朝倉清隆遺稿追悼文集「一回」 より

みすぼらしかった教師--私の戦争体験と教育

 「少年航空兵になったら」
 昭和二十二年二月頃、当時僕は中学二年だった。二年の三学期からは学徒動員で、みんな朝六時頃から貨物列車にのって広島の山奥にある機械工場に行き、旋盤を廻した。あとで分かったところによれば、ここは三菱の工場で、僕らはプロペラの部品を作っているのだった。忠実な皇国民であった僕はカゼをこじらせて尿毒症になり、死はくいとめたが絶対安静を命ぜられて、二月頃には家で寝ていた。そこへある日、弟(当時小学六年)のクラス担任の教師が家庭訪問に来て、父となにやら話している。耳をすますと、その先生は「お宅のお子さんは小学校を卒業したら少年航空兵になったほうがいいのではないか」とすすめていた。父は「私の子の進路は私が決める。少年航空兵といわれるが何の資格でそういうのか」という意味の反論をしていた。結局その担任はあやまって帰っていった。少年航空兵といえば、特攻隊の卵を意味した時代だった。これもあとで分かったことだが、当時小学校では自分の担任のクラスから何人の少年航空兵を出したかが、その教師の勤評の一つになっていたと知り、ゾッとした。
 昭和三十四年頃であったかと思う。戦争中、日本語教師としてドイツの学校に勤務していた篠原という人が北区教育会館で次のような話をした。「ヒトラーはラジオを通じ、ときどき全国民むけの放送をした。二時間位演説する。必ず聴かなければいけないことになっていた。聴かない家庭はどこかを調べるのに次のようなことをやった。放送の翌日、小学校の朝礼をする校長が「きかなかった人は手をあげて下さい」と訊ねる。純情な低学年の児童の何人かが手をあげる。担任がその子のところへ行って、「なぜきかなかったの」と訊ねる。子どもは「だって父ちゃんが”ウルサイから消せ”というんだもん」それから数日後、官憲の手がまわる。みなさん、教師が子どもを通じてスパイの役を買ったのです」と。僕は弟の担任のことを思い出し再びゾッとした。
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 「教師の主体性」
 それから半年たって広島に原爆が落とされ、父は行方不明となり、母は毛が抜け、僕は家の下敷きになった。僕ら姉弟三人は、母の里の山口県柳井市に難を逃れ、僕はそこの中学三年に転入し、その柳井中学で次のような光景に出くわした。僕のクラスは特攻隊の生き残りの生徒がいて、彼は絹のマフラーに半長靴という特攻隊員そのままの姿で授業を受けていた。数学の時間だった。教師が何かでその生徒に注意した。するとその生徒はヌーと立ち上がってごく低い声で「ナニー」と言いながらその教師に近づいて行った。教師は青くなって後ずさりするだけだった。戦争中その教師は、その生徒たちに対して、国家のために死ぬことの美しさをたたえ、彼らは特攻隊に行き、もう少し戦争が長びけば死んだかも知れないのだった。その同じ教師が、八月十五日敗戦の日を期して、民主主義と生命の尊さを説く。勝負は決まっていた。しかし特攻隊の生き残りは無言のまま自分の席にもどった。教師はしばらく何もせず、しかしそのあと静かに数学を教え始めたが授業にならなかった。
 それから二年半後、僕は広島高校へ行った。広島で昔の小学校や中学校の恩師(?)に偶然会う機会があった。なぐられたこともある教師だった。しかしどれもこれも昔とうって変わった対応を僕に対してするのだった。僕はその教師たちが、いかに自分の生活のために、かってああせざるを得ず、今も教師を続けなければならないといいながら、やはり「ミスボラシイ」と感じないわけにはいかなかった。そして、もし教師になるにしても俺は絶対にああいうふうにはなるまいと思った。
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「ミスボラシイ教師にはなるまい」
「組合がなくなったら、教育もクソもなくなる」そのことを、戦前に教師をやっていたり、戦前にオトナであった人たちは、僕ら以上に身をもってしっている筈である。組合を抜けたことを誇りをもっている教師がいるだろうか。僕は未だそういう非組にお目にかかったことがない。
 いまさらに、教特法改正等を前にして、僕らは、あの「ミスボラシイ」教師になるのか、ならないのか、岐路に立たされているのではないだろうか。今度こそ「ミスボラシイ」とか「アワレダ」と言うんじゃない。そのような「ミスボラシイ」人達に対しては、真っ向から憤りを感ずるのだ。
                                      (昭和四十三年五月八日発行「火曜通信」より)