英知と統合という語と老人の関係は、我々がまずこれらの徳が表すものの現実的な強さを理解することがなければ、歪んだものになる。この語の語源は、つまり、「見ること、知ること」である。我々は長い過去を顧みることが出来、それによって我々自身の生活や世界を理解することが出来る。研ぎ澄まされた視力は、我々を的確に方向付け、我々大地に結びつける。

統合という言葉の語源は、「ふれあい」などがある。触れあいなしには成長はない。事実、触れあいなしにはいきることは不可能である。統合は、世界と触れあい、ものとの、他者との触れあいを促進するものを持っている。一日をよりよく生きるために生活の細部に地道な注意を払いながら、大小の活動を日々こなしていくことを要求する。

英知と統合という重苦しいものから、このように理解することによって本来の意味を取り戻す。そこで求められているのは、あらゆる関係の中で、触覚と視覚を働かせながら生きていくのに必要な生き生きとした感性なのである。これまでの経験の蓄えを活かしながら、若い頃とは異なる品位を持って、感性と創造性を維持することが老年期に求められる。多くの老人の中に、「不屈」ともいえる何かしばしば存在するが、エリクソンはそれを過去と現在と未来の統合されたものという意味で「普遍的中核」「実存的アイデンティティ」と読んできた。

いつものように幼児期から始めるのではなく、成人期から始めるのであるが。その意図は、各々の人生段階全てを相互に交差させ関連づけて考えることに習熟すれば、読者の任意の人生段階から出発して、それを他の全ての人生段階に意味深く関連づけながら考察を広げて行くことが出来るようになるだろうということにあった。成人期は個々人のライフサイクルと世代継承的なそれとをつなぐ連鎖であり、上述のような考察にふさわしいものであった。しかし本書ではこの考えをさらに進めて、人生の最終段階である老年期から出発し。完結したライフサイクルをもう一度振り返ってみることがライフサイクル全体の過程の理解にどれほど役立つかを考えたいと思う。

我々が人生を一つのサイクルと考えるからには、何らかの自己完結を既に前提として持っていることを単に確認することなのである。

精神分析の流れの中に心理・社会的という用語と概念が現れたのは、いうまでもなく、それまで支配的であった心理・性的な理論を補完する意味を持っていた。以下、フロイトなどの自我、無意識、良心などの捉え方の説明がある。そこから、いかに社会的に自我は作用を受けているのか、心理的に社会はどのように働きかけるのかなどを考察している。また、内的な状態を観察できるようになったのは、まさに歴史的にもっとも破局的な時代に向かいつつある時点でもあった。そして、内界と外界とのこのような理念分割はユダヤ−キリスト教文明に根ざす個人主義的啓蒙と、民主主義国家への全体主義な崇拝との間の険悪な分裂を深く内包していたともいえる。

以下歴史的相対性や種族の持つ集団的なエトスが個人の自我に大きく作用することを論じている

漸成と前性器期性
「心理−性的」および「心理−社会的」という合成語は、いうまでもなく、方法論的にも理念的にも別個の領域として確立された二つの領域の境界を取り払い、両者の相互乗り入れを意図したものである。治療という営みは、既成の事実を相手に議論するのではなく、それらの事実を、新しい視野を切り開くような廣い文脈の中に包括して捉えようとする全体論的態度を常に要求する。人の発達過程を分けるとすれば生物的過程、自我統合などの精神的過程、他者とのつながりなどの共同的過程である。

長期化した人間の進化的発達の不可欠の部分であり、相互に貢献しあう潜在性をはじめから備えているということである。共同体の諸制度は幼児期全体に対してのみならず各身体部位の機能に対して、文化的規範や共同体スタイルやその共同体の支配的な世界観を支える独自の意味を付与しようとする。にもかかわらず共同体の全体的調和を損なう葛藤を生み出すこともあるが、しかしそれらの諸制度は、原則的には、種種の器官系の発達的潜在性を支えるものと考えても良いだろう。

あらゆる社会は、原則的には大人と子供の間の独自な「対話」形態を提供することによって、本能的に備わった両者間の相互交渉を発展させねばならない。またこの独自の対話形態によって子供の初期の身体経験は、深い永続的な文化的意味合いを付与されるのである。同時に、幼児が本能的な愛着をよせ相互交渉をなし得る範囲内に、母親的人物や父親的人物、やがて様々な親的人物が入ってくるとき、幼児は逆にそれに対応するコミュニケーションパターンをこれらの成人の中に換気するのであり、しかもこのコミュニケーションパターンは個人の統合のみならず共同体の統合にとってもその後長く重要な意味を持ち続けるのである。

性的な器官の差異は、文化的な差異を引き起こすこともあり、その相互性は文化的に社会的に性的なものの意味が付与されることもある。それによって、男性、女性の性的な差異が、社会的な差異を、または、役割を付与されることによって、ここの自我の形成に少なからず、影響を与える。男性器と女性器など

また、人が排泄する、2本足でたつ、歩く、という基本動作や器官の働きについても社会的にも共同体にとっても、個人的にも相互に影響があるとする。2本足で立つということは、全面と背面を生み出し、視点が後ろは見ることが出来ないそうしたことは、監視されている、背後から支えるという暗喩をつきまとわせる。また、全面はさらされるなど立体的な視覚によって、様々な方向に異なる言語のなかでも多様かつ強烈な意味合いを担わせている。

様式、言語、視線、器官、社会、集団的エトス、儀式化、定型化、コミュニケーションの階層的な信号、

いかに母親であることに本能的満足を求め得たとしても、さらに彼女は彼女の属する種族にふさわしい仕方でその種族にふさわしい母親になることを必要とするからである。つまり、人間のこの最初の儀式化は、一連の慣習と義務を満たしながら、同時に顔と名前による相互的認知を求める母子双方の欲求に応えることになる。

子どもの遊戯性は、大人のそれとは違い、社会性の学習や自分の衝動を社会化させる一つのプロセスともなる。それは、他者、玩具(道具)との相互交渉を交えるプロセスともなる。遊戯的想像力、相互交渉の他者の拡大が起こってくる。遊戯性のスキルが一見後退しているように見えるときでも、発達のための退行を起こしていることもままある。遊びの持つ儀式化の力は、自体の雛形を創ることで経験に対処し、実験し予想を立てることで現実を支配するという、人間的能力の幼児的形態だからである。成人もまた彼の仕事が重大な局面にさしかかった時に、過去の経験や予想される難題と「一緒に遊ぶ」のであり、彼はまずその活動を思考と呼ばれる自己領域の中で開始するのである

人間的強さのリスト全体を見渡してみると、希望と忠誠の間には主要な発達段階と密接に関連して意志、目的、適格のステップが仮定され、また忠誠と世話の間には愛というステップが仮定されていることが分かる。しかしこの図式はまた、垂直方向に見た場合には、各々のステップが英知でさえもそれ以前の全てのステップに根を下ろしていることを示し、その一方水平に見た場合には、これらの徳の発達的成熟(及び心理・社会的危機)がそれぞれ、より高次の、発達途上にある段階に新たな意味合いを付与するとともに、より提示の、すでに発達し終わった段階にも新たな意味合いを付与することを示している。

人生の諸段階は、人格発達という精神的過程と、社会的過程が有する倫理的な力とに依拠し続けると全く同じように、生涯にわたって身体的過程と繋がれたままになっているということである。
初期の現れる基本的信頼−「希望」は「世話」によって守られ、培われるとしたら、児童期と成人期を繋ぐ青年期に「忠誠」という強さの出現を仮定できるとすれば、それはこの信頼する能力、そして自分を信頼する能力の、より高次の水準での再生であり、同時にそこには、信頼する相手が信頼に足る存在であるという主張や、自分の忠実性をいかなるイデオロギーの主張にもコミットさせうるという主張が付与される。もし、青年期に重篤な症状を示す青年の中には、初期の「希望」の原基を取り戻し、そこから再度前に向かって跳躍するために、最初期の発達段階に半ば意図的に退行する姿が見られる。

最後の段階

最後の段階の失調要素は絶望である。一方、下段の左隅を見るとそこには、最初の同調要素として希望がある。ゆまち、希望と絶望の間に橋が架けられている。事実いかなる言語にあっても、希望は私であることという最も基本的な特質を内包している。この特質なしに人生がはじまることも、意味を持って終わることもありえない。次に上段の左隅には空白の欄があるが、そこには、第1列の垂直軸状の上昇に沿って成熟した、希望の最終の形態を表す語が必要だろう。信仰という語がそれにふさわしいと思われる。

平均的ライフスパンの長期化という歴史的変化は、新たな活力ある儀式化を必要とする。そしてこの儀式化は、何らかの明確な「締めくくり感覚」と、おそらく、死にゆくことへのより積極的な予期と準備を提供するとともに、人生の始まりと終わりとの意義深い相互交渉を提供するものでなければならない。これら全てを表すものとしても、英知と絶望は依然として妥当な言葉であろう。また、前の生殖は、無くなるわけではなく、前段階のアイテムが後の段階にふさわしい形に焼き直される。老人はより広い意味での祖父母的な生殖機能を保持することが出来るし、しないといけない。現代では、その前の世代と関係が切れることによって、生きた関与が老年期に失われている傾向にある。

老年期にはあらゆる過去の特質が新しい価値を帯びること、そしてその価値は、健全なものであれ、病理的なものであれ、それ自体と考えて良いものであり、その起源との関係だけから考えるべきものではないということである。

老年期のあり方に内在する最後の儀式化はなんであろうか私はそれを哲学的なもの、知恵を愛するものと考える。なぜならばそれは、心と体の統合の崩壊にさらされながら何らかの秩序と意味を維持する過程で、英知の中に潜む強靱な希望を擁護することが出来るからである。対極にあるのは、不当な権力と結びついた場合には威圧的な正当とのなりうる強迫的が疑似統合。

統合とは、一貫性と全体性である。老年期では、身体的にも喪失感を伴うため、感性モードの普遍化な心のあり方を必要とし、全体的に一つにまとめておく必要がある。

成人期

生産−停滞の徳目である世話は、次世代の強さを育むというこの世代継承的課題に全て必要不可欠であり、人間生活そのものの蓄えだからである。

性的フラストレーションは病因と見なされるが、生殖的フラストレーションは産児制限という技術的エトスの支配の影響で病因とは見なされがたい現代では、特に重要である。しかし、フラストレートされた衝動エネルギーの最も優れた使い方は昇華、あるいはより広い方向にエネルギーを適用していくことである。全ての生活の質の向上にかかわる普遍的な世話として新しい生殖的エトスが現れている。しかし、選択的になる。ことは避けがたい事である。ある程度明確な拒否性を有し選択的にならないと何ものかに対して生殖的であり、世話に満ちている状態になり得ない。

戦争は拒否性が周期的に顕在化したことである。自分の種族に脅威を与えるようなと思える感情を相互に抱いていること。疑似種族形成のの儀式

儀式:
親であるとともに教えるものであり、生み出すものであるとともにいやすものでもあるという補助的儀式化が含まれている。潜在的にはびこる儀式主義は権威至上主義、つまり権力そのものを経済生活や家庭生活の支配のために非寛容的または非生殖的に用いることである。もちろん、真正の生殖性は真の権威性を適度に内包している。

親密性の問題では、排他性があるが、拒否性と同じように排他性があってこそ親密性が重要になる。親密性での儀式化は、異なる背景を持った人たちが各々が馴染んだ習慣的方法を融合させて、一つの新しい環境を自分たちと子孫のために創らねばならない段階にもなっている。この新しい環境とは、社会的慣習の変化を反映する環境、歴史的変化がもたらしつつある支配的な同一性パターンの変化を反映する環境である。この、儀式化を非生産的にしたものは、エリート意識であり、これが生きた儀式によるよりも上流気取りによって特徴づけられるあらゆる種類の徒党や一族を生み出す。

青年期と学童期

同一性形成の過程は徐々に生成するゲシュタルトとして現れてくる。心理・性的なリビドーや潜在性は徐々に実存的な自我に統合、調和を図っていく。また、社会的にイデオロギーなどの左右され、選択していくものとする。学童期、青年期は、モラトリアムが用意されている。青年期のそれは、心理社会的モラトリアム、学童期は心理性的なモラトリアムである。

青年期の儀式化については、トータリズムに走る危険性がある。これは、否定的同一性のイデオロギー的な忠誠を誓うもので、自己革新の力はなく、狂信的な世界像を絶対化すること。

エリクソンの発達段階の大きなメリットは…フロイト的な様々なメカニズムをより一般的な行動類型の中に位置づけることによって、先行段階で獲得されたものが、後続の諸水準で継続的に統合されていくことを仮定しようとしたことにある。

学童前期

中年期における危機は、それまで、時間がたっぷりあったと思われる人生が、非可逆的に選択した諸条件によって、現実にせまってくる。成人の世話はかくして自分が非可逆的に選択したものしなかったものを一生涯世話をし続ける方法に、他者と共同で専念するものとなる。しかし、そこで、非可逆的な同一性の獲得への道のりは人は最終的に自分がこれまであってものになっていくのである。

青年期はその時代独自の方法で成人期よりも死を意識している。青年期と老年期は再生を夢見る時期であるが、成人期は生み出された現実のものの世話に忙殺され、しかもその見返りに時間を超越した荒れ狂う歴史的現実、という独自の感覚が与えられている。むしろ、青年期、老年期では逆にその感覚が非現実的とされる。−実存的な同一性を求めているため

むしろ人間は長い幼児期の間に、技術も様式も世界観も大きく異なる多様な文化的環境に適応すべく、愛と攻撃に関する本能的反応パターンを発達させるように導いてやらねばならない。最もこれらの技術や様式や世界観は各々「予測可能な平均的」環境と呼ぶものを支えるものであるが、しかし失調傾向と不協和傾向が同調傾向と協和傾向よりも優勢となるときには特定の中核的病理が現れるのである。

包括的な信念体系(宗教、イデオロギー、宇宙論など)は、包括的な諸原理(ヌミノースから哲学)を再生するために、個々人の成長のエネルギーの助けを借りる。しかし自我とエトスの活力ある結びつきが失われると、これらの儀式化には、活力を弱める儀式主義(偶像主義など)に退廃する危険が出てくる。この二つは相互に密接に絡み合った発達的ルーツを有するので個人の中核的障害と社会的な儀式主義の間にはある力動的な親縁性が存在することになる。

新しく生まれた個人はこのような社会的秩序の諸原理の論理の強さを受け入れ内面化していく。そして、発達のための好条件を与えられれば、それらの原理を次世代に伝達するレディネスを育んでいくのである。このことは全て、発達と回復のために人間の中にすでに内蔵された本質的ポテンシャルの一つと考えねばならない。

共同性の政治を支える制度的な構造とメカニズムを含む領域に入り込んでくる。

自我防衛と社会的適応

防衛機能はそれが封じ込めねばならない個人の本能的衝迫に対応して形成されるだけでなく、これが比較的うまく機能しているところでは、個々人、諸家族、ひいてはより大きな集団単位の、儀式化された相互交渉の重要な部分として共有される、あるいは対置されるものであることが分かる。

私と我々

私は、各々の個人が相互了解の可能な経験世界における覚知の一つの中心である、という言語的保証を与える唯一の基盤となっている。この中心性の感覚はきわめてヌミノース的なものであり、それ故に、生きているという感覚、ひいては実存の本質的基盤という感覚とほとんど同じものになっていく。同時に、二人あるいはそれ以上の人間が呼応する一つの世界観を共有し、かつ共通の言語を持ちうる場合には、彼らは各々の私をひとかたまりの我々に融合することが出来る。もちろん、私から我々そして彼らにいたるこれらの代名詞が、本来の意味を、様々な器官様式、様々な姿勢的様態や感覚的様態、様々な世界観を持つ時間−空間的徳長との関係の中で以下に獲得していくかという発達的

文脈を素描することは、大きな意味を持つことであろう。

現実の捉え方。事実を事実としてここに見る段階から、その本質を探り出す意味関連の段階、そして、包括的に捉える倫理的な提携関係を形成する。

既存の世界像や変化しつつある世界像に各個人が無意識的、前意識的にいかに深く巻き込まれていくかについて、精神分析的な臨床観察は本質的な洞察を提供しうると私は確信している。

道徳的→イデオロギー的→倫理的

精神分析の方法による歴史的相対性

本質的機能として、成人(患者、分析訓練の志願者であるとにかかわらず)を幼児期の重圧的・抑圧的な不安から解放し、同時にその不安が人生とパーソナリティに与えてきた影響から解放することを目指すヒポクラス的な試み

個体発生並びに系統発生における過去の発達に人間が固着している姿を独自の仕方であらわにする、調査方法であり、教授方法である。

相対性は、最初はきわめて相対主義的な意味を有し
、人間の確固たる立脚点の基盤を全て突き崩すように見えた。しかしそれは、種種の相対的な立脚点が相互に歩み寄って基本的な一致を見いだすという、一つの新しい展望を切り開いたのである。〜新しい、見地はそれまでの既存の価値観を突き崩すが、新しい価値観を作り出し、別の世界観を生み出す〜そうしてひとは創造的な自分なりの世界を構築していく。〜人間的な法則に適ったものであることも必要である。

精神分析の状況は、あたかも分析家の心と患者の心が相互に関連を持ちながら動く二つの「協応的システム」として働く姿として描くことが出来る

心理・社会的な視点は、このような発達的な視点と無理なく融合する。また、異なる地域、年齢の患者と会うさいにこれらのことに気づきながら臨床的観察をすることは、まさに治療そのものに関与しながら、同時に技術的・歴史的な状況の変動の中で、人間の基本的な強さと中核的な障害が辿る運命を明確に認識することに役立つであろう。臨床的な仕事は、このように歴史の変動の脈を取る様々な方法を補完し、人類は一つという意識の向上に役立つであろう。

第九の段階

成長と拡大を支えてくれていた同調要素よりもむしろ、失調要素が優位に立つ時期というものがある。それが老年期である。自分の能力を信じれなくなる「不信」自律性を信じることが出来にくくなる「疑惑」若いときに自発性を発揮してきた人が老年期になって激しく燃やしすぎた自発性から逃れようとする「罪悪感」40歳代に発揮していた勤勉性ははるか昔の思い出として、今は無力な自分に対する「劣等感」年を取るに連れて自分の地位や役割に不確実性を抱くようになるかも知れない「同一性の混乱」他者との交流がそのまま持ち続けることが出来なくなる「孤立」世話をするということから解放され、逆に「停滞」する人。第9段階の老人は、英知が要求するような良好や視力や鋭敏な聴覚を持っていない。失調要素の絶望がいつも側に付き添うようになる。

しかし、この絶望は第8段階の絶望とは異なり、8段階ではいかにそれまでの人生を良く生きてきたのかを受け入れるかどうかということである。しかし、80歳、90歳になると人はそのような贅沢な回想的な絶望などしてはいられない。しかし、ひとは頼るべき確固たる足場がある。基本的信頼という恵みを与えられているからである。

老年期とコミュニティ

老人施設の、何かがひどく間違っている感覚…身体的ケアを受けながら楽しく生き延びることを可能にするために、我々の老人たちは、遠く離れた施設の中に「この世界から外して」送り込むことがどうして必要だったのだろう。

一つの解決策は、おそらく夢に過ぎないが、全ての都市に、誰でも利用できるすてきで安全な公園を置くことであろう。おそらく、90歳を過ぎた老人たちは、ともに集まって、新しい経験を比較したり、すぐに出来る計画を立てたりすべきなのであろう。無理をしないで、若者たちとのつきあいを弱め、そこから離れて、そこに生まれる恩恵と満足感を共有すべきなのであろう。

孤立し、死への絶望の谷を一人で超えていくのではなく、ともに語り合う、または、気晴らし、または、人の手による交流がいかに有用であるか。

老年的超越

老年的超越とは、メタ的な見方への移行、つまり物質的・合理的な視点からより神秘的・超越的な視点への移行である。また、通常は、この移行とともに、人生の満足感の増加がもたらされる。宗教の定義によっては、この老年的超越の理論は、宗教的発達の理論と見なされることもあれば、そうでないこともある。

老人は、隠遁と孤独の中ではじめて自分のあり方についてゆっくりと考えることが出来る場所を見いだす。考えてみれば時間が自分の心と体に課してきた変化を受け入れて、心の平穏を見つける方法が他にあるだろうか。こうしたスタンスは、生き生きとした関わり合いの欠如を必ずしも意味するものではない。携わらないが、関与し続けることもあり得るからである。

このことについて、引退が強制的な場合とそうでない場合では、全く違った結果を引き起こす。強制された老人施設への入所は超越に達することが困難である。

また、超越−トランセンデンスが活性化されてトランセンダンスになると、超越は生き生きと息吹をはじめる。トランセンダンスは、魂と身体に語りかけ我々の世俗的な実存にまとわりつく失調的な側面、我々の真の成長や向上に過酷な負担をかけて、我々を成長と向上に向かわせないように働くものを乗り越えるという課題に超越を挑ませる。

トランセンダンスは、人生という偉大なダンスは、身体と心と精神を隅々まで使うありとあらゆる活動へと我々を導いてくれる(芸術的な言語など)私はかつて自分が年老いて使い古しのようになったと感じていたが、ある時突然偉大な豊かさが出現し、私の身体を隅々まで目覚めさせ、至る所にある美しいものへと広がっていったので、心から感動したことがある。

同調的な衝動と失調的な衝動が常に支配権を巡って、そして成し遂げようとする意志を巡って、争っている。あなたは試練にさらされ、試されている、この緊張感が的確にコントロールされ、一点に集中すると、成功が訪れる。全ての歩みは、同調的衝動の主権と意志の力を試しているのである。

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