同一性対同一性拡散
技術の世界との、そしてまた新しい技術を教えたり分かち合う人々との、良い関係が確立されると、本来の児童期は終わりになり、青年期が始まる。そしいてそれ以前に頼っていた不変性と連続性の全てが思春期や青年期で再び問題になる。なぜならば、児童期の初期に匹敵する急速な身体的成長と、全く新たに加わった身体的な性器的成熟が起こるからである。成長と発達の途上で若者は、自己内部の生理的な革命に直面して、自己の社会的役割を統合する試みに関わるようになった。彼らは、自分が自分であると感じる自分に比べて、他人の目にどのように映るのかといった問題に、時には病的なほど、時には奇妙に見えるほどとらわれてしまう。そして新しい連続性と不変性の感覚を求めて、ある種の青年たちは、子供時代の危機の多くと改めて戦わなければならないが、まだ最終的な同一性の守護者としての永続性を持った偶像や理想を確立する準備が整っていない。
自我同一性という形で、まさに行われようとしているこの統合は、児童期の主種の同一化の総和以上のものである。
むしろそれは、うまくいった同一化が各個人の基本的な欲動と、自分の素質や機会との統合に成功する際に、次々に継起する各発達段階の所経験全てから獲得される内的な首府である。精神分析では、このような成功した結合を「自我統合」に帰する。この時に体験される自我同一性の感覚とは、内的な不変性と連続性を維持する各個人の能力(心理学的意味での個人の自我)が他者に対する自己の意味の不変性と連続性に合致する経験から生まれた自信のことである。
それぞれの主要な危機の終わりにこのようにして確証された自己評価は確かな未来に向かっての有効な歩みを今自分は学びつつあるという確信に、つまり、自分が理解している社会的現実の中にはっきり位置づけできるようなパーソナリティを、自分は発達させつつあるという確信に成長してゆく。そしてまた、成長途中の子供は、全ての段階で、自分の経験を支配する自分独自のやり方が、自分の周りの人々が経験を支配し、そのような支配を是認する数多くのやり方の一成功例であるという認識から、いきいきとした現実感を引き出さなければならない。

自我同一性の段階を発達させ、統合することを可能ならしめるあらゆる表現形式を、もし環境があまりにも激しく奪い去りそうだと感じると、その子供は、自分の生命を守ることを突然強いられた動物が示すように、驚くべき強さで抵抗するに違いない。

このように自我同一性は、全ての各同一化の漸進的な統合から発達する。しかし、どの場合にも、この発達では全体は部分の相違以上の独自の特質を獲得する。

確立途上の自我同一性は、早期児童期の諸段階、つまり、身体や両親像に特別な意味が付与されていた各段階と、それ以後の諸段階、つまり各種の社会的役割が利用可能なものになると同時に、ますます強制的になってくる各段階とのかけ橋になる。永続性のある自我同一性は、一番最初の口唇期における信頼なしには存在することができない。つまり、自我同一性は、大人になってからの支配的なイメージから、赤ん坊のはじめにまで一貫する、各段階毎に獲得される自我の強さの感覚を作り出すような達成の保証なしには、完成され得ないのである。

心理学的にいえば、徐々に獲得されつつある自我同一性は、「欲動の無政府状態」と良心の独裁に対する唯一の安全装置である。
そしてここで言う「良心の独裁」とは、残酷で過度に良心的な状態であり、両親との間の過去の不平等の成人の内部における存続である。

できるだけ広い意味にとれば、最良の人々が支配しその支配が人々に最良をもたらすという確信を含むような、皮相だったり無気力だったりする敗残者にならないためには、同一性を探し求める若者は、どこかで成功する人々は最良である責任、つまり国民の理想を体現する責任を担っているという確信を持たなければならない。

ただ単に「機能することや」等級を付けることを超えて、断固として切望される価値や目標を伝達する教育システムによってのみ克服することができる。

そもそも青年期は、子供時代の最後の集結段階である
。しかも、この青年期の発達過程は、その個体が子供時代の同一化(複数)を、一つの新しい同一化に従属させるときのみ、究極的に完成される。そしてこの新しい同一化は、年長者たちとの、そして、年長者たちの中での社会性の吸収や、競争的な徒弟方向の中で達成される。これらの新しい同一化は、もはや子供時代の遊技性や若者の実験的な冒険性によっては特徴づけられない。むしろこれらの新しい同一化は、その切迫した緊張性によって若者たちに選択や決断を余儀なくさせる。そしてこの選択や決断は直ちに最終的な自己定義や、非可逆的な役割、パターンのこの状況の中での獲得や「人生への」誓約などを結果する。若者と社会それぞれが成就せねばならなぬ課題は大きなものである。つまりそれは、異なった各個人について異なった各社会の中で、青年期の持続期間や強さや慣習が各種各代と大人時代の媒介期間、つまり「制度化された心理−社会的猶予期間」を提供している。そしてこの期間中に、「内的同一性」の永続パターンの相対的な完成が予定されるのである。

全ての重要な同一化(複数)を包括するが、しかもそれらの同一化から独自の適切なまとまりを持った全体を形成するようにこれらの同一化群を作り替えてしまう。
同一性形成は、同一化の有効性が終わるところからはじまる。つまり、それは、子供時代の同一化群を選択的に拒否と相互的な同化、そしてそれらを新しい一つの構造に吸収してしまう過程から発生する。しかもこの新しい構造は、特定の社会がその若者を一個人と見なす過程によって規定される。そしてこの過程は、その若者を、そのようなあり方にならなければならかった人物として、そしてまた現在もそのあり方を承認されている一個人の人物として是認するにいたる。

このように青年期の終わりが、はっきりとした同一性の危機の段階であるからといって、同一性形成そのものは、青年期にはじまるわけでも終わるわけでもない。つまり、それは、個人にとっても、社会にとっても、その大半が無意識的な、生涯続く発達過程である。
同一性の危機が時に、神経症的なものに見える場合があるが、しばしば単なる悪性化した危機に過ぎない場合もあり、このような危機が自己整理を目指していて、実際には同一性形成の過程に貢献することが明らかになる場合もあり得る。

児童期の最も早い時期の各発達段階は、成人以前の年代全体にわたる統一的な理論なしには、説明不可能であると確信を抱いている
。なぜならば、最も早い時期の経験の再構成が繰り返し示唆しているように思えるが、(切迫した怒りに満ちた混沌から逃れられない)乳児は人生のコースを新しく自分自身から作り出しもしないし、作り出すこともできないからである。ごく幼い子供は、多数のライフサイクルにからなる共同体の中で暮らすが、それぞれのライフサイクルは、その子どもがこれらの多数のライフサイクルに依存していると同じように、この子どもに依存している。そして園子どもの欲動も昇華も同じように一貫したフィードバックによって導かれている。

時間的展望の拡散
青年期が蔓延したり、延長されたりする極端な場合には、「時間体験」に極端な形での障害が現れるが、その軽症の形のものは青年期の日常生活の精神病理に属している。この時間体験の障害は、非常な危険が切迫しているという切迫感と生活の一次元としての時間体験の喪失とから成り立っている。
時間が変化をもたらす可能性に対する決定的な不信と、それにもかかわらず時間が変化をもたらすことに対する激しい恐怖とから成り立っている。

勤勉さの拡散
自分の勤労感覚の急激な崩壊。周りから課されたか指示された課題に集中できないという形を取るか、読書過剰のような一面的な活動への自己破壊的な没入という形を取るかのいずれかである。
ここでは、思春期と青年期に先行する発達段階、すなわち、小学校時代のことを思いだしてほしい。この年代に子供は彼の属する文化に特有なテクノロジーに参加するのに必要な諸条件を教え込まれ、勤労感覚と労働参加の感覚を発達させる機会や、人生の課題を与えられる。しかも意味深いことに、この学校時代は、エディプス段階の次に引き続くものである。つまり、社会の経済的構造の中に身の置き場を見いだす。現実的な歩みを確立することによって、子供は、性的存在や家族的存在としての父母より、むしろ、勤労者として、そして伝統の担い手としての父母に再同一化することが可能になる。

労働同一性のはじまるすぐ直前にエディプス的なものが先行しているために、青年患者たちの同一性の拡散は、エディプス的な競争と同胞葛藤へと彼らのギアを逆転させる
。その結果同一性拡散は集中能力の欠如だけでなく、意識過剰や競争への固執をも伴うことになる。
ここで問題にある患者は、知能が高く、才能に恵まれ、しばしば事務所での仕事や学究的な勉強そしてスポーツなどで、かつて成功を収めたことがあるにもかかわらず、もはや現在は、仕事、学習、社会性などの能力を失い、その結果、社会的な遊びという最も重要な交流を失い、まとまらない空想や漠然とした不安から逃れる最も重要な「回避方法」を失ってしまっている。そして、その替わりに、幼児的な目標や空想に、生物的に成熟した性的装置や増大した攻撃的な力に由来するエネルギーが付与されるという危険な状態が続いている。そして一方の親が、再び性愛の目標になり、他方の親が再び、邪魔魔物になる。しかし、むしろそれは最も早期の起源への逆戻りではあるが、早期の取り入れ対象の拡散を解消し、子供時代のあやふやな同一化群を確立し直そうとする企てなのである。換言すれば、それはもう一度、生まれ変わりたい願望、現実と相互性に向かっての第一歩を学び直したい願望であり、人々との接触、活動、競争などの諸機能を、もう一度発達させ直すことに対する新たな許容を得たいという願望である

否定的同一性の選択
人格的同一性を放棄する変わりにもっと微妙な形で表現される。つまり彼らは、「否定的同一性」を選ぶのである。この否定的同一性というのは、危機的な段階で、最も望ましくないが、最も危険で、しかも、最も現実的なものとして、その個人に示される全ての役割や同一化に倒錯した基礎を置く同一性のことである。
つまり、否定的同一性のこの種の復讐的な選択は、利用可能な肯定的同一性の各校西洋蘇我、お互いに帳消しにしあうような状態で、明らかに何らかの自己支配力を再獲得しようとする絶望的な試みである。患者の内的手段によって達成不可能な肯定的役割から現実感を得ようと努力することよりも、ほとんど想像もしたこともなかったようなものとの全体的な同一化から、同一性の感覚を引き出すことの邦画よりたやすいような、そんな一種の状態の存在を示している。

同一性悪感

信−不信で首尾良く解決された葛藤が、個としての存在をよりよいものとして受け入れられるような優勢な感覚のようなものを意味する一極性の感覚をもたらすものを仮定している
。つまり、未だ一方で、絶え間ない一貫した母親の直接の指示に弱々し依存しながら、自己の内外にある「良い力」を備えた現実に対する現実感が発生してくると、仮定せねばならない。それに対する否定的な対応物は、お互いに矛盾しあうよう取り入れ対象の拡散であり、全能な復讐を備えた敵意に満ちた現実に圧倒されると思い込ますような空想の支配。自閉症が一過性または永続的な形態を取る場合、その子供は、幻想的な良き「一体性」を常に求めながら、このような両極性から逃げ出したり、このような両極化に絶望していると見なすことができる。
疑惑と恥は、自律性の感覚、つまり、現実的にも象徴的にも自分の足でたたなければならぬ、分離した個体にきっぱりとなる。という心理・社会的な事実の受容を妨げ、複雑化する。
その時、同一性意識は、しつけをする大人の信頼と子供自身の信頼とにかかわる根元的な疑惑の新版になる。そして、青年期になると、このような自己意識的な疑惑は、もはや背後に取り残されてしまっている子供時代全体に対する信頼と和解にかかわるようになる。自分独自のものであるような一つの同一性を獲得するという当初の目的は、全てを知り尽くしている大人から、至る所で見られている存在であることについて抱かれる根源的な恥と怒りを得る程度比せられるような、苦痛に満ちた全面的な恥を目覚めさせる傾向がある。
しかし、事態が正常な経過を辿る場合には、過去におけるそれぞれの発達段階の危機を解決するたびに増大してゆく同一性感覚の獲得を通じて得られる自己−確信が、この恥と疑惑を克服する。

両性的拡散
親密さ−孤独。美来に経験されるはずの心理・社会的な各危機の所産ではなく、むしろその先駆である心理・社会的な諸要素の領域に入り込むことになる。ここでは、文化及び階級の性的な慣習が男女の心理社会的な文化、そしてまた、性器的活動の下で行われている年齢の幅や種類、その偏在性などについて、大きな相違を作り出している。そしてこれらの相違は、上述した心理社会的な親密さの発達は、しっかりした大人たちを二つの偽りの発達に導くおそれがある。特殊な習慣に導かれるか、さもなければ誘惑されて彼らは、親密さを伴わない早期の性器的活動への集中によって、自分たちの同一性を発達させる正当な権利を放棄してしまうおそれがある。あるいは、またその反対に彼らは、その結果引き起こされる異性との性器的な分化の弱さが永続的に続くために、性器的な要求の価値を低めてしまうような、社会的または知的な身分に没頭するかも知れない。異なった慣習は、一部の人々には、性器的活動を延期する能力を要求し、他の人々には、性器的活動を人生の自然な営みと化する早期の能力を要求する。どちらの場合にも、その結果として、幼い大人の年代における本物の異性愛的な親密さを傷つけるという特有の問題が起こる。
社会制度はここで、完全な性的禁欲とか、社会的契約抜きの性器的活動とか、性器的な交渉なしの性的な遊戯などの形を取る「心理・性的な猶予期間の延長」に対するイデオロギー的な根拠を提供する。

権威の拡散・理想の拡散
特定の確固たる同一性形成を通して獲得される誰かの追随者であり、別の誰かにとっての指導者であるといったその人物の身分の明確化は、より若い世代の仲間に対する責任感の発達の開始を可能ならしめる。そしてこのような責任感(子孫を作りの先駆である。最後に、多数の価値観が実行を強いるような少数の価値観へ崩壊してしまうような、イデオロギーの分極化)は自己の同一性を決定した個人がそれを通して若者の同一化の対象になるような、この漸進的な役割の逆転の重要部分にならないといけない。しかしながら、このような分極化は、結局は完全性の問題にとって危険な要素にならざるを得ない。


社会制度に関する論議抜きに問題にするわけにはゆかない。個々でさらに明確化されなければならない最も重要な制度は、社会が、青年たちに有形、無形のイデオロギーという形で提供する理想のシステムである。
1.未来に対する明確な見通し
2.各個人の同一性意識を妨げるような、何らかの画一性を持った外観や行動にさらされる機会
3.禁止の感覚と人格的な罪悪感を解消できるような集団的な役割と労働実験への導入
4.親子関係のアンビバレントから偉大な兄弟たちとして解放してくれるような指導者への従属
5.普遍的なテクノロジーというエトスへの導入とそれを介しての是認され規制された競争への導入
6.一方では理想像と邪悪像という内的な世界、一方では現実の空間・時間の中での、組織づけられた目標や危険を伴う外的な世界、つまり、若い各個人の芽生えかけた同一性に対する地理・歴史的な枠組みとの間の外見上の対立

社会は、大多数の若者メンバーが、児童期の危機から獲得した葛藤から自由な最大限のエネルギーを、特定の集団同一性が自由にできるように配慮されている。

ここで言うイデオロギーは
、伝統的なものから政治的なもの、または、歴史的なものから、社会的なもの、あるいは理想や日常に含まれる様々な価値観に根ざしているものとして捉えられている。イデオロギーは、整合性や偽善的であるという批判もあるが、集団同一性を形成する重要な要素として捉えられている。学問や理論的なもの、哲学的なものとは違い、社会性が強く、流動し、限局性を持つ。しかし、現代のテクノロジーやナショナリズム、または、普遍的な、広範な広がりを現代には認められているが、それもまたイデオロギーとして捉えられている。
現代の、青年がアイデンティティの拡散をむしろ積極的に選び取っている背景に、自由な社会の中で構造化が少ないが故に葛藤が多いのではないかと推測される。(逆に、アイデンティティの選択の幅のない社会自体が構造化されている場合は、逸脱などが逆に難しくなるとされる)


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