2013年7月20日 東北福祉大 日本社会福祉学会 東北部会 研究大会

知的障害児施設における「遊び」の重要性
−子どもと援助者の関係性に着目して−

kuma(会員番号6256)
キーワード 知的障害児施設,遊び,援助関係

1.研究目的
 古来より大人,子どもにかかわらず,日常生活の中には「遊び」があり,そして遊びの中で誰もが時間を忘れ,分け隔てなく,その時を楽しむ体験をしている.なぜ人は遊ぶのか.一説によると,遊びは人間が生きていく上で重要,あるいは中核的な営みであると言われている(松田2003).そして,遊びが人類の文化や創造性を作り出してきたとも言われている(増川2006).それだけ,遊びは常に身近なものであり,人間である以上,当然あるいは必要な行為であると見なされてきた.
 そして,子どもの創造性などを育むには「遊び」が,不可欠であるとの視点で,特に幼児教育の分野で活用されている.この教育目的で使われる遊びは,日常生活での「遊び」の中にある関係性や構造(以下,遊びの本質)とは異なり,子どもの諸能力を伸ばすために,遊びが用いられ,援助者は子どもを観察し,評価する方法が取られている.
 知的障害児施設でも,子どもの発達を促すために,余暇活動やプログラム活動があり,この活動の中に遊びが使われている.しかし,その活動は教育を主眼に取り組まれ,そもそも遊びとは何か.あるいは「遊ぶこと」がどのような意味を持つのかが十分に論じられないまま用いられているのが現状である.その上,施設の仕事の大半が,身辺介助や基本的生活習慣の確立(以下,通常の生活援助)に費やされており,遊びでの関わりは希薄である.確かに,生活習慣の確立を通じ,子どもの将来の生活を支援することは重要なことである.しかし,この援助関係では,大人と子ども,指導や訓練などの非対称性が際立つ場面が多く,先行研究ではこの関係下でのパターナリズムが問題視されている.施設には,24間,子どもが退所するまでそこで生活をし続けている.その意味で,通常の生活援助以外での子どもとの関わりがあってもよいのではないか.
 本発表では,遊びの本質を捉えた関わりは,通常の生活援助で作用している非対称性を一時的に希薄化し,違った関係性を子ども達と形成する可能性があるのではないかと考える.よって,本発表では,通常の生活援助と「遊び」の関係性を先行研究から比較する中で,施設における「遊び」の重要性を提示することを研究目的とする.

2.研究の視点および方法
 本発表では,「遊び」は,人間として生きるうえで重要な事であるが,それが果たして教育目的にのみ活用される出来事なのかという疑問から始まっている.その中で,主に保育学が,教育として「遊び」を捉えながらも,遊びの本質への論究を深めていること.また,「遊びとは何か」を遊戯論の中から見いだすことが出来た.これらの知見から,子どもと一緒に遊ぶの中で,今を生きることの楽しさを伝えることは援助者にとって重要な役割ではないかとする視点で考察した.
 本発表は文献研究である.文献収集の方法として,最近の遊びや援助関係に関する動向を調べるため,2000年以降の先行研究を国立国会図書館検索システムから,「遊び」「保育」「障害」「施設」「関係」を組み合わせ,絞り込み検索した.また,『社会福祉学』『保育学研究』などの学会誌,(短期)大学紀要の中でも,原著論文・レポート研究のカテゴリーにある文献を中心に抽出した.その上で,国立情報学研究所論文検索システム,秋田大学,東北福祉大学より文献収集した.また収集した文献の中から,特に多く取り上げられている原典については,2000年以前のものも参考にしている.

3.倫理的配慮
 本発表は,文献研究であり,日本社会福祉学会が定める研究倫理指針,特に先行業績引用について遵守する.

4.研究結果
4.1.本発表における遊びの意味について
 遊びとは何かという問いそのものは,論者の数だけあるとも言える.その中で.本発表では,子どもは,特に遊びを通じて,周りの出来事を認識し,学習すること.そうした遊びの行為は,仕事や食事などと同様に,人間の基本的な活動であり,日常生活の中にあるとする言説が妥当であると考えた(西川1989).また,遊びとは何かについて,横井(2006)は,アンリオの遊びの定義を援用し,鬼ごっこなどあきらかに遊びとして(命名)されていること.それが遊ばれていることが客観的に(観察)できること.そして,その行為の主体者の内部的な(態度)で成り立っているとし,一番大切なのは,主体がいかに遊んでいるかの(態度)であると考察している.そして,保育学では,以下の@〜Cが遊びの行動として共通認識がなされている(田中2006).
  1. 遊びとは自ら選んで取り組む活動であること(自発性).
  2. 他の目的のためにやるのではなく,遊ぶこと自体が目的となる活動(自己完結性).
  3. 楽しさや喜びといった感情に結びつく活動であること(自己報酬性).
  4. 自ら行動を起こして参加する活動(自己活動性)と言われている.
 その意味で,例えば,知的障害児施設でのプログラム活動で援助者が提供する遊びを子どもが主体的に関わらず,「やらされている状態」では,遊んでいるとは言えない.また,援助者が遊びを外部から観察しただけでは,その主体がどのような状態で遊んでいるのかを知ることはできない.その意味で,子ども達の「遊び込まれている姿」を大切にし,いかに援助者がその中に入り込み,そして遊びの幅を広げていくことの重要性など保育学では議論されている(草信2009,横井2006-2008).その事を念頭に,遊びの関係や構造を説明する前に,通常の援助関係とは何かを明示し,その違いについて論じていく.

4.2.利用者と援助者の関係性
 利用者と援助者の関係性の論点は多岐にわたるが,本発表では,利用者と援助者の非対称性が形成される理由を取り上げている先行研究を中心に,
  1. 生活援助において,知的障害というカテゴリーがすでに「援助する」「援助される」関係性を作り出していること.
  2. 1に関連して,専門性を発揮するためには,援助者は一方的な関係を形成すること.
  3. 2に関連して,施設は集団生活である以上,この集団生活を維持するため,援助者は規範を持って利用者と関わることを中心に概説する.

 1において,知的障害児施設の援助者の目的は,端的に「自立」を中心とした生活援助である.その「自立」のために,援助者は利用者の中に達成すべき「目標」を見出し,働きかけていく役割がある.その一方で,自立を促すためには,利用者の自己決定権や主体性の尊重などが考慮される(栗村2005).しかし,主体性発揮とは,「理性」があることが前提にある(松倉2001).その意味で,知的障害児者は,意思表示が困難であると見なされており,また理性的判断が低い存在とされてきた(西村2005,堀内2012).そのため,知的障害児者の主体性は,援助者の裁量に委ねられてきたとされる(鈴木2005:2009).別の視点から,「知的障害」のカテゴリー形成は,医学や行政によって本人が望まざるをえないうちにレッテルを貼られ,その上で,指導や訓練として援助者が介在していくことが麦倉(2003b)の研究で明らかになっている.このことから,健常/障害の区分には,理性/非理性が内在し,理性的に判断できる援助者が,よりよい社会生活へと知的障害児者を導く役割が担われさていると言える.つまり「援助する」「援助される」関係は固定されているといえる.
 2においては,知的障害児施設の役割は,基本的な生活習慣の確立や社会生活に必要な指導や援助となっている(保積2008,保延2009).また,問題行動や行動障害への対応は障害の理解,あるいは状況を客観的に把握し,適切に対応することが専門職として求められている(岩田2003).言い換えれば,援助者は,利用者を客体として捉え,日常生活の中で利用者の行動を観察,把握し,適切に援助することが求められている.つまり、援助者のまなざしによって利用者のあり方が問われるという意味で一方的な関係であるといえる (田中2008).
 3においては,施設は言うなれば集団生活である.そのため,対人間のトラブルやリスクを避け,円滑な生活を営むためには,集団規範を持ち込む必要がある.麦倉(2003a)は,日常の会話や援助者の振る舞いの中に,全体の日課に影響が出るかどうかといった判断基準が自己決定やニーズ充足といった他の要素のよりも高いこと.堀内(2008)は,知的障害者の作業所での利用者と援助者の会話のやりとりの中で,集団生活を維持するため,意図するしないに限らず,援助者が利用者をコントロールしていることを質的研究によって明らかにしている.つまり,援助者は規範を守らせる立場という意味で、利用者と援助者は非対称的な関係にあるといえる.
これらのことを図式にすれば以下のようになる.
図1


 日常のあらゆる所に利用者の行動を把握し,集団生活を維持すること.利用者の行動や反応を適切に対処すること.これら援助者の行動の中には,常に非対称性が存在し,関係性は固定的であることが分かる.
時間軸で捉えると,援助者は利用者の将来目指すべき自立,次へのステップに向けて,毎日を積み重ねているという意味で,利用者の姿を現在から未来へ投げかけている(投企している)と言える.

4.3.遊びの関係
 遊びの関係とは何かについて,先行研究から,特に遊ぶ当事者の中で起きている主観的な体験を論じているものを採用した.なお,遊びと一口で言っても範囲が広く,本発表では,対人間で行われるもの.大人が子どもを相手に遊ぶことを念頭に,以下の1〜3の視点で概説する.
  1. 遊び以外での関係性との比較で遊びの関係とは何か.
  2. 1を踏まえた上で,遊びの構造の中でどのような作用があるのか.
  3. 2より,遊びの世界を知ることについて

 1においては,西村(1989)や柳田(2004)は,遊び「以外」での関係性は,自分(主体)は相手を(客体)として捉え,なんらかの目的を持ち,働きかける(企てる)関係にあると論じている.例えば,知的害児施設の援助者は,集団「規範」を子どもに「守らせる」,あるいはプログラム活動でも教育目的があるなど,何らかの意図をもって関わっている.こうした関係性は少なからず力関係が常につきまとってしまう.
 しかし,そもそも遊びは,その時をただ「楽しみたい」とする目的のみで始められ,関係が取り結ばれる.その意味で,遊び以外での関係では常に非対称であっても,遊ぶとなれば,お互いが「ただの遊び手」となって,その非対称な関係は棚上げにされ,「誘い」「誘われる」といった曖昧な関係になると言われる(西村1989,田中2006).そして,「誘われた側」が「その遊びをする」と選び取ってはじめて成立するとも言われている(松浦2009).また,遊びの中では,敗者と勝者が存在する場合があるが,それは常に流動的である.そして,敗者と勝者といった関係は,現実の力関係に何ら作用せず,「これは遊び」であるという暗黙の了解がある.こうしたことから,様々な「しがらみ」は遊びの中では持ち込まれず,もし持ち込まれた途端,それは遊び以外の何かになるといわれている(西村1989).
 2では,遊びの世界を持続させるためには,お互いが「やりとり」を繰り返すこと(往還運動とも言う)でもって成立している(田中2006,横井2008).逆に言うと,相手が一方的に勝ち続けたり,明らかに不均衡な状態や力関係では,遊びは持続しない.つまり,ある程度釣り合った均衡が遊びを維持させると言える.または,遊びを維持するためには,お互いが,その遊びへと没入し,集中していくことが挙げられている(山口2010).それは,その時を楽しみたいとする相互了解が充実した遊びを作り出すと言える.
 この遊び手同士の往還運動を支えるのが,その遊びの中にある構造である.それは,ルールあるいは規則とも言われるが,杉谷(2003)はそれをルーティンとして捉えている.これは,どのような遊びでも,手順や終了条件の繰り返し(反復)が入れ子状態に構造化されているという意味である.その構造があって,遊び手が.その中で戯れることが出来ることを示している.なお,遊びのルールは,西村(1989)によれば,社会一般の道徳とか規範といったものとは違い,その時を楽しむためだけの目的で作られることを明らかにしている.
 3については,遊びの世界の中に巻き込まれ,内面に入り込むことによって遊びとは何かを知ることが出来るといえる(横井2006).それは,固定的な関係によって形成されている安定的な自己から,遊びの世界へとゆらぐことになる.そこに人としての在りようの多元性に気づくことができるとも言われている(松田2003b).そして,遊びとは,その人が「いまここで生きている」ことを実感する出来事(実存に関わること)であり,遊びによって生が満たされていく出来事なのであることが論じられている.(恒川2005,田中2006)
これらのことを図式にすれば以下のとおりになる.
図2


 遊びの関係は,通常の生活援助とは違い,固定的な役割が一旦棚上げになり曖昧な関係になること.また遊びは一方的な力関係よりも均衡の取れた中で持続されること.そして,遊びは,遊び以外の何かを目的として行われることではなく,遊ぶために遊ぶことこそが本質である.
 時間軸で捉えると,遊びは常に「現在」にとどまり,未来への指向性はない.あるとすれば,その遊びが終了し,遊び以外の出来事へと移行する.しかし,遊ばれたという事実は,その人に充実感を醸成させ,楽しかったという体験は,遊び以外の動機付けへと繋がる出来事でもある.

5.考察
図2

 施設あるいは援助者の役割は,子どもの社会性や身辺処理の能力向上,あるいは情緒のコントロールなど細目にわたって検討し,時に医療や教育機関との調整の中で行われることである.こうした取り組みが継続されていく中で子どもの将来に向けての自立が図られていく.このことは,子ども達により良い社会生活を送らせるに必要なことであり,児童福祉の理念,発達権保障にもかなった取り組みである.
 そうした将来(未来)へ向けた取り組みをする一方で,今を生きることの大切さを実感するためには,「現在が楽しい」と思えることが重要である.その一方法として「遊び」の関係があると考える.そして,遊びによる関わりも身辺介助などの関わりも実は,地続きで,どちらも子ども達にとって日常生活の中にある出来事である.その意味で,子どもと遊びによって関わることは,人としての基本的生活の活動として関わることであり,大きな意味での「生活支援」となると考える.
 ところで,現在,遊びの貧困が言われて久しく,健常者であっても,一人遊びやテレビゲームで過ごす時間が多いことなどが報告されている(堤2004).その中で,子どもへ主導的に遊びに誘うことが果たして可能であるのかという疑問もある.先行研究でも,「遊びの体験量」の高低によって,子ども達が遊んでいる事への関わりが違うことが結果として示され,体験量が低い人は,危険回避とか見守りと言った形でしか関われないことが報告されている(福田2011).こうしたことから,いかに遊びとして子どもと関わればよいか,これまでの論考の中で提示すると,

  1. 誘い手側が遊びを作るのではなく,誘われた側の応答によって成立すること.
  2. 遊びは巻き込まれた中で始まり,釣り合いの取れた中で持続されていくこと.
  3. 充実した遊びは,「これは遊びである」ことを了解の上で真剣に行うこと.

 1については,お互いが遊び手として成立するためには,誘い手(援助者)が,誘う相手が遊びに応じるようなコミュニケーションをとる必要がある.その意味で,誘い手は,どのような遊びが行えるのか.あるいは,その遊びがいかに楽しいのかなど,誘う相手が応じやすい条件を提示しないといけない.これは,相互の了解,それも子どもの側に選択権があるという意味で,一方的な関係とは全く逆の発想が求められる(松浦2009).
 2について,援助者と子どもとの遊びの状況を判断し,釣り合いの取れた形で持続させることである.一見,援助者は遊びの外側の視点に立っているように思えるが,ただその子どもと楽しく遊び続けるための加減である.例えば,5歳の子どもとキャッチボールをするのに,大人が全力投球すれば,遊びは成立しない.また,それは1の内容と一緒に,子どもが戸惑い,関心を示さない場合,あるいはつまらないと感じているかどうかの内面的な洞察も含まれてくる(横井2007,2008).
 3について,2に関連するが,遊びを持続させるためには,それなりの真面目さが求められる.遊びはそれ自体が楽しいことだから,勝手に盛りあがると考えることは誤った見方である.特に援助者自身が楽しんでいる姿が,「遊び」に引きつけられることを意識する必要がある(横井2008,草信2009).
 こうした取り組みは,知的障害児施設に限らず,子どもと遊びで関わるあらゆる仕事に言えると考える.しかし,知的障害児施設あるいは知的障害などなんらかの障害を持つ子供と関わる際,こうした遊びの視点での関わりが薄いと考える.それだけに,こうした遊びの本質を捉えた関わりは知的障害児(あるいは、障害という範囲を超えた人と関わることの多様さ)への関心をより深めることが出来る方法となりうると考える.

6.おわりに
 考察の最後の方でも論じたが,援助者自身の遊び体験の高低によって,遊びをどう理解するのかに大きな違いがある.そのため,ここで論じた「遊びとは何か」は遊び体験が低い人にとって理解しがたいものかもしれない.また,こうした遊びは特に意識することなく行われており,今回,遊びの関係とは何かを描くことで,ある一定の具体性を持って提示することが出来たと考える.しかし,遊びの世界はそれ以上に奥が深く,「遊びとは何か」は古来より問われている難問の一つである(西村1989).今後も,この問いについて,身近な題材を手がかりに論究していきたい.
 また,今回は図式化する上で,子どもと援助者の関係性をあえて単純化しているが,援助者と利用者の関係は本来より複雑である.例えば,ケアリングにおける相互浸透性や間主観的な関係も考慮されるべきである(熊谷2009).また子どもの置かれている状況や行動が,広範な文脈の中で援助者自身の「学び」として捉えることが必要である(熊谷2011).そして,援助者の内面に目をやれば,利用者の不条理に立ちつくし「揺らぐ」体験なども考えると,必ずしも一方的な関係ではあり得ない(尾崎1999,小坂2006).こうしたことに目配せしながら,今後も利用者と援助者の関係性について考察を深めていきたい.

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