2001.12
青少年の今日と明日に向けて

座談会
 改正された少年法などをきっかけに特集が組まれたようである。少年法の改正では、凶悪犯罪に触発され、厳罰化がなされている。昔は、再犯を防ぐ意味で教育的な効果をねらう側面が強調されていたが、改正では、それを残しつつも、排除的な意味合いが濃くなってきている。さらに少年審判も昔は、裁判官が高い壇に上がらずアットホームだったが、改正では、検察官を入れ、裁判官を3人にして合議制にするといったプレッシャーを与えるかたちになっている。少年犯罪からプロの犯罪者になるのはほんの一握りであり、その時期の過ちを適切に教育として更正していくことが大切である。昔?戦後の荒廃していた時期の非行少年に対する大人のまなざしは、手をさしのべようという立場だった。それが物質的に豊かな時代になってくると、表面的にはたいして貧しくもないのになぜこんな悪いことをするんだという気持ちになる。それで、大人達は短絡的に非行少年を単なる悪という見方をしている。
 その上、加害者である少年の言い分を聞くと、友達が悪いとか被害者意識があり、頭では悪いことをしたのは分かっているが、被害者意識が先に立ち、加害者意識が深まらないとされている。
 さらに平成12年には、児童虐待防止法が成立。昨今の少年犯罪は、「いきなり型」?一見普通に見える子供が突発的に犯罪を起こすケースが多い。それまでは、非行のキャリアを積み重ねた少年が起こすケースが多かった。ただ、最近は、非行グループのように集団を取らないこと。見分けとして、非行少年だと判断つきにくい格好など、見落とされている点がある。
それに昔から少年犯罪はあって、それが今は、報道の機会も多く、知ることが多くなったため、あたかも増えたかのように映るのではないだろうか。
 その他、今の子供はコミュニケーションが不足しているとか、ギャングエイジを個で過ごすことで濃い人間関係を樹立する学習が乏しくなっているとのこと。
 リフトラティブ・ジャスティスについて、日本語では、修復的司法や回復的司法、あるいは修復的正義と訳されている。犯罪、非行による被害を明らかにし、できるだけ関係を元通りにしようという考え方。例えば、ファシリテーターの下に加害者と被害者を同席させて、お互いに言いたいことを言わせる方法。軽微な犯罪については適用できるかもしれないが、長い時間をかけて作り上げてきた裁判制度や少年審判制度の姿を大きく変える可能性もあり、短期間で取り入れることが出来るかは疑問。

北村年子「子供達からの痛切なラブコール」
 アメリカの同地多発テロで、報道を聞いたパレスチナの子供達が「やったー」と叫んでいる映像が飛び込んだ。力と破壊が支配する世界の現実の中では、愛し合い尊重し合う理念は無力であることが実感される。また個人の虐待や子育ての問題も、あの母親がとかあの地域でと糾弾されるが、実は、社会全体の映す鏡であるのである。また子供は見抜いている。自分たちの仲や生活がうまくいっていなくても、子供の前ではうまくいっているような振りをする。でも子供は全部見抜いている。
 今の子供の中には「自己感覚の欠如」がある人がいる。それは、自分の行動の理由を説明することが出来ない。なぜこうしたのか。何を感じているのかが分からない。何が食べたいのか、何がしたいのかも、本気で分からないことを指す。
 いじめを起こす側の心の根底には、自分に価値があるとは思えない自尊感情の乏しさがあり、それが生きづらさとなって、子供達の自傷や他傷を生み出している。

竹村典良「青少年犯罪の認識とジャスティス(司法・正義)の再構築」
 2001年4月1日から改正少年法が施行される。今回、制定から半世紀を経てようやく改正が実現できた。一方における「少年による凶悪犯罪の増加」の喧伝、他方における「被害者の保護と支援」のキャンペーン、これら両者がうまくかみ合って実現した。つまり、犯罪に対する市民の不安と安全社会の要求、被害者の置かれた状況に対する不安とそこから生じる厳罰化要求が現代の不安定社会という文脈の中で結晶した。そこには重大暴力事件を起こした少年達を「異質な存在として排除」し、同質者だけで構成される安全な社会を築くという考え方が根底にある。グローバル化の荒波と経済危機による社会不安に対するはけ口として異物=他者=犯罪少年がやり玉に挙げられ、恐怖や不安の真の原因を追及することなく、むしろ恐怖を可視的なスケープゴートへと誘導する図式が少年問題を巡る議論の構図に当てはまると指摘されている。
 あとはよくあるポストモダンの脱構築的言説の羅列だった。

碓井真史「少年犯罪の心理と更正に向けて」
 非行少年の心の病について、1.身体、2.心、3.行動である。あとは愛に飢えている子供のSOSとか、我慢を覚えるには父性原理が必要とか。
 個々のケースを見ると悲惨なケースもあるが、しかし日本は先進諸国の中でもっとも犯罪の少ない国である。思春期青年期は犯罪を犯しやすい年齢であるが、ほとんどの非行少年達はその後成人犯罪者にはなっていない。日本の更正プログラムにももちろん改善点はある。だが現状でも十分機能しているといえるだろう。少年達は凶悪化し、更生も失敗していると考えている方がいれば、誤解である。

山本克彦「子供参加とエンパワメント」
 青少年は元気を失っているかという話から、地域での取り組みや、公園作りをみんなでやって元気を取り戻していくことなどを書いている。

加藤芳明「地域におけるネットワークづくりについて」
 児童虐待防止法について、ネットワークの重要性について書いている。

城達也「若者文化の変容と社会規範の課題」
 若者文化の知的関心は、昔は経済学を学んで、立身出世とか、文学部で世界の普遍的な価値観を学ぶというものは廃れている。現在は、他者?心理学や人間関係学に興味がシフトしている。具体的に社会の様々な場面で各自が自由に他者と交流する中で、新しい、しかも理に適った意味秩序は構築されうる。私たちは世界観や政治的理念から離れたとしても、各自の自由なコミュニケーションから多様な意味の連鎖を生み出す。しかもその内容の妥当性の吟味を繰り返すことで、より合理的・普遍的な意味秩序を日々少しづつ作り出しているのである。
 現代における生き甲斐とは、一方では自己自身を表出することであり、他方では他者と交流することである。従って他者とのコミュニケーションの範囲が拡大していくことによって、若者達はそれぞれ多様な「生きる意味」を獲得でき、それと同時に安定した意味空間を作られるであろう。このことは若者だけではなく、私たち全てにこんにち期待される実践課題なのである。
2008.3.14

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