第3章 労働者権利としての視点

はじめに
 前章まで、福祉労働が低位に置かれていることを明らかにした。しかし、一般にこのような本質的な(あるいは蓋然性な)低位さはあまり語られることは少ない。専ら福祉のやりがいや聖職者意識を鼓舞する言説が多い。その陰で賃金の抑制を行い、過重労働が平気に行われていることは周知の通りである。
 ところが労働者側にも低位な労働環境におかれているのが分からない人や慣れて(あきらめて)いる人も多い。いわく、低賃金でも給料がもらえればよい。多少きつくても自分が我慢すればよい。業務内容がおかしいと思うが、声を挙げると管理職や上司ににらまれてしまうから見ないことにする。等々である。そこには自分一人ではどうにもできないといった無力感がある1
 福祉職と言えば、専門性が強調され、どう利用者と関わるべきなのかに集中しがちである。しかし、我々現場の職員はまず組織の中にいる労働者であることを考えるべきである。組織といえば単に先輩・後輩、ベテラン・新人等での「自分の立ち位置」を考えてしまう。しかし、本来まず「労働者としての権利」が組織の中で保障されているのか。といった「組織のあり方」から考える必要がある。それには施設で労働権の何が保障されるべきなのか。そして現に今何が侵害されているのか。そもそも現場とは何をすることなのか。労働・業務内容のありかたを考えるべきである。
 このような視点で、これまでの論述を踏まえ、ともすれば労働者としての正当な権利をないがしろにされている現状を批判する。その上で、よりよい職場環境を目指すことが結局、自分自身の労働者としての自律性を促すことになることを述べる。

第1節 労働環境(配置基準・給与など)
はじめに
 本節では、まず、福祉労働では競争原理や市場原理の導入によって賃金の形態が変わってきている。このことについて批判を加える。その上で、どのような言説で対抗できるのかを論じる。

第1項 能力主義について
 利用者へのよりよい取り組みに関する論文は枚挙にいとまがない。しかし、福祉「労働者」にとってのよりよい取り組みは利用者のそれに比べて無いに等しい。あっても能力主義の導入とか人事考課のあり方といった程度である。
 しかし「日本の会社の中に「能力」を測るモノサシがない」(橋本〔2004,P.203〕)といわれる。能力とは売り上げなどのノルマ達成の過多ではない。能力ある人を評価する「人を見る目」である。それは主観で曖昧なものである。
 福祉労働の業務は、こなさないといけない業務内容はあるが、いわゆる売り上げなど経営に直接響くようなノルマはない2。さらに、福祉労働はチームワークで行う労働集約型である。そのため、個人が業務内容をこなせないからといって、給料を人事考課によって減らして良いことにはならない。往々にして、業務内容そのものの過密さや人的な配置基準によって「こなせない」ことが多い。結局、人事考課も能力主義の導入もそもそも主観的で曖昧なものである。さらに、上記の理由(チームワークや労働集約型)で福祉職にあっては決して効果のあるものではない。能力主義や人事考課を導入したがる理由として、賃金の抑制をしたいだけの場合が多い。

第2項 経営努力とは何か
 確かに、福祉業界は高賃金が望めない。しかし、経営者は収益と費用、コストカット等の「カネ勘定」に腐心するのでない。そもそも経営者の求められるのは、「どういう商品・サービスをどう作ってどう提供すればうまくいくのか」(藤井〔2005,P.21〕)という視点が必要である。福祉労働は、ただ単にその場限りに提供すればよいサービスではない。福祉施設は、利用者への生活過程に関わり続ける継続的なものである。場合によってはその関わりは、20年以上にも及ぶ。そのため、いかに利用者を把握し、サービス提供をするのかいう吟味と蓄積が問われる。
 たかが個人であっても、施設がいかに取り組んでいるかがフォーマル・インフォーマルの評価になる3。そのためには福祉施設では、労働者が継続的に勤めることができる環境であることが前提になる。次から次に辞めていくような職場に質の良いサービスを継続的に提供することは難しい。よって、人材育成こそが施設運営上もっとも重要なテーマとなる4
 施設への財源が縮小傾向にあるのは確かである。しかし、職員のモチベーションを高めるのは、つきつめていえば労働条件の保障が根底にないといけない。その内実について述べると以下のようなことが考えられる。


第2節 労働実態と権利主張について
はじめに
 本節では、福祉労働に限らず、労働時間や拘束時間が長期化していることを明らかにする。その上で、労働時間が長いことによる弊害や年休の取得率の低さなどを批判し、本来の労働者の権利を明らかにする。

第1項 労働時間について
 そもそも日本は労働時間が長いことは指摘されている。過労死、ストレスによるうつ病など枚挙にいとまがないし、現実問題として、フリーターであっても長時間労働に陥っていることが指摘されている(森岡〔2005〕)。
 施設福祉の場合は、シフト制であり、規定の生活支援の内容によって人員が配置される。そのため、ある程度の業務範囲があり長時間労働は回避される傾向にある。しかし、宿直での拘束時間は長い。あるいは生活支援以外の雑用、記録、企画など生活支援以外の業務は山積し、結局サービス残業を行わざるを得ない状況が多い。特に、離職率の高い福祉現場にあって、30代〜40代の正職員は生活支援の中心的な力量を発揮しながら、書類関係の仕事も同時にこなすという労働過密が高い。朝に宿直業務に入り、夜間休むことができず、次の日の午前に会議に出て、その後書類の整理や関係機関との調整などをして帰るのが、次の日の夕方ということも起きる。こうした傾向は、宿直がない施設でも同様である5

第2項 年休の取得状況
 年休の取得状況については、福祉職の取得率は低いことはすでに述べた。しかし、この傾向は、一般社会においても同様であり、「1980年に61%であった取得率は、その後高まるところか、2004年には47%まで下がった」(森岡〔2005,P.151-152〕)と。また、わずかに取得された年休も、実際は余暇目的の連続休暇のためではなく、病欠や育児、介護、その他個人的用務のためであることが多い。
 余暇目的の年休取得を妨げている要因としては、代替職員がいない、100%に近い以上に高い出勤率を前提に要員が決められているなどが挙げられる。また、会社が指定した休日以外は休みにくい等が主な理由となる。根本的に、日本は労働時間に関して、ILOのほとんどに批准していない6。年休の取りづらさは、特に福祉の現場では顕著である。概して、福祉職は勤務シフトなどで年休の消化がしにくいことは前述のとおりであるが、特に休む理由がないとか休むと他に迷惑がかかるという理由もある。
 こうした断続的にしかとれない年休や勤務形態の複雑さは、労働によって疲れた心身を十分に回復することなく、疲労を蓄積させる結果となる(垣内〔2002〕)。さらに、長時間勤務やサービス残業は結局、その他のプライベートの時間を縮小させ、人間らしさを養う機会を奪っているとはよく言われる。確かに労働は人間として重要な要素であり、働く喜びは自己実現の何かを果たす要素である。しかし、働くということは単に賃金労働だけではない。

第3項 本来の労働と労働者の権利について
 本来労働とは、家事や地域に参加することも含まれている。あるいは、政治プロセス(講演会・演説会など)に参加し、自分の目と耳で立候補者を選ぶという機会は労働以上に民主主義国家として重要な義務である。しかし、こうした参加が労働時間の多さによってかなりの部分で制約を受けている。
 また、労働のストレス回避のためにレクレーションの重要性も説かれる。例えば、読書、映画、旅行、友人や隣人と交流をする。サークルなどに入り趣味を深めるなどである。しかし、細切れの年次消化しかできないのが現状では、唯一の休みは、ただ単に疲れを癒すためにごろ寝をするしかできない。
 この他、福祉労働では、腰痛などの身体的な職業病などがあるが、これはなかなか労災として認定が難しいとされながらもいくつかの判例では労災が認められている7。実際に、特別養護老人ホームや身体障害者療護施設では腰痛やヘルニアなどで休職や配置転換がある8。こうした事がないように、経営者は何らかの対策を取るようにするべきであるが、実際にはされていないのが現状である。自分の身を守るためにも労働者自らが発言し問題定義をする必要がある。
 これらのことを踏まえ、具体的に提言すれば、

第3節 考察
 労働者としての権利は様々あるが、さしあたって、もっとも身近で重要な権利として、給与と休暇について述べた。給与の公平さと労働者として大切に扱われているかどうか。これは経営者の采配が多く影響するとはいえ、労働者側も経営や事業についての知識を吸収し、問題意識を持つこともまた重要である。
 また、休暇に関しては、労働者の権利として認識し、もしそうした状況でない場合は、改善を訴えていく姿勢が求められる。休んだ人や休みすぎると感じて同僚や後輩を恨むのではなく、お互いに休みを取り合っていこうとする姿勢が大事である。それは結局自分自身の働きやすさを保証するのである。


1 ジェレミー(2004)において、不平等という概念が席巻し、階級的憎悪よりもはるかに抽象的で非人格的な表現となっていることを指摘している。「明らかに何気ない概念の変更が社会的不正に対する心理的な受け止め方の大きな変化を物語っている」(P.67)と。つまりこうである。貧困という不平等の撲滅という表現の中に、貧困生活者の不公正や社会的不正が立ち現れることはない。貧困の抽象的な何かが不平等であるにすぎない。そこには、権力者の巧妙なレトリックが隠されている。貧困に陥るのは我々のせいではない。不平等が悪いのである。このことについて、渋谷(2003)では、結局、貧困に陥るのは、無知な個人だからだという言説を常に用意されている傾向があると指摘している。
2 あくまでもケア労働や施設内における生活援助に限定している。ケアマネージャーの中には、月に50件以上取ってこないと給料を減らすといわれる施設がある(垣内〔2002〕)。
3 施設入所者だけではない。来園するボランティア、実習生も施設を評価している。さらに、障害者を抱えている保護者のネットワークも侮れない。入所している利用者の保護者からの情報は、在宅で介護をしている親にとって最も信頼できる情報である。そのとき、職員一人一人がどのような取り組みをしているのかは、雰囲気や利用者の表情からはっきりと知り得ることである。
4 編集部編「福祉施設における人材育成の課題と実践」(2005)参照。この社会福祉法人では、資格取得を一つの基準として、一年間の研修期間の中で自分が何をしたいのかを選択する形を取る。研修期間では、一対一で指導担当職員がついて定期的に評価していく方式をとる。また、研究報告会などを開き、キャリアアップを奨励している。
5 杉山(2002,P.85)参照。ここでは、保育の労働の過密さについて述べている。施設業務と共通するのは、雑用が多いことにある。何をするにしても、ただ入浴や食事をさせればよいのではない。個々の能力に合わせた入浴準備や食事までの誘導からお膳の準備など一連の中で行われ、途切れることがない。
6 森岡(2005,P.151-158)等を参照。労働基準をザル法にしている三六協定や労働時間に関して一本もILOに批准していないことなどを述べている。
7 伊藤(2002,PP.113-116)参照。腰痛などは因果関係が難しいとされながらも、業務量、形態、肉体的条件を総合して考慮される。最近では、福祉職の腰痛による労災は認められる傾向にある。仮に抗し健康門田を放置した場合、施設は安全配慮義務違反に問われる。
8 実際に私の勤める法人でも、ヘルニアになって1ヶ月休職した人や配置転換や異動をした人が少なからず存在する。休職している間の施設業務はもとからぎりぎりの人数で行っているため、より労働が過密化する。また、休職した人も復帰した際には「ご迷惑をおかけして…」という言葉がおきまりである。経営者や管理者は「お互い様」ということで慰め、すませている傾向にある。複数の施設を経営しているために、腰痛の起きにくい施設に異動など出来るが、そうでなく単一法人単一施設の場合、やめざるを得ない状況に陥る。

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