林檎の樹(The Apple Tree)
ゴールズワージー

枝もたわわに
黄金の実をつけた
歌姫たちの守る
林檎の樹

エウリビデス『ヒポリタス』

この詩の引用からはじまるこの小説は、ギリシア神話の理想郷に鎮座する林檎の樹を夢見ながらも、近代人にとってそのような理想郷はもはやなく、それをどこかに追い求めてしまう悲哀を描く。

『ヒポリタス』の話は、愛の女神アフロディテに帰依するフェードラ(継母)は、ヒポリタスを愛するが、ヒポリタスは純潔を貫くためその愛を退ける。そしてフェードラは邪恋ゆえに葛藤の末自殺をする。その自殺の報いを、ヒポリタスはアフロディテによって受ける。しかし処女神である月の女神アルテミスに救われるといった内容。
この話を下敷きに、近代人の階級意識などを重ね、真面目に生活しようとすれば、飽くなき欲望に悩まされ、次々と歓楽を求めようとすれば飽満と倦怠に苦しむ〜結局、追い求めても得られない満足感や至福観への渇望を描いている。
しかし、本編はそんな教訓じみてはいないし、堅苦しく書かれてもいない。むしろ、水彩画のような淡さで、美しく花開いた林檎の樹のまばゆさを描き、花々の影のような哀愁を漂わせている。その奥に悲しみの深さをかいま見せている。

あらすじは、
ある大学生:主人公(第一次大戦時の英国〜上流階級)がいまで言う卒業旅行で友人と田舎の方に行く。旅行の最中に足をくじいてしまい、田舎の民家にひょんな事から泊めてもらい治療を施すことになる。そして、そこで都会ズレのしていない野生の花のような美しい娘(ミーガン)に一目惚れをしてしまう。娘も主人公に恋をする。娘の一途さに心は震え、そのまま自分と結婚しようとする。しかし、主人公が駅の切符をとりに街にいったときに偶然昔の友人に会う。その友人に誘われて、一泊する。そこで、知性ある都会の可愛い女の人(ステラ)と出会う。そこでいろいろと交流があるうちに、主人公はミーガンへの情熱が失せ、いつしか戻らなくなり、そのままステラと都会へ戻り結婚する。
かなり月日が経ち、主人公が銀婚式で田舎に行ったとき、辻に墓が建てられていた。そこにいた老人に、この墓は何かとたずねたところ、ミーガンがその後自殺をしたこと、自殺をした人は普通の墓所には埋葬されず、辻に立てられ、道行く人に踏まれる運命にあること。忘れていたあの日の慕情、結末に主人公は、愛の女神の復讐が遂げられたことを知るのであった。

と、よくある恋愛系の小説で、あまりにロマンチックなので読む人にとっては拒否反応を持つかもしれない。しかし、新潮社文庫で99ページ、岩波文庫で122ページの小冊子の中に、男なら誰しも抱く、ロマンティックな部分を刺激する小説であると断言できる。
まず、書かれた年代が1916年。古き良き英国ののどかな田園風景というのがせせこましい日本の風景から一気にロマンティックにさせる。そして、大学生〜おそらくインテリが、旅先で可愛い女の人に恋をするとよくある話とはいえ、川端康成の『伊豆の踊り子』(書生−踊り子)『川のある下町の話』(医学生−貧乏娘)とかに代表される「萌え」の要素がたっぷり。いわゆる身分違いの葛藤や一途に寄せられる愛情とか想いに打ち震えるというか…。で、結局自分の身分にあった場所に帰っていくにしろ、その時の思い出は何とも輝かしいものとなっていく。身分違いの恋として、デュマ・フィス『椿姫』(貴族の息子−売春婦)とかちょっと系統は違うが、伊藤左千夫『野菊の墓』とか結局は身分の壁に阻まれる。かなわぬ恋はそれ故に、燃え上がるし、全身全霊をかけたもになる。それは魂に刻みつける出来事になる。

とにかく、すごく描写が細やかで、例を挙げるとミーガンと最後の逢い引きをするシーンがとても幻想的である。
〜アシャーストはそっと前庭を通り抜けて果樹園に降りていった。ちょうどいま出たばかりの月は本当の黄金色をして丘の向こうに輝きわたり、あかあかと力強い見張り番の妖精のように、まばらに葉をつけたトネリコの枝枝の間からのぞいていた。
〜風はなかったが、クックッとささやく小川の語らいは真昼の二倍も大きく響いてくる。名も知らなぬ一羽の小鳥が「ヒップ−−ヒップ」「ヒップ−−ヒップ」となんの変哲もなく繰り返し、遠い彼方で夜鳥の鳴き声がかすかに聞こえた。フクロウがホウ、ホウと鳴いている。
〜みれば頭のまわり一面、かすみなす生々とした白の一いろだった。こそとも動かぬ黒い木々の無数の花や蕾、ほのかに匂うそれらのすべては、這いよる月光の魔法にかかって生命を与えられているのだ。
〜それはちょうど幾万ともしれぬ多くの白蛾か妖精が浮き出てきて、黒い夜空と、それよりもなお暗い大地の間に群がり、彼の目の高さくらいのところで羽をひろげたり、つぼめたりしているように思えた。その瞬間のまどわしい、静かな、匂いのない美しさは、なぜ彼がこの果樹園にやってきたのか、それすらも忘れてしまうほどだった。

高校から大学のはじめの頃まで結構、文学を読んでいた時期があって、この小説は私の中で永遠に手元に置かれる小説。まさに私の古き良き時代と共にあった小説である。ミーガンと主人公は結局キスしかしないのだが、それは命を懸けた愛のあかしであった。
しかし、キスの一つがこんなにも情感が伴い、自分のすべてのように思われる思春期の恋は、大人になってからもそれは確実にあると私は思う。それは純愛とも言う。
純愛はそれが肉体関係を伴っていようがなかろうが、そこにある。そして純愛は人々を引きつける。それはなぜなのか。それは愛がそれが相手に向けたものにせよ、相手から差し出されたものにしろ、それが善き行為として、それは代償を伴ってさえ、自分の魂を揺さぶり、心を豊かにしてくれるからである。
とにかく時代を超えて「林檎の樹」は誰の心の中にもあるし、それを思い起こしてくれる名作であると言える

この小説は、先にも書いたが新潮社文庫か岩波文庫にある。人名の表記は新潮社に準拠する。読み比べると新潮社は表現が古く、だからこそ格調高いな雰囲気がある。岩波は訳者が若いときに書いたものらしく、思い入れが入っており若い文体でそれ故に青春的な雰囲気がある。どちらもよいが、私は新潮社を多く読んだ。
なお、「サマー・ストーリー」という題名で1988年頃イギリスで映画化されている。一回レンタルビデオで観たが、ちょっとうがった演出があるものの原作どおりであり、もし小説を読んで面白かったと思えたら一見の価値がある。
(2005.7.31)

追記
「伊豆の踊り子」を川端康成が書く前、林檎の樹を愛読していたとのこと。それをもとに表現や会話などが編まれたと言うことで、翻案という立場で研究している人を発見する。

関連リンク
英国探検隊1〜林檎の樹の風景を旅するというもの
英国探検隊2
サマーストーリー -- 映画 「 サマーストーリー 」の詳細情報〜結構反響があるのね
ジョン・ゴールズワージー(John Galsworthy)〜出版社は、新潮、岩波だけではなかった。
林檎の木・小春日和〜テキスト形式でパソコンで落として読める。

サマーストーリー
追記
 もう二度と映画版が見れないと思っていたけど、2006年の1月にDVDとして発売されていた。迷わず、アマゾンから購入して、妻と二人して観る。97分とやや映画としては小振りな部類である。
 昔に観た興奮と言うほど、そんなに感銘は受けなかったが、間違いなく『林檎の樹』の世界である。しかし、映画では、林檎の樹を背景にした幻想的な世界はない。また小説には羊の毛を刈るようなシチュエーションもない。しかし、小説では受け身なミーガンは映画では、恋を語らう友人がいたり、ひたむきな中にも力強さがあったり。さらに、ミーガンを好きなジョー(同じ家にいる農夫)はより深刻な形でアシャーストに絡んできたり、人物像がハッキリと現れている。
 小説では、ミーガンを捨てていく心理的な葛藤が描かれているが、映画ではかなり端折られている。しかし、ミーガンがアシャーストを探しに彷徨っている場面は、少しグッと来る。アシャーストがミーガンを見つけて距離を取って後を追うミーガンの後ろ姿。最後にミーガンが振り返る時、一瞬アシャーストを見つけるが、馬車に隠れて見失ってしまう。その時に、手に握っていた石を捨てるミーガンの仕草は何とも言えず寂しい。
 小説ではキスだけだが、映画では何回かの逢瀬があって、早産の末、母胎を損なう形でミーガンが亡くなる(小説では自殺)。映画の最後でアシャーストとミーガンの子供〜青年になっており、アシャーストが帰るとき、すれ違う形になっている。この辺は映画の演出なんだろうけど、これはこれでよい。
 映画自体は、淡々としているし、劇的なものもあまりない。主人公にしろ、ミーガンにしろあまり雄弁ではない。しかし、それだけに仕草や目線などで演じている。残念ながら、妻と観るべき映画ではなかったが。妻に言わせると、独身の時は観て感情移入してしまうかもしれないけど…と。同感です。はい。
 (2006.6.24)

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