フルメタル・パニック
戦うボーイ・ミーツ・ガール
放っておけない一匹狼?
疾るワン・ナイト・スタンド
本気になれない2死満塁
自慢にならない三冠王?
揺れるイントゥ・ザ・ブルー
同情できない四面楚歌?
終わるディ・バイ・ディ(上下)

2001.6現在
『フルメタル・パニックシリーズ』
(賀東招二,富士見ファンタジア文庫)
【入手容易】

戦争ぼけをした高校生が、平和ぼけをした日本にやってくる。この対称だけでもすごく笑ってしまうのですが、戦争ぼけした高校生は日本人(相良宗介と堅い名前だし)で、中東や危険地域をわたってきた戦士である。実は、最新兵器を操る凄腕の精鋭部隊の実力者なのだが、この平和ぼけをした日本では、はっきりいって、空回り、危険であり、トラブルメーカーである。
球技大会の練習(「自慢にならない三冠王」に収録)で、野球のボールを生徒を放り投げているのを宗介が実弾の銃で落としているのを感嘆の声を上げて喜んでいるシーン(みんなは改造のモデルガンと思っているとか)小説であるので安心して笑えるのですが、たぶん、戦争ぼけをした高校生が素性を隠して、こうしたことをしてるとしても、周りの人はあんまり反応しないだろうナァと思ったりして…。
また、危険は平和な日本にも潜んでいる。強盗、暴漢、殺人などそうしたときに遭遇した場合、危機感ゼロの場合はどうしても、遭遇してひどい目にあった後に命があれば、危険は実は隣り合わせであるということに気づくが、戦争になれている感覚の人にとっては、当たり前のことであり、巧みに、そしてシビアに回避あるいは解決をする。宗介は、特殊な能力を潜在的にもつ女子高生(かなめ)を敵対者から守るために派遣されてきたのであるが、宗介が別の任務で不在になったときに敵対者が、かなめを襲うのであるが、かなめが敵対者に立ち向かうときに参考になったのは、宗介の行動規範であった(「終わるディ・バイ・ディ」下巻)
しかし、この小説の本質はイロニーのユーモアである。イロニーとは、本来真面目に受け取るべきことを、あまりにも真面目に受け取ることであり、ただ単に真面目に受け取ることでなく、ある観点から一応(たてまえ)真面目とされているとされているモノを、その当の立場以上に、文字通り真面目に受け取ることによって、その立場の不真面目さ加減を逆に暴露する。いずれにしろ、無慈悲にも個々人を利用しながら、それをうち捨てて省みもしない「理念」や「観念」や「信仰」の、おさまりかえった暴力的一義性に、笑いを表すことにあると思います。だから、平和な中にもいろんな価値観があり、それが教育という現場においては、権力として君臨するモノがある。しかし、宗介の戦争ぼけをした価値観では、相容れない。本人が、いくら先生を教官と呼び、学校という組織を軍隊と呼び変えて尊重しようとすればするほど、権力としての学校という存在が揺れていく。そして、そこにいる生徒もまた、そうした宗介の行動に寛容であるという設定の下に、自由な空間がそこにある。

また、この小説の面白さは、当然、ジュブナイル小説のお約束、めちゃくちゃな設定にある。ブラックボックスといわれる科学技術を持つ、軍隊、そして、それを指揮するのは天才の16才の少女。それを彩る様々な個性的な登場人物。まぁ、ジュブナイルは高校とか中学を舞台にしたものであるので、そうしたことを題材にするのだが、別の意味で、誰もが高校や中学を体験している。いわば、日本の誰もが共有できる時期なのである。だから、どんな設定よりも分かりやすく、イメージがしやすい。そこで、起きる物語もこういう高校があったら、こういう青春をしたら、と憧憬ともにワクワクしながら読めるという意味がある。

私たち、平和ぼけをしているからこそ笑える設定なのですが、だからこそ、安心して読めるのかも知れません。

なお、この作者は「蓬莱シリーズ」の短編集にも登場します。というか、それですっと入れたところがあります。マリオとハーヴェイの黒人DJのコンビが面白いですよ。


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