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SUMMER PICNIC 1981

1981.7.26
熊本県阿蘇郡産山村・卑弥呼の里
入場者数 8,000人
入場料 ¥2800
Guest:伊勢正三 五十嵐浩晃
 
♪豪雨と雷で開演後に中止
♪予定でもオールナイトではなかった
 



いつもふたり
海と君と愛の唄
僕のグラフィティー
何処にも行かない
デイゴの花
たぬき囃子
九州へ帰る友へ
愛する人へ
旅立つ想い



SUMMER PICNIC 1981を語る

みなあい(99.4.4)
参加しなかった、あるいはできなかった人にとって永遠のあこがれのピクニックでしょう。
 
NATSU(99.4.4)
第1回サマーピクニックの年、私は高校3年生で受験勉強まっただなかでした。
それにもまして、まだひとりで九州まで行くなんてことは思いもつかず、遠い地でのできごととしてうけとめていました。
まだ時刻表の見方すら知らない頃のことです。
後日新聞で、落雷で何人かが救急車で運ばれたとかいうのを読んだ記憶があります。
 
Uchipee(99.4.21)
私も浪人生活を送っていたため、行けませんでした。
「大学受かったら絶対行くぞ!」とテレビのニュース見ながら思ってました。
 
格清幸子(99.5.20)
当時、高校2年生だったかな?
行きたい!行きたい!
真剣にどうにかして行けないものかと考えめぐらし・・・
でも親が出してくれるわけもなく・・・
涙・涙で当日を迎えた記憶があります。
とっても悔しい思いをしました。
 
KEN(99.6.6)
雷による中止の後、200人くらいが残った会場で、こうせつさんと正やんが生ギターだけで歌ってくれた光景が忘れられません。
会場からの帰り、迎えにくるはずだった友人とついに巡り会えず、スタッフ用のバスに便乗させてもらい駅まで行ったのも、懐かしい思い出です。
いただいたスタッフ弁当も、うまかった(ちょっと雨のにおいがしたけど)
 
かんきち(99.6.11)
当時、高2で本当にお金がなかった僕は、ずぶ濡れでたどり着いた阿蘇駅(だったと思う)のベンチにでも寝ようと思っていたところ、駅員さんが自分の車で寝なさいって言ってくれたことを、20年経った今でも、はっきり覚えているいい思い出でした。
 
ネンジ〜(99.6.16)
大学に入学した18歳の夏、熊本にいた友人と2人で。
確か、下手な運転でレンタカー借りて出かけたな〜。
初めての野外ライブでしたが、その雄大さと心地よさ、 そして雷の恐さを体感させられました。
駐車場となった阿蘇の牧場で、雨のため車のタイヤが はまって動けなくなって、見知らぬ人がたくさん車 を押してくれたのを憶えています。
第1回目のチケットの半券と1981のTシャツは、 今でも大事にしまってあります。
 
たぬきばやし(99.6.27)
大阪府堺市在住のこうせつのコピーを中心にバンド活動をしています。
本当に行けるとは思っていなかった。当時21歳。府内でのコンサートの時、こうせつが言った「サマーピクニック」。
みんなで歌った「あの日の空よ」早く覚えたかった。
当日、避難を促すアナウンスを聞いても、続行を信じる僕は観客席のど真ん中、傘をさしたまま、動かなかった。
そこへ近くにカミナリ。足首まで雨水に浸っていた僕の足下から電気が太股まで上がってきた。
その日のために買った真っさらのスニーカーを抱いた僕は、メンバーとともに裸足で駐車場へ行く中、動けなくなった車をみんなで押したりしながらそのやるせなさをかみ殺していた。
宿に戻り、後から帰ってきた他のグループによる情報によると、ステージ上に避難した観客を相手にこうせつが数曲歌ったとか。
それを聞いてまた悔しさがこみ上げる。あくる日、このままでは帰れない僕等は撤収中の会場へ行き、あの櫓を見たとき、「絶対来年も来るぞ!!」と思わず叫んでいた。
それからの僕は「サマーピクニック」中心の生活になったのは言うまでもない。
ただいまでも「愛する人へ」を歌うと間奏の時にカミナリの音が聞こえるのは僕だけでしょうか。
どなたかメール下さい。 tanuki-k@ma4.justnet.ne.jp まで
 
たつやいさお(99.8.12)
8月8日の”DREAM”、かあちゃんと子供をつれていきました。なんか”胸がじいーん”となって、第1回目の事を思い出しました。
牧草地の駐車場は大雨で泥沼の様、知らない人達といっしょに泥と牛のうん?を浴びながら何台の車を救出したことか、女の子が助けを求めれば心やさしい男達がわんさかと集まり車を持ち上げ笑顔で救助、女の子は「ありがうございます。」と泣いていました。
夜空は零れんばかりの星空・・・
「満天の星」を聴いた時、恥ずかしながら涙がでました。
ここから”DREAM”まで続きます。
 
おむにばす(2002.4.12)
当時高3だった俺、沖縄から船で鹿児島へ、産山まで汽車を乗り継いでいった。野郎3人で。
かんかん照りだったのに突然の大雨、雷で会場は大パニックに。死ぬかとおもった。
避難していたテントにおいちゃんが来て「みんな大丈夫か、気分悪い人は、いない?」と声かけてくれた。
そのときからサマーピクニックはライフサイクルになった。
ちなみに俺の息子、南海「みなみ」です。
 
ああマニラにて(2002.9.6)
大学1年の夏。夜11時すぎのニュースで「落雷で中止」「観客が逃げ惑う光景」が報道されたのを覚えています。
 
勇次(2002.9.27)
高校3年でした。あの雷はいまでも思いだします、ほんと死ぬかと思いました。逃げるように会場を後にし、ツアーバスをヒッチハイクして帰りました。 全身どろだらけで、朝まで会場にいるつもりでしたが、とてもそんな気にはなりませんでした。
あの時のくやしさでそのあとも9回いきました。
 
harukanaruomoi02(2003.3.7)
1981年、当時のレポートがあったので参考に書き込みます。
こうせつが言ってた『僕たちみんながコンサートを作っているんだ!そんなふれあいが出来たら最高だな―』
あれは、高校高校3年生の夏。男性4人女性4人計8人で野音のプライベートパーティーが終わった翌日、僕らは九州へむかった。その当時のレポートがあった。
7/20東京駅5時40分 富士に乗る
21日大分〜竹中〜宮地へ産山村の民宿に泊まる。
25日会場近くにテントを張る。雨が降り出し男たちは上半身裸でテントを拭く。前夜祭ではキャンプしていたみんなと大きな輪を作りギターもなしで『幼い日に』を歌った。5人用のテントに8人で寝た。
26日午前中スコール。午後2時入場。思い思いののぼりを掲げて会場を練り歩いた。声がかれるほど『こうせつコール』をし続けた。
4時2分『楽しんだほうが勝ちなんだから〜いくよ〜!いくよ〜!いくよー!!』はじめから『いくよー』の連発!『いつも二人』もう全員総立ち!思わず涙がこぼれてきた。『海と君と愛の唄』『オハイオの月』『何処へも行かない』『デイゴの花』『たぬき囃子』『九州へ帰る友へ』が終わると雨が 『愛する人へ』1部ラストの曲『旅立つ想い』が終わるころには、どしゃ降り!風が吹くと寒くてだけどみんな総立ちのまま。
五十嵐浩晃登場!大粒の雨、もう下着までずぶ濡れ!2部の準備をしていたころ近くで雷が落ち始めた。STAFFが『金物をはずしてください!!』と呼びかける。しかし僕らお客はこうせつコールを続けてた。
その時『ドス―ン』と雷が落ちた。足元の水面を細かな稲妻がバァーっと走った!!この時すでに雨水はひざ下10cm位まで水浸し。この音でそれまで立っていたファンはいっせいに座り込んだ。
6時05分中止決定!! STAFFがステージから避難を呼びかける。僕らの仲間の女の子たちを先にPAトラックの荷台に乗せたりみんなが声を掛け合い見知らぬどうしが協力しあい助け合い動き回 った。少し落ち着いたころ女の子だけでも車に乗せて民宿へ帰ろうと裸足で濁流の砂利道をあるいた。駐車場はタイヤのはまって動けない車だらけ。泥だらけになって見知らぬ人と協力して車を押した。
すべての車を出し終えたころ、彼方会場から聞こえるこうせつコール。かすかな歌声をたどりながら駐車場でぼくらも口ずさんだ『遥かなる想い』。もう一度荷物を取りに会場へ。『来年はオールナイトで10年やるらしいよ』とそこで初めて人から聞いた。空にはうっすらと赤い夕焼け空がのぞいていました。その夕焼けを見ながら『よし!10回行くぞ!!と』決意したのでした。
みんな、口ぐちに悔しいと言う。でも雷が落ちたからこそ、見知らぬ人達が協力しあい、妙な連帯感、団結が生まれた。こうせつがはじめに言ってた『僕たちみんながコンサートを作っているんだ』そんなふれあいが出来たら最高だな―』。『僕たちみんながコンサートを作ってる』そんな思いをいだきながら第二回サマピのオープニング『Tears』で号泣するのであった。...
まるで『スタンド.バイミー』だなこりゃ。長くてすいません。23年前を思い出しました。
 
コロ直(2003.8.29)
プライベートパーティーでサマピの話しを聞き、当時箱入り娘?であった私は、親を上手く丸め込み東京からのツアーで参加しました。
前からキャンプで並んでいる人たちより私達ツアー参加の席が前だったのでちとひんしゅくを買っていたのを覚えています。こうせつの1部が終わりゲストの五十嵐さんが歌い始めた頃から雨と雷がひどくなり、五十嵐さんが雷に向かって「俺は五十の嵐だ!」と怒鳴っていたのが印象的でした。結局この後コンサートは中止になってしまいとても悔しかったです。群馬出身の私にとって雷は結構慣れているので何でこのくらいでと言う思いがあったのですが、後でニュースになるほどとは思いませんでした。
 帰り道まるで濁流の川を歩いているようなもの凄い道を帰ってツアーバスに戻ったのを覚えています。
ホテルで、私達が帰った後“こうせつさんが何曲か歌ってくれたんだよ”と言う話しを聞きまた悔しさがよみがえったのを想い出します。
 この時のチケットはユイに貸し出して撮影に使われました。これも良い思い出になりました。
 この日が中止になったことでサマピへの思いが強くなったのは言うまでもありません。
 
koji(2003.8.29)
そのころ僕は11歳で、神奈川に住んでいて、サマーピクニックなんてものとはつながりようのない世界に住んでいました。
今、産山村で、卑弥呼の里”跡地”の近くで暮らしてます。
そりゃもう、立派な廃墟です。立ち入り禁止で、今日、同僚が忍び込んで、「入らんほうがいいぞ」と言っていました。なんか「いる」みたいっす。
 
あのころは若かった(2003.12.17)
第1回サマーピクニックにスタッフで参加させていただいたものです。現地に入ったのが4日前、ほとんど徹夜続きで準備したのを覚えています。本番が始まっても、交通整理でコンサート会場はははるか彼方でした。夕方から雨がだんだん強くなり、雷は鳴りだすは、近くには落ちるは、私は始めて雷は上から下に落ちるものではなく、横に走りるものだとしりました。
公衆電話の所に雷が落ちて、救急車で人が運ばれたり(そのころは携帯等というものはありませんでした)連絡関係は、すべて無線機を使用する為に、アンテナを精一杯伸ばすしかなく、それに雷が落ちるのではないかとヒヤヒヤしておりました。
ただ、最後に200人位残ったお客様とこうせつ/正やんが一緒にあの日の空よを合唱し、それをステージ横で見て非常に感動したのを今でも覚えています。青春のいい1ページになったといまでも覚えております。
追伸:翌年からのサマーピクニックはスタッフの間では呼び名がサンダーボルトコンサートになっておりました。
 
TYOの裕(2004.2.24)
日中の強烈な日差しで、かなり体力を消耗してオープニングを迎えました。今度は、どしゃぶりの雨に打たれて、そんな状態で立ち尽くすことは、日常ではまずないことで、体力的にかなり限界でした。興奮と睡眠不足も手伝って、立っていられないくらいでした。
こうせつは、雨の悔しさをはねのけるように、絶叫していました。「いくよー」「いくよー」その後、中断、そして中止。テントの下で待機している時、自分の肘がコツって鳴ったのを覚えています。たぶん電気が流れたのだと思います。
後日、こうせつからハガキが送られてきました。
なぜか、私には2枚送られてきました。中止の後の夕焼けがうらめしかった。強烈な印象のコンサートでした。本当に大きな事故にならなかったのは、奇跡だと思います。伝説の卑弥呼の里に参加出来たのは、とても良かったと思います。そういえば、会場に入場する時に、あの日の空よの歌詞が配られました。詩を見て感動しました、本当は、その日にみんなで初めて歌うはずだったのでしょう、翌年のアルバム「ひとりごと」で初めて聴いたとき、涙が出てきました。
 
ヨッシー(2004.6.28)
東京の大学へ進学して初めての夏休み、熊本に帰省した時に思い立って慌てて1人、汽車で見に行きました。雷が落ちた時は、席が前の方だったので騒ぎが良く判らず中止になった時はうそ!なんで・・てな感じだったと記憶しています。土砂降りの中、下半身は泥だらけになりながらあっちへうろうろ、こっちへとことこ、どこへ行けば帰れるのやら、こんな格好で汽車に乗れるのか?なんて思い途方にくれていた矢先、やっとバスがステージ前に迎えに来てくれてほっと一安心、近づいてみるとあれ?乗っているのはこうせつや正やんで、何?て感じでした。わけも判らずハイテンションなこうせつとかたい握手をするとウワッ!ラッキー!と思いブルーだった気持ちが一気に晴れて、舞い上がっていたら皆さんご承知のあのステージを最前列で見ることになりました。 帰りの汽車では関西から鈍行で来た高校生の男の子とと一緒になり、疲れたいたのであまり話はしなかったけどこうせつへの熱い思いを語ってくれたのを思い出だしました。 ちょっと通りかかったので、自分の思い出書いてみました。
 

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