.    終戦前後2年間の新聞切り抜き帳.他・目次-3
    
目次とは表向きだけで、中身は前述同様「勝手論」みたいなものです。


水兵の母
最後の早慶戦と学徒出陣式 
下山事件
B36とB52
小野田少尉と横井さん
私の視点
ソ連対日宣戦布告
ウド鈴木
新座の駝鳥
富士山



 水兵の母

 
これは戦時中、私共が教わった修身(現在の「道徳」のような教科)にあった項目です・・・・(イヤ「国語」だったかな?)。
 ともあれ、中身は読んでの通りのもの。
 本来は、ここに粗末な?スケッチ風の挿絵があるのですが、どうしても見つかりませんでした。

[・・・だ。豊島沖の海戦に出なかったことは、艦中一同残念に思っている。しかし、これも仕方がない。その内にはなばなしい戦争もあるだらう。
その時には、おたがひにめざましい働きをして、わが高千穂艦の名をあげよう。このわけをよくあかあさんにいってあげて安心なさる」やうにするがよい」
といひ聞かせた。

 水兵は頭をさげて聞いていたが、やがて手をあげて敬禮し、にっこりと笑って立ち去った。]

 
この文章を読んで笑い飛ばす事は可能としても、当時は大真面目に勉強して、立派な軍人になろうしていた時代でしたから、各人一様に、それなりに しっかりと理解して身につけた筈です

 この傾向は、国の形はいかようであれ、現在も世界各国で必要とされている教育の範囲に入る教科だと思うのですがどうでしょうか。「豊島沖」が「沖縄沖」であったり、「戦艦 高千穂」 が 「戦艦 ミズーリー号」であっても、世界中に通用する内容ですよ。
 戦争を遂行しようとする各国では、どこでも必要になる教科内容です。教宣活動は どこの国であれ必要なのですから。

 その筋の首脳各位殿、よう読んで下され。愚かな国民一同、きっと立派な兵隊さんになって貴殿のために にっこり笑って死んでくれるでしょう。

 別途 全文は下記に載せてあります。

   
水兵の母

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(2008.12)



「最後の早慶戦」「学徒行進」

...
 この「最後の早慶戦」と並んで出てくるのが 、神宮競技場での学徒動員によって集められた「学生の行進」・・・これが定番のようです。

 一方、地方での、県とか市とか全体での壮行会は どこかでやった記録はあるのだろうか。何もしなかったのではないですか?。
 私の長兄は、当時 山形商業学校の生徒。当然ながら学校全体でグラウンドでの行進があったかどうか迄は分かりませんが、そこまではやっていなかったのではないかな。

 その兄が予科練に志願して合格し、出発の日は山形駅前の広場に立たされて、周りに同級生10人程度か、校長先生とか教員は誰もおらず、皆で校歌やら軍歌やらをドラ声で歌って励まして・・・それで壮行会のすべてでした。生徒達以外に、その場に居たのは我が家の家族だけの数名でしたよ。

 大都会以外では、すべて、そのような侘びしい壮行会だった事でしょうなあ〜〜。

 上の写真を見て、いつもそれを思い出すのですよ。随分と差があったもんだ、と。
 ただ、兄は生きて帰って来たので、すべてをチャラに出来たのですが・・・。


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(2008.12)


下山事件

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−経緯−
昭和23年当時の国内は、第二次吉田内閣が発足し、GHQ(連合軍総司令部)が命令した「九原則」の遂行を使命にしていた。この「九 原則」の一つに、国鉄10万人を含む全産業100万人の人員整理の強行(いわゆるレッドパージ)が政府の課題となっていた。初代国鉄総裁の下山定則は、国鉄職員の大整理に関しての最高責任者であった。

一方、労働団体の勢力が強まり、共産党の議席が大躍進するなど首切り反対の労働活動が活発で交渉は困難を極めた。ごうを煮やしたGHQの民間輸送部のシャグノン中佐が早急な職員大整理を迫り、下山総裁は相当衰弱しきっていたという。このような背景で下山事件が起きた。

23年7月5日労使との団体交渉があるこの日、いつものように迎えの車で自宅を出た。東京駅の国鉄本社に近づくと、突然運転手に向かって「三越デパートへ行ってくれ、買い物がある」と言った。8時45分頃のことで、三越デパートに近づくとまだ開店前だったため運転手に遠回りさせる不可解な指示をしている。

9時30分過ぎ、下山総裁は車から降り、運転手に「ちょっと待っていてくれ」と伝えて、三越デパートに入って行った。これを最後に、その後の消息が不明のまま翌日6日午前12時20分、常磐線綾瀬駅と北千住駅間の東武伊勢崎線ガード下付近で、下山総裁の轢断死体が発見された。

−捜査−
6日の轢断死体発見から、警視庁は本格的な捜査を開始した。その結果、前日の午後に現場近くで下山総裁に似た人物を目撃した者が17人に上ることが分かった。いずれも元気なく歩いていたと証言したため「自殺説」が浮上。特に、前日の5日午後2時から5時30分まで、現場から1キロ離れた足立区千住末広町の「末広旅館」に下山らしい人物が休憩していたという旅館の主人の証言が大きくクローズアップされた(松本清張は、これをGHQの偽装工作と見ている)。

一方、東大法医が「死後轢断」である可能性を示唆した。理由としてバラバラになった手・首・足の轢断面に生活反応が認められなかったこと、発見された靴底に付着していた泥は現場の泥とは明らかに異っていること、轢断現場には下山総裁のネクタイ、めがね、ライターなどの所持品がどこからも発見されなかったこと、衣類に植物性油が多量に付着していたことなどが上げられた。このため東大法医は、下山総裁は別の場所で殺された後、現場に運ばれ線路に遺体を置き轢断させたとする「他殺説」を主張した。

−謎−
捜査本部でも「自殺説」「他殺説」が二分したが、結局「自殺説」を取り8月4日に記者会見で発表した。そして、その直後に捜査本部を解散した。しかし、この下山総裁事件がきっかけとなり、国鉄では一気に人員整理が加速したこと、その他の企業においても人員整理が成功しGHQの思惑通りになっていった。このため、GHQの関与を示唆する見方もいまだに根強くある。

確かに、当時の国鉄ダイヤは進駐軍の物資輸送が最優先されていた。誰にも目撃されること無く轢断させるには、列車の時刻をコントロールできることが必要である。このダイヤを自由にできるのは当時のGHQであった。故に事件の背後にGHQが見え隠れするのだ。今日にいたるまで明確に自殺・他殺の決着がつかないまま、事件は謎に包まれたままとなっている。

 これは勿論覚えています。線路に落ちていた切断された手首の写真が 単体で アップで載せてありました。ただ普通の猟奇事件と違って、政治的な内容を含むとなると、子供には それ程面白く?もなく、従って切り抜きまでは到りませんでした。加えて、この事件は昭和23年の7月、その半年前には例の「帝銀事件」があったわけですから、戦後の一時的混乱による政治的犯罪、と捉え、それ程 重要視した記憶もありません。

 然し、今思うに、単なる三面記事的な犯罪ではないだけに、奥の深い高度な犯罪の匂いがします。証拠物件は、死人の手首一個、これが光っていますよ。
 まあ〜犯人は間違いなしにGHQのようでしたね。

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(2008.12)


  B36 B52
 この爆撃機は戦後に出たアメリカの重爆撃機です。どちらも有名な機種ですが、見たところのイメージでは、上のB36の機能デザインが最低なのですよ。
 私がそう見るのですから、ま、異存を唱える人もいるのかも知れませんが、察するところ万人共通だとも思うのですが、いかがでしょうか?。
 それに比較すると下のB52は最高のデザインですね。


 このB36を主題にした映画も見ました。立派な映画には違いありませんんでしたが、どうも、そのデザインがダメでしたなあ〜〜。
 プロペラ機からジェットに移行する端境期?に出た飛行機だけに、まあプロペラ主導機としては最後の輝きを持ったと思うし、それはそれなりに立派に出来ていますが、それにしても、どうも全体のイメージが最低でした。


こちらは断然スマートです。

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 横井庄一・小野田寛郎

 共々生きた亡霊!として名を上げた方。
 これは戦争で生じる希有な事例として大きく取り上げられたわけですが、古今東西これに似た事例は歴史的も多々あったのではないかとも思うのですよ。ただ、その大半は国家によって抹殺されて終止符を打っていただけなのではないか とも思うのですが どうでしょうか。

 幸運だったのは、敗戦と云う 時代と国家の背景----それであればこそだったでしょう。

 仮に、その時に至るも日本の軍隊が健在であった場合を想定してみなさいな。それを考えればこそ、御両人は出るに出られず地下に蟄居せざるを得ない羽目に陥っていたのだと思いますが。

 つまりは、御二人と状況を同じくした更なる残存兵士は相当数居たと考えられるし、その場合の その彼等にとってはオモテに出るか出ないかは生死を賭けた選択だったと思いますね。

 その大多数は どうしたか、同じ死を迎えるのであれば、自分の意思で、残留で決着した方がいい、つまり、その場での自然死を選んだと思うのですが、どうだったでしょう?。その数は数百人はいたのではありませんか。

 特に、ニューギニア等の遠い島、あのあたり、大量に残された兵士達は もう朽ち果てて現在では、もう野のホトケになって、そして土に還っているのではありませんか。

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 私の視点

朝日新聞大阪本社版 2008年12月19日朝刊

私の視点 関西学院大教授 野田 正彰

東京大空襲の被災者ら132人が政府に、救済してこなかったことへの謝罪と損害賠償を求めた裁判の原告尋問がやっと始まった。私は昨年10月から、被害者たちの精神医学的診察を行ってきた。

63年たって、なぜ裁判か。これほどの年月をへてなお、精神医学による鑑定か。それをいぶかしがる方は少なくないであろう。私もそう思いながら面接を始めた。

空襲後数年は続いたであろう心的外傷後ストレス障害(PTSD)は、やはり自然治癒していた。原告たちはそれを克服し、生き残ることが出来た人びとであるとも言えよう。

しかし特に印象づけられたのは、被害者が晩年になって、再び昔の極限状況を想起し、自責感を強めていることである。

 ある男性は、64歳になり仕事をやめてから、目の前で母親が焼夷弾で焼かれた状況をよく思い出すようになっている。夜は焼夷弾が飛び交う夢にうなされる。彼は空襲で孤児になり、すべてを失い、その後、鉄工の技術を身につけ、ひたすら働き、新しい家族を作ってきた。しかし、生活のひとつのサイクルが終わり、晩年に達した時、自分には果たしていないことがあると思い始める。
あんなにやさしかった母に、自分は何もしていないと責める。どこに逃げたらいいのか、正しい判断をしていれば、母を死なせずにすんだのに、と苦しくなる。彼自身も火だるまになり、母を救出することは不可能だったので、この自責h合理的なものではないが、やはり生き残った者として罪があると感じ続けている。

 家族を見失ったこと、遺体を捜し出せなかったことを責める人など、それぞれが老いて空襲時の体験にもどっている。

ホロコーストを生き残ったプラハのユダヤ人、旧日本兵による長期にわたる死の恐怖を伴う性暴力を受けた海南島や山西省の中国女性。彼らが晩年になって、昔の精神的外傷の体験の記憶にもどっていくのを、近年、私hみてきた。

PTSDは性被害や災害など比較的短期間の破局的体験を中心にまとめられた概念であり、それをはるかに超える負荷についてはとらえきれていない。

十数万が焼き殺され、負傷し、ケロイドを残し、孤児になり、食べるものもなく、戦後も空襲被害は隠され、調べられることもなく過ぎてきた。これほど長期にわたる負荷を生き残った人が、晩年になってどのような精神を生きているのか、あまりにも知られていない。

原告たちは、若かったころの大空襲被害を歴史として語っているのではなく、今、再び苦しんでいる。彼らの精神的外傷体験の回想と自責感は、すべきことをしてない政府、東京都、そして私たちに代わって、悲しんでいる症状ではないだろうか。63年たった今こそ、しなければならないことがある。

 戦争による残滓と申すのか、いろんな箇所でのいろんな意見に、特に近頃は目が行くような気がします。

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  (2208.12)



 ソ連対日宣戦布告

.            
       その前に開かれたヤルタ会談 チャーチル ル−ズベルト スターリン 1945年8月8日

.      
       その時に切り抜いた新聞記事。

 ソ連の宣戦布告

 ヒットラー独逸ノ壊滅及ヒ降伏後ニオイテハ日本ノミカ引続き戦争ヲ継続シツツアル唯一ノ大国トナレリ、
日本兵力ノ無条件降伏ニ関スル本年七月二十六日附ノ亜米利加合衆国、英国及ヒ支那三国ノ要求ハ日本ニヨ
リ、拒否セラレタリ、コレカタメ極東戦争ニ関シ日本政府ヨリソ連邦ニ対シナサレタル調停方ノ提案ハ総テノ
根拠ヲ喪失スルモノナリ日本カ降伏ヲ拒否セルニ鑑ミ連合国ハ戦争終結ノ時間ヲ短縮シ、犠牲ノ数ヲ減縮シ且
ツ全世界ニオケル速カナル平和ノ確立ニ貢献スルタメソ連政府ニ対シ日本侵略者トノ戦争ニ参加スルヤウ申出
テタリ

 総テノ同盟ノ義務ニ忠実ナルソ連政府ハ連合国ノ提案ヲ受理シ本年七月二十六日附ノ連合国宣言ニ加入セリ

 斯ノ如キソ連政府ノ政策ハ平和ノ到来ヲ早カラシメ今後ノ犠牲及ヒ苦難ヨリ諸国民ヲ解放セシメ且ツ独逸カ
無条件降伏拒否後体験セル如キ危険ト破壊ヨリ日本国民ヲ免ルルコトヲ得セシムル唯一ノ方法ナリトソ連政府
ハ思考スルモノナリ

 右ノ次第ナルヲモツテソ連政府ハ明日即チ八月九日ヨリソ連邦ハ日本ト戦争状態ニアルモノト思考スルコト
ヲ宣言ス

[編集] 概要
この布告では、連合国が発表したポツダム宣言を黙殺した日本に対し、世界平和を早急に回復するために武力攻撃を行うことが宣言されている。これにより、日ソ中立条約は完全に破棄された。ソ連軍は対日参戦を実行し、満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島に侵攻し、日本軍と各地で戦闘になった。既に太平洋戦線の各地で米軍に敗退していた日本軍にこれを防ぐ手段は無く、原爆投下に続き日本にとどめを刺した。

布告はモスクワ時間1945年8月8日午後5時(日本時間:午後11時)、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・モロトフより日本の佐藤尚武駐ソ連大使に知らされた。事態を知った佐藤は、東京の政府へ連絡しようとしたが領事館の電話は回線が切られており奇襲を伝える手段は残されていなかった。

なお、ソ連の宣戦布告に対する日本側の措置であるが、本来対ソ宣戦を決定すべき最高戦争指導会議がポツダム宣言受諾問題で紛糾していたため、対ソ宣戦問題を討議する余裕が無く、結局日本側からの対ソ宣戦は行われなかった。よって、日本側の対ソ戦闘は、国家としての意思決定された戦闘ではなく、ソ連軍の攻撃に直面する現場での防衛行動という色合いが強い。

ソ連軍の攻撃は9日午前零時を以って開始されている。

[編集] 内容
ソ連対日宣戦布告においては、ソ連対日参戦の旨とその理由として、次の4点が述べられた。

1.. 日本政府が7月26日の米英中による3国宣言(ポツダム宣言)を拒否したことで、日本が提案していた和平調停の基礎は完全に失われたこと。
2.. 日本の宣言無視を受けて、連合国は、ソ連に、日本の侵略に対する連合国の戦争に参戦して世界平和の回復に貢献することを提案したこと。
3.. ソ連政府は連合国に対する義務に従って右提案を受諾し、7月26日の3国宣言にソ連も参加することを決め、各国人民をこれ以上の犠牲と苦難から救い、日本人を無条件降伏後の危険と破壊から救うためにソ連は対日参戦に踏み切ること。
4.. 以上の理由からソ連政府は8月9日から日本と戦争状態に入るべきこと。

[編集] 背景

[編集] 連合国
この宣戦布告が発表された背景には、連合国間の政治的な駆け引きが影響している。

1945年になってから連合国はドイツの戦後処理と日本の本土攻略に焦点を当てていた。この討議のため、2月にヤルタ会談が開催され、ソ連参戦が議論された。当時日本と太平洋戦争を遂行していた米国政府は、ソ連と連携して日本を攻略することを考えており、ソ連の参戦を「外モンゴルの現状維持」「満州におけるソ連の権益を回復」「大連港を国際化」「南樺太の奪還」「千島併合」の五項目要求をのちに蒋介石の了解を得るという条件で認め、英国も加えた秘密合意に達した。

また、5月のポツダム予備会談において、ソ連のスターリンは、極東ソ連軍が8月中に攻勢作戦を発動すること、満州国領域における中国の主権を尊重すること、朝鮮半島を米ソ英中が信託統治すること、などの旨を表明した。さらに対日処理については、無条件降伏と徹底的な軍備撤廃、ソ連軍による日本占領を主張し、米国に戦略物資の支援を要求した。

米国統合参謀本部は、ソ連が戦争の決着がついた所に便乗してくるとの見方を強めていた。一方、米国大統領ルーズベルトは完成寸前の原爆製造についてヤルタ会談ではソ連に対して一言も言及せず、もしスターリンが便乗的な侵略を満州及び日本国北方で開始しても日本本土に対する原爆投下で十分その意図を挫くことができると考えていた。またソ連側のその火事場的泥棒ともいえる米国に対してのその戦略物資支援の要求には半ば呆れた。1945年7月16日、米国は世界で初めて原爆実験を実施して成功する。こうして満州とソ連国境でそんな双方の思惑を外に徐々にその不穏なソ連軍の動きは対日参戦が開始される1945年8月9日に向けて増していく。

[編集] 日本
日本においては小磯国昭内閣が和平工作を推進し、危機的な状況を主に外交交渉によって打開しようと模索していた。小磯内閣は発足当初、戦争の完遂と同時に対ソ戦争回避を目標として対外政策を進めた。そのため、小磯内閣は戦争遂行とともにソ連との国交を好転させ、和平工作を進めることに努力した。

しかしソ連は既に日本に対する侵略準備の兆しを見せており、1944年にスターリンは革命記念日の演説において日本を侵略国と発言し、また7月から8月及び11月から12月に各2回の国境地区における不法行為が発生している。また1945年4月6日にソ連は日ソ中立条約を延長しないことを一方的に決定して日本に通告した。その理由として「情勢が締結当時と一変し、今日本はソ連の敵国ドイツと組して、ソ連の盟友米英と交戦しており、このような状態において日ソ中立条約の意義は失われた」と述べられた。日本はヤルタの秘密協定の合意を知らず、ソ連の侵略意図を知ることができなかった。当時の政府及び軍関係者はソ連の対日参戦の意思をこの時点で認識できなかった。同条約の効力は、1946年4月25日に失われる予定であった。

[編集] 日ソ交渉
日ソ中立条約の不延長通告の後も、日本は、ソ連を仲介者する連合国との和平工作を行っていた。新たに成立した鈴木貫太郎内閣は、発足してから戦争を終結に導くため首脳部の懇談会を持ち、「国体保持」「国土保衛」に戦争目的とした。しかし、連合国は「無条件降伏」を主張してくるため、これを受諾することはできず、外交においては和平工作を推進し、軍事面では外交交渉を少しでも有利に進めるために、最低限国体保持を包括する和平へ導くため戦争を継続することが決定された。この政策は木戸内府が試案を起草し、試案において現在の日本の状況が危機的であり、和平の外交交渉が早急に必要であると論じた。そして当時中立条約を締結していたソ連を介し、米英と最低限の条件で名誉ある講和を実現し、海外の部隊は撤退、軍事力も国防に必要な最低限に縮小することが述べられている。この試案は1945年6月9日に天皇及び首相、陸海軍などと協議し、実行に移すことが決まった。

ただし、この政策には当初から反対もあった。東郷外相はソ連の対日政策はすでに挑戦的なものへと移行しており、実現する可能性は低いとして対ソ和平交渉政策に同意していない。しかし鈴木首相は、可能性を模索する意味で対ソ交渉政策を進めていた。

[編集] 戦闘状況
以下 詳細はソ連対日宣戦布告を参照

google検索と件数 ソ連対日宣戦布告 12.200件
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  ウド鈴木
 本籍地は山形県東田川郡藤島町 ここは私の本籍地でもあります。

藤島町(ふじしままち)は、かつて山形県東田川郡にあった小さな町。2005年10月1日に、鶴岡市、羽黒町、櫛引町、朝日村、温海町と合併し、鶴岡市となった。

 ウド鈴木は郷土の誇り!?・・・・。

下の写真は藤島町にある天然記念物 とあります。勿論 当方としては初耳ですが・・・。
このへん一帯が いかに田舎であるか、との証明みたいなものでしょうなあ〜〜。
 但し、ここで「ウドの大木(たいぼく)」を「ウド鈴木」氏に ひっかっけた つもりではありませんので・・・。

 添川の根子杉

山形県指定天然記念物
山形県東田川郡藤島町添川

幹周  11.95m
樹高  36.0m
樹齢  約400年程度

巨樹の宝庫でもある庄内平野の南東部、藤島町の
山林内にあり、6〜7本ほどの根が癒着した合体
木ではある。古くより山の神様として山仕事をす
る人々より祀られてきた。周囲の深い森林の雰囲
 気とあいまって、素晴らしい巨樹の一本である。

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新座駝鳥

 
わが町新座市に「駝鳥園」と称して、何頭かの駝鳥かが飼われています。我が家では何度か見物に行っていますが、私は まだ拝見していません。従って、何故「駝鳥」なのか分かりません。ただ、珍しいと思いますよ。
 
写真は、http://pics.livedoor.com/u/ostart_hp/2654979/large様よりお借りしました。

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(2008.12)


 
富士山
 
富士山を検索すると、当然ながら件数が多いので大変でした。
左の絵では、樽の中の森の右端あたりに富士山が辛うじて見えると思いますが?・・・。
右の写真は 富士市のHPからお借りしました。

..

 因みに、現在の我が家からは、晴れておれば 遠く西の山際に上2/3くらい、よく見えますね。

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