でたまか
アウトニア王国奮闘記1〜3
アウトニア王国再興録1〜5
アウトニア王国人類戦記録1〜5
アウトニア王国拾遺録1〜3

『でたまか』
鷹見一幸
角川スニーカー文庫
平成12年〜18年6月まで

 実はすでに古本屋にみんな売ってしまい、最近出た拾遺録3巻のみが手元にある。まぁ、最後まで読んだシリーズと言うことで、簡単な書評を書いてみた。
 主人公は、頭が良く、機転の利く帝国軍人であった。帝国は、家柄がものを言う設定で、主人公は名もない男爵家の息子であった。ちなみに、両親はテロで死亡して天涯孤独の身である。士官学校時代に、皇帝の座に近い門閥貴族に嫌がらせを受けるものの、機転の利く主人公は、仲間と反発し、出し抜いていた。その恨みを買って、主人公は士官学校卒業後、アウトニアという辺境に赴任することになる。士官学校では家柄とか関係のない実力世界であっても、社会は公平ではなかったといえる。
 で、まぁ、アウトニアで将来妻となるべき人との出会いや、凄腕の株取引の名人と知り合ったり、士官学校時代の仲間と協力して難局を切り抜けていくというのが大筋である。

「奮闘録」では、帝国と敵対する宗教国(ローデス)がアウトニアの回廊から入り込もうとするのを阻止することが目的になる。アウトニアには話せば長くなるが、簡単に言うと、戦争のノウハウがなく、「本気で攻めてくる」ローデスをいかに知恵と機転で切り抜けるのかが問題となった。

「再興録」ではいろいろとあってアウトニアが帝国に接収され、主人公は重要犯罪人として追われる身になっている。で、まぁ、帝国に反旗を翻して最後は勝利するというもの。帝国の分裂や中小国家をどう取り入れるかとか色々あったわけで。

「人類戦記録」は、コミュニケーションの手段を持たない原始的な人類が想像もしえない異星物が人類の生存域を脅かす。その対処のために人類はどのような意識を持って立ち向かえばよいかがテーマになる。最後は、たくさんの犠牲を払いながらもみんなの知恵と勇気を結集した主人公は最後に勝つというもの。

 奮闘記から人類戦記録までを通して読むと、クダグダと腰砕けになってしまう。文章はタイトでないし、かといってエンターテイメントをしているわけでもない。しかも、最初に比べると、いくぶん文章が固くなったと思う。それが逆に中途半端にしている。また、道徳的なモチーフが強すぎる。よりよく生きるとは何か。人の期待を背負ったときに人はどう振る舞うべきなのか。卑怯とは何か。ナンのために闘うのか。モノローグ(独語)や苦悩の思考が強く出すぎて、読んでいて「うへ〜」となる。
 あと、最新の生殖技術やネットワーク論を取り入れるのはよいが、文中で生殖技術の生命倫理を持ち出して議論したり、ネットワークの望ましいあり方とか、勉強しているんだろうけど、そんなのジュブナイルで求めるのは無理だ。あるいは、ものを教えてやると言った感じで「別にいいです」といいたくなる。
 かと思うと、オタクや読み手を意識して、変に「萌え〜」を演出したり。イヤ待てよ。基本的には、オタクを意識しつつ、道徳的なモチーフを敷くことで、おまえ(オタク)達もよりよく生きろよと励ましたのか。と勘ぐってしまう。
 
 と、ぼろくそであるも、一応私が読み続けたのは、ヒロインと主人公がどのような形でハッピーエンディングになるのかを見たいがためだった。奮闘記でヒロインと結ばれ損ねて、再興録でヒロインと実質死に別れになり、人類戦記録の本当の最後に復活。引き延ばすだけ引き延ばされた。そういう意味で、作者の戦略の一つにはまってしまったのかもしれない
 で、なんで古本屋に全部売ったのか。端的に言って、悪い意味で「くそ〜、やられた〜」であった。最後の最後で、くだらないまま締められたドラマを見たようだ。で、なんで拾遺録3巻を買ったのか。ちゃんとフォローしているのを確認するためだった。しかし、この記事を書いた後、間違いなく古本屋に売りに行く。
 あとがきで、作者がいろいろと書いている。それを読むと視点の拡大、個人の活躍からサイドストーリーと仲間の協力のプロセスへ。そして、最後は、主人公とは直接関わりのない広い意味でのサイドストーリーと意識。それをつなげていくことを主眼にしたようである。なので、主人公とヒロインの恋愛ストーリーは終盤、世界の中で起こった出来事の一つとして切り取られていただけだった。
 でも、あえて言う。そんなに一貫して視点が拡大され続けたわけではなかった。場面場面で個人にスポットを当てていたし、主人公が活躍したりモノローグを発している場面はあった。要するに、私が不満なのは、ベタなところはベタなくせに、変に中途半端で、肝心の主人公とヒロインは、悲壮であまりに真面目すぎてつまらなかったからである。
 2006.6.8

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