B I O G R A P H Y  O F  A R T   P E P P E R

 

ア ー ト ・ ペ ッ パ ー の 足 跡

カリフォルニア州ガーデナの生まれ。父はドイツ系湾岸労働者。イタリア系の伯父夫婦に育てられた母はその父と15歳の時結婚している。夫婦仲の悪い両親はそのためか幼いアートを父方の厳格な祖母の元に預け、アートは愛の通わぬ幼年期を送っている。彼の性格形成にはこの時期の影響が少なくないと思われる。

幼い頃から音楽好きのアートは父の知り合いの薦めで9歳でクラリネット手にし、12歳でアルトサックス吹くようになった。'42年に短期間ガス・アーンハイム楽団を皮切りに'43年にはリー・ヤング、ベニー・カーター楽団などで演奏し同年11月にスタン・ケントンの楽団に入り、弱冠17歳で花形ソロイストとして活躍。初録音は「THOSE KENTON DAYS (Capitol[Japan]ECJ-50070)」に収録されている。また'43年には最初の妻パティとかけおち同然で結婚、'45年にはそのパティとの間にパトリシアという娘を授かっている。しかしこの頃にはすでに麻薬に手を染めていた。ケントン楽団に入団したものの翌'44年に召集令状で軍隊に従軍、除隊後'47年に再びケントン楽団に入り以降52年まで在籍。この時期のアートはひとつのピークをきわめ'51年のダウンビート誌の人気投票ではアルトサックス部門でチャーリー・パーカーに次ぐ2位にランクされている。

'52年自身のコンボを持ち「サーフ・クラブ」に出演し、注目を集める。またディスカバリーに初リーダー「ART PEPPER QUARTET(Discovery DL-3019)」を収録。'53年に麻薬問題から最初の投獄、さらにヘロインに深入りし再逮捕され投獄後、麻薬中毒の療養のため病院に2年間ものあいだ入所。その間に裏切られた形で妻パティと離婚し、出所後仮釈放中に再逮捕〜投獄と、一時的にジャズシーンから遠のくが、'56年に復帰しパシフィック、タンパ、オメガ、コンテンポラリー等に次々と優れた名演をレコーディングする。この頃に2番目の妻となる二人の子持ちダイアンと出会う。しかしこの音楽家として名声を博した時期にも麻薬・窃盗などにすさみきった俗悪な生活を送っている。

'60年二人目の妻となったダイアンの密告により麻薬問題でまたもや投獄生活。以降3年間の投獄生活〜麻薬療養から復帰し、サンフランシスコのTVショー「AT JAZZ CASUAL 1964 (Diw [Japan-Video] VC-2)」やシェリー・マンの店に出演し、'68年短期間バディ・リッチのオーケストラで活動したものの、突然、肝硬変〜膵臓破裂で倒れ、ジャズシーンから遠ざかってしまった。そしてしばらくはカリフォルニアの麻薬患者治療センター「シナノン」にて療養を続けることになる。

その「シナノン」では最後の妻となるローリーと運命的な出会い。彼女の献身的な協力により'74年演奏活動を再開し、'75年コンテンポラリーに15年ぶりに新録音「LIVING LEGENT (Contemporary S-7633)」を吹き込み、以降夫人の後押しもあって、亡くなる寸前まで精力的に演奏活動を続ける。カル・ジェーダー・グループのゲストとして感動的な初来日「TOKYO DEBUT / FIRST LIVE IN JAPAN (Galaxy4201-2 / Polydor [Japan] JOOJ-20390)」を飾ったのは'77年4月。以降'81年まで計5度来日を続けている。アートの最後の録音となったのは晩年である'82年5月30日ワシントンD.C.でのクールジャズ祭でのライヴ「FINAL ART- ART PEPPER LAST CONCERT 1982 (Tofrec [Japan] TCFL-89918)」、倒れるほんの一週間ほど前の演奏である。

'82年6月9日朝ロスの自宅で頭痛を訴えてからわずか6日後の6月15日午前3時脳溢血のため56歳の生涯を閉じる。アートの遺体は本人の希望によりロサンゼルスのハリウッド・メモリアル・パーク・セメタリーに納棺されている。


THOSE KENTON DAYS


ART PEPPER QUARTET


JAZZ CASUAL 1964


LIVING LEGENT


TOKYO DEBUT


FINAL ART

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