序論

精神分析の流れの中に心理・社会的という用語と概念が現れたのは、いうまでもなく、それまで支配的であった心理・性的な理論を補完する意味を持っていた。以下、フロイトなどの自我、無意識、良心などの捉え方の説明がある。そこから、いかに社会的に自我は作用を受けているのか、心理的に社会はどのように働きかけるのかなどを考察している。また、内的な状態を観察できるようになったのは、まさに歴史的にもっとも破局的な時代に向かいつつある時点でもあった。そして、内界と外界とのこのような理念分割はユダヤ−キリスト教文明に根ざす個人主義的啓蒙と、民主主義国家への全体主義な崇拝との間の険悪な分裂を深く内包していたともいえる。
以下歴史的相対性や種族の持つ集団的なエトスが個人の自我に大きく作用することを論じている

心理・性的なるものと世代のサイクル

「心理−性的」および「心理−社会的」という合成語は、いうまでもなく、方法論的にも理念的にも別個の領域として確立された二つの領域の境界を取り払い、両者の相互乗り入れを意図したものである。治療という営みは、既成の事実を相手に議論するのではなく、それらの事実を、新しい視野を切り開くような広い文脈の中に包括して捉えようとする全体論的態度を常に要求する。人の発達過程を分けるとすれば生物的過程、自我統合などの精神的過程、他者とのつながりなどの共同的過程である。
ここで、後の論述で重要になる、「儀式化」についての説明がなされる。ここでは、排泄、器官様式、姿勢、視線も社会的な文脈やコードが付与され、自己の中で解釈し、ルール、規範として身につけていく過程を儀式化とされる。最初の儀式化は、幼児期の基本的信頼の発達段階において、「いかに母親であることに本能的満足を求め得たとしても、さらに彼女は彼女の属する種族にふさわしい仕方でその種族にふさわしい母親になることを必要とするからである。つまり、人間のこの最初の儀式化は、一連の慣習と義務を満たしながら、同時に顔と名前による相互的認知を求める母子双方の欲求に応えることになる。」とされる。
また、度々出てくるヌミノースという用語について、分離性の超克と個別性の認可を保証し、それによって「私」という感覚の基盤そのものを保証するものとされる。〜宗教や芸術は伝統的にヌミノース性を培うことに最も深くかかわってきた。

心理・社会的発達の主要な段階
ここでは、発達段階を幼児期からはじめるのではなく、老年期からはじめることによって、発達段階が生涯にわたって、形を変えながら、意味や価値が新しく付与されて行くことを意味しているということを論述している。「いつものように幼児期から始めるのではなく、成人期から始めるのであるが。その意図は、各々の人生段階全てを相互に交差させ関連づけて考えることに習熟すれば、読者の任意の人生段階から出発して、それを他の全ての人生段階に意味深く関連づけながら考察を広げて行くことが出来るようになるだろうということにあった。成人期は個々人のライフサイクルと世代継承的なそれとをつなぐ連鎖であり、上述のような考察にふさわしいものであった。しかし本書ではこの考えをさらに進めて、人生の最終段階である老年期から出発し。完結したライフサイクルをもう一度振り返ってみることがライフサイクル全体の過程の理解にどれほど役立つかを考えたいと思う。」
全体を理解する上で、「人間的強さのリスト全体を見渡してみると、希望と忠誠の間には主要な発達段階と密接に関連して意志、目的、適格のステップが仮定され、また忠誠と世話の間には愛というステップが仮定されていることが分かる。しかしこの図式はまた、垂直方向に見た場合には、各々のステップが英知でさえもそれ以前の全てのステップに根を下ろしていることを示し、その一方水平に見た場合には、これらの徳の発達的成熟(及び心理・社会的危機)がそれぞれ、より高次の、発達途上にある段階に新たな意味合いを付与するとともに、より提示の、すでに発達し終わった段階にも新たな意味合いを付与することを示している。」以下、老年期から幼児期にいたる発達段階が反復を繰り返しながら差異を生み出し、様々な意味合いを現出させている。

自我とエトス:結語
心理・社会的視点の重要性について、アイデンティティの再定義などを中心に論述されている。ここで、強調されているのは、相対性は、最初はきわめて相対主義的な意味を有し、人間の確固たる立脚点の基盤を全て突き崩すように見えた。しかしそれは、種種の相対的な立脚点が相互に歩み寄って基本的な一致を見いだすという、一つの新しい展望を切り開いたのである。〜新しい、見地はそれまでの既存の価値観を突き崩すが、新しい価値観を作り出し、別の世界観を生み出す〜そうしてひとは創造的な自分なりの世界を構築していく。〜人間的な法則に適ったものであることも必要である。
心理・社会的な視点は、このような発達的な視点と無理なく融合する。また、異なる地域、年齢の患者と会うさいにこれらのことに気づきながら臨床的観察をすることは、まさに治療そのものに関与しながら、同時に技術的・歴史的な状況の変動の中で、人間の基本的な強さと中核的な障害が辿る運命を明確に認識することに役立つであろう。臨床的な仕事は、このように歴史の変動の脈を取る様々な方法を補完し、人類は一つという意識の向上に役立つであろう。ということである。

第九の段階
老年期後期(80歳代から90歳代)になると、失調要素が同調要素よりも優位に立ちやすくなってしまう。そうした人生の時期についての論述。何もかも喪失しそうな感覚に陥りがちになるが、ここで基本的信頼〜希望という最初の段階のテーマが再び、この時期の段階において重要になるとされる。

老年期とコミュニティ
第九の段階の具体的な論述、老人施設の何かひどく間違った感覚など〜隠遁と共有、また、時々の触れあいの重要性などを論述している。

老年的超越
同調的な衝動と失調的な衝動が常に支配権を巡って、そして成し遂げようとする意志を巡って、争っている。あなたは試練にさらされ、試されている、この緊張感が的確にコントロールされ、一点に集中すると、成功が訪れる。全ての歩みは、同調的衝動の主権と意志の力を試しているのである。
また、超越−トランセンデンスが活性化されてトランセンダンスになると、超越は生き生きと息吹をはじめる。トランセンダンスは、魂と身体に語りかけ我々の世俗的な実存にまとわりつく失調的な側面、我々の真の成長や向上に過酷な負担をかけて、我々を成長と向上に向かわせないように働くものを乗り越えるという課題に超越を挑ませる。

考察
エリクソンのライフサイクル理論を確実に理解しているのかどうかは私の見識不足で確かなことはいえないが、この本書によって、発達段階は生涯にわたること、また、発達段階は漸成であり、前の段階から用意され、後の段階においてまた違った重要な要素となること、歴史的な文脈や器官的な様式など、人間をとりまくすべての環境を考慮に入れた上で、個々の人間の発達を考えることである。しかしながら、エリクソンもいうように、今後は社会科学の力を借りながら社会的な文脈をより深める必要があるとされながら、その価値観を付与する文化や社会に対する楽観的な、または、抽象的な、一面的な解釈でうまく結びつけられているような感覚を覚える。この点については、相対性という言葉で、うまくまとめられた観がある。いずれにしろ、なにが病理で障害なのか、正常と異常とは、という精神的な問題は、つねに社会的に付与された何かしらである以上、社会的な文脈を探ることは必要であるし、そこに相対的な視点は、社会が前提にしているもの受け取っているもののなかにある社会の病理を見つけることにもなる。それは、患者が苦しんでいる病理が個人だけの問題でないと気づかせてくれるひとつの視点となりうるのではないかと思われる。

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