剛柔流剛武館 大会参加のルーツをたどる!(記:2004.2)

私が剛柔流剛武館に入会したのが1994年4月2日、大学2年生の時であった。で、いきなり5月29日の新人戦に出場し、そこからコンスタントに参加していくことになる。大学を卒業してから日本拳法との二足の草鞋で試合に参加しているが、その頃の記録が日記にそれなりに克明に記されている。日記に基づいて、幾分の回顧やら誇張?を交えながら以下述べていこう。かれこれ、10年の歳月が流れ、日記にも不備があるため記憶をたどるため取りこぼしがあるかもしれないけど…

1994年5月29日 新人戦
前日にHの家に泊まり、当日朝の6時に起こされ、ボーとしたまま会場に向かっている。このころからあんまりやる気がなかったようだ。しかし、Hはまだやる気満々で熱かったことが記載されている。また、やる気充分の人たちやミットを一生懸命たたいている人を冷ややかに見ていた。
私の動きは、円運動でステップを踏みながら隙を見つけて入り込み、右拳を当てることしか出来ず、もどかしさを覚えていた。午前中は新人戦で2回勝って3回戦でSと当たって負けている。午後は団体戦に参加し、こっちも1回戦勝って、2回戦で西多賀にぼろぼろに負けている。とにかく、新人戦は参加者が多くて、5回か6回勝たないと優勝できなかったし、重量別はなく無差別であった。試合が終わった後、ひどい筋肉痛に悩まされていた。日記には記載されていないけど、たしか3人ともぼろぼろでSかHはかなり足を痛めてどっちかが肩を貸しながら、フラフラになりながら歩いたような気がする。
このころ私が所属していた道場の生徒は少なく、サクラの師範代クラスの人とか師範の職場の友人とかで構成されていた少数、大人限定であった。

このころは、打撃は避けるものという概念から避けずにカウンターを取りに行ったり、打撃はしっかり当てることを学んでいた。少林寺拳法の演武とは違い、組み手においては約束はないことから、立ち向かうことを覚えようとしていた。また、夏休みはがっちり休んでいたので、練習は途切れがちであり、Hのカウンターの餌食になってくやしいという記述が目立つ。いまも苦手だけど…

1994年9月18日 福島県大会
日記上では大会運営のまずさを指摘していた。また、どうやらおなかの具合が悪く、イライラしていた。また、HとSは2位と3位になっている。たしか、どうしても福島の道場の人を優勝させたくて、結構反則とかしていたけど、おとがめなしだったような気がする。Hは決勝でその人と当たったけど、Hの打撃はあまり取らず、相手はスーパーセーフをつかんで振り回したりして注意で止まっていたりしていた。また、体格も段違いの中、Hはよく間合いを外したり、奮戦していたのが記憶にある。HとSは途中で同門対決になりHが勝つのだが、Sがじゃれて、試合が終わったすぐ後にHにキックをしながら絡んでいたのが大会主催者から心証を悪くして大会の講評で注意されていたことを思い出した。

このころから、SやHが入賞するのに比して全く入賞できずに悶々とすることになる。いまでも、入賞したことがないが…また、空手の面白さに目覚めることになる。それにしても、片道1時間以上かけて自転車で道場に行き、帰ってきてから麻雀に日々。Hも一緒に個体の限界に臨んでいた時期であった。

1994年10月23日
10月19日に自主練習で足を捻挫して、Hに針治療(まだ彼は鍼灸の専門学校に行っていたから無資格者今にして思えば空恐ろしいことをしていたものだ)してもらっていた。また、この試合のために結構意気込んでいたことが分かる。また、Sも怪我をしていたが、私と一緒に参加している。Hは怪我はしていなかったがなぜか参加していない。結果は、Sはよく道場に練習に来るD指導員に1回戦であたりあっさり4-0で負けている。私は、1回戦2-0で勝っているが、2回戦0-2で負けている。その相手が優勝していた。風格があるとか闘い慣れている人、太い空手をしている人が勝つべくして勝っていると分析している。

私が段位を取るのは、大学を卒業する時だったので、初審査は11月6日であった。すでに、HもSも2級くらい上にいたような気がするな。もっとも、あんまり段位とか気にしていなかったが、受けないといけないということで渋々受けていたことが記憶にある。また、Hにあまりにも距離が近すぎること、頭が下がっていることを指摘されている。気持ちが先行して全然ダメだったようだ。まぁ、今もその傾向はあるが。

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