自我同一性
E.H.エリクソン
小此木啓吾訳

『幼児期と社会』
によってライフサイクルの理論を確立させたエリクソンの専門社に対する論考集。実は、すでに絶版になっていて入手が困難であるにもかかわらず、内容は濃く、ほとんど原書に近い扱いであってよいと思われる。再版を望むところである。

これは、精神保健のレポートのために抜粋したメモ(断片)群である。

自我同一性
自我が特定の社会的現実の枠組みの中で定義されている自我へと発達しつつあるという確信である。そして、その感覚を自我同一性と呼びたいと思う。その上で、私はこの概念を、一つの主観的な体験として、一つの力動的な事実として、さらには一つの集団心理学的な現象として、
そもそも、一つの人格的な同一性を持っているという意識的な感情は、同時に行われる二つの観察に基づいている。つまりそれは、時間的な自分の自己同一と連続性の直接的な知覚と、他者が自己の同一と連続性を認知しているという事実の同時的な知覚である。私が提示する自我同一性とは、この人格的な同一性によって伝えられるような、ただ単に存在するという事実以上のものであって、むしろこの存在の自我性質に関する概念である。
つまり、主観的側面から見ると、自我同一性とは、自我の様々な統合方法に与えられた自己の同一と連続性が存在するという事実と、これらの総合方法が同時に他者に対して自己が持つ意味の同一と連続性を保証する働きをしているという事実の自覚である。

我々は、社会的なイメージと身体の力の結びつきを探求せねばならない。しかもこの課題は、これらのイメージと力が、直ちに互いに関連し会っているという意味で問題になっているわけではない。むしろそれ以上のこと、つまりエトスと自我の、そしてまた集団同一性と自我同一性の相互的な満たし合いが、より大きな共通の潜在力を、自我の総合と社会組織双方に提供していることを意味している。

精神分析的な諸概念を集団の問題に適用してみて、自我統合と社会組織の相互的な充足作用は、だいぶ明確になったが、その結果我々は、より高次の人間組織に向かってそれらの拡大と育成が、全ての治療適度力の目標になるような社会と個人の心理学的な中間領域を、治療的に評価する手がかりを得ることができるようになるかも知れない。

精神分析の貢献の有効性は、原始的な恐怖でくもらせられている可能性を患者たちに自覚させるという、限られた条件への単なる適応を超えた目的に臨床経験を適応しようとする、ねばり強いヒューマニスティックな努力によってのみ、はじめて保証される。

この主題を研究するにあたって、精神分析医は、アンナ・フロイトが明らかにしたように「エス、自我、超自我から等距離の」観察点にたつべきである。この戒めは、そうすることによって彼らがこれらの機能的な相互依存関係に気づき、さらにまた心の中のこれらの三領域の一つに起こる一つの変化を観察する際、それに関連した他の領域への変化の注目も失ってはならないというアドバイスである。
1.ライフサイクルの時間−空間の中で身体を有機体に結びつける過程
2.自我統合によって経験を組織づける過程。
3.地理的−歴史的単位の中での、自我有機体を社会的に結びつける過程などである。
そしてこの順序は、精神分析的な研究の歩みに一致している。もしこのようなのべ方をしないなら、例え構造を異にしていてもこれらの諸過程はお互いに依存し関連しあっているというべきである。どんな主題についてであるにせよ、その意味やエネルギーがこれらの諸過程のどれか一つの中で変化すると同時に、それ以外の過程にも変化が起こる。そして、これらの諸変化に固有な過程や継起を一定に保ち、その発展や遅滞やずれや中断を予防したり、それらに対抗しようとして身体内に苦痛の危険信号が発せられ、自我の中に不安が起こり集団の中にパニックが起こる。そしてその信号は、有機体としての機能の異常、自我支配の障害、集団同一性の喪失の危険についての警告を発している。つまりそれぞれが全体に対する脅威になるのである。

各個人が自己自身の自我同一性と同一化を選択するとき
、そしてまた与えられるものをなさなければならないことへ転換することができるとき、人間は自由を体験するからである。そしてこのようにしてはじめて人間は、彼の唯一の人生周期と人間歴史の特定の一節との一致を通して(自分の世代と次の世代のための)自我の強さを獲得することができる。

フロイトの偉大な発見
…神経症的葛藤は内容の上では、全ての子供が子供時代に経験しなければならない葛藤とさして異なっていないし、全ての成人は、パーソナリティの奥深くにこれらの葛藤を持ち続けているということである。私はこの事実を子供の各発達段階に沿って、それぞれに特有な危機的な心理的葛藤とはどんなものかを、明らかにすることによって説明したいと思う。

成長というものを理解しようとするときには、いつでも子宮の中での生体の成長から導き出された「斬成原理」を思い出してみるがよい
。その原理は、一般化すると、次のように記述される。すなわち、成長するもの全て「予定表」を持っていて、全ての部分が一つの「機能的な統一体」を形作る発生過程の中で、この予定表から各部分が発生し、その各部分は、それぞれの成長が特に優勢になる「時期」を経過する。誕生の瞬間に、赤ん坊は子宮という化学的交換の場を離れ、社会という社会的交換システムへ向かっていく。そこで、次第に増大していく彼の能力は、文化のもたらす可能性や限界に遭遇する。成熟途上の生体が、新しい器官を発達させることによってでなく、むしろ一連の移動能力や知覚能力、社会的能力のあらかじめ予定された発達継起によって、どんな風に自己を発現させていくかは、児童発達に関する文献が記載するとおりである。
相互作用は、文化によって異なるとはいえ、なおそれは生体の成長と同じように「パーソナリティの成長を支配する適切な程度と適切な順序」の範囲内に留まるものでなければならない。いわば、パーソナリティとは、母親の漠然としたイメージから始まって、人類が持って終わる、あるいはともかくも特定の個人の人生の中に「数え上げられる」ような人類の一部をになって終わるといった具合に比呂下ってゆく社会生活に向かって駆り立てられ、それらについて、目覚め、それらとの相互作用を営む生体としての人間の準備態勢によってあらかじめ予定された各発達段階に沿って発達してゆく。
順序よく継起する各段階は、「見通しの根元的な変化」を伴うために、一種の潜在的な危機である(危機となる可能性を内にはらんでいる)。人生の開始時には全ての変化の中でもっとも根元的な変化、つまり子宮内の生活から子宮外への生活へという変化であるが、出生後の生存の中にもまた、くつろいで横になるとか、しっかり座るとか速く走るといった見通しの基本的な適応の全てが、もっとも適切な時機に達成されねばならない。これらの適応とともに、対人関係的な見通しもまた、急速に、そしてしばしば決定的に変化する。たとえば、それは「母親が見えなくならないようにする」ことと「独立したい」ことといった、正反対の態度が時間的に近接して起こることによってあきらかである。このようにして、常により新しい形態を持った、より完全に成長した構成要素となるために、つまり成長しつつあるパーソナリティとなるために、「異なった能力は異なった機会を用いる」のである。

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