平成16年6月05日 更新

バロック音楽の大作曲家 J.S.BACH の生きた時代について

J.S.BACHは、1685年に生まれ、1750年死亡するまで 生涯に1000曲以上作曲した大作曲家です。現在使用されている楽器の調律方法の平均率を普及するために練習曲として平均率クラビール曲集を作曲し、多声和音、対位法、フーガの技法を完成させた大作曲です。J.S.BACHの生きた時代背景と今日の音楽に与えて影響をここでは簡単に説明いたします。

詳細に知りたい方は 創元社 「知の再発見」双書 「バッハ」 \1400 を参考願います。ここに記載した内容の一部を利用させていただいてます。

時代背景 絶対君主制から市民革命へ繋がる前夜
当時のヨーロッパは、イギリス、フランス、スペインが絶対君主により王制が引かれておりましたが、ドイツは、小さな独立国の集合体でそれをまとめて神聖ローマ帝国としてフリードリッヒ大王の時代です。イタリアは、ベネチアやフィレンッェを中心に都市国家として栄え、市民のよる統治がなされていました。メジチ家などの大富豪がスポンサーとして芸術を振興していました。イタリアの自由な空気が、ヨーロッパに広がり、ドイツ国内でもハンブルグなどでは、市民階級が富を蓄え、やがて1789年のフランス革命へと繋がる時代です。フランス革命を境として、料理や音楽の世界にも革命が起こっています。

音楽的には、フランスとイタリアが当時の音楽の中心であり、その演奏法や作曲様式が異なり、互いに反発しながら栄えていました。ドイツは音楽的に後進国で、イタリアやフランスに音楽を習いに留学するのが普通で、ヘンデルも留学していますし、バッハもイタリアの音楽に詳しい友人を訪ねて「トレルリ」「コレルリ」「ヴィバルディ」の音楽の写譜をして勉強したりしてイタリアの音楽形式を吸収しています。そしてイタリアとフランスの良い点を取り入れ融合し、今日の4楽章の交響曲形式への橋渡しをした「テレマン」やバッハの息子「フリーデマン・バッハ」「カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ」の存在を抜きにはこの時代を語れません。

ドイツでは、宗教革命を行った「ルター」の影響で、宗教を普及するために音楽を利用する考えがあり、音楽家は教会のオルガンで、コラールを演奏したりキリストの生誕や復活にまつわるミサや葬式、結婚式などでミサを指揮するのが主な収入源でした。また、王侯貴族のお抱え楽士として舞踏会や園遊会の際に音楽を演奏するのが中心で、大衆向けに音楽を作曲したり演奏する事は滅多に有りませんでした。
しかしバッハは、聖トーマス教会のミサの合間を利用して、当時としては前衛的な協奏曲を演奏したり、現在のコマーシャルソングに当たる、カフェの伴奏音楽として「コーヒーカンタータ」をカフェ専属の楽団員のために作曲したり、農民が領主様に捧げた「農民カンタータ」などの作曲を行っています。このころすでに、市民のための音楽の芽生えつつアルのが感じられます。

当時使用されていた楽器について
バッハが確立した平均率が完成した事により、転調可能な楽器が発展をはじめ、金管楽器や木管楽器にも改善がなされてバッハの息子やモーツアルト、ベートーベンなどにより、今日のオーケストラが完成されて行きました。              

チェンバロ ハンマー・クラヴィール

1)鍵盤楽器
バッハの生きていた時代には、現在のピアノは有りませんでした。バッハのオルガン曲はその壮大さや美しい音色で有名ですが、教会に礼拝のために設置されているオルガンを除くと、当時の鍵盤楽器は、チェンバロが主流で、弦をピンではじいて音を出すタイプで通奏低音として、ヴァイオリンやフルートなどの協奏曲の伴奏を受け持つのが主流でした。

チェンバロは、国によってその呼び名が変わります。当時ヘンデルが活躍していたイギリスでは、「ハプシコード」、コレルリやトレルリやビバルディの活躍していたイタリアでは、「チェンバロ」、リュリが活躍していたフランスでは「クラブサン」と呼ばれていました。ドイツでは「クラヴィール」、「クラヴィア」と呼ばれオルガンも含む鍵盤をつかう楽器の総称でした。

クラヴィールの中でも、ハンマー・クラヴィールと呼ばれる楽器は、、現在のピアノと同じ弦をハンマーでたたいて音を出す楽器で、音が小さくて小型のため、旋律(メロディー)を奏でたり、夜間の練習などに利用されていたみたいです。現在の弦をたたく機構が改善される前であり音の強弱が出せませんでした。

音の強弱が出せるようになった時点で「ピアノフォルテ」後に「ピアノ」と呼ばれる様になったのです。音を大きく出すためには、弦を張るフレームの強度が必要で、鋳鉄製のフレームが出来るまで待つ必要があります。チェンバロやハプシコードは、木のフレーム製ですので、弦をたくさん張るとフレームが変形してしますので、音域も現在の標準の88鍵は有りませんでしたし、フレームの変形を防止するため調律も現在の基準のAの音(時報のポポポの音 440Hz)が現在より低い(410Hz)くらいでした。基音が低い調律は、ショパン時代まで続きました。

バッハは、晩年にフリードリッヒ大王に呼び出されて、ジルバーマン製のハンマークラビールの改良品(ピアノの前身)に触れているようですが、問題が多くていろいろと指摘した様です。むしろ、このクラヴィール曲集は、平均率を完成させた意味で重要な曲です。ハ長調から始まり、ハ短調、嬰ハ短調と替わりすべての調でかかれたこの曲は、バッハ物語の第1話のエピソードにあるように、現在のピアノの調律方法としてバッハが確立したといえます。

オルガン
広く解釈するとオルガンも鍵盤楽器です。当時の音楽家の収入源として大きな役割を果たしたのは、教会のオルガニストの地位でした。バッハは、当時ヨーロッパで指折り数えられるオルガニストでした。そしてバッハの生きた時代がオルガンの全盛期です。オルガンは、人力や水力でフイゴから、送り込まれる空気を 鍵盤を使って弁を開きパイプに送り込み、パイプに有る笛で音がでる構造です。笛の先に繋がるパイプの長さで音程を決めます。パイプの形や材質で音色が替わり、キーを選ぶことでパイプを切り替えて演奏されます。

2)ヴァイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスなどの弦楽器について
弦楽器は、それまで弦が6本から7本ありフレットがあったヴィオールから弦が4本でフレットがない現在のヴァイオリンに切り替わりつつある時代で、バッハ時代には、イタリアのクレモナの制作者 アマーティ、ストラディヴァーリ、グアルネーリなどが17〜18世紀に完成させ、演奏法も確立されていました。
この時代の作曲者で有名な人が四季で有名な「ヴィヴァルディ」です。バッハも子供の頃にヴァイオリンを習い、ケーテン時代に自らビオラを弾きながら指揮をした逸話が残っています。

3)管楽器
現在普及している、ベーム式のフルートは、1830年にベームによって発明され、その後のクラリネット、オーボエなどに応用されました。従って、バッハの時代にはキー操作による変更ではなく、リコーダーと同じように指を使った方式でした。
金管楽器も同様にピストン式のキーがなく。管の基音とその倍音のみの演奏で、音階を演奏できる楽器としては、トロンボーンと腕を出し入れして演奏するホルンがある程度でした。

ヴィオールの仲間  パイプオルガンの構造 パイプ部分

大バッハ(J.S.BACH)の蒔いた種 :平均率クラビール曲集。

平均率クラヴィール曲集は、ピアノの練習曲としての意味合いが深く、長男のフィリーデマン・バッハやカール・フィリップ・エマヌエル・バッハのみならず、アマデウス・モーツァルトやベートーベンも学習した名曲です。大バッハの曲が忘れ去られる中、この曲だけが、息子たちの努力により印刷され出版されたのです。

モ−ツァルトも、平均率クラビール曲集に夢中になり、その対位法やフーガに酔いしれて、平均率クラビール曲集のテーマを元に編曲してプレリュードを作っています。またJ.S.BACHの末息子のヨハン・クリスチャン・バッハ(1782年没)は、モーツァルトの親友であり幼い頃から交流が有りました。

ベートーベンも平均率クラビール曲集が印刷されてと知り、その初版を発注かけるくらい熱心に学習しました。ベート−ベンの
交響曲にもフーガの技法が生きているのです。

ハ調調から始まりハ短調 嬰ハ短調と変調してロ短調に終わる24曲は、平均率で調律されたクラビアコードで初めて演奏可能な曲で、もともと長男のフリーデマン・バッハのクラビール練習曲として作曲した曲を元に手を入れて完成させました。バッハ以降この平均率による調整(ピアノの調律)が普及しピアノ普及と共に、現在のクラッシクの楽器が改善されて行きました。

バッハ以前の調律では、半音高い♯と2度あがった音の半音低い♭の音が違う事があり、譜面であらわせない微妙な音が存在しました。
そして、明るい音階、くらい音階など、音階の人間の心に響くイメージの違いを駆使して音楽が作曲されて行きました。


バッハを再発見してその魅力を世の中に普及させた メンデルスゾーン
バッハ没(1750年)以降、一部の印刷され譜面以外ほとんど忘れ去られていた、大バッハを発見したのはメンデルスゾーンです。没後80年 1829年にマタイ受難曲をメンデルゾーンの指揮で再演されるまですっかり音楽の世界から忘れ去られていたのです。メンデルスゾーンの努力により離散したいた楽譜が集められ、作品目録が作成され現在普及しているBWVの番号が与えられ今日も研究が進められています。



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