ゲド戦記
「影との戦い」初版1976年
「こわれた指輪」1976年
「さいはての島へ」1977年
「帰還」初版1993年

『ゲド戦記』
ル=グウィン
岩波書店

言わずと知れたファンタジーの古典としてあるいは傑作として様々な形で紹介されています。年代を見ると分かるように、77年から93年と約16年の月日が流れています。これは、実は作者が書き足すために急遽出版したものではなく、それまでの構想をまとめる形で暖め続けた結果なのです。
ゲド戦記は、あらゆる意味で現代のファンタジーの原点になっています。今で言う「ハリーポッター」も多分に影響を受けているのではないかという箇所が随所にあります。
例えば、ゲドは子供の時に母親を亡くし、そしてさもない父親の元で暮らしていた。(ポッター風に言うと、マグルそれもとびきりの)そこで、大賢人と呼ばれる人に潜在能力を見初められ、引き取られ、そのうちに魔法の学院に入学。そこで、ライバル(ポッター風に言うと、マルフォイ)に対抗しようとするあまり、それよりも恐ろしい力に魅入られてしまう。それは…最後には、死力を振り絞って解決するんですが、ポッターと違うのは、よりスケールが大きいこと。なによりも、心の奥底に響いてくる何かがあるのです。最初に、引き取る大賢者も渋いし、どちらかというとドルイドのように自然を愛し、慎ましく、賢者といわれる人は多分こんな人なんだろうナァとある意味理想的な生き方や魅力をたたえています。色気を越えた男としての魅力というか…このことについては、『帰還』で、ゲドが何もかも気力、体力、魔法の力も失って、昔救った女の人(「壊れた指輪」の主人公)の元にほとんど廃人になっていたときに、その女の人が、「…あなたは初めて会ったときから男だった!武器や女が人を男にするんじゃない。魔法や、どんな力でもない。本人よ。その人自身よ」という言葉が印象的です。結局、その人が培ってきた魂なんでしょうナァ。

また、「千と千尋の神隠」でも有名な名前を巡る問題について。なんかの本にも監督が言っていたけど、この本がアイディアになっているとかないとか…ゲド戦記では、通名と真名が物質には宿っていて、道に落ちている石一つにも本当の名前がある。その名前を知る者は、真実を知る者である…そして、本当の名を明かすということは、命を捧げるのと同じくらいに、信頼し、愛することであると…名前の持つ力。まぁ、ネット上のハンドルネームと本名の違いも当たらずしも遠からずと解釈しています。が、その意味はもっと深遠だと思う。自分だけが知っている名前、いつも使う名前。そして、自分の本当の名前を明かした人は一人か二人しかいない。それを名付けた者に対してどう思うんだろう。もし、庭に咲いている一輪の花の本当の名前を知っている(学術とかでなく「そのものの」)という確信がある人はどんな風に世界を見るのだろう。そんなことを考えて、ドキドキするのは私だけだろうか。

各巻の簡単な説明について。
先に述べた『影との戦い』は少年期から青年期にかけての修行、ある意味、自分と向き合って葛藤していた時期。それに見事に打ち勝った?ゲドが、より不可解な他者、異性、の奥深くに命がけで飛び込み『こわれた指輪』を一つにすること。『さいはての島へ』では、老年期というか次世代への継承と言うことで、失われていた王の子どもを王として継承するために冒険に行くというもの。そして、最後に『帰還』では、全てを失っても生きていくことの素晴らしさを描いたものである。それが、ファンタジーのしかも、重厚な描写によって、しっかりと丁寧に書き込まれているため、じっくりと大切に読むことができる。これからも読み継がれる本に違いないでしょう。

なお、ややこじつけめいてはいるのですが、『ファンタジーを読む』(河合隼雄,講談社+α文庫,1996)にかなり詳しく書評がされています。興味のある方はどうぞ。

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