して、超法規的な価値に照らし合わせて、善い悪いの判断を下すものと考えられている。そして、それは個人を拘束し束縛する特殊な諸規則の束である(松浦〔1996〕)。端的に、規範と道徳は共同体の秩序を形作るものである。
 しかし、なぜ秩序に規範や道徳が必要なのだろうか。その理由の一つに、人間は知性を持ったからという見方がある。前田(2001,P.16)は、「アリの集団が道徳なしにあれほど整然としていられるのは、その集団が、あたかも一つの生き物のように、一つの本能を持っているためである」と述べる。その上で、前田は、本能よりも知性が優位を占めると、その動物は利己主義になっていくこと。そして、知性とは「本来群ではなく個体が生き延びる能力なのだろう」と推測する。しかし、人間ほどいくら知性が発達しても、なぜか群れなしには生きていけないように出来ている。そこで、共同体を維持するために規範や道徳が作られたとされる。
 知性は科学技術を進歩させ、真理を追究する。しかし、そこには、道徳(モラル)が問われない側面がある(小林〔1996〕)8。その結果、知性は、過剰な欲望や物質的な力を生みだし、むしろ人への無理解や差別が生じさせた。よって、道徳は一義的には、知性へと働きかけ、抑制するためにある。

第2項 規範と道徳の範囲と限界
 しかし、知性を抑制するはずの道徳が、殺人を奨励する形で人々に説いてきたのではないかという疑問が生じる。前田の見解では、「道徳は、確かに個々の知性が持つ利己主義から共同体の絆を守るのに役立つ。だが、共同体の繁栄のために、といって行われる殺人を、道徳が受け入れることはないだろう。私たちにそれを受け入れさせるのは、別のものである。歴史の中で、その時その時に成立する別の機能であり、別の必要性である」(前田〔2001,P.28〕)とする。
 この殺人を受け入れる別の機能の一つに筆者は、規範が挙げられると考える。規範は、共同体〜社会を前提として、個人の生活に密着した形で他者と関わる行為に方向付けを与える(圓岡(1999)。と同時に、規範を守ることを前提に個人を社会の成員として資格を与える機能がある。そして、規範は、国家規模からある特定の職業まで様々にある。言い換えると、規範は、ある集団・組織に帰属するためのルールである。
 そして、組織は、規範を提示することで、個人に組織のルールを無批判に受け入れさせ、組織の命令を盲目的に実行するよう働きかけようとする(圓岡〔1999,P.115〕)9。この組織に従うように働きかける規範の力が時には戦争を正当化させる力となりうると考える。とはいえ、通常、規範は殺人や盗みを奨励しないし、道徳的な言説を引き合いに出し、ルール化されている。繰り返しになるが、規範は道徳よりもより個人へ働きかける強制力があると考える。
 道徳については、正義、自由、公平、中には人権尊重などは道徳上、善き行いであるとされている。しかし、現実的には、正義や公平は実社会でジレンマを抱えることが多々ある。あるいは、人権を尊重するのは義務か権利なのか論争が別れている(加藤〔1997〕,樋口〔1996〕)。つまり、善悪の区別を付けるとか最大多数の最大幸福はそれ自体が相反し矛盾している要素が多い。
 中には、世間一般の道徳的判断の中には、「偏見やステレオタイプのものが含まれている」(副田〔1994,P.4〕)場合がある。福祉の場合、貧困やアルコール依存など何らかの問題を抱えた人を対象とする。そのため、例えば、世間一般の道徳判断に、勤勉が美徳とされれば、アルコール依存は怠惰とか自己を律しない者と悪徳者としてレッテルを貼りかねない。
 前田の見解では、本来、道徳や倫理には本来、殺人を許可することはないし、善悪の根拠を示さないものである。では、善悪の判断を観念的に働きかける倫理や道徳とはなんであろうか。それは、前田(2001,P.27)は「共同体のひからびた道徳」と呼ぶ。
 通俗的には、倫理・道徳・規範は、一緒くたに語られることが多い。そして、この3つを引き出せば、どこか人としての根本を語ったような気になる。しかし、このように見てくると、矛盾や考えるべきことが多様にあることが分かる。

第3項 まとめ
 次に、倫理が突き詰めると知性が言葉を失う道徳を指していることについて論じていく。
第3節 倫理とは何か
第1項 はじめに
 第2節で、規範と道徳の特徴や限界について述べてきた。では、倫理とは本来どのような意味があるのか。結論を先取りすると、倫理とは知性、本能とは別にある、人間として備わっているもう一つの本性である。

第1項 禁止の声
 道徳や規範が時として人間支配の道具として使われるのに対して、倫理は「人としてあるべき道」を説くものである限り、人間として「してよいこと、してはいけないこと」に関する価値判断は、その時代や制約を超えて普遍性を持つことができる(秋山ら〔2004,P.127〕)。この普遍性として、例えば、いくら殺人が行われていても、殺人は許されない。あるいは、姦淫や盗みはしてはいけないことである(前田〔2001〕)という、狭い共同体を超えて広く認められる言説が確かに存在する。
 それはなぜか。人は知性や本能の赴くまま利己的に振る舞うのであれば、他人を事物のように扱うこともできる。実際、人を人とも思わず他人を道具のように扱う人はいる。しかし、「他人を食べることができるはずなのに、他人を食べ物とも思わないし、思えない」(今泉〔2003,P.45〕)と、他人を事物として扱いきれない根源的な事実がある10
 そして、殺人や姦淫、盗みは自分がされたら困るから「しない」といった功利的なことだけではない。それは、私たちの生存の形と切り離しがたい生理のように「ある」。そして、この根源的なことは、何も私たちに指示をせず、「ただ、同じただ一つの禁止の声を様々な抑揚で、強さで響かせる」(前田〔2001,P.35〕)のである。
 禁止の声が発する言葉に人を服従させるものは、社会の圧力もある。しかし、「これらの言葉に知性がどんなに反抗し、そこから逃れようとしても、禁止の声は依然として内側から響く」(前田〔2001,P.36〕)。だから、殺人を犯していくら知性が言い訳を並べ立てても、禁止の声は心の内側からわき上がり、犯した自分を責め続ける。では、殺人・姦淫・盗みを禁止するだけが倫理なのだろうか。

第2項 向かう力
 ところが、この倫理の言葉に耳を傾けたとき、それは、ただ禁止するだけではなく、「禁止によってどこかへ向かえ」(前田〔2001,P.36〕)と呼びかける。それは他人の間で自分が何をするべきなのかを教えてくれる。人としてよく生きたいと思うある希求や欲求がある。
 例えば、人は、バスでお年寄りに席を譲ることがある。「体の不自由な人には席を譲りましょう」とか「いたわりの心が大切です」という道徳なことは知っている、しかし、そのことを知っていても人はどこか恥ずかしくてなかなか席を立てない。そして、大抵あれこれの理由を付けて席は譲らない。
 しかし、何かを感じて、自分を奮い立たせて席を譲ることがある。それは言葉になったルールとは関係がない。奮い立った動機には、具体的には何も指示がされていないし、強制もされてもいない。それでも、私たちは何かに鼓舞されて席を譲ることがある(前田(2001))。
 より具体的に述べると、疲れて腰を曲げた老人が目の前に立っていて、自分が座っている図式に、自分が居心地の悪さを感じることがある。そして、少しばかり気恥ずかしさが伴うが、それでも席を譲ることで何となく安心する。あるいは、席を譲れた自分をちょっと誇らしく思う。
 それは、席を譲りたいという欲求の声が聞こえたのである。この欲求は、本能でも知性でもない。倫理という第3の力である。倫理は、内面的に禁止するだけではなく、すすんで何かをすることで倫理的でありたいとする人間の本性を示している。
 この倫理的であろうとする人間の本性は、弱者への同情や共感あるいは、献身などで語られるが、究極的には「人類の未来を切り開く」(今泉〔2003,P.63〕)力11である。やや引用が長くなるが、今泉(2003,PP.66-67)は述べる。
 私が「きみ」や弱者に献身するとき、弱者の救済のために献身しているのではなく、「きみ」や弱者に現前する人間の救済のために献身をしている。このような関係で、私から「きみ」や弱者に向かう一方向的な関係であるが、「きみ」や弱者にしても、別の他者に現前する人間のために贈与し献身している。逆に、私にしても、別の誰かから贈与され献身されている。実際、私は弱者に励まされる。虐げられた貧しき人々にも励まされる。私にも人間が現前しているからである。他者と私の一方向的で非対称的な関係は、このようにもつれ合いながら、政治談義に現れる境界や閉域とは無関係な次元で繰り広げられる。そこにこそ、複数の人間からなる人類が現前するのだ。
 先のバスで席を譲る行為をこの今泉の引用から考察を加える。
 席を譲られるその老人は自分とは直接面識がない人である。しかし、自分が譲る行為を通じて、老人を通じた他者〜人間を肯定することにつながる。もっというなら、他者の生存を肯定している。生存とは大げさかも知れないけれど、その人に休んで欲しいと献身する(気遣う)ことは他者も自分も生きていることを開かれた形で示している行為である。
 その行為は、その老人にとって、ありがた迷惑なことかも知れないと言う点では、自分の行為は一方通行で、その思いが伝わらない非対称的なものである。しかし、そんなことは問題ではない。名も知らぬその人に差し出す倫理的行為を通じて、自身の中にある善性に気づき、自分は生かされている(贈与されている)ことが分かるのである。
 人類の未来を切り開く力を感じるのは、席を譲る行為はあまりに小さい。しかし、ただ単にその老人に同情したから席を譲ったのではなく、贈与と献身が(自分を含めて)人間を肯定することにつながっているからそうするのである。倫理的行為を通じて、人々がお互いに養い合い、救済されていることに気づく。そして、倫理的行為は、現在のみならず、これからも行われていくし、来るべき人へも振る舞われるだろうという理由で、未来につながっている。
 そして、この席を譲る行為は、だれに席を譲るかどうかは問題ではない。さらにいうなら、誰かに献身をするべきなのか、救うべきなのかを政治的に論議して決定されることではない。それは、目の前に立つ老人に立ち現れる他者に応答する形で倫理的な振る舞いが行われる。倫理的振る舞いは、絶えず、現実に応えるという意味で政治的な言説とは異なるものである。

 あえて、席を譲るという小さい例をもちだしたが、倫理はあちこちに存在する。例えば被災地に駆けつけて何かをなそうとする人々。子どもを助けるために見も知らぬ人が命を投げ出す行為など。普通に考えれば、誰かが復興支援を行うし、見も知らない人のために命を投げ出すほどのことではないと理性や知性は抵抗する。あるいは、いくらでも言い訳が立つ。
 だからこそ、説明が付かないけれど、やむにやまれず奮い立ち飛び込む行為のなかにこそ倫理の力がある。それは、正しい・悪いことなのかという価値基準で測られることではなく、知を乗り越えた精神の働きである(松浦〔1996〕)。そして倫理の力は、人は自分自身のために生きていながらも、他人のために生きていることを教えるのである(今泉〔2003〕)。
 
第3項 まとめ
 これまで述べてきたことをまとめると、
  
第4節 考察
 論じきれなかったこと、説明不足が多々あるが、これまでの論述を下に図式でもってまとめると以下のようになる。
表1

図3-1 倫理のモデル



1 秋山ら(2004,PP.124-125)では、倫理とは人倫の道。実際道徳の規範となる原理。道徳。とされ、倫理学とは、社会的存在としての人間の間での共存の規範・原理を考究する学問と定義されている。
2 吉田(1989,P.594)は、「私はその時の政策や、現状埋没になりがちな福祉倫理などより、社会科学と激しく対立し、しかも社会福祉の社会科学を取り戻すための強靱な精神を提供し、福祉価値を創造する転轍手の役割を、宗教福祉思想に望みの一つを託している」と述べている。
3 詳しくは吉田(1989,PP.505-537)を参照のこと。日中戦争・太平洋戦争期における戦時厚生事業について述べられている。さらに、吉田(2000,P.307)において、「特に福祉研究者は1937年早くも日本社会事業研究会を組織して、戦争体制への準備をした」と断じている。
4 前田(2001,P.21)では、「殺人の禁止を必要とする無数の共同体が、他の共同体との間で終わりの無い殺し合いをする。…中略…共同体が言葉にするあれこれの道徳には、共同体を超えて殺し合いを止めさせるだけの力はない。機能もない。」と述べている。
5 高澤(2004)では、これまで社会福祉の供給サイドでは、「悪いことをしないことが正しいことである」という程度の倫理基準を問題としてこなかった。それは、性善説に立っているかどうかよりもほとんど論外だったとしている。しかし、誰もが福祉に関わるようになると通俗的な意味で、上記のような意識は多くなるだろうとしている。更に言うなら、市場化や競争原理の導入によりモラルハザードが壊れていったことも指摘している。
6 相澤(1999)では、倫理学の主流は、規範本位の思考にあり、それは「規範や価値によって《生》を統制することから生まれる《道徳》的な「善」」(P,21-22)であることを明らかにしている。
7 大庭(2006)では、こうした道徳判断は客観的ではなく、最終的には好き、嫌いの問題に帰着し、「道徳的に見て良いか悪いかなどは、最終的にはどうでもよいことだという、道徳へのシニシズムを生み出している」(P.エ-オ)と論じている。
8 樋口(1996,P.19)は、「神をも恐れぬ反モラルの精神が、近代知を鍛え上げてきたのではないでしょうか。悪魔に魂を売っても、この世の、この世の奥を統べているものを知りたい、という衝動が、壮大な近代知の体系を作り上げてきたのではないでしょうか」と述べる。その結果の不幸は歴史が証明している。
9 圓岡(1999)は、こうした無批判に規範を受け入れる人々を無関心圏という概念で説明している。文脈状、規範の性質について省略しているが、規範は、社会、組織毎に多様に存在している。さらに、個人は規範のなかの幾つかを選択し、行動している。その選択によって人々の解釈が多様にあり、可変であること。さらに、規範は個人が社会の中で生きている要素のほんの一部であるが、それが決定的な行動の方向付けを行っているなどを明らかにしている。
10 「首刈り族にとっても殺人は倫理への最大の違反である。ただ、彼らの作る部族集団の特性が、部族外の全ての人間の首を討ち取って手柄とさせるにすぎない」(前田〔2001,P.34〕)
11今泉(2003)は、レビナスの他者性を考察していく中で、この他者は「人類の未来へとつながる」(P.63)ことを明らかにしている。
12 松浦(1996)は、こうした自分の中にある倫理性のことをエチカと呼び、モラルは、超越的な規範として捉えると、エチカは、「誰にも適用うるような一般的な形では定型化されえない」(P.234)と述べる。

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