〈記号学歳時記/7月〉 虹

 パソコン画面上に絵を描くための「お絵描きソフト」というものがある。こども向けの簡単なものから、おとな向けのかなり高度なものまであり、眼目は、パソコン側の技術的なサポートによって、比較的簡単に上手く描けるというところにある。
 パソコン以前に、塗り絵というものがあった。これは、考えてみれば、一種の「お絵描きソフト」である。さまざまなものが輪郭線として、すでに描かれている。輪郭線そのものは、「上手な」ひとの手になるものであるから、あとは、絵をまだうまく描くことができない者でも、適当に色を塗ってゆきさえすれば、そこそこの絵になる。
 塗り絵は、しかし、人間の自主性、創造性を重視する幼児教育、美術教育の観点からは、否定的にみられる。自分の眼でものを見、その認識を造形という仕方で明確化し、それを通して認識を深めるという最初の営みを、他人に委ねるということにほかならず、それは、また、既成の輪郭線の中でのみ自らの営みをする、ということにほかならないからである。
 それゆえ、もし、既成の輪郭線の中でのみ自らの営みをする人間、そのような営みに満足し、それとは異なる営みを想像したり、創造したりする意欲や能力を持たない人間、このような人間を育成しようとするのであれば、塗り絵、あるいは塗り絵的なものを教材とした教育は効果的な教育ということになるであろう。
 塗り絵に関するこの問題は、ものの見方、考え方のパラダイムにまつわる重要な問題を示唆している。
 たとえば、今の季節のテーマとして、虹の「七色」のことを考えてみよう。まず、虹の「七色」は、弧の外側の赤から、内側の紫へと順序で並んでいるのか、それとも、その逆の順序か。すぐに答えられるだろうか。正解をここに記すことはしないで、今度虹を見たときのお楽しみ、ということにしておこう。
 そして、実は、その「正解」はひとつではない、ということにも注意を向けておきたい。虹には、右のいわば「第一の虹」の外側に、「第二の虹」が見られることがあり、その色の順序は、「第一の虹」とは逆転している(このことは、『日本国語大辞典』(小学館)などにも記されている)。
 それにしても、虹を七色として見るようになったのは、いつからのことであろうか。いや、そもそも、虹を七色として見るということ自体、人類共通のことではないらしい。
 虹の色は外側から内側へと、あるいは、内側から外側へと、連続的に変化している。輪郭線のある明確な帯をなして、七色が並んでいる、というわけではない。
 にもかかわらず、たとえばわれわれは「虹は七色」としている。つまり、赤〜紫の色の連続的変化を七つに分節化して捉えている。
 こうした分節化が個人的なそれを超えて社会的に定着するとき、今度は、個々人はそのように分節化に従って、あたかも予め用意された塗り絵にただ色を塗っていくような仕方で、ものごとを認識し、行動する。それは「文化」という一種の「体制」として強い力を持つことになる。
 記号は、一般に、こうした文化という体制の形成の原因あるいは誘因となったり、あるいは、また、結果となったりするが、それが顕著なのは言語である。言語は、もっとも社会化された記号であるからである。
 虹の描かれた塗り絵に私はまだ出会ったことがないが、親切な塗り絵であれば、虹の帯に七色の境界線が点線で用意されているかもしれない。まさか、とも思われるが、それと本質的に同じものを数多く用いた教育をわれわれは受けてきている。たとえば、言語が上手くなるということは(母語の場合も、外国語の場合も)、少なくともある段階までは、ある塗り絵が上手になる、ということと似ているのではないだろうか。

(この文章は、『月刊 言語』1995年7月号(Vol.24, No.7)大修館書店 に執筆したものです。)


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