2001.2
生と死

対談は淑徳大の学長(長谷川匡俊)と日野原重明である。
現代の社会福祉や医療は人を援助すること?高齢、飢えている人など差し迫った人をどうするかが出発点である。聖徳太子の四箇院、敬田院、西洋のホスピスなど。あと社会運動など。
死を忌むのは、昔伝染病が多かったから。だから風習として、塩をまくなどが残っている。死をタブーあるいは死体は汚いものとされてきた。いままで死は必然であるという半ば諦観のようなものが求められてきたが、今の科学では、死の遺伝子を伴って生まれた生命体という説明になる。
生病死を考える場合、どうよく生きるか、どうよく老いるか、そしてどうよく死ぬかが私達の宿題である。人は健やかなときは哲学者でも内なる自分を発見しない。でも人は病むと病はその人の内なる自己に連れ戻す。
一人一人が自分の命をどう意味づけていくのかという営みが今とても大切になっている。
高齢でも、健康でも、生き甲斐があれば人は輝くことが出来る。寝たきりになったからといってそのとき対応する、対症療法ではなく、そうした生き甲斐作りが大切になる。
デス・エデュケーション(死の教育)は、死が近い老人だけではなくて、子供の時からする必要がある。ペットロスや近しい人が死ぬことの意味について考える?完成を育む機会が必要である。あるいは、老人ホームに子供が行って老いた人間の姿を見て将来は自分にも甥が来ることを子供に感じさせるようにしなければならない。死を語ることをタブーとしない教育が大切である。
人間は、身体、情動(マインド)そして、霊性・魂(スピリッツ)がある。スピリッツには3つの側面があり、1.宗教を持っている人の宗教的な意味で言う苦しみでいう試練。2.生きることの意味または価値。3.死を目前にして、許しを請う平和な心を得たいという面である。スピリッツという無形のものがあり、水が地下水になってまた木の根から吸収されるように、子供や孫や、愛するものにスピリッツが伝わって、それがまた芽を出す。そういう風に解釈すれば、私達のボディとマインドはどうしようもないけれども、スピリッツの輝きは我々にとって唯一の希望ではないかと思う。

田宮仁『「いのち」を共に支える宗教と社会福祉』
福祉という語源をさかのぼれば、長生きすることが幸せの意味の一つである。死に臨んだ人自身にとっては、いつの日か迎える100%の死が意味のあることであり、問題となる。そして、自分が死ぬことを考えるときに問題となるのは、他でもない私として存在し、生きた「いのち」が問われるのである。「いのち」は、科学的に数量化できるものではなく、具体的な存在として目に見えるものとして表さられるものでもない。
人は目に見える条件整備が整ったからといって、それだけでは安心できない。目に見えない「安心」の存在を求め、その「安心」の必要性を我々は知っている。一人の人間として在る、生きるということは、その在り方や生き方によりどころや方向性、あるいは価値観という目に見えない何かを必要とすることである。そして、目に見えない何かを進行世界に求めてきた人が無数にいることも確かである。
これまでの科学的思考に加えて宗教への注目や関心を払うことの必要性を強調したい。少なくても世界宗教が2000年以上の時間をへながらも現在もその信仰が受け継がれていることの意味を我々は考えるべきではなかろうか。

広井良典「福祉における死の教育」
死生観の空洞化について、現在の若い人はもはや「物質的な豊かさの追求が、死をも脇の追いやるほど生きることの絶対的な目標として働く」ようなことはなくなり、他方、伝統的な死生観といったものも全くその名残を残さないような時代に育つことになった。もちろん学校など公の場で「生と死の意味」について正面から教えられたり話題にされることもない。それは、死の意味がよく見えないことであると同時に、それと表裏のこととして生きていくことの意味がよく見えないという意識や感覚となって現れている。
生を肯定し、死も肯定(受容)するような一定の世界観は、キリストや仏教などはそうした問いを最も深く追求し、到達したものである。

鈴木せい子「生まれることと生きることを伝える」
内容は割愛するが、助産婦の出産直前の描写は結構良かった。
2007.10.8

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