2004.6.21(月)
 6月の5〜6日と合宿があって、その準備と後処理に追われ、他のことには手が付かなかった。パソコンに向かう余裕もなく、更新もせず・・・・、怠け者と言われればその通り、なんですが。合宿は全港湾建設支部の中村副委員長を講師に迎え、韓国民主労総の最新情報なども満載の中身の濃いもので、終わったものの、課題の整理や我が身に引きつけての検討など、ちょっと立ち止まって考えている・・・・、のか? フリーズが始まった、と言われないようにしなければ。

2004.5.19(水)
 日曜日の朝のこと、足立区の谷さんからの電話で起こされた。夜の「安藤昌益の会」の結成総会の横断幕を準備してくれとのこと。寝ぼけた頭が快く引き受けたが、さて、つくる段になって、会の正式名称はなんと言ったか? 朝日新聞にも掲載されたから、と言っていたから新聞を広げたがそこは略称。机の上の紙束の中の案内状を探すところから仕事は始まった。探しながら気が付いた。会場は喫茶店だったはず。会場が変わったのか?新聞を確かめるが変更なし。 不吉な、それでいてわくわくする気分で会場に急ぐ。案の定、細々と開催する内輪の結成総会が大事になっていた。「どうするのよ〜横断幕!」と私。「壁に貼らしてもらおうか。メニューとメニューの間に」。いやはや、お騒がせな船出となった。

2004.4.5(水)
 4月20日朝日新聞の「反時代的密語」欄で梅原猛氏が小泉首相の靖国神社参拝に意見を寄せている。昭和59年(1984年)の「靖国墾」での首相の靖国参拝に対する反対意見は説得力がある。明治期の廃仏毀釈を「仏ばかりか神殺しでもある」とし、その後の国家神道と伝統的神道を切り離して考えている。
 憲法改悪反対や戦争反対の地域での運動に関わるようになって素敵な人たちとの出会いが続いているが、キリスト教であったり天理教であったり、宗派は違うけど信仰を持っている人が地味だけど情熱的に活躍していることに感動というと大げさだけど、考えさせられている。イラクの反米運動の背景にイスラムの教えがあったりすることを思うにつけ、宗教の論理的・理性的側面に思いをめぐらせた。連休の合間の思索。

2004.5.4(火)
 昨日、日比谷野音・憲法集会に行った。会場でこの間9条署名をやっている安さんに会ったので、二人で持参した「9条改悪反対署名」を事務局に届けた。数は多くなかったが、今後につながると思う。
 パレードには出ずに帰ってくる。青戸でばったりと吉さんにあったので、喫茶店でだべる。と、そこへ福ちゃんが入ってきた。仕事の帰りで、二人を見かけて、と。連休のさなか、どこかゆったりと。あれをどうする、これはどうだと、ひとしきり情報と意見の交換。豊かな時間、とも言えるが、400円のコーヒーで楽しい(質素な)ゴールデンウイーク。

2004.5.3(月)

 4/29葛飾憲法が終わったかとおもたら、メーデー、5/2朝鮮半島に平和を!コンサート、と立て続けに催し物があって、今年のゴールデンウイークはまさに、ゴールデン! 
 憲法集会は95名の参加で、例年とはちょっとおもむきも違ったが、内容的には不満や課題の多い集会になった。会場アンケートなどを見て、今後の課題など検討しなければいけないと思っている。が、じっくり反省・・・と、とたんに頭脳がフリーズ。9日に反省会をやるので、みんなと喋りながら考えます。ご協力くださった皆さん、ありがとうございました。いずれにしても、これから!

2004.4.20(火)
 昨日の夕方、亀有駅南口で「憲法9条改悪反対」の署名をやった。風も強く、前回といい今回といい、天候には恵まれない。反応もイマイチ。そのあと、4/29憲法集会に発言をお願いしているペ君と話す。在日三世。27歳。
 民族学校への入学者が減っている。理由は、親が通学させることの危険を心配してのことだそうだ。事実、通学途中で石を投げられたとか暴言をあびたとか、陰湿な事件があとを絶たない、という。新聞やテレビではなかなか取り上げないが、彼は後輩の護衛のために駅の近辺に立った時期があったのだそうだ。遠いところの話でなくて、私たちがくらすここで。ため息と叱咤が全身を駆けめぐる。

2004.4.18(日)
  「テレビに向かって文句言うのやめてくんないかな〜」。連日、ニュースが始まると、私が静かにかみさんにささやく。ふと我に返って、恥ずかしそうに笑って、それでも「何よ、アメリカ軍がイラク市民を殺しているから抵抗運動が起きるのよ。自衛隊をイラクに出してるから日本人がねらわれて・・・」。
 それにしても、日本政府の対応はひどい。解放された3名と2名に対する小泉首相のコメント、「これだけ迷惑をかけて・・・・」にはあいた口がふさがらない。公明党幹部が自民党のお先棒をかついで、「費用請求を」に至っては、政治家としての資質を疑う。もっとも、国家が統制しようという立場に立てば、フリージャーナリストなんて、迷惑な存在なんだろう。非国民とでも呼ぶのか?

2004.3.14(日)
 女性センターまつりのイベントにかの合唱団が出る、と言うので10時半、すっ飛んでいった。舞台に並んだ人並みの中で手を振る人がいる。吉さんだ。いやまったく、歌いながら客に手を振るなんてルーズな合唱団だ。もっとも、歌っている歌が「水戸黄門のテーマ」、じんせエい〜楽ありゃア〜クもあるさ〜、だからな。早春賦、仰げば尊し、と続きアフガニスタンからのメッセージを歌にしたものが披露されたりで、ごった煮、それでいて楽しい合唱だ。舞台に見覚えのある顔が3っつ4つ。

2004.3.8(月)
 4月29日の憲法集会の準備が進んでいる。メインの発言者を川田悦子さんに予定していたがなんとかOKがとれて、これではずみがつく、か。月日の過ぎることの早いこと。気が付けばもう春。あるようで無いのが時間。

2004.2.25(水)
 スパーでめずらしい人に会った。お茶でも、と買い物をかかえて喫茶店へ。年配のご婦人で、自衛隊のイラク派遣を心配していた。憲法が変えられようとしているのにどうして国民は無関心なんだろう?と問いかけると即座に「そりゃ、みんな食べられるからでしょ。私らの若い頃は食べられなかったもの」。終戦後の激動期、20代でいろいろな活動に走り回った人だ。憲法改悪に反対する勢力が小さくなっていることを嘆いたら、「共産党もね、みんなおぎょうぎがよくなっちゃて」。徳球がね、国会で総理大臣にむかって「脳梅毒!」って言ったのよ、それで国会が紛糾しちゃって、いや〜あの頃の人はかっこ良かった、だと。徳球とは当時の共産党委員長徳田球一。激動の時代を生きてきた人は迫力がある。

2004.2.24(火)
 春ウはア名のみイ〜の 風の寒さよオ〜・・・なんて口ずさみながら自転車をとばす、朝の通勤。最近、歌にこっている。カラオケではない。13日の金曜日には阿佐ヶ谷まで出かけてシンガーソングライター・中川のライブを聴いた。日曜日には区民合唱団のコンサートに出かけた。ま、高砂地区センターでの無料コンサートだったけど。
 考え方というか世界観というか、価値観というか、思想というか、そういったものは言葉で表現され他人(遠くの人や次の時代の人)に伝わる。歌は、言葉と楽曲を歌い手が表現するわけだけど、これは言葉に閉じこめられない何かを伝えるから不思議だ。中川君のバンドを文学的コミックバンドと呼んだけど、これは馬鹿にしてるんではなくて言葉と音楽・歌い手のズレ、ずっこけがなんともほほえましいのだ。かの合唱団は声はいいし、うまいんだけど、主張とかここを強調するといっためりはりが・・・、時代の風を感じない、ウム・・・音楽評論家としては。歌っている歌のことじゃなくて歌っている人の姿勢かな、要は気持ちかな。早い話、楽しければいいんだけど。

2004.2.11(水)
 日曜日の午後、青戸平和公園から亀有駅頭までイラク派兵反対のパレードをやった。
 デモ申請に行った大・尾さんたちは5〜6人でとも言えず、とりあえず30人と申請したんだけど、まあ素人と思われたのか(みんな素人なんだけど)ずいぶん馬鹿にされたようで、亀有警察に3回も足を運んだのだそうだ。そんな話を聞けば行かない訳にはいかない。用事を切りつめて駆けつけたが・・・・、な、なんと、大人33人、子供5〜6人、家族での参加が目立った。バス通りを、シンガーソングライター・中川のギターにあわせて歌ったり、子供の歌声が響いたりのパレードになった。ブッシュ大統領や小泉首相のやっていることは許されざる犯罪だけど、一方でこんな見ず知らずの人達の連帯を生み出している。この連帯が戦争を止める力にならんことを!

2004.1.31(土)
 深夜、「朝まで生テレビ」を見はじめたら、ア〜寝らんなくなっちゃった。憲法とイラク派兵。なるほど、いろんな論があるものだ。小森陽一さんや姜さんは俗論に流されずに冷静だと感じるが、一方、これに対する攻撃を聞いていると、ここまで来たのか、の思いを新たにする。自衛隊はあるんだから非武装中立は非現実的だ! 自衛のための武力まで放棄しろとは言ってない! 国際貢献は応分に果たすべきだ! これは議論を攪乱させる論だ。自衛権は自然権であるから規定するまでもない。近代、侵略戦争は「自衛のために、平和のために」と始まり、自衛の拡大解釈で軍隊を海外に出して戦争を拡大してきた。吉田茂が言っている。どこかの国の話でなく我が国の歴史だ(いわく、大東亜共栄圏、満州は我が国の生命線)。憲法は政府・権力の暴走を規定する法治国家の基本法だ、と私は思う。まずもって、イラク戦争はアメリカ・イギリスによる侵略であった。武力攻撃による解決はあり得ない。そこから論じたらいいと思った。

2004.1.28(水)
 25の日曜日、日比谷公園に行って来た。ワールドピースナウ主催の自衛隊イラク派兵反対集会。舞台に出てくる若者はどうしてこうも薄着、と言うより裸に近いのか、寒くはないか?風邪をひかないか?と、心配になってくる、おじさんとしては。労組の参加が目立ったが、どうもムードが違うのは何なんだろう。集会が終わるとパレード。デモではなくてパレード! これが、かけ声のリズムが違うから面白い。シュプレヒコールとはちょっと違ったラップののり。なるほど、これはパレードだ。

2004.1.14(水)
 
しげきさんの投稿(掲示板)をみて、ため息がひとつ。
 昨年末から友人・知人に憲法9条改悪反対署名を地域で取り組めないかと相談をもちかけてきたんだが・・・、事は何でもいいんだけどその反応はと言えば、何をやるわけ? それぞれがやればいいんじゃない 選挙にでるつもりなの etc 
 相談にならんじゃないか! ちょっとのふんばりと勇気、この「ちょっと」に難癖があめあられ。どうして手をつなごうとしないのかな。「だいたいね〜君たちは・・・」とか何とか、注文がつく。言う人に限って何もしない。そのくせ、いったん事あると群れたがる評論家、この人の壁にはため息。しげきさんへお返しの愚痴ひとつ。

2004.1.11(日)

 新小岩の和楽亭で前職場のOB会がありでかけた。上は79歳、途中退社した私が最年少。飲むほどに酔うほどに仲間の近況報告や情報交換に花が咲くが、そこはそれ社長には良い思い出はなく、自然と今の会社と組合の攻防に話がいく。会社側について定年延長してもらった職長などぼろくそ。「あいつは呼ばない」。この顔合わせで飲んでいると普段忘れている奴でも自然に名前が思い出されるから不思議だ。久しぶりの昔話に飲み過ぎた。 

2004.1.7(水)
 
テレビ評論家として最近のNHK、教育テレビに一言いいたい。コマーシャルが多すぎる! 自局のおすすめ番組の宣伝をこれでもか、これでもかと流す。これがワンパターンでおもしろみに欠けるからよけいしゃくにさわる。そんななかでしゃれていると思ったのが教育テレビの「大希林」と「いろはに邦楽」。コマーシャルじゃなかったか? 短い時間で、手頃であきない。時間埋めならこのくらいのものが欲しい。「うさぎおいし、かの山」のおいしは「おいしい」じゃなくて「追いし」なのねエ〜、なんてやっていた。[カッパの川流れはカッパが楽しそうに・・・・・」、これはジャパネットのたかたさんだった。私事だが、戦争をあつかったテレビドラマなどで、兵士が「先ゆくふこうをお許し下さい」と書き送った、というような場面がある。ついこの間まで不幸だと思っていてどうも意味が通じなかったが、これは不孝だな。「先ゆく不孝・・・」やな言葉だ。

2004.1.5(月)

 今日から仕事だというのに、昨日の夜はテレビの前で動けなくなってしまった。TBSの番組に森山良子が出演して「涙そうそう」「この広い野原いっぱい」「さとうきび畑」と、ヒットソングを熱唱していた。ウ〜ン、何か違う。こういうときだからこそ平和を考える、?か〜?。平和のために戦争だってするんだよ、人間は。ウ〜ン 平和って何だろう? 声はきれいだしうまいし、いい歌だから、それだけにもう一歩踏み込まなければ。
 「海のむこうからいくさがやってきた」という歌詞にひっかかった。違うだろう!海の向こうにいくさを仕掛けて、他国を踏みにじり、あげくの果てに、沖縄に惨禍と苦痛を押しつけて来た。森山の歌う「海のむこう」は太平洋の南の島々のアメリカ軍基地が見える。それはそうだけど、「海のむこう」には九州、四国、本州と連なる大日本帝国があったじゃないか。涙をさそう歌にしてはいけないと思った。被害者の歌にしてはいけないと思った。
 大晦日に12チャンネルで紅白の向こうをはって藤田まことが歌った「さとうきび畑」の方が力強くてよっぽど良かった、同じ歌なのにどういうわけか。テレビ評論家としては。

2004年1月2日(金)
 初詣もかったるいし〜、なぜか肩が痛いし〜(暮れもおしつまって賀状をまとめて書いたのが良くなかった)、家でごろごろの年末年始。紅白歌合戦もちらちら観たけど・・・・・、テレビは12チャンネルが頑張っていたと思うよ、テレビ評論家としては。対抗意識まるだしの独自路線がいい。とか何とか言っているうちに日は暮れて・・・・、やりのこした事を思い出す。
 
2003.12.8(月)
 11月末、三名の在イラク日本大使館関係者の死以来、国論は揺れている。東部地域では3日、曳舟文化センターで自衛隊派兵反対の集会があり、イラク現地から帰って来たばかりの国際ボランテイアセンターの人の報告を聞いた。危険なバクダット周辺、そこはアメリカ占領地域。比較的安定している南部、そこはオランダやポーランドの占領地域。要は、アメリカ軍のいるところでは戦闘が続いている、という現実。そんな色分けもいつまでもつか? 遠からず、全土が軍事占領に刃向かう人々と外国軍がぶつかり合う戦闘地域になるのではないかと危惧する。

2003.11.12(水)
 職場の馬鹿っぱなし。定期健診の結果が配られた。肝機能がCと出た彼、顔をあわすたびに心配を口にする。「ボーナス出たら病院に行って検査してもらおうかな・・・」「医者くらいボーナス待たなくったって行けるだろ」と言う私の横から友人「そうだよ」と相づち。「そんなの待ってたら何年先になるか分からないぞ」。・・・・・?どういう事だ!

2003.11.10(月)
 
衆議院選挙が終わった。応援していた保坂さんは落選。川田悦子さんや保坂さんみたいな庶民の味方の地道な活動は目を引かず、「政権交代」ばかりが取りざたされては選挙も大味になってつまらない。生活や将来への不安とは別の次元のところに政治がいってしまう。結局、永田町の「政治」なのかな。下々には見上げるばかりの天守閣が議事堂で・・・・、封建時代か! と、やつあたり。 

2003.11.6(木)

 職場は零細企業で景気が悪い。暇なくせに朝佐川便で荷物が入ると、夕方までに仕上げだとか明日納期だとかとばたばた忙しい。「いやまったく戦争だ〜」の声に「弾丸はどっから飛んでくる?」とまぜっかえすと「北朝鮮かア〜?」の声。いや、マスコミの影響は恐ろしい。「北朝鮮より昼休み時間まであおる工場長の方がよっぽど脅威だ」

2003.11.4(火)
 「いい気候だし、連休だし、晴れたら・・・・、ユニクロに行くんだ」「情けない。俺か〜?、ヨーカドーにしようかな」 職場の仲間と馬鹿な会話で別れて連休、これがあっというまに終わり、連休明け初日は身体がきつい。
 昨日は文京区民センターでの憲法集会に出かけた。小森陽一さんの講演はちょっと力み過ぎかな、この前より。会場一杯の500人の参加には励まされたが逆にそれだけ憲法9条が危機的だということなのだろう。

2003.11.2(日)
 連日、石渡博明さんの「昌益研究かけある記」を読んでいて今日読み終わった。石渡さんは堀切の人で、地域での組合活動や憲法集会でのつきあいで良く知っていたが、まさかこんな本を書く人とは思わなかった。職場がある足立の知人から地域の友人で出版記念会をやろうと電話があり即座に賛成した。賛成したからには読んどかなければと思い手に取ったが、いや、面白い面白い。夢中になった。昌益・・・、内藤だか安藤だかも知らなかったが、読んでみると、現代に生きる私たちの姿勢を問い直す好著。昌益とは、江戸時代中頃、町医者を業とし独自の医学・社会変革・思想を展開した安藤昌益。

2003.10.26(日)
 19日(日)八広の朝鮮第五初中級学校での学校開放とフェステイバルにいった。授業参観もどうぞということなので気軽に出かけたが授業は朝鮮語。若者二人が付いてくれて低学年、英語の授業、日本語と、理解しやすいところを選んで案内してくれた。校庭でのフェステイバルにも付き添って飲み物を運んだり解説をしてくれたり、その二人に感心した。はつらつとしていて、若いってのはいい。親の親睦と卒業生の同窓会と地域の人たちとの交流と、盛りだくさんのイベントで心地よい興奮を味わった。
 ほろ酔い気分で亀戸中央公園にむかい、団結まつりのひやかし。知り合いの居る出店で買い物をしたりしてそこそこに会場をあとにした。実はこの日、金町の地区センターで田中弥須子さんご夫婦の「ちぎり絵展」が初日、良い天気に恵まれ、金町に飛んだ。
 夜、奥戸の飯村さんの奥さんがくも膜下出血で入院の連絡が入る。ほどなくして亡くなったとのこと。50歳。まだ若い。23日の葬儀に行った。

2003.10.15(水)
 先週土曜日、ウイメンズ・パルで教育問題の市民団体主催で小森陽一さんの講演会があった。定刻前に行ったら若いご婦人ばかりできまりが悪かったが行ったかいがあった。教育基本法を変えようとする勢力のねらいはなにか?背景は・・・、迫力ある話は納得できるしわかりやすかった。今、学校現場がいかに管理教育にしばられているか、内心まで管理しようとする「心のノート」、七生養護学校での保護者と教師集団のつくりあげてきた性教育を偏向・卑猥教育と決めつける一部政治家や教育委員会の動き・・・・。「10年後には徴兵制」がリアルでぞっとした。

2003.7.19(土)
 昨日、自転車で葛飾区役所から江東区の潮見教会まで走った。例年やっている「ピースサイクル」に参加してのこと。途中、北砂の「東京大空襲・戦災資料センター」に寄った。実物の資料が訴えて来るものには息の詰まるものがある。30メートル間隔で大きな焼夷弾、15メートル間隔で子爆弾、焼き尽くす事だけを目的にした空爆が行われた。小名木川や横十間といった運河が死体で埋まったという証言、「川から死体を引き上げても、また潮が満ちてくると川は死体でいっぱいになるんだよ、どこからくるのか・・・・」と、当時の様子が淡々と語られるビデオは1978年にNHKが放映したもの。
 館を出て、葛西通りを明治通りにむかい走る。ここが火の海に、と思うと見慣れた景色が変わって見えた。ここで暮らしていた人たちにとっての戦争は3月10日、午前0時半過ぎから3時までの数時間、そこから始まったのかも知れない。それまでは普通の生活があったのだろうが、それも「戦争」だった。そのことを知るのはずっとあとになってから。
 
2003.7.1(火)
 久間章生氏(自民党政調会長・元防衛庁長官)の言葉。「90人の国民を救うために10人の犠牲はやむを得ないという判断はあり得る」。有事法制に関する議論のなかで(6/30朝日新聞朝刊)。なるほど、もうちょっとストレートに言えばいいのに。「大企業や大手銀行を救うために消費者や預金者の犠牲はやむを得ないという判断はあり得る」。
 姜尚中さんの「日朝関係の克服」(集英社新書)をすすめられここ数日没頭した。冷静な展開にうなる。「目の前にある危機」はたくさんあるけど、彼の言う「いまそこにある危機」はとてつもなく大きいが、私たちの力でも回避できる危機、と信じて。

2003.6.20(金)
 区役所の職場では今「行政評価」にきゅうきゅうとしているようだ。区民によるサービス評価、聞こえはいいがどうも現場への締め付け、人員削減の材料つくりのようだ。人が減らされているところへ「評価報告」作りに追いまくられているんだと。それも数値化して。来館者が○名、利用者が×名、等々。図書館などは来館者を増やすために努力しているとか。しかしねエ〜、行政サービスはサービス業のサービスとは違うでしょ。それぞれのサービスは全区民を対象にしているわけではなくて、必要な人への区としての必要なサービスで、それぞれそういう役割があったと思う。住民票取りに行っても手数料取ったり、図書館窓口をパート労働者にしておいて、そこから「評価」だというんだから土台が違うんだと思う。いきおい、図書館は人気本を取りそろえたり受験生の学習室になったりしていく。何のためのサービスだったのか? そこで働く人たちはそんなことを考える余裕もなく疲れている、という悪循環。理念も使命も無いんだ、ただ経費節減。
 あッ、そう言えば区議会総務委員会で約13億円の伊豆高原保養所を1億3千万円で売却することが決まったと、友人からメールがはいっていた。経費節減の裏で資産投げ売り、だ。

2003.6.18(水)
 ごみを出し場をどこにするかでご近所の人と道端会議を繰り返していたが、公園の前の歩道でどうだろうかとまとまった。そこで、お隣の団地自治会や区の清掃事務所との調整に私があたることになった。先日自治会長さんに話を持っていったら「役員会を開き決める」とのことなので、そんなにしゃちほこばらなくてもとお願いしたらいい加減ではいけませんとおしかりを受けた。清掃事務所の方に連絡すると担当の環境美化委員に連絡が行き近々この美化委員を交えご近所の人たちで道端会議ということになった。元はといえば・・・・、今の場所が歩道の植木を傷めると苦情がはいったことから始まるのだが、どこか・誰かにご迷惑をかけることにはなるのだからお互い様といけばいいんだが、なかなかそうは行かない。いやはや。

2003.6.17(火)
 先週は連日予定が入りいささかくたびれた。そのせいもあるのか、テレビのニュースを見るのがおっくうになった。世の中の動きは新聞で知るが、これも老眼の進行か根気がなくなった。北朝鮮の貨物船への検査の強化だとか、イラクへの自衛隊の派遣、税制改革案では消費税を二ケタにとか、嫌気がさす方が普通の神経ではなかろうか、とも思う。身の回りと明日あさってのことで振り回されていればそれはそれで心地よく疲れる。
 上野の都美術館に東金町の田中さんご夫婦の絵を見に行ったのが日曜日。招待状には「お二人様入場出来ます」とあったのに一人でのおでかけはさみしいものがあるが出かけて良かった。お二人の元気な様子に励まされた。

2003.6.5(木)
 図書館で受付のご婦人に「先月の朝日新聞みたいんですが、一ヶ月分」とお願いすると、はてどうしたものかと隣の係の人にきいている。後ろにいた女性が出てきて書庫に案内してくれたが「どこで読みますか?」ときた。ここにあるのは前半の半月分だけ。閲覧室で読んでいると係の人が後半をとどけてくれた。新聞はまとめて折ってあったり、幾日かの分が無かったり、どうも整理された形跡がない。イライラしてきた。そこへ館内放送、「閉館15分前」。と、係の人が入ってきて椅子をかたづけたり、閉館準備。せき立てられるように受け付けに行き、返却の時にお礼と一緒にさりげなく「○日と×日の朝刊がありませんでしたよ」と言ってみたが何の反応もない。いや〜、専門の人やベテランがいないんだ。みんな素人さん。図書館は本が置いてあればいい、くらいの感覚なのかもしれない、葛飾区は。それでも本や新聞が置いてあるんだから、図書館は図書館なんだ。それだけのもの! もったいない。

2003.6.2(月)
 土曜日の夕方、職場の駐輪場から私の自転車が消えた!消えたんじゃない、盗まれた。職場の人に聞いても勝手に使った人はいなかった。幸い雨はあがっていたけれど、とぼとぼと歩いて帰ってきた。家に帰ったらさんざん。「鍵はかけてあったの?」「つけっぱなし・・」「持っていって下さいって言ってるようなものよ」とかみさん。
 余分な出費が出来たナ〜と、憂鬱な気持ちで出勤したら、な、なんと、あるではないか、私の自転車、土曜日の朝置いたところに。あれは何だったのか、土曜日の夕方の幻覚か、狐につままれたのか、はたまた人の良い泥棒の仕業だったのか。

2003.5.25(日)
 土曜休みがないと日曜日はデレ〜と身体を休めて日が暮れる。それでも、午後からなんとか「会報」の制作・印刷をすませた。発行が遅れていたもの、次号はもっと多くの人に原稿を頼んで、記事も身近なものに、とできあがりを見て反省。毎度の事に落ち込む。区議会区民委員会で議員定数現行46を40にする案が検討されている、と共産党のチラシにあった。会報1面の記事、そのことも取り上げれば良かったか、などとまたしばし反省。あとの祭りは明日になると忘れてしまう。

2003.5.17(土)
 15日、亀戸で有事法制反対の集会があり参加した。この日、法案は衆議院本会議で可決。それにしても民主党の修正協議はなんだ!国会が国会の役割を果たしていない。かけひきに明け暮れている国会は別世界のように思えてくるが、ここで税金や年金、暮らしに関わるすべての法律が決まっていくんだと思うと憂鬱になってばかりも居られない。雨のなか錦糸町までデモ。沿道の人たちは好感触。先憂後楽と心得よう。

2003.5.12(月)
 この数週間じんましんが出て、久しぶりに医者に行った。「何か悪い物でも食べたかな〜」と先生。思い当たるのはでん六豆を食いながら酒を飲んで胃の調子が悪くなったことくらい。「食べ過ぎでじんましんはでませんね〜」だと。別の医者に診てもらおう。

2003.5.7(水)
 新潟のセメント会社坑内火災の死亡事故は事故か!? 悪い記憶がよみがえった。エネルギーの多くを石炭に頼っていた頃の日本、北海道や九州の炭坑で火災や爆発で多くの人が亡くなった。坑内火災や坑内爆発は現場で働く労働者の発言権が強くなるにしたがって減ってきた。地の底で働く人たちへの最低限の条件さえ削られた結果が死亡事故ではないのか? 残酷な労働、これがじわじわ拡がっているような気がする。ご冥福を祈ることさえ申しわけないような無念。

2003.5.5(月)
 3日、息子の結婚式で久しぶりに親戚一同が顔をあわせた。下の息子もいとこ達もカメラといえばみんなデジカメ。式までの時間にロビーでだべっていると「私が写真とってあげるから」、とかみさんがいとこ達を並ばせた、ところまではいいのだがその後がながい。「どこをのぞけば・・・・」「のぞかなくてもいいんだよ」
 若いつもりでいても、時間は残酷に過ぎてゆき、若い世代は確実に成長している。

2003.5.1(木)
 29日、憲法集会は受付名簿では66名の参加でいい集会だったが、100名を目標にしていた私はちょっと落ち込んでいる。イヤ、反省、総括に思いをめぐらし・・・・、落ち込んでいる。山内敏弘さんの講演は有事法制がアメリカの要請であることを明らかにしていたが、マスコミの論調は「北朝鮮の脅威」と「備えあれば・・・」のムード。落ち込んでいるのは集会の成否よりこの圧倒的ムードに対する無力感からか? と、再び反省。反省だけなら猿でも・・・、とささやく声がする。昨年の憲法集会の講師の浅井基文さんのホームページに面白いコラムがあったから、プロジェクト平和のページに転載してみる。

2003.4.20(日)
 青戸のセイフーは何だ!? と、つい先日の花見の時の話。友人のEさんは買い物のかごを下げたまま店の前の信号を渡りかけて焼鳥屋のおやじさんに注意され、あわててレジに駆けもどった。仕事に疲れた帰宅途中に店に入り、食料品や飲み物をかごに入れ2階か地下から出てくるとき考え事などしていると、ついそのまま外に出てしまう・・・・・。「それは単なる不注意!」というみんなに対して、「イヤ、私一人では無いはず!」と彼女は言い張る。その迫力におされて風向きが変わる。だいたい地下に酒類と文房具があるのがおかしい、お菓子や冷凍食品は2階でお総菜やパンは1階じゃまぎらわしい、レジの位置がおかしい、俺はその日の買い物にあわせて順路を考えて入るよ、とケンケンがくがく。万引きの心配は無いのか? おおらかなのか、やっぱり、青戸セイフーの店のつくりがおかしいのよ、仕事に疲れた女性には。

2003.3.29(土)
 都知事選告示前日の26日、樋口恵子さんを応援する人からなにかしようよという連絡が入る。ポスターはなんとか貼りきる体制が組めたようだけど、実際準備時間が足りない。反石原で、この4年間に被害を受けた人たちやあの人の言動に怒っている人たちが一緒に行動できたらいいのだが、・・・・。

2003.3.18(火)
 夜の10時からBSで「夢千代日記」をやっている。ひょんなことから見はじめたらやみつき。外で、用事がすむとふと時間が気になる。さあ、今日は飲まずに帰るか・・・、と飛んで帰る。ニュースステーションなんか見てるよりよっぽど面白い。吉永小百合を主役にもってきたからその脇役も豪華、ぜいたくで話の筋とあいまって、引き込まれる。一杯飲んだりしたらもうおしまい。やらなければいけないことはいろいろあったんだけど・・・・・。

2003.3.9(日)
 12時30分噴水前集合だったが人出はちらほら。話が違う、なんてだべっていたら、目印の旗を見つけて日比谷公園の管理の職員が来た。「集会はやめて下さい」と、まあ、あちらの方が緊張気味。そんなこんなで野外音楽堂に移動したときにはすでには中は満杯、公会堂の周辺や公園のあちこちでいくつもの固まりが出来て集会やらパフォーマンスやら、外もけっこうにぎやかだった。3時をすぎても年配のご夫婦や小さな子供を連れた家族、若者の一団が野外音楽堂めざして集まってくる。戦争反対!のわりにはどの顔も楽しそう。??不思議な集会。これは何なんだろう。
 銀座を練り歩いた。私は解散地点からもう一度歩道をとって返した。延々と続くデモ(パレードとも言う)。それが何とも、固まり(悌団とも言う)ごとに個性的というか、違う。違うのはあたりまえなんだが・・・・・。一人ひとりが考え始めている、そして表現している、そんなカオス。

2003.3.8(土)
 先日、高円寺までライブをききにいった。お目当ては「善福寺川」。小菅下水下請けユニオンの中川君が仲間4人で始めたバンドで、いろいろお世話になってるから、義理と言えば義理。ところが、沖縄音楽の三線、アイリッシュのアコーデオンが一緒に奏でる、イヤ〜、おもしろかった。癒し系と言えば言えるが、星めぐりの歌(宮沢賢治)と初恋(島崎藤村)を一緒にした曲などは、・・・・文学的コミックバンド!葛飾でのイベントにぜひ呼びたい。乞うご期待。・・・・・今日はこれから日比谷だ。

2003.2.22(土)
 葛飾区の来年度予算案の概要を見た。福祉予算は旧立石地区センターに駅型保育所を設置するなど、新規事業が並び、全体には減ってはいないようなのだが・・・・、「福祉再構築」の目玉はそれらの民間事業者への委託にある。これは人件費の劇的な削減と区財産の投げ売りをうみだすだろう。無駄のない予算の使い方、そこには理念が反映する。特別公務員や幹部職員の給与削減などは聞こえてこない。

2003.2.9(日)
 ノンステップバスに乗った。地面すれすれのところを走っていく感覚はたまらない。イヤ〜、いいもんだ、まるで遊園地の子供。ウキウキ気分で車内を見回せば、中年のご夫婦やお年寄りの一団。なにやら土産物を広げて品定めをしている人もいる。にぎやかな散歩道の延長にバスがある。輸送機関としてのバスは見直される時に来ている、と思った、小さなバスの旅でした。ま、時間的に余裕のある時の話ですが。

2003.2.7(金)
 連日のニュース番組での北朝鮮報道はなんだ! 拉致事件をつかんで離さない、これを好機として反朝鮮世論をつくりあげようという悪意がある、と思える。まるでかの国は「悪の枢軸」とあおりたてているようで、その先に何があるのか不安になる。
 アジア大会出場の北朝鮮選手団の人が「マスコミ報道が怖い」と言ったとか、在日朝鮮人学校関係者が内閣府に民族衣装チマ・チョゴリ切り裂き事件の防止要請をしたとか、という報道に接すると情けなくなるのを通り越して、この国が嫌になる。国交回復、拉致事件犯罪、良き隣人・・・、いろいろな関わりがあるだろうに。一色に染まると、何をやりだすか分からない日本人はまだまだ国際人にはほど遠い。

2003.2.4(火)
 京成バスが大揺れにゆれている、のかな? 会社はバス部門の分離、分社化を提案していたが組合の賛同を得られず、「棚上げ」にする、としたのが昨年の夏だったか、しばらく前。はやりの分社化と言うことだがバス部門の労働者は4割の賃金削減計画だというから、賛成するのは会社にいい思いをさせてもらっている者だけだろう。ところが、春闘を前に、分社化もやむなし、という声が組合内部にもあるのだよ、とは友人の裏話。会社も必死、いくら使おうが法に触れようが、もうけのためなら何でもやる。組合のなかに「いい思いをしている」のがいるんじゃケンカにならんだろうが〜! 人件費をけずってもうけを増やすようなやり方で安全輸送が保たれるわけがない。どうなることか、やきもきする。

2003.1.31(金)
 
掲示板に水元の木下さんから音信不通にご心配の声が寄せられていた。ありがたい。メール送ったけど、読んでくれたかな。
 昨日、写真展のご案内に南葛飾高校(定)の職員室を訪ねたらめずらしい先生に出会って、校門を出るときは幸せな気分にひたった。学校の先生はだいたい10年をめどに移動させられている。それも仕方のないことなんだろうけど、なつかしい先生がいなくなった学校なんてただのコンクリートの箱だ。

2003.1.28(火)

 新年あけましておめでとうございます。と、まあ、寝ぼけた年明けになりました。昨日、友人の天ちゃんに通信機能がダメになったからとたのみこんで来てもらって、やっとなおりました!? 壊れていたんではないのですよ、これが。設定のところで「ユーザー」の名前が間違っていたとか、トラブルの回復を1999年の時点にしたとか、要はイロハのイが間違っていたと言うこと。「思いっきりへこんで下さい」とは、雨の中なおしに来てくれた彼のせりふ。

2002.9.13(金)
 17日から1週間、中国の東北地方に旅立つ友人の「壮行会」を開いた。中国黒竜江省などが「731部隊遺跡を世界遺産にしよう」と呼びかけ、それにこたえて日本のいろいろな団体や個人が遺跡発掘・保存のための募金に取り組んだ。その報告のための訪中団。先月27日、東京地方裁判所は「731部隊」による被害者の補償裁判で、細菌戦の事実を認めながら賠償請求は認めない判決を下した。戦後57年目にしてその事実を認める、それだけ闇に隠されてきたということだ。次の世代がこの事実をどう語り伝えていくか、宿題はおおきい。

2002.9.8(日)
 6日、いかす会の運営委員会。私は夏ばて気味で、討議すべきことの準備もできてなかった。が、参加者の一人から住民基本台帳ネットワークへの不安と不満が出された。「払い込みの通知かと思って開いちゃたら、これが番号なのよ」「どうしたもんだか、そのままにしてあるよ」「俺のところには来てない!」等々、対応はさまざま。区に問い合わせた人の話では、区は「個人情報保護条例」を作っているから心配いらない、んだそうだ。こんな住民管理には反対の声が大勢をしめたが、さて例の通知、どうしたものか。区役所に返していこう、というところに落ち着いた。

2002.9.7(土)
 世に言う「美人女優」、私らの年代では吉永小百合、その前では原節子。そもそも、美人など個人の趣向で、原節子なる女優、どこが美人か、と思っていたが・・・・、いやいやなるほど。NHK衛星放送で「黒沢明特集」をやっていてついつい観てしまった。連日続いたが「我が青春に悔いなし」は、初め観た。昭和21年制作。戦前の京都大学での学園自治弾圧を背景に、教授の娘の変化と成長が映画の柱になっている。この教授の娘役が原節子。いやいや、この映画では美人だ、泥にまみれていても。そう言えば、私の知っている吉永小百合は「キューポラのある町」。「美人女優」は顔の造作もあるけど、なんと言っても社会性のあるいい映画・作品によってつくられる、なんて納得した「黒沢明特集」でした。

2002.8.18(日)
 普段からテレビはよく観る方だが、休みが続いて、ついテレビの前でボ〜としてしまう。それにしてもおもしろい番組がない。ちょうどクーラーの風が心地よいのもあるが、ア〜、馬鹿になる、馬鹿になると思いながらその場から立ち上がれない情けなさ。
 ふらっと見はじめてひきこまれるものもある。そんな番組のひとつが「世界、わが心の旅」。このところいいのが続いている。旅人によるんだろうな〜なんて思いながらも、よくこういう人とテーマを見つけてくると感心しながら、テレビの前で座り込む。ア〜やり残したことがいっぱいあるのに。明日から仕事だ。

2002.8.16(金)

 青戸の三谷さん亡くなって2ヶ月。線香でも、と友人と訪ねたら・・・、キリスト教の葬儀だったとのこと。亡くなる直前に洗礼を受けた。奥さんからいろいろとお話をうかがうことができた。80歳、肺ガンだった。桜まつりには病院からの外泊中に出かけてきてくれた。4月29日の憲法集会でも真っ先に浅井先生に質問していた。芝公園の有事法制反対の集会に行き、東京駅までデモをしたという。肺ガンも末期だというのに。
 20代の何年かを中国で一兵卒として侵略戦争に関わった。彼の軍隊批判、天皇批判の土台にはそのときの体験がある。戦後は学校給食の現場で働いてきた。「中国びいきで、日本のことはぼろくそ、日本人のくせにね」と奥さんは笑っていた。「テレビみてても、天皇なんかが出てくると勝手に切っちゃうんだから」。夫婦げんかはいつも政治や社会のことで始まったそうだ。6月に入って足腰が弱ってきたが最後まで自宅で養生し、15日朝、病院に運ばれて息を引き取った。
 戦争責任をあいまいにしてきた日本人に怒り、政治に怒り、そして登山や植木の話になると相好がくずれる三谷さんでした。会へのご支援に心から感謝。

2002.8.6(火)
 暑中御見舞い。いや、暑い。若い女性の肌をあらわにした服や、下着のようなファッションがめだつ。苦情を言う気は毛頭無いが、去年もこんなだったっけ。仕事帰り、雑踏を自転車でふらふら走っていると目につく、目につく。ア〜・・・、これも、地球が温暖化している証拠のひとつか、・・・・・ボッ〜とした頭がかすかに回転して、ふとそんなことを思う。暑さにやられている。

2002.8.4(日)
 若い女性のゆかた姿がめだつようになった。昨日も昼間の京成線で、何人も乗り合わせた。江戸川の花火にしては時間が早すぎるが、まいっか、車内が華やかになる。数日前は砂町の花火、その前の火曜日は柴又。夏のイベントとしてはおてごろだけれど、あっちでもこっちでもやっているからありがたみに欠ける。「どうする、花火・・行くか?」と江戸川の友人に声をかけると「俺んとこからは毎日みられるからな、決まった時間に」だと。だから嫌だよ、中年男は。ベランダからデイズニーランドの花火みて何が楽しい? 空中で火薬が燃えるのをみにいくわけじゃないんだから、とは言う私も、あの人混みの中に出て行くのがわずらわしくなって、居酒屋で暑気払い。

2002,7,23(火)
 昨日は亀有で「人らしく生きよう」上映会(催し物案内参照)。受付を担当した。会場費からはじきだした参加者は135名。会場は準備した椅子席満杯。労働組合関係や友人・知人を通じてチケットがまわっていたけど、それとは別に、ふらっと観に来た人やポスター・チラシで観に来た人がたくさんいた。
 闘争団への会場カンパでは1万円札が1枚、5千円札が2枚あった。金じゃないんだけど・・・・、びっくりした。心寄せてくださる人たちの熱意に感謝。

2002,7,13(土)
 床屋ばなし第2弾。12月のこと、倒れる椅子に身をまかせひげ剃りがはじまると、気持ちよくなってうとうととしてきた。FM放送からクリスマスソングが流れていた。「もう年賀状はおだしになりましたか?」 曲のあいまにやさしい女性の声がした。「今年も残すところ1週間、年の瀬のあわただしい・・・」 !!?? やりのこしたことがぼーとしていた頭をかすめる。「今日は幾日?」と、思わず声をあげてしまった。カミソリを持ったお兄さん、なにくわぬ顔で、「去年のFMラジオのクリスマス特集できれいな音楽やってたから録音しておいたのよ」・・・・ まぎらわしいことするな!

2002,7,6(土)
 行きつけの床屋は待ち時間にビデオをながしてくれる。大画面の迫力、部屋の隅々からわいてくるような音響、ゆったりとしたソファーで劇場の気分(?)。話題の映画はだいたいここで観る。ただ、いいところで髪を刈る順番が回ってきて、「タイタニック」は4回ぐらいに分けてみ終わった。今は「ハリー・ポッター」がメイン。リクエストにもこたえてくれるが黙っているとこれ。洋画専門。店のお兄さんは「客をみて映画を選んでいる」とのこと。映画が流れてないときはNHK教育テレビの「スペイン語講座」なんかやっているから怪しい。夜になると奥から酎ハイやらコロッケやらを運び込む人がいて床屋とは思えない。以前、店をのぞいて客が多いから帰りかけたら、「次やるよ」との返事には驚いた。全員ひやかし。知る人ぞ知る、どこの何という店かは、秘密。

2002,7,5(金)
 
東新小岩の蔵前橋通り沿いにある杉本石油ガスの従業員2名が解雇されて1年になる。30日日曜日に会社への抗議集会があり行ってきた。この会社はプロパンガスの配送を業務としているが、米の宅配も始めていた。この米、魚沼産のコシヒカリとか多胡米とかを販売していたが、表示とは違う米をまぜて販売していたから従業員は再三やめるように言っていたが会社はやめない。そこで、顧客に実態を暴露する印刷物を送った。これが解雇理由=業務妨害。
 数日前の朝、米の不正販売摘発のニュースをテレビでやっていた。先の事件もマスコミの目にとまり、取材もあったようだが「係争中の事件」として、片方の当事者の側に立てないと取り上げられなかったそうだ。不正販売もひどいが、不正を摘発した従業員を解雇するやり方の方がもっと悪い。それを報道することもできないマスコミのていたらくに腹が立つ。

2002,6,21(金)
 近所に年中無休の「ドンキ・ホーテ」が開店して幾日かたつが、初めて店の前を通った。10時をまわったというのにけっこうなにぎわいだった。駐車場に入る車が水戸街道に何台か並び、都営住宅側の歩道には女子高生とおぼしき数名がすわり込んでおしゃべり。まばゆいばかりの店先。さそい文句には「翌朝5時まで営業」とある。
 出店にさいしては、近隣住民の反対運動もあった。いや、いまでも反対や不安に思っている人はたくさんいる。が、すでに利用している息子は「いやー、何でもあるよ」と感心しきり。便利なことも事実。その便利さに引きずられて暮らしが大きく変えられる。これを専門用語では「ニーズがある」。これが強い。

2002,6,18(火)
 ニュースをみようとテレビのチャンネルをあわせるとサッカーばっかりでうんざり、やれどこそこで盛り上がったとか、チームの様子はどうとか。とは言う私、サッカーは大好き。息子二人も清和イレブンOBで、テレビ観戦中に「あ〜、おしい」なんてつぶやくと「だから素人は困るよ、あれはネ・・・」などとクレームがつく。攻守の切り替えがたまらない。イタリアに対する韓国のあの気迫はわくわく。結局パソコンに向かうのが11時過ぎ。連日こんな試合が続いては・・・、疲れてしまう。

2002,6,13(木)
 官房長官の「核武装容認発言」、食品添加物に無認可の香料使用問題、防衛庁の情報公開請求者調査リスト問題、輸入食品(ホウレンソウ)から基準値の6倍もの農薬検出、どれをとっても、サッカーワールドカップの時期とずれていたら大問題になったろう。
いや、大問題なんだけど・・・・・。連日くろひろげられるレベルの高いサッカーは確かにおもしろいが、それは真剣勝負がおもしろいんで、マスコミははしゃぎすぎで無責任だ、と思う。 

2002,5,28(火)
 かみさんの母親が亡くなり、26日通夜、昨日葬儀とあって、普段会わない人たちと、普段とは違う時を過ごした。実家は浄土真宗大谷派で、仏に尻を向けずに坐るとか線香は立てずに折ったりとか、独特のやり方がある。お経を聴いているとその心地よいリズムにうとうととしてくる。遠い昔の野辺送りの空気を伝えているのか、なんぞと思いながら故人を偲んで、別段不満はないが、お経はわかる言葉でやってほしいと、どの宗派であれ、葬儀に出るたびに思う。

2002,5,25(土)
 千駄ヶ谷の駅のホームから人の流れができていた。昨日のこと。夕方6時半をまわってしまったので道を急いだが交差点には人があふれていた。有事法制に反対する集会会場の明治公園はほぼ満杯、4万人であふれた。デモは3コースに分かれて出発。私は国立競技場・神宮球場の近くを通り、国会議事堂、日比谷公園のコースに。国会前ですでに9時30分というハードなデモンストレーション。もっと人がいたら・・・・。
 今日のこと。国立競技場はサッカー日本代表とスウエーデン戦に5万人をのみこんだ。いちサッカーフアンとして言わせてもらえば!・・・・・・この演出と過剰報道には嫌なものを感じる。

2002,5,13(月)
 きのう、知り合いにさそわれて巣鴨の戸田講堂で開かれている「周恩来展」に行ってきた。日中国交正常化30周年記念のイベントが各方面で開かれているが、これもそのひとつ。いくつもの細い流れが大きな流れになって国交が回復した歴史を学んだ。それにしても、留学先の日本から帰国し、「五・四運動」に参加した周恩来、19歳・・・。その生涯に圧倒される。

2002,5,11(土)
 テーブルの上に小さなひまわりを何本かまとめた花束があった。昨日、入院しているかみさんの母親のお見舞いにいった息子が買ってきたものだった。病状が悪いからか、病室には置けなかったようだ。カーネーションというわけにもいかなそうだ。明日は「母の日」。

2002,4,28(日)
 朝、松戸のフリーマーケットへ車をとばす。天気はいいし、道はがらがら。ゴールデンウイークなんだと実感するが、私には残念ながら遠出の予定がない。近場で、それも印刷作業や集会準備。明日の護憲集会の人の入りが心配で最後の悪あがきにがんばるか・・・。

2002,4,27(土)
 4月から働き始めた下の息子が夜勤明けで帰ってくると、「先輩からメーデーに誘われたヨ〜」と言う。一瞬、何のことかと思ったが、職場の労働組合の人から誘われたんだと。連合は連休のはじめにメーデーをもってきたのだった。「メーデーは5月1日だよって、言ってやりなさいよ」とはかみさんの声。

2002,4,24(水)
 「有事法制」について学習会に出ていったり、新聞記事をあつめてみたり・・・・、するのだがそこまで。テレビのニュースに映されるパレスチナやアフガニスタンの人たちの恐怖や痛み、苦しみが遠いところの話では無くなっているのだが、テレビニュースは気楽に次の話題に飛んでいく。それがイチローの三塁打だったり、シンジョーの連続安打だったり。戦争まで小さな画面におさめてしまう機械に、人間の想像力はどこまでたちむかえ、勝てるか・・・。

2002.4,14(日)
 戦争体験をきく集まりで20代の前半を中国山西省と沖縄戦の前線ですごした近藤一さんの話を聞いた。中国から沖縄戦にまわされた彼の部隊は、1945年4月から6月の約80日の間に186名が5名になっていたという、すさまじい体験。文字通り体当たりでアメリカ軍の戦車に立ち向かった、兵士の目からみた沖縄戦。軍隊が住民を守らなかった、という論調には強く反論していた。が、日本兵が中国でしてきた蛮行、文字通り「東洋鬼」であったのも事実。一兵士が責任を感じて、侵略戦争の悪と平和憲法の意義を訴えている。
 あいまいにされた戦争責任は戦後のこの国のリーダーの責任の取り方に深く影響していると思った。

2002,4,13(土)
 TBSラジオを聴いていたら永さんのコーナーにイ・ジョンミさんがでていた。葛飾にまつわる話題が次々にでてきて楽しかった。コンサートにいくチャンスが何回かあったが、歌を聴くのに金を払うのもばかばかしいとまだ行っていない。ラジオから流れる歌声を聴くと、たまには文化に触れるのもいいかなア〜なんて思った、久しぶりの休日の朝。

2002,4,4(木)
 自転車での通勤の途中で自動販売機に寄ってお金を入れたら、どこからともなく「おはようございます」の声。自動販売機がしゃべった。朝だってことが分かるのだろうか・・・、なんて思いながらジュースをとりだすと、「行ってらっしゃいませ」! ・・・・・機械に言われたくない。

2002,3,29(金)
 夕方、立石駅頭で「人として生きる=国労冬物語」映画上映会のチラシを配る。踏切の両側には別の一団。居酒屋の案内らしき若い男女。公衆電話の前には営業マン風の青年がチラシ配布。こちらは曳舟にできたマンションのご案内。イヤア〜、どちらさんも大変だ・・・、なんて関心した、花の金曜日。

2002,3,27(水)
 新しいスッタフで会報「爽風」の編集をはじめて、いよいよ製作となった。夜遅くまでパソコン相手に紙面を工夫し、印刷。どんなものかは見てのお楽しみ。サア〜、終わったら青戸団地の桜の下ででも缶ビールで花見としゃれこもうかと思って出たら寒い。花見は流れて、家路を急ぐ。

2002,3,25(月)
 約一ヶ月ホームページの更新をせず、やっと再開。なにを隠そう、ADSLにしたのはいいが何度接続してもつながらず、頭をかかえていました。旭ネットのサポートデスクに電話しても、いつかけても「お話中」。リダイヤルをくり返しても「混雑していますので後ほど・・・」とくりかえすばかり。後ほど・・・とかけてみると「本日は終了しました」。時計をみるとぴったり5時。やっとつながったら何のことはない、オプションを申し込んでなかっただけのこと。誰が悪いんだ・・・・無知な私が悪いのか・・・。

2002,2,28(木)
 有事法制がテーマの講演会ということで出かけてみた。講演は評論家の佐高信さん。おもしろおかしく話題がとんで漫談をききにいったようだった。昼間の国会参考人出席のあとで緊張がゆるんだのか、豊富な知識と情報量がこちらの容量を越えていたのか、わからない。クリーンな鷹はダーテイな鳩よりたちが悪いというところが記憶に残った。日中国交正常化に動いた田中角栄に対して、台湾擁護で対抗したのが中曽根や石原たちの「青嵐会」、福田派。・・・・30年の時の流れのあとの大渦。

2002,2,21(木)
 友人の弟が職探しで葬儀屋を紹介されたときのこと。20代の彼はすっかり気に入られたが、迷っていたら「うちは成長産業ですよ」と。・・・確かに。
 NHKの深夜の番組で、アメリカで急成長している民間刑務所を放映していた。規制緩和の国、アメリカでは刑務所まで民間に委託している。刑務所を誘致した市長はこれで雇用がうまれ、経済効果は・・・・、と誇らしげに語る。おまけに、大手メーカーと提携して、受刑者の懲役をそこにまかせて利益をあげている。メーカーは最低賃金で労働力が確保できた。「勝手に休まれたりしなくて効率的」とは工場長の弁。刑務所経営のポイントは、なるたけ空きをつくらないこと。良くできたブラックユーモア・・・・ではなくて、「ドキュメント地球時間/米・刑務所が`ビジネス`に」

2002,2,19(火)
 掲示板に教科書問題について中学生からの投稿があった。それへの助言や意見がつづきわたしも意見をおくったのだけど、いろいろ考えさせられた。教育基本法を変えよう、というような政治的な動き、一方で教育現場に競争原理をおしこもうという動き、国旗・国歌の押しつけなど歴史教育の問題、いっしょくたに押し寄せているように思う。ふと、昔読んだ「太陽の子」(灰谷健次郎)を読みたくなって本屋で文庫を買い求め一気に読んだ。

2002,2,14(木)
 年賀状が届いた。使い残りの賀状を使って事務連絡か、とおもって手に取ると、年のはじめのあいさつと年頭の抱負があり、どうも違う。なになに・・・・琉球元旦(2002年2月12日)。ちょうどこの時季が新春にあたるのだ、太陰暦では。春ウ〜はア名のみイの〜風の冷たさもここちよく、新年は今日から始まったことにしよう、などと得した気分で街にでた。

2002,2,11(月)
 4月29日に予定している変えるな憲法・集会の準備会のおさそいに年輩の友人を訪ねた。「憲法がどうのじゃなくて、もみ手をしてご機嫌をうかがうような国民が悪い!」と立腹。「私は役所のロビーで会ったって部長だろうが課長だろうが、うそつき野郎と呼び捨てだぞ。うそつきはうそつきなんだから」と過激! 話はかみ合わずしばし討論が続いた。「態度だよ、奴らとこっちの」と彼。「国民が卑屈になっているからうそつきがのさばるし、悪政がはびこるんだ」
 「態度だよ、態度」・・・・まったく、平等だ、人権だ、なんて言ったって、そこにすべてがにじみ出る。

2002,2,9(土)
 昔の職場の同僚と会い、道端で立ち話。失業保険の給付が切れて1年になるという。「それで、仕事はどうよ?」と私。「やめた・・・、探すの」と彼。世上言われる失業率は「働く意志と能力があるもの」を言うんだと。彼は失業者でもない! 5%だ、6%だと言われる失業率、それは数字のごまかしだ。事態はもっと深刻。・・・ただし、深刻さは深刻な人の頭の上にしか降りかからない。

2002,2,6(水)
 
立石の旭染色の組合が先週の土曜日からストライキに入っている。昼休みに缶コーヒーを持って差し入れに行ってきた。経営陣は業績不振を理由に20%の賃金削減案を出してきた。痛みをわかちあう・・・の、はやり言葉に踊って経営陣は調子に乗りすぎている、と思う。責任という言葉は死語になったのか!

2002,1,29(火)

 教育問題についての掲示板投稿のなかに冷静な批判や反論でないものがあり、どうするかスタッフで検討してきたが、削除した。活発な議論は望むところだけど誹謗中傷と悪意は議論を発展させない、と思う。一読したとき不安を感じたんですよ、実際、私、気が弱いもので。

2002,1,28(月)
 中学生の集団によるホームレス殺害が報道されていた。朝一番で市の小中学校校長会が開かれ、教育長が訓辞。曰く、遺憾、命の尊さ、くり返さないように、・・・・・。言葉の軽さ、大人の軽薄さを絵に描いたような画面がテレビに流れていた。
 なぜ殺害の対象がホームレスなんだ? なぜ集団で、執拗に仲間を集めて襲撃したんだ? 弱いものいじめがあたりまえのようにはびこっている社会では、弱いもの=失業者は自衛するしかないのか? しかし、現実は、大人によって保護されるべき若者、彼らの暴力が不正や強いものに対しての自衛ではなくて、弱いものに対しての「過剰な防衛」=弱いものいじめに向かっていった。弱いものどうしが傷めあってどうするんだ! 腹が立つ、やりきれない。

2002,1,26(土)
 事務所の片付け。1月いっぱいで青戸の事務所は引き払い、木下の自宅を連絡先とします。

2002,1,21(月)
 JR日暮里駅、日曜日の午後の山手線ホーム。「気をつけてください。早めに乗車してください」、その素人臭さい声にふりむけば、どこそこの警備会社のユニホームを着たおじさん。??? 駅務を警備会社にまかせている。人員削減のかけ声でホームから駅員をなくしておいて、今になって警備会社とは! 事故でもあったときに対応できるのだろうか? 利用者の側から見れば安全と安心に疑問、働く側から見れば労働に気概も誇りも無くなって、会社側から見れば、金をかけずにもうけをふやすと、貧弱な材料で見栄えばかりがいい安普請住宅のような「社会」がここにもあった。

2002,1,20(日)
 連日事務所の片づけ。今月いっぱいで青戸・新進ビル3階は引き払います。備品の多くはもらいもので、ごみの山だけどそれでもいくらかは引き合いがあってもらわれていく。
 夜は、駒込の「どうたっち」に三線ライブをききに行ったが、飲み放題の泡盛にくらくら。

2002,1,8(水)
 
ここ連日、読書三昧。朝の目覚めが悪くなったが今日は「燃えないごみの日」だから、朝から外に出た。やっと普段の生活に戻った・・、とごみ出しで感じて、苦笑い。それにしても今年の郵便局は手抜きでないかい? せっかく普段の生活にもどったのに年賀状がまとめて着いて、ふと正月気分に揺れ戻し。

2002,1,4(金)

 青戸駅から上野行の電車に乗って、つり革につかまりながら左手を見ていると、山の端にくっきりと富士山が見えた。年末の空気が澄んだ寒い午後はひときわきれいだった。青戸と高砂の間にかかる橋を古老は富士見橋と言った。橋の上からは青戸の街とそれにつづく人々の暮らしが広がり、その先に丹沢の山並みが望めたことだろう。
 日が落ちると、東の空には大きな月。12月の30日が満月。時の経つのが早いこと。月は欠け、明日はもう半月。

2001,12,28(金)
 山口県萩への旅行プランがもちあがった。高速バスで夕方立つか、新幹線を使うか・・・・、飛行機という手もあるが、「乗せてる時間は短いのになんで料金は高いんだ。観覧車なんか、でかくてゆっくり回る方が料金は高いんだぞ!」? 遊園地のお猿の電車じゃないんだから・・・。

2001,12,24(月)
 寮の食堂で、なけなしの金をはたいて寿司をとり、クリスマスパーテイーをひらいた時のこと。待って、待って、シャンペンをあけるから、とみんなをじらして、ぽーん・・・・・。シャンペンのフタが勢いよく飛んでいって天井の蛍光灯に命中。一瞬の出来事に一同泣き出さんばかりの顔で寿司を見る。落ちたガラスの破片を取りながら、それでも寿司に食いついた、20代のころのクリスマス。貧しさは今もそれほど変わりはないが・・・。

2001,12,21(金)
 なつかしき 祖母の匂いとおもいしが 小便と知る 母をみた日に (そんな日を思い出す、外はみぞれ。)

2001,12,13(木)
 友人からコンピューターウイルスに気をつけるようにというメールが入った。その直前に、わけの分からない怪しいメールが入っていたから慎重に消去した。
 実は先日、ウイルスの被害にいきあった。実際あるもんなんだなア〜なんて面白がっていたら、ウイルスチェックや対処をしている彼からきつい目でお叱りをうけた。「笑い事じゃないんだから」。ごもっとも、レベルの低い私には事態の深刻さが理解できなかった。ウイルスという用語の理解さえできない。理解はしていないが使いまわしている、コンピューター。被害にあわなければいいが。

2001,12,5(水)
 
ひとり語り「橋のない川」観劇。舞台はひとりだけど朗読とも違う、演技でもない,、一風変わった舞台。慣れてくるとぼんやり聞いていても大きな事件が頭に残ってなんとかつながってきた。慣れるまでが大変だが、中身は水平社創立のころを取り上げていたこともあり、迫力があった。皇室報道などでうんざりしていたので、文化を感じるひとときだった。人の世に熱あれ、人間に光あれ、で有名な「水平社宣言」はすごい。

2001,12,1(日)
 先日、本所の職安に行った時のこと。認定日(失業保険の給付認定)はフロアーいっぱい人であふれている。呼ばれて、人混みのすぐ前のカウンターに出向く。失業認定申告書の確認をするわけだが、やりとりの中で「職安が仕事を紹介したときに応じられるということが失業で・・・」と、紹介する気もないくせに。果ては「働く意思と能力があるかどうか」ときたから、ちょっと声を荒げた。「意思と能力があるからきてるんだろ!」。とたんに後ろの人混みがシーンとする気配。目の前の事務員、初めて書類から顔をあげて、「はアー・・・」と、それからの態度の丁寧なこと。

2001,11,28(水)
 息子との久々の会話は真夜中。「映画みてきたよ」と向こうから声をかけてきたから何かと思ったら、「人らしく生きよう〜国労冬物語」、東中野まで行って、それも当日券で。国労とは国鉄労働組合。「JRのやり方はきたねエよな」と、夕飯を食べながらぽつりぽつりと話し始めるからこちらがかしこまった。息子はJRに民営化された頃はまだ小学生だから、国鉄を知らない。その頃に解雇された人たちの今なお続いている闘いの長編ドキュメンタリーだ。仕方ない・・・・、明日にでも観に行ってくるか。確か30日までだった。

2001,11,25(日)
 二組の合同結婚祝賀会に出かけた。片や子連れ、もう一方は来年2月には出産をひかえている。ちょっと普通ではないのかな?いやいや、自然の流れ。おまけにどちらも職場を解雇されていて現在争議中・・・。最悪のときに最大の喜び。 

2001,11,22(木)
 アフガニスタンの政権崩壊と新しい政権の・・・・といった報道が連日流れていて、ついついテレビの前に座り込んでしまう。あのときはどうだったんだろうか。1945年8月、大日本帝国の崩壊、満州国の崩壊、朝鮮半島の独立。そして、いまこの国の戦後政治の崩壊。9月11日以降の歴史のなかで、「国」を守るのに軍事力=軍隊は役にたたないことが浮き彫りになったのではないか、と思う。

2001,11,18(日)
 
ペシャワール会中村哲医師講演のアフガニスタン現地報告会に行った。680名定員の椅子席は開始30分前に満杯。ステージ、通路も人があふれ、スライドを使った中村さんの報告はリアルで緊張感があふれていた。ハンセン病治療から始まって、井戸掘りにまでおよぶ18年の地道な活動の裏付けがあっての現地報告はたんたんとしたものだった。100万人からの人たちが飢餓にひんしている現実からすれば伝わるものはわずかなものかもかも知れないが、それにしても、新聞・テレビ〜マスメデイアは情報操作をしているとしか思えない。報告会の様子のビデオを注文してきた。

2001,11,15(木)
 闘い終えて・・・・。残務処理に追われてはいるのだけど、はかどらない。お花茶屋の駅で話した、という婦人から励ましの電話が入った。選挙は終わったけど、闘いは続く。

2001.11.13(火)
 11日投票、翌12日開票の区議会議員選挙。結果は1337票で落選。ご支援をいただいた各方面に報告とお礼の電話をしてきたが、この日の夜も何人かの方から電話をいただいた。我がことのように心配してくださった人たちがたくさんいたことを、落選してあらためて知らされています。一人一人の声を重く受け止めて態勢を立て直しています。

2001.10.24(水)
 事務所のあるビルの1階に「英国式の足裏マッサージ」のお店ができて数ヶ月。商売になるのか、と不思議に思っていたけど、若い女性が立ち止まってパンフレットを見たりと結構にぎわっている。逆に2階の焼き肉屋さんは狂牛病騒ぎで客が減っているようだ。時代なんだな、これが。ちなみに、3階は・・・・、がらの悪い中年男達が出入りしている「いかす会」事務所。青戸、あさひ銀行まえ。

2001.10.22(月)
 亀有のとあるスナック。昨日知り合った人の仲間の飲み会にさそわれた。自己紹介をかねて福祉のことや働く人たちの課題についてしゃべったら、となりの同年輩の人から「福祉もいいけど、普通の人が普通にやっていけなくなってるんだ・・・」。みんな社長・自営業。「行政にも政治にも頼らないよ」とは言っていたが、税金は取られ、保険料やらなにやら取られ、行政も政治も小さな自営業を気にかけもしていない。政治を変えなければどうにもならないところにきている。   

2001.10.20(土)
 東立石の人から「東立石4丁目・奥戸1丁目 意見交換会ニュース No2」が届いた。発行は2001.9 とある。道路計画の意見交換会から約4ヶ月、ニュースじゃない。「出された意見への都や区の考え方を説明します」とあるが、あるのは中川堤防と堤防道路についての説明だけ。肝心の幹線道路や「防災公園」についてはさけたのか、考え方がまとまっていないのか・・・・、それとも既成事実の積み上げで乗り越えるつもりかな?

2001.10.17(水)
 
葛飾**郵便局に電話をしたら、慣れない年輩女性の声で受け答え。担当の係にまわされた。そこで、言わなければいいのについ一言。「パートタイムの女性に仕事をまかせているんですか?」。「ハイ、・・・・イエ、電話の対応だけで・・・・」とは管理職らしき男の声。パートのおばさんにあれもこれもおしつけているのだろう。こんな調子では郵政民営化の声があがるのも無理ないか・・・と、しばし憂鬱になってしまった。外は秋晴れの午後。

2001.10.16(火)

 朝のお花茶屋駅での会報配布。区議候補の一人もいない駅頭はここちよい雑踏と通過電車のけたたましい騒音があるばかり。生活寮世話人のMさんが寮生を送ってきた。寮生が電車に乗って出勤していくまでの見送り。電車が来るまでの間、一緒に会報を配布しながらしばし福祉施設職員の仕事のあり方や現状、と・・・・・要は共通の友人についての世間話。普通電車が目の前を走り始めると、ドアの窓越しに手を振る青年が見えた。それにこたえて手を振るMさん。朝の仕事のしめっくくり。毎日の仕事だ。

2001.10.15(月)
 沖縄社会大衆党の新垣さんから応援の電話が入った。新垣さんは沖縄の地域政党の書記長。7月の参議院選挙のときに応援した。沖縄のリズムや三線の音が電話の声と一緒に聞こえてくるような懐かしさを感じたけど、すぐに現実にかえった。アメリカ軍の出撃基地の島からの電話だ。忙しいなか気にとめていただいて、感謝。

2001.10.11(木)
 錦糸公園で戦争反対の集会。2年前、「ガイドライン反対」の請願署名を区議会に提出したとき、自民党のT議員から「私だって戦争反対だ。今は時代が違う。戦争、戦争とあおるようなことはやめたほうがいい」とたしなめられた。今、彼の意見を聞いてみたいが・・・・・、時間の余裕があったら。

2001.10.9(火)
 今週の会報ではアメリカの報復戦争を取り上げた。「小泉内閣の報復戦争参加に反対しよう」の見出しの会報をMちゃんにみてもらった。「イスラムの人は応援してくれるんじゃないですか」。イヤハヤ、それはそうだが。「問題は住民票があるかどうかだ」と答えて駅頭へ。
 新小岩駅北口でマイクを使って宣伝。会報を配布していた仲間に話しかけてきたご婦人は「小泉さん、あんな人とは思わなかった。アメリカべったりで・・・」と怒っていた。私の見る限り、この人は「イスラムの人」ではなかった。

2001.10.7(日)
 手料理を持ち寄った働く女性達の集まりによばれた。私が行ったときには宴もたけなわ。あいさつのあと、それぞれの自己紹介は自然と職場の話になっていく。
 ある病院では看護婦がコンピューターの端末を持たされて病室をかけ回るようになったという。ナースセンターに戻らずに、この端末に処置を入力し、そこに指示が出てくるシステム。神経を張りつめたまま、休む時間もない。年輩の経験ある看護婦がこのシステムについていけなくなって何人もやめたという。仲間同士、事故に気をつけようね、と注意しあってなんとかその日その日を持ちこたえているそうだ。何がアイテイ〜だか、誰のためのコンピューターだ!
 
2001.10.6(土)
 中央防波堤のごみ処分場と葛飾清掃工場の見学に行った。東京湾に突き出たひときは高い見晴らし台に立つとデイズニーランドや都心のビル群、海底道路の排気塔が見渡せる360度の眺望。頭上には急角度で上昇する大型旅客機。風にゆれるすすきに目をうつすとトンボがすり抜けていった。説明では足の下30メートルは重層になったごみ。アスファルトのあちこちに茶褐色に焦げたあとがあるが、これは落雷のあとだそうだ。
 中川の土手道も良く見るとアスファルトに焦げあとがある。雷が落ちているのだ! ごみの勉強もしたけど、それ以上に東京探訪。案内してくれた東京清掃労組のみなさんに感謝。

2001.10.4(木)
 「あなたひとりイ〜にイ〜、かけエたアこオいイ〜〜」 亀有駅頭での宣伝を終えて、自転車をこぎながら鼻歌がもれた。
 亀有駅南口駅前広場は中途半端にだだっぴろくてしまりがない。巨大なビル、リリオがアンバランスで人を威圧している。行き交う人もせわしない。一刻も早くこの空間から逃れたい、といった感じ。雨も降り出したからよけいだ。前回も小雨が降ってきた。その前は台風で中止。ああ、そこにつながるんだ。「亀有はア〜、今日もオ、雨エだあった」

2001.10.1(月)
 水元で民主党のポスターを見た。鳩山、羽田にはさまれて若者、といった取り合わせ。菅と若者の組み合わせもある。民主党は二つあるのか、三つあるのか・・・、自由民主党というのもあった。コンクリートブロック塀などには色とりどりのポスターがにぎやかだ。一昔前は汚い、景観をそこねる、なんていう声があがったが、今は誰も気にしない。その前をハデハデの都バスが走っているのだから美的感覚がずれてくる。10月の葛飾の風景。

2001.9.29(土)
 高校2年の自閉症児のお母さんと話す機会があった。保育園で一緒に遊んだ友達が気軽に声をかけてくれるのがうれしい、と言っていた。養護学校にいこうがどこにいこうが、地域で暮らすことになるのだと思う。どういう地域にしていったらいいか、困っている人が一番良く知っている。

2001.9.27(木)
 今週駅頭で配布している会報は、ニューヨーク・ワシントンでおきた航空機乗っ取り超高層ビル激突事件を取り上げた。論点はいくつかあるがポイントについてはスタッフの中でも議論があった。一つの問題提起として連日配布している。事件のすぐあとに、首相はアメリカの「報復攻撃」を全面的に支援すると言っている。狂牛病のニュースにしろ、自衛隊のアメリカ空母護衛のニュースにしろ、この国のリーダー達は国民の生命、財産をなんだと思っているのだろう。

2001.9.25(火)
 朝一番、事務所の掃除を始めたら、ほうきの先に髪の毛がどっさり。常連のKさんとBさんの後頭部が目に浮かんだ。季節の変わり目、動物は毛がぬけかわるものなのだ・・・・が、人間の場合、はえてこない。

2001.9.23(日)
 マンション建設反対の看板があちこちでめだつ。青戸でも白鳥でも、立石でも・・・、偶然ではないのだろう。都心の幹線道路沿線などは、びっしりとマンションが立ち並んでいるけど、水戸街道沿いの景観もあんな風になってしまうのだろうか。無秩序な街づくりに大手不動産や建築会社が拍車をかけている。
 青空がことのほか青いこの季節、空は広く果てしなくあってほしいと思う。

2001.9.21(金)
 夕方の亀有の駅頭でマイクを使って会報配布した。応援にかけつけてくれたIさん、顔を見るなり「憲法の訴えをしなきゃダメよ」。連日のアメリカでの航空機乗っ取り超高層ビル激突事件の報道は「報復」の進行状況報道になってきている。在日米軍基地が「報復」のための基地にされていくと、お昼のニュースに怒っていた。私はあわてず、ハイ、と原稿を差し出した。国の未来に関わる重大な問題だ、訴えないわけにはいかない。とは言え、雨の駅頭でどれだけの人の耳をひきとめたか、ちょっと不安。

2001.9.17(火) 
 奥戸の環境を考える会の経過報告会に出席。9月3日、建設部計画調整課石田課長が奥戸に来て、「住民が反対している以上、道路と橋は出来ないと」言ってきた経緯が報告された。10日には文書で返答が来ている。一方13日には街路整備課により東新小岩地域で道路用地説明会が開かれている。区は地域を分断して、各個に対応している。行政のやり方や考え方がよく分かり、いい勉強になる。参加者の発言を聞きながら思った、ここは民主主義と住民自治の学校だ。
 
2001.9.11(金)
 台風接近。昨日の夜、バスの運転手をしている息子がぼやくぼやく。水戸街道の下りが渋滞で、予定通りに動かないと。「会社の車で帰宅してるんだ。明日の朝も渋滞だ」。
 地盤の低い葛飾だけど台風がきても最近は浸水騒動を聞かない。排水設備が整って来たからだが、小菅の下水処理場で働く友人が言っていた。「少なくなった人員で泊まり込みの監視体制をとるんだよ」。自然の力がつくりだす「非日常」。

2001.9.6(木)
 いかす会例会。会場づくりがすすむその一角、テーブルにぽつんと座っている青年がいた。「古い知り合いだと言ってますよ」と受付は言うが見覚えがない・・・・。隣の席に座って自己紹介すると、彼はバッグの中から「愛の手帳」を出して名前を名のった。びっくりした・・・。彼が小学校にあがるまえ、幼児グループで一緒に遊んでいた。今、養護学校を卒業して墨田のメッキ工場で働いている、と言う。28年の時のへだたり。覚えていてくれた昔のエピソード、今の仕事、一つ一つの話がしっかりしている。緊張した労働のなかで鍛えられてきたのだ。

2001.9.2(日)
 小岩のライブハウスでベンチャースをきいた。とはいえ、小岩ベンチャース。平均年齢は50を越えているだろう。きく方も50を越えているのだから年齢は関係ない。聞き覚えのあるリズムとメロデイーが心地よく響いてくるのはアルコールのせいもある。ひげづらが中学生・高校生の姿にだぶる。

2001.8.31(金)
 老けたと言うことか、一仕事終えて一杯やっていると昔話に花が咲いてしまう。「俺たちの子どもの頃は貧しかったけど豊かだったよなア〜」と九州の山奥出身のTさん。「テレビなんか無くて、遠くの方の家まで見せてもらいに行ってたよ」。「そうそう、見せてもらいに行ったら停電で見られない、ってその家の人に言われてな。誰かがロウソク持ってこい!って言い出した」。どこの田舎だ?

2001.8.30(木)
 ホームページの改革を相談した。表紙に「在宅医療、在宅看護、在宅介護の相談は・・・」というリンクをはったらどうかという提案が出たが、表紙をゴテゴテさせたくない(センスと好み)Aさんは文字が多いとかスペースが・・・と抵抗。活発な議論なのだが、それまで黙っていた一人が「寝たきりのお年寄りがホームページ見るのかなア〜」。一瞬の沈黙。

2001.8.29(水)
 新しく会員になったお宅を訪問した。ダンナさんはデイサービスに通っている。バスが迎えに来てくれるのだが最近お年寄りの数が減ったようだ。「金を取られるんだからそんなに行かないよ」とはダンナのつぶやきだそうだ。「ぼけてきたのにそういうことははっきり分かるんですよ」とは奥さんのつぶやき。

2001.8.28(火)
 奥戸のKさん、以前は飲み屋のオヤジさん(マスターとも言う)だったそうで、時代の流れに敏感で、「インターネットの時代なんだから」とホームページをつくれとうるさかった。久しぶりに会って、ホームページの話になると感心することしきり、注文もでる・・・・・のだが、この人がキーボードをたたいたという話を聞いたことがない。「政治に関心のない若い連中が見ているんだから・・・」。で、納得させられてしまう。    

2001.8.27(月)
 青戸慈恵医大病院に友人を見舞う。花より何とかの人だと言うわけではないが、和菓子を買っていったら、隣や向かいのベットの人に配って回り、しばし談笑の輪ができてにぎやかな病室。食べ過ぎないかとの心配は無用だった。それでも、好きだったタバコをやめているので太りぎみだと笑っていた。話の途中でふと職場の話になった。前の職場は小さなところですでに代わりの人が雇われ、退院しても職場には戻れない、と不安をもらす。まずは養生、と声はかけたが、不安が次々に出てくる。病状よりそっちのほうが心配。

2001.8.26(日)
 東立石の地域に会報を配達。お手伝いに来たAさん、先日の台風の日に自転車でこけて、足が痛むという。50歳すぎるとあっちこちガタがくる。心配してダンナが手伝いに来た。居合わせた一人が「友情出演というわけですね」と声をかけると、ひげ面のダンナ、真顔で「愛情と言ってもらえないかな、友情じゃないだろう・・・・」。

2001.8.22(水)
 夕方、立石駅で会報配布をしていると、茶髪にピアス、原色のTシャツといったかっこうの若者三人組の一人がにゅ〜と手を出してくる。三人そろって同じようなかっこうで、駅のまわりをぶらぶらしていたようだ。ひやかしかなア〜なんて思ったけど、道路問題など説明すると、「はア〜・・・」と首をかしげて立ち去った。
 しばらくして、こちらに向かって三人が戻ってきたから何事かと身構えた!
 「**さんですか〜?」。「違いますけど」。「++の角をまがったところの・・・」。「はい・・・」。・・・・?。こちらがきょとんとしていると中心の若者が自己紹介。息子の同級生だった。そう言われてみれば、同じような年格好。素性が分かるとしばし世間話、最後に「がんばってください」。人は見かけによらない、のだ。

 2001.8.21(火)
 在宅医療・訪問看護を専門にしているクリニックを訪ねた。事業を3っやっている。訪問診療(医療)、訪問看護、訪問介護。訪問診療のフロンテイアで経験も豊富だが、経営が以前に増して厳しくなったという。診療、あるいは看護だけやっていればそれほど赤字にはならないのだが、患者さんの暮らしを考えればそうもいかない。介護保険の実施以降、お年寄りが1割の負担が払えずに介護を断ってくるという。一人のお年寄りがいくつもの事業者に関わると、それぞれに1割の負担がかかる。財布の中から、金が飛んでいく。事業者はパソコンを導入したり、人材をそろえたりと、出費ばかりが増えて利益がない。良心的にやるところがつぶれているそうだ。お年寄りにも良心的な事業者にも不評の介護保険の見直しは、小手先ではすまないだろう。

2001.8.18(土)
 10時もまわた頃だろうか、青戸駅のまわりを、「飲み屋はどこだ、ここもやってないなア〜」なんて徘徊していると、しゃれたギターの音が聞こえてくる。おやおや、駅前広場でギターをつまびく青年がいる。青戸も都会になったもんだ、なんて思いながら「シンガーソングライター」を横目で見ながら目当ての店に入り、すっかりできあがって店を出ると広場の案内板の前に座って、まだやっている。盆休みの余韻が残っているのかゆったりしていて、ベンチで聞いている(・・酔いをさましている)中年男性がリクエストをしたり。どうやっても、渋谷や原宿、柏という感じにはならない。けど、葛飾・青戸には「モーツワルト」よりギター片手の青年のほうがよく似合う。

2001.8.16(木)
 某所・お好み焼き「おかめ」に友人と入った。友人はこの夏の休みに八ヶ岳に行ったとか。いやいや、重いリュックをしょってよく山なんぞに、と口をすべらせたのが運の尽き。趣味のない男だと非難ごうごう。「ここのマスターは多趣味で・・・」と,店内を見回せば、絵がずらり。みんな自分で描いたのだと。座敷の一角、下から明かりが見えるからのぞき込むと、そこは水槽になっていていろんな魚が泳いでいる。店そのものが趣味なのかと思うほどだが、酔うほどに、しゃべるほどに、遠い昔にタイムスリップしていく空間だった。
 そうだ!と思い出す。中学生のころわきみずがわく川の近くの養魚場に金魚や鯉を買いに行っては池で飼っていた。学期末試験の朝、金魚の産卵が始まった。シュロの皮に産み付けさせて、産卵が終わったらすぐに移さないと食われてしまう。小一時間もして、全部かたづけて学校に行ったら遅刻。試験は始まっていた。シーンとした教室で「どうしたんだ!?」という声に「金魚が卵を産み始めてしまって・・・」と答えたとき、教師はあきれかえり、一瞬おいて教室中が大笑い。私の密やかな趣味がクラス全体に知れ渡ってしまたんだけど、そのあと我がクラスでは金魚や鯉の養殖がブームになった。今度、趣味はと聞かれたら、金魚と答えておこうか。

2001.8.15(水)
 本棚の一冊を手にとって、ぱらぱらとめくり始めたらとまらなくなってしまった。「朝倉清隆遺稿追悼文集」。葛飾の一教師の職場と地域での奮闘の足跡をしるした本だった。作品として残った詩や小説、教え子や同僚、家族、友人の追悼の文がその時、その時代の空気を伝えてくれている。こういう人たちが葛飾の街の背後か地下か天国でか、バックグラウンドの一つとしてこの街を支えていると思った。
 中学二年の時、広島で原爆のせん光をあび、堀切中学、青戸中学で教壇にたち、1982年52歳でなくなったと記されている。
 当たり前のような平和がもろく、危ういもので、多くの人々の努力と地道な奮闘によって支えられてきた。平和を祈りながら近隣諸国を侵略した前歴のある私たちの国であってみれば、その思いを強くする。
 「みすぼらしかった教師--私の戦争体験と教育」は短い文章なので関係者の了解を得たら、紹介したい。

2001.8.8(水)
 夕方の駅頭宣伝は立石駅。大型幹線道路問題は反響が大きくて、立ち話になる。自転車をとめて年輩の男性は「道路をつくって渋滞がなくなれば、車は増えてまた道路がほしくなるんだよ〜」と。だいたい、税金の使い方がおかしいんだ、区民税だって高すぎる、・・・。おかしなことばかりだ、と道ばたで憤慨して話はつづく。政策はこんなところから出てくるんだなあ、と感じる駅頭宣伝です。
>葛飾は道路がずいぶん整備されてきています。四つ木〜お花茶屋〜亀有、新宿〜高砂、奥戸〜東新小岩、まっすぐの幅の広い通りはだいたい昔の用水・水路だったところだと気がつきます。早い話が、水の通り道を車の通り道に変えてしまったのです。車の便利のために手っ取り早い水路に目をつけたのだろうけど、交通事故や環境への悪影響もさることながら、水の反乱は心配いらないのだろうか。これでは「人情・川の手」のキャッチフレーズが泣いてしまう。見栄えが良くて耳に心地よい言葉ばかりが宣伝されて、その実、いったい誰のための、何のための街づくりかと首をかしげたくなることが多いと思うこのごろです。結局、そこで暮らす区民の方につけが回ってくるわけですが、このつけが不公平だからまた困る。