栃木路に花を求めました  4/18(木) 上三河町・市貝町
















  久喜市民まつりの会 臨時(解散)総会 4/20(土) ふれあいセンター久喜 

  「久喜市民まつりの会」の臨時総会が、20日(土)午後「ふれあいセンター久喜」で開催され
 ました。すでに「監査・理事会」の所で報告していますが「解散総会」となります。
  「久喜市民まつり」は福祉ボランティアの人たちによる「イチョウ祭り」と、商工会関係者に
 よる「商工祭り」とか合体し、昭和63年に誕生しています。私が平成11年に第12回市民
 まつりの実行委員長をしていますのでこの数字に間違いないと思います。私は平成7年に議員
 に初当選しました。その1期が終わろうとする11年に、突然「市民まつりの会」=商工会会長の
 C氏に実行委員長の要請を受けました。その当時の私は議員活動もさることながら、社会体育
 (スポ少本部長)、社会教育(生涯学習推進部委員長)に熱心に取り組んでおり、市民まつりは
 さほどでもなかったのです。『今まで祭りに関わった人が皆引退された。このままでは祭りが
 できない。生涯学習ボランティアの人脈を持っている貴君しかいない、頼みます。』ということ
 でした。生涯学習の方向に「生涯学習まちづくり」という概念があります。それに市民大学もH7
 年開校、5年目を迎えていした。すでに私は「市民大学校友会」設立の準備を始めていた時で
 した。私は平成11・12年、第12回と13回の実行委員長を勤めたのです。
  以来S氏2期、N女史3期、K氏とS氏各3期と20年近く市民大学・同校友会会員=生涯学習
 ボランティアの手で市民まつりは運営されてきたのです。絶頂期はK氏が委員長の頃でした。
 イベント数・ステージ数ともに私の頃の倍近くなりました。私の頃は旧盆明けから連日事無所に
 詰めたのですが、そのうちG・W明けからではないと間に合わなくなりました。「やりぎでは」
 「負担が多すぎるのでは」と思っていました。これに生涯学習推進活動の低迷が追い打ちを
 かけました。「市民大学」入学者は減り続け、合わせて学生・公友会会員の意識の変化から
 街づくり、のみならずボランティア活動への気運が急激に減少していったのです。
  貧乏くじを引いたのが現実行委員長H氏でした。「コロナ」による不実施を含め、この間何とか
 この状況の立て直しを図ったのですが、無理だったようです。ボランティアの疲弊化、高齢化
 数の減少は止められなかったのです。そして生涯学習ボランティアに代わり、まつりを運営する
 ある数をもつグループ・組織も無かったのです。
  去年のまつり、今年私が行った監査の日、翌日の理事会の日も冷たい雨でした。この祭りの
 運営に長いこと努力した来た関係者の涙雨だったと思います。H氏をはじめとする企画スタッフの
 皆さん本当にご苦労様でした。いつの日かまた、「市民の市民による市民のための市民まつり」
 を実現しましょう。最も私に残された時間は少ないですが!
  残金は事務所内片付けに使用、そのまた残金は能登への寄付に使います。今後の市民まつり
 については全く未定です。とにかく「市民まつりの会」は解散しました。アトは行政の手で、と
 イベント業者に頼む、の方法が残っています。いずれにせよまた一つ、久喜市の自慢であり
 宝である住民力・市民力の発揮の場がなくなりました。何とも寂しい限りです。

  今年も市内の桜を楽しみました ―Ⅱ― 4/4~8 青毛堀・上高野公園













  最後が「青毛堀」と杉戸の「上高野公園」です。ちょうど今年の見ごろの頃でした。青毛堀は
 何と言ってもやはり市内一といえます。―上・左から3枚― 桜と菜の花のコラボが見事です。
 もう少し河川敷を整備し、「青葉小」を駐車場にでも開放すれば多くの客が呼べると思います。
  最後が東武鉄道が開発した日光線・高野台駅から杉戸西小当たりまでの「上高野公園」です。
 ここは私のウオーキングコースで、この時期の桜のほかに、木陰・紅葉・冬枯れ風景と春夏秋冬
 楽しませてくれます。長い排水路沿い―上・右と下・左―、いつも野球やサッカーで遊ぶ子供たち
 でにぎわっている芝生の広場―下・右2枚― と多くの桜が楽しめます。
  こうして今年も市内の桜を楽しむことができました。しかしドコモ駐車場が少なく、ゆっくり
 歩くことが困難でした。「シティセールス」とか「都市ブランド推進」とかいう割に、具体的な事
 は何もしていないという感じでした。
  さて一応市内の名所を見て歩いた感じです。1が「青毛堀」、2が清久工業団地入口道路、
 3が中落とし堀東側、4が中落とし堀西側(山田電気~ヨーカドー)という所です。
  それといつもこの時期に、埼玉・栗橋線を久喜から鷲宮・栗橋方向へ走りながら思うことです。
 コスモスで名高い「葛西用水」の久喜側10mもないところに、幅の狭い用水が流れています。
 この用水沿いに見事な桜並木がずっと続いています。一度歩いてみたいと思うのですが、未だ
 その機会を得ません。中々のものです。

  今年も市内の桜を楽しみました ―1― 4/4~8 清久公園・古久喜公園他
 




























  今年は暖冬だったのでしょうか、それとも寒かったのでしょうか。とに角3月22・23と工高
 の同窓会で「湯河原・小田原」に桜を見に行くと連絡を受けたとき、良い時期を選んだと思った
 ものでした。所が3月の半ば頃から連日強風と寒波襲来、桜は一気に遅れました。4月に入り
 4日~8日までいつものように市内の名所を見て歩きました。4日と8日ではだいぶ開花状況に
 違いがありましたが、それでも一応市内の名所を楽しむことができました。
 上・左と左2は南栗橋スポーツ広場です。チヨット早い感じでした。
 上・右と右2は鷲宮行政センターここは運動公園より芝生のコミュニティ広場のそれがより
   見事でした。
 2段目・左は菖蒲行政センター近くのシラサギ公園、その右は行政センター横、右2は見沼代用水
  沿いです。ここは長いのですが、木が若く今一というところです。
 2段目右と3段目左2枚は清久公園です。菖蒲街道から清久野球場までのほかに、突き当たって
   右・野球場、左・資生堂工場にも桜並木が続き見ごたえがあります。
 3段目右2枚はヤマダ電機裏の中落とし堀です。白とピンクのコラボが見事です。
 4段目左は愛宕橋からの中落とし堀、中は吉羽公園です。此処も年々良くなっています。
     右は中落とし堀東側東コミセン近くです。車が止められないので遠くから撮りました。   

  他に「総合運動公園」や「東一公園」の桜を見ました。最近あれと思うのが無か一昔前実に見事
 だった久喜(女子)高校、何が何でも本数・枝共に減らし過ぎです。それと東一公園、昔は
 もっと見事だった記憶がありますが、このところいま一という感じです。個人の家で最高なのは
 本町のS医院裏庭のそれ、大木が2本あり実に見事です。

   ● 久喜市祭典委員会令和6年度・通常総会 4/14(日) 三高サロン 

  「久喜市祭典委員会」の令和6年度の「通常総会」が、14日(日)「三高サロン」にて開催され
 ました。W会長の下進んだ会議では、1号議案「令和5年度・事業報告及び決算認定について」
 2号議案・「役員選出について」、3号議案「令和6年度・事業計画及び予算について」の3議案
 が提出され、全て満場一致で承認されています。5年度決算額は歳入歳出ともに1、035万
 7、999円と初めて1千万円を超しました。役員は中間期に当たるため変動がありませんが、
 保存会会長は1名交代しています。予算ですが1、137万1、251円と前年比290万近くの
 増となっています。これはこの所毎年そうですが、警備費をはじめとする事業費の増大による
 もの、そのため前年度予算費、0の協賛金を100万円、20万円の分担金を180万円計上
 しています。協賛金100万円はともかく分担金は各保存会からのもので、保存会の会計が
 年々厳しくなっていることを考えると、抜本的対策を講じねばならないと思われます。

  総会終了後懇親会に移りました。来賓には「顧問」をお願いしている2人の衆議院議員、他
 2人の県議会議員も出席され祝辞を頂きました。昨年は4年ぶりの通常開催でした。今年も
 間違いなくその形になると思われます。240年続く祭りの良き所は継承しつつ、時代に即した
 新しきものへと変えていかねばならないと思います。
  会員の寄付に100%頼る保存会の経営は厳しくなっています。
  100%民間人だけの各保存会の連合体としての祭典委員会だけで、これだけの祭り執行
 は厳しくなっています。行政・多団体の何らかの参加が求められます。
  警察の祭りに対する見方が変化しています。伝統だけで許されなくなっています。何よりも
 安全対策を講じねばならないのです。
  日にち開催から曜日開催へと舵を切る必要が生じています。
  挨拶を求められた私はそんな持論を申し上げました。「市民まつり」がとうとう市民の手で出来
 なくなり、「市民まつりの会」は解散します。多くの地域団体の活動が軒並み減退しています。
 伝統ある提燈祭りだけは、何としても私たちの手で守り、発展させていかねばなりません。
 「継承の中の創造」を訴えるものです。

     ● 本二町内会令和6年度総会 4/14(日) 本町集会所

  14日(日)「本町集会所」において、「本二町内会及び自主防災会」の総会が「本町集会所」に
 おいて開催されました。我が本二町内会は24区と25区で構成されています。この間ズッーと
 コロナの関係で区別・2部制で総会を持っていました。今年は4年ぶりに統一総会、余り広くない
 「本町集会所」は用意した席がいっぱいでした。
  総会は100%内部組織である「自主防災会」のそれを含め、令和5年度と6年度に係る事業
 報告、決算、事業予定、予算の4、計8議案がすべて満場一致で承認されました。なお人事は
 2年任期の中間年のため変更なく、25区区長(町内会副会長)のみが交代しています。
  総会終了後出席された班長さんはそちらの方が本番だったと思いますが、道路愛護事業・
 市民体育祭等の行事への参加、町内会費・募金等の徴収、広報等回覧を通した配布について
 説明がありました。
  これで終わりなのですがその後、役員・出席した班長さんからいくつかの質問があり、結構
 な時間を要しました。1つは「市民体育祭」について、2つ目は「PTA」について、3つ目は
 他ならぬ本日の会場「本町集会所」についてでした。
  市民体育祭は町内会最大の行事といえます。長く主催は「公民館」でした。昨年「公民館」が
 廃止され、「コミセン」となりました。そのため昨年少なからぬ動揺があり、大会は半日でした。
  町内会の最大の懇親の場、1日開催に戻すべきという意見が出たのです。今年については
 全く白紙です。「公民館事業は残す」というのが行政の答弁です。そのために教育委員会に
 公民館事業推進室が設置されました。しかしどうなるか今のところ全く未定です。
  次は「PTA」についてです。本来任意加盟の組織ですが、今まで全員加盟を原則として運営
 されてきました、ここへきて大きな変動があり任意加盟の組織へ、それに基づく活動へと、抗し  
 難い流れとなっています。町内会と地区PTA との関係もあり苦しいところです。いずれにせよ
 久喜小もここ1年で決定されます。注意深く見守っていきます。ただ同じく任意加盟が本来の
 町内会も同様に流れると町内会など運営できなくなります。全員加盟を継続していきたいと
 お話申し上げました。
  3つ目は他ならぬ会場となった「本町集会所」、令和9年に廃棄されることが決まっています。
 「公共施設個別施設計画」に基ずくもの、議会議決を経ています。全体としてアセットマネジ
 メントの考えに全部反対するものではありません。しかしこのように住民の間近で活動を支えて
 きた施設を、住民の意向を無視して廃棄するには反対です。何らかの存続のための要望活動を
 行うことを全員で確認しました。

 
      4月 春本番を迎えました。 4/2(火)









  春4月・卯月に入りました。新年は1月から始まりますが、学校・行政機構いずれも「年度」と
 いう概念で進みます。令和6年度が始まったことになります。学校・市役所共に新人事で執行
 されることになります。久喜小では教頭先生が異動、他にいくつかの企画をご一緒したS先生が
 主幹教諭として栄転されました。市役所ではまた新しい機構改革がなされ、このところ毎年の
 ように機構改革があり、わからなくなっています。また私自身議員を辞し7年目になりますので
 余り異動に関心を持たなくなりました。「スポーツ振興課」では係長とレク協担当が代わられま
 した。また教育委員会では職員というより「社会教育指導員」に交代がありました。長くお世話
 になりました。また新任の皆様にはよろしくお願いします。
  私ですが去年の肋骨骨折・入院に伴い介護認定1の身となっています。100日を超し入院
 していた女房、未だ入院中の長男と全員不自由な身体となりました。いろんなところに手すりを
 着けて対応していますが、プラスしてベッドを購入し利用することとしました。先月の29・
 30・31と次男が孫娘2人を伴って来宅し、その準備をしてくれました。大きな本箱2つを撤去
 ディスク型パソコンを目一杯端に移して、ベッドを置くこととしました。ピッシリ詰まっていた
 本を3割がた廃棄処分としました。主に議員時代のものでしたが本当に残念でした。特にこの
 間の活動を思い起こすファイルの類です。ページをめくると思い出が次々と沸き起こり、到底
 捨てる気になりません。本当に身を切られる思いでした。ベッドは1週間後に来るそうです。
 本箱2つ無くなった部屋はだいぶ様変わりしました。―左―
  所で4月といえば桜です。温暖化の関係で桜は年々早くなっています。下段でお伝えしまし
 たが先日高校時代の仲間と湯河原へ桜を見に行きました。在京の友人から3月22・23と
 聞いて1番良い時期と思ったのですが、上手くいかないものですね。暖冬だった今年、3月に
 入り連日のように強風と寒波の日が続きました。湯河原も小田原も桜の「さの字」も見られ
 ない状況でした。でも31日は28・1度と3月として観測史上最高気温を記録したようです。
 午後、孫たちが帰った後開花状況を見に古久喜公園へ行きました。ご覧のように―中―
 1部咲き程度の普通の状態、―右― が1番日当たりの良いところです。見ごろは今週末か
 と思われます。今年もまた清久公園や青毛堀といった市内の名所を見て回る予定です。
  今週末が市民大学の入学式、来週は市内小中校、高齢者大学と続きます。新年度の活動が
 本格化します。大部役職も減りましたが、今年度も頑張ってやっていきます。
 
  ● 最後の? 「市民まつりの会」監査と理事会 3/25(月)・26(火)

  私がこの間いくつかの役職を辞したことから、「最後の社会教育委」とか、「最後の放課後
 子供教室運営委」とかそのいくつかを報告してきました。25日最後の市民まつりの会の
 監査を行い、26日は最後の理事会を開催し、4/14日開催予定の総会準備を完了しました。
 私個人の事でなく、組織として「市民まつりの会」が解散するためです。平成11・12年、
 第12回・13回の実行委員長を勤め、生涯学習ボランティアの手になる市民まつり執行の
 先鞭を取り、その後「会」の副会長、また「監査」としてずっーと関わってきた者として非常に
 残念に思う次第です。
  「久喜市民まつり」は福祉ボランティアの手による「イチョウ祭り」と、商工会会員の手になる
 「商工祭り」が合体し、昭和63年にスタートしました。最初の頃は「総合文化会館前広場」とか
 「市役所駐車場」とかが会場でしたが、徐々に拡大され20m道路となりました。しかしこの
 過程の中心の福祉ボランティア、商工会関係者、JCといったメンバーに疲れが出、一線から
 外れました。その折商工会会長で「市民祭りの会」会長のC氏から私にお声がかかったの
 です。「岸さんは生涯学習ボランティアの人脈を持っているから」ということでした。前記した
 ように私がH11・12と、その後S氏、N女史、K氏、S氏と市民大学と校友会関係者が実行委を
 形成し、市民まつりを執行してきたことになります。K氏を実行委員長とする頃がピークだった
 かなと思います。イベントは私の頃のほぼ倍増、ステージも増え、20m道路とちょうちんまつり
 道路両方を使うようになりました。必然的に、企画スタッフの活動も増えることになります。
 私の頃はお盆明けから連日事務所に詰めましたが、今はG・W明けからとなりました。半年も
 連日事務所に詰める何てボランティアの域を越えていますよね。結局市民大学の後輩の
 S氏とH氏が、幕引き担当の損な役割を演じることとなりました。ご苦労様でした。
  市民大学も「高齢者大学」も入学者数が減少しています。プラスして学生の年齢が高くなって
 おり、年間半数日もボランティアに費やすことが非常に難しくなっています。久喜市以外の近隣
 市町の市民祭りはイベント業者に丸投げするか、職員の大幅な参加でこれをやっています。
 「市民の市民による市民のための市民まつり」は当々久喜でもやれなくなったのです。
  来年以降この市民祭りまつりをどうするかは別の問題です。今のところ「総合文化会館」の
 指定管理者が行っている程度、「文化会館前広場」での業者による祭り、という考えが中心の
 ようです。2千万円・3千万円、行政が用意する金に応じてそれなりのまつりをやるそうです。
 とにかく「市民祭りの会」は今年を以て解散ということになります。
  昨年の最後の市民まつりも、監査の日も理事会の日も冷たい雨が降りました。関係者の涙雨
 でしょう。この間市民まつりに関わった多くの人たちの、その時その時の、その人その人なりの
 ご努力に深い敬意を表します。ご苦労様でした。またいつの日か、みんなで市民の手になる
 市民まつりを実施しましょう。もっとも私に残された時間は少ないですが。

   ● 工高時代の仲間と湯河原へ行ってきました。 3/22(金)・23(土)  








  私の高校の母校、「東京工業大学理工学部付属工業高等学校」については、もう何会も
 このページで報告してきました。とにかく最高の仲間と最高の恩師に恵まれ、これまた最高の
 3年間を過ごしました。工業高校(私は機械科)ですから就職校です。しかし3分の1は大学に
 進みました。行き先は全国に散らばり全くバラバラ、皆企業戦士として一線で頑張っていました。
 だから3~5年ごとの同窓会でお茶を濁してきました。しかしやはり皆が猛烈な愛着を持って
 いたのでしょう。歳を重ねる毎に会う機会が増えました。とにかく何年かおきの同窓会の他に、
 何だかんだと会う機会を持つようになりました。ここ10年は春は桜を見る会、秋は1泊旅行が
 定番となりました。昨年JR山手線田町駅芝浦口にある母校が移動、跡地に東工大が超高層
 ビルを建て、目黒区大岡山の東工大本学内に移ることが決まりました。そんなことで思い出の
 地での最後の同窓会を80歳も記念して持ちました。その時今年も晩秋にでもどこかへ行こうよ
 と話し合いました。
  ところがです。同級生ですから皆80を迎えています。とにかく全員どこかしら痛んでいるの
 です。A君は脊柱管狭窄症で動けなくなりました。B君は奥様が入院、本人はコロナです。C君
 は6人兄弟でただ1人残っていたご兄弟が逝去され、その対応に追われました。そして私は
 ご承知のように転倒→肋骨骨折で、介護認定1の身となりました。皆メールと電話連絡です。
 「とにかく速く良くなって来春にでも桜でも見に行こうよ」なんて話し合ったものでしたが、
 それが今回の湯河原泊、小田原城桜見物となったわけです。暖冬だから丁度良い頃だろう
 と皆楽しみにしていました。 
  ところがです。そう上手くはいかないものです。3月中旬から強風と寒波が連日続き、桜の
 開花は1週間以上遅れてしまいました。まあゆっくリすればよいやと出発です。箱根・熱海
 方面はすごく便利になりました。上野・東京ラインに乗れば久喜からそのまま運んでくれるの
 です。小田原駅で小田急利用組と合流、再び東海道線に乗り湯河原で下車しました。熱海
 箱根に客を取られ、湯河原も最近は苦しいそうです。ここで万葉公園に散歩に出ました。
  「万葉集」で歌われていることからこの名がついたそうです。湯河原を流れる千歳川に添った
 綺麗な公園でした。岩山をくりぬいたトンネルを抜けると―左―2つの滝が迎えてくれました。
 ―左2― 足湯や立ち寄り湯の綺麗な施設もありました。―右2― 
  にぎやかに夕食を取った後、本当に久しぶりにカラオケを楽しみました。さすがに80歳の
 喉は今一つというところでした。
  翌朝は冷たい小雨でした。千歳川沿いは桜の名所として知られていますが、ホテルのテラス
 からの風景はまだまだ冬枯れの状態でした。―右― 小田原城の桜もまだまだです。皆
 帰ろうよとなってしまいました。やはり80歳の身、御身大切にというところです。
  そんなことでアヤメの時期に見に行くか、なんて話し合って帰宅の人となりました。

    ● 自宅介護生活への準備を完了しました。 2/29(木)









  本ページ1/12日付で報告しています。私は昨年11月13日深夜自宅風呂場で転倒、肋骨を
 3本骨折、腎臓損傷という事で「久喜総合」に入院しました。常日頃の行いの良さに少しの奇跡
 が加わって10日間で退院できました。入院中市役所介護福祉課職員の来訪を頂き、いくつかの
 質問に答えました。これが何と娘がした「介護認定」との事で、その後要介護1となりました。
  一方女房は私の入院中11月17日に「自治医大さいたま医療センター」に入院、リハビリを
 へて、今週末に丸々100日ぶりに我が家へ帰ってきます。女房は同じく入院中に介護度5の
 認定を受けています。そして長男です。昨年12月中旬から「久喜総合」に入院中、私などより
 相当重い症状ですから、介護認定は必至とおもわれます。まだ退院のメドは立っていませんが
 要するに我が家3人全員が、要介護の状態で暮らすことになるのです。
  チヨット半年前までは思ってもいない状況となりました。しかしこれが現実ですのでいずれ帰る
 長男を含め、助け合って暮らしていかねばなりません。そんなことで介護保険の適用を受け
 ケアマネージャーさんにはケアプランを作成していただき、またアドバイスを頂いて福祉用具を
 設置しました。写真は左・玄関に設置した手すりとステップ、中・風呂場に設置した立ち上がり用
 手すり、右はトイレの立ち上がり用手すりです。アトは階段の手すりを後ほど設置します。
  私は介護1ですから、デイサービス、ディケアも受けることができます。今のところそうした
 気持ちはありません。おそらく私は次の「見直し」の時は、「要支援」になると考えています。
 またそうなるよう頑張るというか、日常生活に注意していきたいと思っています。
  とにかく今週末に女房が帰ってくると、長男入院以来80日に及んだ1人暮らしから解放
 されます。チヨット疲れていました。女房はバリバリ働くことはできませんが、やはり助かりますし
 うれしいものです。
  とにかく家族3人、助け合い・協力し合って介護生活を続けていきます。 

  ● 本二町内会主催「子どもフエスタ」 2/4(日) 久喜小多目的室








  役員による準備        中2枚開会式               お手玉
  本二町内会が初めて取り組んだ、児童を対象とするイベント「子どもフエスタ」、が4日(日)
 午後久喜小多目的室で開催されました。もう何度もこのページで報告してきました。私は
 平成4年まだ40代の後半に、町内会長の勧誘を頂き役員になりました。もう30年を越えて
 います。もちろん今の役員の中で1番長いと思います。だからこの30年町内会の活動を
 ずっと経験してきました。会員数は約250ですから決して大きな町内会ではありません。
 市の行事への参加とかはきちんとやりますが、しかし決して活発な活動町内会ではなかった
 と思います。しかし10年ほど前現会長体制になってからガラッと変わりました。時流もあった
 のですが自主防災組織を立ち上げました。その主催で防災訓練も何回か実施しています。
 全会員を対象に「健康体操の集い」も定着しました。久喜小が町内にあります。学校と連絡を
 とり生垣の清掃など定期的に行うようになりました。そして今回初めて町内児童を対象に
 (もちろん保護者も)、「子どもフエスタ」を開催するに至ったのです。
  内容について役員会で何度も何度も協議しました。結局「お手玉・輪投げ・割りばし鉄砲・
 ボッチヤ」の4種目としました。日曜開催と決まっていましたが、時間はお母さん方の意見を
 取り入れ午後からとしました。会場です。「ボッチヤ」をやる以上「本町集会所」では狭すぎ
 ます。久喜小青山校長先生が気持ちよく「多目的室」を提供してくれました。久喜小はこの
 ほかにも、久喜小児童全員に広報をしてくれました。地域と学校との好ましい関係とは、こう
 した関わりの積み重ねによって成り立っていくんだと実感しました。







   輪投げ         ボッチャ      作って持って帰れるので1番人気のゴム鉄砲
  問題の参加者数です。当初かなり心配しましたが、何の何の児童・保護者合わせて40名を
 超す参加者があり、大盛況でした。「ボッチヤ」は「ゆうゆう」でも取り組んでいます。ボール
 カロッテイ(ペタンク)ににた本来は身障者向け競技です。先の「東京パラリンピック」で日本
 選手が大活躍したことから人気が出ました。みんな代わり番にこれに挑んでいました。
  一番人気のあったのは「割りばし鉄砲」でしょうか。自分で作ったものを持って帰れると
 いうのが人気だったようです。割ばしと輪ゴムを使い、2~30分でできます。出来上がると
 机の上に並べたぺットボトルに試し打ち、結構威力があってビラミット状に積み上げたボトル
 が崩れると歓声を挙げていました。
  初めてにしては大成功に終わりました。本二地区PTA役員の皆様に感謝します。また
 多くの面でご協力いただいた久喜小にも深く御礼申し上げます。
  これからは町内児童を対象に行事を持っていきたいと考えます。

  久喜市商工会10周年記念・山田邦子さん講演会 1/27(土) 総合文化会館 

  久喜市商工会(小林会長)は市町村合併にやや遅れ、平成25年12月に合併、「新久喜市
 商工会」としてスタートしました。今年が合併10年に当たります。合併10年を記念し27(土)
 「久喜市総合文化会館」大ホールにおいて、「記念式典」、その後お笑いタレント「山田邦子」
 さんの「笑顔で行こう!~つながり~」という講演が行われました。なお久喜市商工会は
 会員数2500名余を誇り、商工会としては全国で6・7番目になる大規模組織とのことです。
 私はご承知のように父以来の金属プレス加工業を営んでいました。旧久喜市商工会に加盟
 工業部会の役員をしていました。中小企業ならぬ零細企業を代表してということでした。この
 時の会長が現清久工業団地会長のコヤマ(生コン)氏のお父さんだったことも懐かしい思い出
 です。「総合文化会館」前の広場には30前後のテントが張られ、市内業者を含む出店があり、
 結構なにぎわいを見せていました。
  さて講演です。「山田邦子」さんは、確か60歳を1~2歳過ぎていると思います。私のような
 年齢の人間には大変なじみのある方です。昭和の終わりから平成の初めにかけ、爆発的な
 人気のあったお笑いタレントです。テレビを付けると必ずと言って良いくらい山田さんの顔が
 ありました。確か10年近く「好きな女性タレント」のトップに座り続けたと思います。しかし
 平成7~8年頃から、急にテレビへの登場が少なくなり、ついには消えてしまいました。原因
 は彼女の主役番組が予想に反し、極めて低視聴率だったこと、お定まりともいえる「不倫
 問題」だったといわれています。その後平成10年代末期には「乳癌」を患うといった事もあり
 ました。しかしその後健康を回復、その経験に踏まえ、「癌」への啓蒙・命の大切さを訴える
 活動等を通してじわじわ任期をばん回、今再びブレイクの時を迎えているのです。
  山田さんはあの人なつっこい笑顔とおひゃらけた態度で登場し、たっぷり90分の話をしま
 した。とにかく私も今まで多くの講演を聞いてきました。非常に学術的だったもの、政治家の
 アジ演説に近かったもの、とつとつは話され思わず聞き入った教育者のもの(藤原正彦氏)  
 スポーツマンのもありました。あるサッカー選手のものは中身はともかく、ボールを蹴りつつ
 のもので飽きさせなかったです。もちろんお笑いタレントのものも聞いています。もう退屈で
 ひたすら眠気と戦ったのもあれば、笑い転げっぱなしのもありました。そして今回の「山田」
 さんです。正直言ってこれほど笑った講演はありませんでした。舞台の端から端まで動き
 まわり、歌唱・ものまね・踊り全てを取り入れ、正にサービス精神に満ち溢れたものでした。
  ジャ中身は取んなものだったと改めて聞かれると、さて何だったろうと思います。とにかく
 こうして今元気に皆様にお話しできているのも、大勢の人たちに支えられてきたから、そんな
 人とのつながりを大切に、一人一人が笑顔で、免疫力を高め、元気に生きていこう――
 こんな内容だったと思います。とにかくサービス精神に富、人を飽きさせないその演技力
 タレントとしての力量には感心しました。
  私も自分自身の衰えや、家族の入院でやや落ち込んでいますが、笑顔をもって元気に 
 行くほかないと感じ入った次第です。

    ● 久喜市祭典委員会新年会  1/20(土) 徳寿庵 

  久喜市祭典委員会の令和6年新年会が、20日(土)三高サロン1F「徳寿庵」で開催され
 出席しました。7保存会役員・観光協会・行政職員等約30名、1年のほとんどを祭りとの
 関わりの中で過ごす、親しい仲間との楽しい時間を過ごしました。
  この間ずつーとコロナとの関係がありました。だから新年会でも「今年はやれるかな」とか
 「やれるとして山車は動かせるかな」といった噂の数年でした。しかし今年は違います。
  去年少なくとも3年ぶりの完全復活をしているのです。だから今年はこうやりたい、とか
 ああやりたいという前向きな中での懇談でした、完全にやれる祭りだからこそ、240年という
 伝統に踏まえながらも、直すべき点は直していかねばならないのです。
  その第一は祭典委員会そのものの問題です。まず100%会員の寄付だけに頼る現方法は
 各保存会の会計を圧迫するようになっています。次にこれまた100%民間人からなる現「祭典
 委員会」では、これだけ肥大化した祭りを執行するには無理が来ています。
  多くの団体等から幅広く協賛金を集める、例えばまつり見学の桟敷席等用意し、祭りその
 もので収入を挙げるといった方法もあるでしょう。そうした場合当然各保存会の連合体という
 今の祭典委員会を改組し、行政・商工会・区長会・コミュニテイ協議会・消防団といった多くの
 団体・機関による実行委員会形式、というものを考えていかねばならないでしょう。その中で
 祭典委員会の役割、当然山車の運行、神事に関する事を中心に考えていかねばならない
 でしょう。
  特にここ数年特徴的な案件として、信号の首振りと警備員による会場警備の問題があります。
 とにかくウナギ上りに経費がかかっています。はっきり言って観光協会を通していただく行政
 からの補助金全部が、これで飛んでしまうという信じられない状況があるのです。伝統ある
 各地の花火祭りのいくつかが、中止に追い込まれているのはこの事情です。補助金のアップが
 当然望まれますが、信号の首振りも含め抜本的解決を図っていかねばならないでしょう。
  当然伝統ある日にち開催から、曜日開催への変更も考えていかねばならないでしょう。とに角
 祭り関係者には祭りの運営・執行に関してはすごく詳しいけれど、祭りそのものを久喜市全体
 との関係の中で考えていくということがやや欠ける傾向にあります。伝統・神事を中心とする
 祭りと町興し・シティプロモーションの祭り両者を考えていかねばならないと思います。
  そんなことを口角泡を飛ばし皆で語り合いました。本当に祭り大好き人間ばかりなのです。
 ゆらゆら揺れる提燈の明かりとつんざく祭り囃子、もうみんなの前にあります。
  今年こそ素晴らしい祭りをやろうよ、みんなで誓い合って解散しました。

        ● 退院後50日・現状報告  1/12(金) 

  去年の暮れから今年年頭にかけての私の暮らしぶりについては、いろんなページで報告して
 きました。このところ足の運びがめっきり悪くなっていました。床を踏んでいるという感じがなく
 布団の上を歩いている感じ、いつもフワフワしていました。11月13日深夜自宅風呂場で大転倒
 肋骨3本折り、腎臓損傷で「久喜新総合」に入院しました。当初3週間といわれたのですが何と
 10日間で退院できました。コルセットを巻いたまま今日に至っているのですが、その入院中の
 事です。久喜市介護関係職員の訪問を受けました。何だろうと思いつつ、いくつかの質問に
 答えたものでした。後で県南S市に住む娘からの申請で、介護認定の調査と知りました。女房も
 (現在も)自治医大に入院中であり、連日両親の見舞いに明け暮れていた頃、女房への申請と
 同時に私もお願いしたとのことでした。そして退院、その後長男も「久喜総合」に入院し、1人
 暮らしで歳末の大掃除などに追われていた12/20日頃でした。市役所から手紙があり
 開封したところ、私が「要介護1」との連絡でした。「俺もとうとう要介護か、等」通知を見て
 いろんな思いが去来しました。
  とにかくやはり1度「要介護1」の認定を受けた兄に聞いてみた所、「入院中の診査は甘く
 なる傾向、自分もそうで半年後に要支援2、1年後に1となった。お前もそうだよ。」と言われ
 ました。まあそれはともかく現在自分は立派な(威張れません)「要介護1」です。女房は私が
 「1」なら最低「3」位になるでしょうか。ただし退院ははるか先、早くて桜の咲く頃です。とに
 かく「ケアマネ」さんに相談し、他の利用は考えていないのですが、古い家なので、「バリア
 バリア」の我が家に、女房の帰宅に備え(私も)手すりなどつけられればと考えています。

  もう1つです。女房が11月中旬に、長男が12月上旬に入院、1人暮らしがひと月余となり
 ました。暮れに気仙沼に住む次男一家が来宅し、大掃除は全部やっていってくれました。
 それでもアトふた月は現状のままとなるでしょう。炊事・洗濯・ゴミ出し・買い物・掃除と全部
 そつなくこなしているつもりですが、やはり食事の用意が大変です。朝食は基本パンです。
. 昼食はごはんと麺が半々、半分麺の大半はどうしてもインスタントですね。ごはんの際の
 おかずを考えるのが大変です。イヤになりかけていたら、これも娘が福祉課に「配食
 サービス」を申し込んでくれました。ごはん付きで1食300円です。「月・水・金」ととり
 あえず週3日お願いすることとしました。健康確認もしますので配食される10:30頃、
 自宅で直接受け取らねばなりません。この時間結構会議等で不在の時があります。どう
 対応するかがこれからの課題となります。今日から始まりました。さっそく昼食に食べます。
  てなことで何となく元気に1人暮らしを過ごしています。まだ長く続きます。
  転倒せぬよう気をつけつつ元気にやっていきます。

    ● 令和5年を振り返って・私事 12/24(日)  

  令和5年2023もあと1週間となりました。この後書いてまいりますが、私今年の年末年始は
 1人暮らしです。炊事・洗濯・買い物・ゴミ出しと完璧にこなしながらの越年です。その事情も
 含め今年1年を振り返ってみたいと思います。

 
★ 80歳となりました
  私の誕生日、7月8日をもって80歳となりました。日本人の平均寿命は女性は87・45歳
、男性は81・45歳とのことです。死亡の1番多いのは乳幼児、成人した場合、その平均は3歳
 近く伸びるそうです。とすると私はアト3年位生きられることとなるのでしょうか。いずれにせよ
 ヤダなという思いがします。とにかく80という声を聞いてめっきり身体が衰えました。後記
 しますが自宅風呂場での転倒による肋骨3本骨折もその表れです。アト何年いろんな活動が
 出来るのかという思いが深刻化しています。そしてこの1年は同世代の活動仲間の訃報が
 非常に多かったです。同級生で中学時代の部活も一緒だったS氏、生涯学習とスポ少を共に
 したS氏、20代に一緒に体育指導委員(現スポ推進委)を委嘱されたМ氏、長いお付き合いを
 させてい頂いて来ました。何とか1年でも長く健康でいたい、そして何かの活動をしていたいと
 疼く思いのある昨今です。
 
 
★ 厄除けしたい位の病気とケガの1年でした。
  まず女房です。乳がん、だいぶたって白血病の宣告をうけ、県「がんセンター」で治療を
 受けてきました。今春になり病状が悪くなり、全く動けず「新総合」に救急車で運ばれた事も
 ありました。「血液がん科」から「内蔵がん科」へ回り診察を受けた際、最悪の状況を言われた
 こともありました。その後「がんセンター・自治医大さいたま医療センタ-」で検査入院を数回
 繰り返し、11月に「自治医大」で「手術・処置」を受けました。徐々に回復に向かっています。
 が退院にはほど遠く、正月は病院で送ることになります。
  次いで私です。女房の入院を控えた先月の中旬、自宅風呂場で転倒、肋骨3本の骨折、
 腎臓損傷の大ポカをやらかしました。やった瞬間余りの痛さから「ヤバい・折れてるな」と
 「とうとうやったか」という思いが去来しました。「とうとうやった」は上段「80歳になりまし
 た」でも記しましたが、最近どうしても足の運びが悪くよくもつれるのです。朝になるのを
 待ち救急車を呼び「新総合」に入院しました。当初2~3週間といわれましたが、何と9泊
 10日で退院出来ました。とにかく私が総括責任者を勤めた「綱引大会」に間に合ってホット
 胸をなでおろしました。
  そして最後が長男です。2人で正月を過ごそうと思っていたのですが、長年ため込んでいた
 血糖が災いし、チヨットした失敗が大事になり、新総合で手術を受けることになったのです。
 どれくらいの入院期間がわかりませんが正月はだめです。
  てなわけで年末年始1人で過ごすことになります。近所の人から厄除けを! なんて言わ
 れています。本当にやヤク除けでもしたい気分です。

 
★ スポ少本部長を辞しました。 
 
 この歳になるまでなるまで実に多くの社会活動を、それも熱心にやってきたと我ながら思い
 ます。しかしその中で1つといわれれば当然スポーツ少年団活動です。旧久喜市にスポ少が
 誕生したのは昭和51年・19761の月です。体協役員と体指としてこれに外部から関わった
 私は翌1977「久喜少年サッカークラブ」を発足させ、団長となりました。このクラブでの
 40年を超す様々な思い出、団員・保護者・指導者との触れ合いは私の最大の宝物です。
 不幸にしてクラブは6年前解散しました。私の人生最大の痛恨事であり、いろいろありました
 がその全ての責任は団長たる私の責任であると深く恥じるところです。
  こうした団活動と同時に久喜市本部での活動にも取り組みました。そして平成7年・第3代
 本部長に就任、16年務め、平成22年合併により誕生した新市の本部長に着きました。
 10周年までと思っていましたが、今年5月の総会まで13年、新旧久喜市本部長を29年間
 勤めさせていただいた事になります。この間新旧本部で2回にわたり「日独同時交流」を実現
 旧本部の盛大だった20・30周年記念事業と思い出は尽きることがありません。辞任に当たり
 せめてものお礼にと優勝カップを贈らせて頂きました。何かにお使いいただければ幸いです。
  こうした市本部活動と合わせ。県本部活動にも参加しました。昭和55年県指導協副委員長
 就任を手始めに、本部員から副本部長を17年勤め、最後は本部長代行として日本一と言わ
 れる県本部を預からせていただきました。5年前県スポ協に敷かれる定年制のため辞してい
 ます。出会った人は皆よき人ばかりであり、幸せな35年間でした。
  私は今市本部の「顧問」を仰せつかっていますが、これといって活動の場はありません。
 ただ私しかその資格を持っていませんので、これからも「スタートコーチ養成講習会」の講師を
 勤めます。来春2月にあります。アト何年出来るかわかりませんが恩返しで頑張ります。

 
★ 久喜小の学校運営協議会会長に就任しました。
 
 スポ少本部長をやめた今、私が1番情熱をもやしかつ時間を割いているのが母校久喜小
 での活動です。コミュニティスクールに関する「学校運営協議会」と、「くきっ子ゆうゆうプラザ
 放課後子供教室」です。「くきっ子ゆうゆうプラザ」は平成17年、市内で最初に開校され来年
 20周年を迎えます。今実施委員会では「20周年記念事業」に取り組むことを決定しています。
 全力でこれに関わりたいと考えます。
  「コミュニティスクール」です。ご承知のように久喜市は平成29年に県内初の全校移行をして
 います。その時私は議員最後の年でしたので、翌30年から久喜小の「学校運営協議会委員」
 に委嘱されました。そして今年会長に選出を頂きました。議員としてこの制度の導入を図った
 私は当然ながら全力でこの活動に取り組んできました。会長になって1・選善館活動の構築
 2・久喜小の先生方との意見交換会の開催、3・久喜小フオーラムの開催等を皆に約束しま
 した。ほぼ考え通り進行しています。私が生涯学習活動の推進に関わって長いものがありま
 す。一貫してその中心は地域と学校との望ましい関係=学社融合でした。コミュニティスクール
 の活動に最後に関われることをうれしく思っています。

 ★ その他もろもろ
  まず祭り・久喜市祭典委員会です。昨年辞表を提出・無職でいましたが、本年の総会で
 「相談役」を仰せつかりました。ありがたいことです。100%寄付に頼る各保存会の運営は
 苦しくなっています。100%民間人だけの現・委員会ではこれだけ肥大化した祭りの運営
 は無理となっています。伝統的日にち開催から曜日開催へと舵を切る必要もあります。
 様々な変革時に来ている祭典委員会の運営に関わって参ります。
  北小の読み聞かせボランティアです。基本絵本を読み、絵も見せます。手を一杯伸ばし
 絵本を立てて読むのですが、視力の衰えから最近難しくなっています。これも本当にアト
 何年続けられるかというところです。
  今年になり市が音頭を取り、「スポーツコミッション」設立に向け準備しています。私は
 その設立準備委員として会議・先進地視察等に参加しています。スポーツとコミュニティの
 形成、スポーツによるまちづくりは必須の課題です。来年度の早期設立を目指していきます。

  てなことで1年が終わろうとしています。80となりもうだめだ、なんて言いながら忙しい
 毎日を送っています。うれしいことです。こんな毎日をアト1年でも2年でも続けたいと
 願っています。

   ● 富士見乳児院合同懇親忘年会  12/15(金) 

  昨夜、市内某所において富士見乳児院の職員(社会福祉法人・愛全会)と後援会役員との
 合同懇親忘年会が、これもコロナの影響にて4年ぶりに開催され出席しました。私は後援会の
 現副会長にあります。この後援会は富士見乳児院の行事、夏の暑気払いや秋の運動会、更に
 クリスマスパーテイといったものを支援すること、合わせて寄付金等の援助で、子供たちの笑顔
 が少しでも輝くことを願い設立されました。初代の会長が私の中学校時代の恩師であり、かつ
 菩提寺の住職でもある故佐久間先生であり、強い勧誘の頂いてのものでした。現在は本町
 7丁目、うっそうたる「甘とう院」の森の中にありますが、まだ本町5丁目に合った頃でした。
  その後2代目会長故吉田さん、現3代目会長八木原さんと私の市民大学の同期であり、また
 様々な地域活動をご一緒している仲間です。親しく後援会活動をしているうちに、いつしか年齢
 も上がり何と副会長まで仰せつかるようになりました。なお前の愛全会理事長が社会体育・
 教育の大先輩である故鳥海氏、現理事長がご近所の細井氏であるという御縁もありました。
  さて富士見乳児院です。そもそも乳児院とは戦後1947年「児童福祉法」の制定に伴い
 作られた施設です。当初は戦災孤児と栄養面などの発育不良の子ど御立を保護するのが
 主たる目的でした。その後70年社会の変化とともに、様々な事情で家族と一緒に暮らせない
 赤ちゃん・乳幼児を支える活動になっています。少子化の影響で一時110ほどに減りましたが
 現在全国に130余、埼玉県内には6施設ありますが、「富士見乳児院」は定員65名、県内
 最大規模です。かって久喜市の老人ホーム偕楽荘跡地に建てられていますが、昨今やや
 老朽化が目立つようになりました。富士見乳児院をはじめ最近の乳児院は、養護から養育へ
 すなわち乳幼児の養育から、子供・家族が地域で幸せに暮らしていけるよう、正に総合福祉
 センター的役割まで要請されつつ頑張っているのです。
  地域の皆様の積極的応援・支援をお願いします。後援会への入会、寄付金は常時受け付けて
 います。よろしくお願いします。

      ● 本年度の町内会活動  12/12(火) 

  私が役員の末席をケガしている本二町内会は、毎月第1土曜日の防犯パトロールに
 加え、9日(土)歳末防犯パトロールを実施、終了後市内で役員による歳末懇親会(忘年会) 
 をもって一部役員を除き本年度の活動を終了しました。
  私の町内は提燈祭り通り、市役所通り、市道1号線(六間道路)に囲まれた2行政区から
 なる戸数250戸からなる町会です。全体の3分の1~4分の1を久喜小に取られているため
 戸数・会員数共に余り大きくはない町会といえます。勝っては提燈祭り通りには商店、うらへ
 回るとサラリーマン家庭でしたが、最近は商店が軒並み後継者不在から見せを閉じ、アパート
 に変り、またうら通りでは一時目立った空き家に新住宅が建てられ、新会員が結構増えている
 という状況にあります。
  余り熱心ではないが普通にやることはやっているという町会でした。しかし現町内会長に変って
 から自主防災組織の立ち上げ、毎月1回の全会員を対象とした「健康体操」の実施、また久喜小
 地区PTAとの連携活動等に取り組み、良い町会となりました。来年は2月に子供たちを対象と
 した昔の遊びを中心とする「フェスティバル」、また高齢者を対象とする講演会(取り込み
 詐欺対策)を計画しています。
  悩みはやはり役員の高齢化です。80歳代が4分の1強、70歳代が2分の1、60歳代が
 4分の1弱というところ、少なくとも60歳代役員の獲得が急務といえます。 
  私が役員になったのは48歳でした。当時の会長が「岸さんは町のことをいろいろやっている。
 ぜひ地元でも」と勧誘に来たのです。「岸さんみたい若い人が入らないと年寄りだけになる」
 と言っていましたので、高齢者問題はそのころからあったようです。当時私は社会体育・教育が
 面白くて、楽しくてたまらなかったころで余り熱心な役員ではなかったと思いますが、歳と供に
 熱心に活動するようになりました。でも本当にアト何年かという歳を迎えています。今年はスポ少
 をはじめいくつかの役職をおりましたが、地元、町内会と久喜小だけはもう少し頑張りたいと
 考えています。

     大失態 久喜総合に9日間入院しました。―Ⅱ― 11/26(日)

  最初の晩だけ2人部屋、後は4人部屋でした。4人部屋では最初の2泊目は「テレビ」、
 後は最後まで隣の人のいびきに悩まされました。これが大部屋の欠点です。テレビは
 「イヤフォン」で見るは入院でのルールです。それを守らせないのは病院側の問題です。
 それに比して「いびき」はルール違反ではありません。「止めさせてください」とナースさんに
 言えるものでもありません。しかし今回の「いびき」は本当にすさまじいものでした。3日目の
 夜から最後までひたすら耐えるしかありませんでした。
  入院で1番つらいのは生理現象です。普通「小」は「どう尿管」、「大」は「おしめ」です。
 しかし私のように入院生活が少ない者にはそれが大の苦手、今回その点恵まれました。
  おしめは使うことなく、1階だけナースさん付き添いで、後は1人でトイレで済ませました。
 「小」の方も2晩のみ部屋内の「尿瓶」、後はトイレで済みました。これは幸運でした。
  食事は2日間点滴のみ、後は「糖尿食」でした。正直まずかったです。あとなぜか家に
 いるときより「血糖値」が上がり、今回の入院中これだけは悩まされました。
  3日目から「リハビリ」が始まりました。これが実にきちんとしており、後半は前後2回あり
 結構歩かされました。理学・作業療法士の数の多いのに驚きました。5日めの日曜日
 下へ降りて庭を歩きました。6日目からはいつも菖蒲街道を通行する際見上げている
 西側の新病棟の屋上で訓練を受けました。とにかくリハビリの先生には感謝します。
  結局今回痛めたのは肋骨(3本骨折)と腎臓(損傷)でした。肋骨はコルセットを巻いての
 安静のみ、他に治療はありません。腎臓の方は治療として4日間そのための点滴をずっ
 と打ち続けました。結果OK、私の足の運びがしっかりしているとの評価で、退院が早やく
 なったのだと思います。
  今回の入院で驚いたこと、基本部屋での携帯連絡が可能だったことです。メールだけと
 思っていましたし、最初そうしていたのです。連絡に携帯が使えて本当に便利でした。これは
 どこの病院でも今はそうなのでしょうか。
  当初2~3週間といわれ、20日は覚悟していました。それが8泊9日で済んだ訳で最大
 の喜びでした。それというのも女房の具合が悪く、17日入院、20日手術でした。入院にも
 手術にも立ち会うことができませんでした。20日手術終了後、夜・21日再手術と連絡を
 受けたときはショックでした。夜は色々思いが募って休むことができませんでした。今は
 身体にどうこうという状態ではなく、回復に向かっています。今は運転に自信がないので
 いけませんが、早く元気な顔を見せ、見たいと思います。
  皆様には大失態を演じ、いろいろご迷惑をおかけし申し訳ありませんでした。もう現場に
 復帰しますのでご安心ください。まず12/3の綱引大会・頑張ります。 

     大失態、久喜新総合に9日間入院しました。―Ⅰ― 11/24(金)

  こうして久しぶりにパソコンに向かい打ち込んでいても、つくづく歳はとりたくないという
 気持ちがわいています。私全くの大失態を演じ9日間の入院を余儀なくされ、この忙しい
 時期に現場をはなれるという醜態を演じました。
  私は典型的宵っ張り、朝寝坊の人間です。県民の日だった14日も同様で日付が変る
 頃風呂に入りました。最後の湯舟につかり、フエィスタオルで身体を吹き外へ出ようとした
 時です。風呂場ですから出入り口のドアまでは1mそこらです。途中で大転倒をやらかした
 のです。めまいという類のものではありません。滑ったのです。風呂場においてあるプラス
 チック制の椅子に左わき腹を強打しました。その痛さにうめきながら「当々やってしまったか」
 という思いに駆られました。その思いとは2通りあります。1つは私は最近足が大部悪くなり
 ました。持久性ではなく、バランス・平衡感覚です。チヨットした凹凸でけつまずいたり、
 バランスを崩すのが多くなりました。いつかやらかすのではないかという危惧を持っていた
 のです。もう1つは11月中旬というこの時期にという思いです。いろんな行事が待っている、
 特に「綱引」はどうしよう、という思いでした。この痛さからして折れている、入院かな、等々の
 思いが駆け巡りました。
  とにかくはいつくばって寝どこまで戻り、布団に潜り込みました。明日朝1番で目の前に
 あるH外科病院で診てもらおうと考えたのです。それからどれくらい経ったかわかりません。
 小1時間というところだと思いました。うとうとしていたのか、お腹の痛さで目を覚ましました。
 ヤバい・肋骨だけでなく内蔵も打っていた、どこの内臓だろう、損傷だけで破裂は無いよな
 これまたいろんな思いが駆け巡りました。とにかく腹の痛さはずーと続き、吐き気が出
 2回嘔吐しました。痛みに耐えて朝6時となり、2階で寝ている長男と女房に声をかけ
 救急車を呼んでもらうことにしました。この時間まで待ったのは女房の体調が悪いこと、
 数日後に入院し、20日に大きな手術が待っていたからです。
  てなことで救急車の人となりました。私は1度運ばれています。新久喜市議会2代目の
 議長だった当時、「胆石」が悪いところに落ちて猛烈に痛かったためです。その後議長を
 終えた後、「旧久喜総合」で「胆嚢」の摘出手術をしています。「新久喜総合」は「断らない
 医療」を掲げています。私の場合もお引き受けいただき、希望通り「新久喜総合」へ運ばれ
 ました。新久喜総合に感謝するところ大です。病院に運ばれ..数回・数種の検査をし、結局
 肋骨3本骨折、腎損傷、入院2~3週間と言われ、即入院となりました。「2から3週間か、
 2なら今月いっぱい、綱引にはギリギリ間に合うか(12/3)、他は全部だめだな」。「3週間
 は痛いな」いろんな思いが渦を巻きました。
  かくして結局奇跡的に短く8泊9日だった新久喜総合入院生活がスタートしました。

  「サーパス久喜中央」販売に関わる提燈祭り・天王様PRインタビュ
         11/10(金) 久喜市観光協会会議室 

  久喜駅西口周辺へお出かけの方は、「提燈祭り通り」と「愛宕通り」の交差点、要するに
 駅に1番近い交差点・「旧武蔵野銀行跡地」に、マンションを建設中であることに気づかれると
 思います。このマンションは「サーパス久喜中央」といい、地上15階・58戸、「穴吹工務店」
 から25年12月より販売されるそうです。何せ駅まで1~2分であることからかなりの人気を
 呼ぶことと思います。販売に当たり「H・P、冊子」等で広く宣伝したい、久喜の豊かな歴史・
 文化等を内容としたいとのことです。特にマンションが「提燈祭り通り」にあることから
 天王様・提燈祭りをメインに考えているそうです。作成のためのインタビュー、写真撮影の
 依頼を観光協会が頂き、過日の「久喜市祭典委員会」の役員会にて和田会長と相談役の
 私にとなったそうです。役員会は通常「保存会会長」であり、私は出席しません。こんな
 事でお役に立てればと考えお引き受けしました。会場は観光協会事務局2階の会議室、
 インタビュアーは若き女性かと思いましたが、何とむっそりしたおじさん+カメラマンでした。
  全部ではありませんがこんな質問が出ました。

 1・ 久喜市の土地柄、市民気質
 2・ 提燈祭りは久喜市にとってどんな祭りか
 3・ 提燈祭りの歴史・見どころ
 々・ 提燈山車はどのように作られたのか、またその特徴は
 4・ 提燈祭り通りと愛宕通りの交差点の祭りに占める意味
 5・ 提燈祭りを継承・保護していくためのご苦労
 6・ 思い出に残るエピソード

  インタビュアーの質問に応じ、会長と私がお答えしました。
 1・久喜は城下町でも宿場町でもない。関東平野の真っただ中、半農半商の静かな町、
  名所旧跡の少ない比較的平凡な町、現在では都心からも近く、鉄道・道路の利便性に
  富み、工業団地も多く進出、埼玉県東北部の拠点都市となっている。古くから教育の町
  といわれ「市民まつり、ゆうゆうプラザ」など市民意識の高い街です。
 2・新久喜市は1市3町で平成22年誕生、各々の町に各々お祭りがある。旧久喜市は
  昭和46年久喜町他3村で誕生、提燈祭りはその旧久喜町のそれも線路西側の6町内
  の祭りです。この地域の人間にとって待ちに待ち、血わき肉踊るお祭りです。
 3・丁度今年で240年、天明3・1783年浅間山が大爆発、大量の火山灰がふり、農作物は
  不作、疫痢が流行した。これらからの解放・退散を願い、本町の旧家「宮本家」の祭礼用
  山車(大八車を飾った物)を引き、町内を練り歩いたのが始まり。現在の山車の始まりは
  明治の末期、車輪(ハマ)等は随時修理するが、全体を新規にするのは50から60年に
  1度、100%会員の寄付金による。(今年初めて文化庁の補助金が使えた)
  特徴としては山車本体が大きいこと、日本最大級、下部の土台の部分と上の家型部分
  の2層をなし、上の部分は回転する。(日本でも久喜だけでは) 昼は神話に基く人形を
  のせ、夜は500個といわれる提燈を飾る。山車が2台あるのでは、といわれる。
  上記から最大の見所は500個の提燈を付けた山車の回転、急接近のもみ合い。

 4・最大の中心点は駅西口ロータリー。そこに1番近い交差点でいわば第2のポイント、
  それに宿命のライバル関係にある新一・新二の戦いの場。新しいマンションはこれらを
  見下ろす絶好の場所にあるといえる。
 5・会員の寄付金のみで運営される各保存会、その保存会で構成される100%民間組織の
  祭典委員会のみで運営するのは無理な規模まで提燈祭りは来ている。各種市民団体で
  構成される実行委員会方式、秩父・川越とまでいかないけれど行政からの補助のアップ
  等を期待したい。今や祭りは指定プロモーションとしてある。それと伝統的日にち開催
  (12・18)から曜日開催―の変更も検討したい。
 6・1つは10数年前の夜のゲリラ豪雨の来襲、各山車の提燈が8・9割やられた。
   1つは天皇陛下即位奉祝行事への参加、3回ある。埼玉県では久喜市のみ、全国の
   代表的祭りを見て、久喜の提燈祭りに自信がもてた。

  こんな具合でした。PR用H・P、冊子が出来上るのが楽しみです。
  ● 第69回・久喜中央地区市民体育祭 11/3(金・祝) 久喜小 








  文化の日・11/3は昔から中央地区の市民体育祭、これまた好天の日と決まっていますが、
 くわえて今年は11月と思えぬ高温も加わりました。しかしあらゆる意味で今までと違った
 1日ならぬ半日の4年ぶりの体育祭でした。

  今年の体育祭は69回とうたっています。これはコロナで中止となった年は入れていません。
 実際の「中央地区市民体育祭」は、私の小学校低学年の頃始まっています。一貫して公民館
 (当初はその後の中央公民館の1館のみ) の主催でした。大勢の人が参加するにぎやかで
 楽しい大会でした。それは公民館活動が活発だったからです。部制が敷かれていました。
  その「体育部」から「体協」が、「文化部」から「文連」が、「厚生部」から今の民生児童委が
 生まれたのです。公民館の歴史は旧久喜町の歴史でした。終戦間もないころの市民の「自治と
 民主主義の学校」でした。そうした活発な公民館活動を背景にしていたから、「体育祭」は実に
 華やかで豪華な大会でした。「町内対抗仮装行列」というのがありました。我が町内が東北線が
 電化されたのを記念し、その電車に乗って大相撲の一行が久喜にやってきたという仮想で参加
 しました。ラクダの下着にするか、品がないから浴衣にするかで大もめ、結局男性陣はラクダを
 着用、統一された髷スタイルで会場で「しこ」を踏み、やんやの喝さいを浴び、一位に輝き
 ました。会場の久喜中を埋めた町民は、2000人をくだらなかったと記憶しています。それも
 これも「公民館活動」が活発だったのです。繰り返しますがそれは、町民の「学びの場」、
 「自治と民主主義」の経験の場でした。
  所で今はどうでしょう。今年度から市内の全ての「公民館」は廃止され、全て「コミュニティ
 センター」となりました。だから今年の体育祭は、公民館が廃止されて初のそれとなります。
 「コミセン」の事務局は市民課です。しかし頂いた大会プログラムには「主催・久喜市教育
 委員会」とあり、「久喜市生涯学習課」とありました。これは「公民館」を廃止し、「コミセン」
 を置く事に、多くの批判・疑問が寄せられ、やむなく?「従来の公民館事業はこれを継続
 する」としたからです。現実に多くの混乱があり、結果今日のような半日・対抗種目無しいうプロ
 グラムになったのです。対抗種目がないため盛り上がりに欠け、半日のためいつも中央地区
 体育祭に見られた、各町内会ごとのコミュニティ推進のための試みもない詰まらない大会と
 なりました。第一生涯学習課内に置かれた公民館事業を推進するための組織というのはいつ
 までやるのですか。公民館がないのに公民館事業推進というのは、土台無理というものです。
  下段で報告しているように、「市民まつり」も市民の手になるのは今年で終わりといわれて
 います。久喜市が誇りとする高い市民力はどこへ行ったのでしょう。

  生い先身近い私としては、行政や業者がやる「市民まつり」や、活気のない「市民体育祭」を
 これから長く見ることなく、黄泉の旅に立ち、市民の学びや市民力の向上に、長きにわたり
 努力された先人にお詫びを申し上たいと考えています。

   ● 雨にたたられた最後の?市民まつり  10/15(日)  








  朝目を覚まし窓を開け表を見たら、結構強い雨が降っていました。「アリャマァ」と
 思いました。今日は10月第3日曜日、ずい分前から「市民まつり」の日となっています。
  この雨では人気の「ミニ新幹線」は中止になるだろう、第一参加者が激減するだろう、
 と瞬間思いました。市民の手による最後?の市民祭りを、最後だから有終の美をもって
 終わらせてあげたいのにと思ったのです。
  私は平成7年議員に初当選しました。この年「市民大学」が開校、私は大学・大学院
 共に1期生として過ごしました。議員1期の最後の年、平成10年の春です。「市民まつり
 の会」会長で、商工会会長のC氏から、その年の市民祭り実行委員長に、との要請を
 を受けたのです。54歳、スポ少本部長として、生涯学習推進部委員長として、社会体育
 社会教育の活動が、面白くて面白くてたまらなかった頃です。パレード・当日活動は毎年
 参加していましたが、市民まつり中枢の活動はしていませんでした。何故私に、との思い
 でした。「岸さんは生涯学習ボランティアの人脈を持っているから」との話です。聞いてすぐ
 解かりました。久喜市民祭りの前身は「商工祭り」と「イチョウ祭り」です。この2つが合体し
 「市民まつり」となって、スタートしたのが昭和63年の事、平成10年が第11回大会でした。
  いろんな方・組織が関わってここまで来たわけですが、活動された当時の福祉ボラ、
 商工会青年部、JCといった方々が疲労し、今年中心になって活動する人・組織が見当ら
 ないということを聞いていたからです。「ここまで来た市民祭りをつぶす訳にはいきません」
 というC会長の言葉にだめを推され、H10・11年と実行委員長を勤めました。H10年には
 市民大学は4期まで進み、翌11年は私が準備委員長・初代会長を勤め、「市民大学
 校友会」も誕生しています。市民まつり企画スタッフの中枢はこうした市民大学・校友会、
 高大のメンバーでした。。
  私の次が共に黄泉の旅に立たれたS氏・N氏、続いてK氏・М氏・S氏と実行委員長を
 勤められました。いずれも市民大学校友会会員、他企画スタッフも基本市大・高大
 関係者でした。それは良い雰囲気を持っていました。行政が他市町に先駆け、高大・
 市大を開校しました。そこで学生は学び、学んだ成果を地域に還元することを実践しま
 した。こうしたことが「ゆうゆうプラザ」にも繋がり、市民力の高い町、市民主導の町、
 久喜市へと成長していったのです。数年前市民大学校友会会長に就任したH氏が市民
 まつりの実行委員長に就きました。この流れを継承するものと思っていたのです。しかし
 コロナにより市民祭りは中止を余儀なくされました。これに合わせ市大・高大の入学者
 数の減少、両校友会メンバーの高齢化、活動量の減退という現象がおきました。猛烈に
 熱心に頑張っているのに、現実として組織が衰えていくという「スポ少」の中に身をおいて
 来ただけにこの状況は良くわかりました。昨年数年ぶりで限定的に市民祭りが復活しました。
  これはコロナがさらに沈静化する今年以降の前段階への復活を目指すものでした。
 しかし現実は違いました。活動家が集まらない、ボランティアが集まらない、もう何年も
 やってきたから市民祭りから手を引くわ、のオンパレードでした。今後どうすべきか、企画
 スタッフの間で真剣な協議がなされたと聞いています。その結論を今春H氏から聞きました。
  今後市大・高大・両校友会、要するに4半世紀を越え、続いてきた「生涯学習ボランティア」
 による市民まつりは今後無理ということでした。市民まつりそのものをどうするか、を
 我々が言うのは恐れ多い、行政・商工会等が決めるべきもの、といいつつ、例えば
 他の市町で多く見られる行政中心でやる、あるお金を用意し、その額に応じてイベントを
 組む、業者=イベント屋に任せるといったやり方もあると言われていました。
  
  残念という気がします。しかし仕方ないのかなという気もします。今日の冷たい雨は
 前記した長きにわたり市民祭りに関わってきた人の涙雨なのだ、と閑散とした会場を
 歩きながら思いました。長いことこの祭りに関わり、頑張ってこられた大勢の方々の努力に
 感謝します。来年の市民祭りがどうなるのか、注意深く見守っていきたいと考えます。

  旧き良き仲間が慰労(スポ少本部長)の宴を張ってくれました。 10/14(土)

  すでに「スポレクのページ」等で何回か報告して
 いますが、私は本年5月開催された「久喜市スポーツ
 少年団」本部総会において、新市スポ少本部誕生以来
 13年にわたって勤めていた、本部長を辞任しました。
  新本部の本部長に就任した理由は、旧久喜市本部長
 として、「新本部結成準備会」の議長にあったためです。
その旧久喜市本部長には平成7年・1995年、2代目本部長「故桐ケ谷氏」の 死去に伴い、私が3代目に推挙されました。16年勤めた事となります。
  旧久喜市本部は昭和51年年頭に誕生しました。1年前から準備を始めました。私は「体育
 協会」、「体育指導委員」(共に当時の名称)として、いわば外部からこの活動に加わりました。
 今まで48年間、今いただいている役職は「顧問」ですが、それとは別に「スタートコーチ」養成
 講習会の講師を少なくともあと数年は勤めたいと考えています。だから久喜のスポ少に関わり
 50年ということになるでしょう。そのうち県スポ少本部の活動です。平成29年年齢制により
 辞するまで38年にわたり活動させていただきました。指導協副委員長・本部員・副本部長
 本部長代行等々でした。ここまで書いてきて何が言いたいのということです。
  人間には「飯のタネ」を得る仕事のほかに、何らかの趣味やボランティア活動に過ごす
 時間があります。趣味の芸能活動、スポーツ・レクリエーション、町内会活動、それぞれが
 それぞれに時間・労力・情熱を傾ける事でしょう。私は自分がスポーツ少年団に傾けた
 情熱や時間や労力が、誰に劣るものでもないと自負しています。本当に楽しく、充実した
 年月でした。
  てなことで私はこの5月、本部長辞任に当たり今まで長きに渡りご指導・ご協力を頂いた
 方々に辞任の挨拶と、感謝の気持ちを込めた文章を作成・配布しました。思いが止まらなく
 なり、A4版2枚びっしりの結構長文でした。配布先も50部くらいと考えていましたが、現本部
 役員、今までお世話になった方、県本部関係者、+αで80部を数えました。
  その文書を読んだ仲間が「ご苦労様・慰労の会を持つよ」と言ってくれました。6~7月に
 との予定でしたが、丁度女房の体調が悪くなり今日まで伸びました。スポーツ活動や生涯
 学習推進活動等をご一緒した旧き・良き仲間ばかりでした。楽しい時間でした。ただ皆一様に
 歳をとったなと思いました。これは仕方のないことでしよう。皆身体に気をつけ、無理をせず
 しかししっかりと歩み続けていこう、こんなことを誓って解散しました。ありがとうございました。
  なお写真は頂いた花束を我が家の玄関に飾ったものです。

  ● 減らそう 犯罪の日  久喜小児童見守り運動  10/11(水) 

  10月11日は「減らそう 犯罪の日」です。埼玉県では「埼玉県防犯の街づくり推進
 条例」において、防犯意識の向上を図り、もって犯罪の減少を図る日と位置づけ、各種
 防犯活動の展開を呼びかけています。埼玉県防犯推進協議会では。日常生活の中で
 継続的に取り組める色々な活動の事例を紹介しています。例えば子ども達が集まる
 「公園の整備」。「交通安全につながる道路の整理・整備」、「道路・公園等の夜間照明」
 買い物をしながら、ウオーキングをしながらの「ながら」パトロール、お年寄りや子供への
 「声かけ運動」、そして「地域安全マップ」の作成等々です。私たちも町内会活動の一環
 として実施しているものが半分を越えていますね。
  久喜市では10月11日と限定せず、この前後各々町内会別に何らかの防犯活動を
 展開しています。久喜小学校を町内にもつ、我が「本二町内会」は久喜小児童の安全
 見守り活動として、毎年この日に実施しています。
  所で今の町内会は大きな道路・河川等を境界としています。市内各学校も同様です。
 旧久喜町の西口はかって久喜小だけでした。丁度今週末に「50周年記念式典」が
 持たれますが、50年前に「本町小」が「久喜小」より分離・独立しました。その時境界と
 したのが、私の家の前の通り、旧久喜西口駅前通り・通称提燈祭り通りです。ですから
 久喜小の西北方向はほぼ100mで境界となります。我が家の前、この通りに面して家が
 あるМ氏やK氏、自分も久喜小を出て、目の前に学校があるのに、数倍遠い本町小へ 
 子どもは通っているといつもぼやいています。
  この位置関係がこの日のどう考えても実効性に疑問を持つ、久喜小児童見守り活動に
 関係してきます。町内会役員は久喜小プール門で集合、そのあと各自散って自宅近くで
 子どもを見送るわけです。中央2・3方面、南町方面、本5・上町方面の人は何人かの
 児童を見守る事になりますが、私の所はまずいません。大体1人か2人、2~30分立って
 いてももう終わりなのか、まだ来るのかと気がもめることしきりです。どうも他の活動に
 比し、これは有効なのかと考えることしきりです。
  でもこれと犯罪を減少させることとは別、常日頃から防犯活動には努力していかねばと
 考えています。

      ● 残暑?の中 数冊の本を読みました。-Ⅱ- 9/24(日)

  予定では3冊の読書感想を1つにまとめるつもりでしたが、どっこいななめ読みして1番
 時間をかけなかった下の本だけで、この長さになってしまいました。残りは短くします。 
  旧盆明けから読んだ3冊、「脊椎管狭窄症」は上記通りナナメ読みで2日間、「コミュニテイ
 スクール」はもう何度目かですので5日間、残りほぼ3週間が「スポーツツーリズム」でした。
  久喜市で全小中学校が「コミュニティスクール」に移行したのが平成29年、今年で7年目
 に入るというそれなりの実績を持っています。対して「スポーツツーリズム」を1つの大きな
 柱とする、スポーツによる地域活性化をネライとする「スポーツコミッション」はまだスタート
 したばかり、年度内発足を目指し準備活動が始まったばかりです。

  さて「コミュニテイスクール」に関する貝ノ瀬先生の本です。私はこの種の本を読むのが
 好きで、日大の佐藤教授や福岡県春日市の報告書など、折に触れ読んできました。中でも
 貝ノ瀬先生は私の尊敬する師であり、この本などもう数回読んできました。いつも新たな
 感動とやらねばという気持ちを持たせてくれます。氏はまず少子高齢化、グローバル化、
 格差増大といった今の社会状況に触れ、そこから地域コミュニティの再構築が必要と述べ
 ます。そして今後の教育のあり方として、① 生涯まなび続ける、② 自分で課題を見つけ
 解決する ③ コミュニケーション力や協働する能力 が大切とされました。そこから「コミュ
 ニティスクール」の概要について話され、さらに三鷹市の「小中一貫コミュニティスクール」に
 ついて詳しく紹介しています。久喜市が埼玉県で初めて全小中校コミュニティスクールに
 移行した際、モデルとしたのはこの考えでした。そして最後に「学校と地域の連携・協働」の
 理念について触れ、「地域とともにある学校」から、「学校を核とした地域づくり」を語り、
 「いい学校は、いい地域をつくり、いい地域は、いい学校をつくる」で結んでいました。 

  もちろん行政内部ではそれなりに、検討する時間を持ったのだと思います。今年に入り
 突然「スポーツコミッション」なるものを、久喜市に設立したいとの方針が出されました。
 そして3月を中心に市内体育・スポーツ団体への「説明会」が開催されました。この本の著者
 の1人である「一社・日本スポーツツーリズム推進機構」の「中山哲郎事務局長」をお招き
 しての勉強会でした。私もスポ少のそれに参加しましたが、全てのスポーツ・体育団体から
 「歓迎せざるもの」との反応がありました。「理念は否定しないが。現実に久喜市では無理」
 「こうしたものに関われる余裕が今の我々にはない」こんな声の氾濫でした。
  しかし行政は方針を変えることなく来年2月の設立を目途に、7月2日設立準備会を立ち
 上げ、7月13日には最初の研修会を笠間市で実施しています。スポーツ団体を始め市内
 関係組織代表で構成されるこの設立準備委員に私も名を連ねています。
  さてスポーツコミッションのネライは「スポーツによる地域の活性化、スポーツによる健康な
 まちづくり」にあります。「スポーツツーリズム」とはスポーツとツーリズムとを結ぶ、各町の
 観光資源をスポーツで掘り起こす=町の活性化を図るという考え方・そうした事業を言います。
  もちろんツーリズムだけでなく、施設を使った各種イベント(国内・国際大会)、合宿等を
 積極的に誘致する、組織する、こうしたことを通して周辺観光・宿泊・飲食等の経済効果を
 生み交流人口を拡大し、もって町の活性化を図っていこうという考え、そしてこの事業
 推進の司令塔が「スポーツコミッション」なのです。
  本は様々な事例を説明しています。例えば「沖縄の空手ツーリズム」です。空手の発祥の地
 沖縄で空手の神髄に触れ、沖縄を観光しつつ独自の文化・伝統に触れて貰おうというものです。
  しまなみ海道の島々を貫くサイクルロードはすでに1つの観光資源です。これにサイクル
 スポーツの要素を取り入れる事業です。スキー場を持つところでのスノーツーリズム、川をもつ
 町ではアドベンチャーツーリズム、海辺の町でのマリンツーリズム、発想は次々と広がっていき
 ます。ゴルフ場がある町の「ゴルフツーリズム」何て事例もありました。しかしです。久喜には
 山も海も川もありません。「スポーツの力で掘り起こす観光資源」何て久喜にはあるので
 しようか。久喜ではこの事業は無理だ、何て思いが沸き起こってきます。それがこの本を読む
 のがチチとして進まなかった大きな原因でした。
  しかしです。私は来年2月の「スポーツコミッション」結成に反対しません。スポーツを通した
 コミュニティの形成・町の活性化は私のライフワークです。今年発表された総合運動公園の
 計画見直しの中で、現市民プールを解体し、跡地に3×3バスケコート、スケートボード場を
 作るという計画があります。いずれも全国レベルの規模を持ちます。この施設を利用した
 「アーバンスポーツツーリズム」の考えはどうでしょうか。もちろんイベント開催、小規模なもの
 から全国大会まで、と一体となります。
  とにかく間もなく予定されている2回目の視察研修をへて、「スポーツコミッション」立ち上げ
 へと突き進んでいくべしと考えます。

 
     ● 残暑?の中末冊の本を読みました。 9/21(木)  

   残暑何て言葉を通り越して暑さが続いています。さすがにここまで続くともううんざり、ひた
 すらクーラーを効かせてだらだらするだけです。でもまあ昼寝ばかりも出来ませんので、涼しい
 部屋で何冊か本を読みました。もう一昔前と違って何時間も精読する何て出来なくなりました。
 本を読む、横になる、本を読むの繰り返しでしたが何冊か読破することが出来ました。感想を
 どのページに書くかと考えたのですが、雑多に読みましたのでこのべージとします。何せ
 ご承知のようにこのページが1番量が少ないですから。

  お盆明け以降読んだのはまず、酒井慎太郎「自力で治す! 脊柱管狭窄症」PHP研究所、
 次いで一社日本スポーツツーリズム推進機構編「実践 スポーツツーリズム」学芸出版社、
 最後が貝ノ瀬滋署「図説 コミュニティスクール入門」一芸社でした。

  何度か報告していますが、私今年の誕生日で80歳となりました。末期高齢者の歳ですが
 身体の方はこれといって悪いところがありません。幸せな事だと思っています。そんな私の
 最大の悩みはいわゆる腰痛です。左側の慢性的な痛みと、お尻・ももの裏側のしびれと痛み
 というやつです。40代後半に初めて経験し、歳とともに悪化し、最近の私の杖を突き、ぴっこ
 を引くという歩行スタイルにつながっています。どうにかならぬかと思い続けていましたが、
 対策を教える良い本があると知り、買い求めたのがこの本です。著者の「酒井慎太郎」氏は
 「さかいクリニックグループ代表」です。今まで100万人を越える患者の治療に当たり、
 99%の人を完治に導いてきたとしています。腰痛は人間が立って歩くが故の宿命です。
 しかしこの腰痛は宿命だという考えを変える事が出来ると述べています。

  痛み・しびれを解消するカギは。まず「関節を動かす事」と
 しています。そのためにガチガチに固まった越間接を滑らかに
 動くようにする数々の体操を紹介しています。その第一が
 「仙腸関節テニスボール体操」です。この体操のことは私も
 かなり前から知っていました。要するに「硬式テニス」のボール
 2個を写真のようにガムテープでしっかり固定します。そして
 これをお尻の最上部・背中の最下部の中央にあて、上向きに寝るのです。
 これを1日1回~3回、1回1分~3分行うというものです。私はさっそくこれを毎日行って
 います。まだ始めてから1週間、とにかくひと月はがむしゃらにやってみます。 
  他に「ネコ体操」、「オットセイ体操」、「胸張り体操」、「体ひねり体操」といったものを
 推奨しています。「腰の関節を動かすこと」が腰痛の改善・解消・予防に有効とし、その
 ために「丸める動きと反らす動き」が必要との考えに立っています。私もこの中からいくつか
 実践しようと考えています。
  そしてこうした体操の継続化とともに、生活習慣と日常動作を見直す、最後に腰痛は宿命と
 いった「考え方」を改めよ、と言っていました。
  私もすこしずつ、こうしたことを取り入れながら、とにかくつらい腰痛の改善に努力しよう
 と考えています。

  ● 久喜小コミ協主催・みんなで遊ぼう(ボッチャ)  9/10(日) 















  私の様々な地域活動における親しい仲間であるМ氏を会長とする「久喜小地区コミュニティ
 協議会」は、久喜小地区地域住民に対し、色々な企画・行事を開催してくれています。「防災
 訓練」、「グラウンドゴルフ大会」等がそれですが、子どもが対象なのがこの「みんなで遊ぼう」
 です。コロナの関係で何年か開催できなかったと言っていました。今回中心になったのが
 「ボッチヤ」です。私が体育指導委員(現スポーツ推進委)当時に、新スポーツとして熱心に
 取り組んだペタンク(ボールカロッテイ)に似たスポーツ、強度の知的・身体障がい者を
 対象に考案されたパラリンピックの正式種目です、先の東京パラリンピックで日本選手が
 大活躍したことから、国内で人気が出始めました。特に久喜市では私の親しい活動仲間
 Y夫妻が熱心に普及に取り組み、すでに「久喜市ボッチャ協会」を組織、多くのゆうゆう
 実施校でも、教室として取り組まれています。残暑が残り、というより猛暑が継続する中、
 参加者が心配されましたが、子どもと保護者で約50名、他地域住民・役員等で8~90名の
 参加をみました。

  さてボッチャです。赤6、青6、白1のボールで構成されます。白はジヤックボールと呼ばれ
 1番最初に投げられ目的球となります。赤と青は革製、1人2個ずつ持ちます。従って最大
 6人が試合をする事になります。試合は個人戦・ダブルス(ペア―)戦、団体戦があるそうです。
  試合開始6人が整列します。(―上・左―) まず目的球の玉が投げられます。簡単に言えば
 これに近く投げた者の勝ちというものです。赤が先行、次、青が投げ以降は遠い方から投げ
 ます。初心者はお尻を出っ張らしボールを床に慎重に転がします。 (―上・中―) コートは 
 
ほぼバドミントンコートと同じ大きさです。審判員が1人白球に近いところに立ち、次に投げる
 人を指示します。卓球のラケット状の両面が青と赤になっていて、それをかざすのです
 (―上・右―)
 全員が2球ずつ投げ終えると1ENDが終了です。全員が白球の所に集まり
 確認します。大体青・赤どちらかが1~3球か多いのですが、中には5球という時もありました。
 私も4END・2試合、子どもを見守る保護者・コミ協役員の声援を受けつつ、子どもと一緒に
 楽しむことができました。 (―下・左―)  会場内には「魚釣りナー」も設けられ子どもたちは
 楽しんでいました。 (―下・中―) 全員がそれぞれ楽しんだ後閉会式、本日審判員として
 大忙しだった「Yボッチャ協会会長」さんの講評を聞いて (―下・右―) お開きとなりました。
 ありがとうございました。

  コミ協の「みんなで遊ぼう」、今日はボッチヤということで楽しませていただきました。今まで
 どんな内容で持ってきたのかよくわかりませんが、コミ協皆様のご努力を評価します。今後も
 久喜小地区コミュニティの形成にご努力をお願いします。
  
   ● 久喜市総合防災訓練に参加しました。 9/2(土) 第一体育館 






















  昨日9月1日は関東大震災の起きた日、ちょうど100年目に当たり各地で犠牲者の冥福を
 祈り、また防災力向上への誓いを新たにする行事が行われました。12年前の東日本大震災
 では、私の次男が宮城県「気仙沼市」に住み、1番被害の大きかった町のひとつといわれる
 「南三陸町」に勤務していました。2週間音信不通となり、大変心配の日々を送りましたので
 記憶に生々しいものがあります。関東大震災となると当時本町2丁目、市役所通りに面した
 親類の家で母は暮らしており、久喜小バラ門から林写真館横を流れるどぶ川の小魚が
 地震の揺れで路上に飛び出し、ピクピク跳ねていた、なんて話を聞いたくらいで実感はあり
 ません。しかし大きな犠牲者と、関連する忌まわしい事件を起こしました。関東大震災を
 風化させる事なく、防災と人権擁護の気持ちを持ち続けなければなりません。久喜市では
 9/1に1番近い「土」か「日」に防災訓練を毎年実施してきました。このところコロナとの
 関係で中止されていましたが、今年は記録的猛暑の年ということもあり、総合運動公園
 多目的広場から、室内、総合体育館に会場を写して実施されました。

  入口でまず「煙体験ハウス」で煙を経験しました。鼻・喉への影響は感じませんでしたが
 全く見えないのにはびっくりしました。さて今日の訓練です。台風20号が神奈川県に上陸
 埼玉県に来襲した、加えて震度6の地震が関東地方に発生した、を想定してのものです。 
  当然栗橋での利根川の水位は「避難判断水位」を上回り、停電、家屋の倒壊、通信網の
 寸断がある状況を想定しています。昨日から市長を本部長とする「災害対策本部が設置
 されています。という状況ですがこれに対応して、栗橋地区から「避難用バス」で「総合体育
 館」に避難、また「社会福祉協議会」により「ボランティアセンター」立ち上げ訓練がありました。

  私たちが行った訓練種目、会場と人数の関係から全部はできませんでしたが、まず「AED」
 訓練です。―上・左― 私は消防組合議員を長く務めており、講習会は何度も受けています。
 しかし「知っていることと実際にやれる」間は大きいものがあります。
  次にトイレ設置訓練、最近の防災グッズというのは素晴らしいですね。―上・中― は便座
 です。プラスチック制、もちろん手すりが就きます。バッテリーで80回使用可能、薬を使い
 「便」は固形されます。このトイレを納めたのが―上・右―のテントです。
  次がダンボ―ルを使っての「ベッド」や「間仕切り作成」 ―中の3枚― 差し込み式であっと
 いう間に出来上がりました。
  他にタンカの作成、応急手当、土のうつくりがありましたが私たちは参加できませんでした。
 最後に自衛隊隊員による「人命救助救出訓練」の見学、ケガを負い路上に倒れている人を
 救助し、安全な場所まで運ぶというものでした。―下・左2枚―
  最後に災害対策本部長・市長の「講評」をうけ解散しました。―下・右―
  夢中になってやっていましたが、大変な暑さでした。今日の新聞が今年の6月~8月の
 平均気温が1898年の開始以来、観測史上一番暑かったと報じていました。正にその通り
 災害は暑さ・寒さなしですが、それでもぐったりとして会場を後にしました。

     ● 明日から早や9月・でも暑いです。  8/31(木) 

  今日は8月31日、当然明日は早や9月となります。市内小中学校の2学期も始まっています。
 でも暑いです。一体この暑さはいつまで続くのでしょうか。
  7月12と18日は久喜市の天王様・提燈祭りでした。両日ともに猛烈に暑い日でした。12日など
 神事の際、御仮屋前に立っていてめまいがし倒れるかと思ったほどでした。記録上1番暑かった
 夏は平成最後の年、2018年だといわれています。例の熊谷市その他で41度越えを記録した
 夏です。でも私はこちらの体力が減少したことを加味しても、今年の祭りが1番暑かった、身体に応え
 たと思います。そのお祭りから50日経とうとしているのです。一体いつまで続くのでしょうか。

  連日のように私のスマホの「久喜市防災行政無線」が鳴り響きます。「熱中症警戒アラート発令」を
 知らせるものです。まあ今年の夏何回このメールが鳴り響いた事でしょう。もうすぐ9月というこの
 時期に37度Cを記録する町が続出し、千葉市・富山市等ではこの夏最高を記録しました。
  最高気温が35度C以上を「猛暑日」、30度C異常を「真夏日」といいます。ちなみに25度C以上を
 「夏日」というそうですが、今の状況ではこんな言葉はもう使われていませんね。統計というのは正確
 をきすためかなり遅れます。おそらく今年は猛暑日や真夏日を記録した日数、記録した町の数など
 でも史上最高になると思われます。
  私の様々な地域活動の良き仲間であるМ氏、若き頃勤務した北海道苫小牧市に当時の住宅を
 残してあり、毎夏避暑に訪れています。もちろんクーラーは未設置、今年は暑さでいたたまれず
 早々に帰宅、家に帰ってクーラーを全開にして、やっと人心地がついたというのですから、今年の
 暑さは全国共通のようです。
  ここに1980年からと30年後、2010年からの同じ8年間、猛暑日・真夏日を記録したデータが
 あります。それによると猛暑日は0・4日に対し、4・0と10倍に増加、対して真夏日は19・0日から
 20・4日とわずかな伸びを示しています。高温の日が急激に増えているのです。
  今スポーツ活動に引水はつきものです。サッカーなど試合の途中に引水タイムを設けています。
 しかし私たちの頃は引水はパフオーマンスに悪い影響を与えるとのことで、水を飲むことはダメと
 されていました。しかし今ほど熱中症で倒れるなとどいうことはなかったと記憶しています。
  最も私の頃は暑くてもせいぜい30度程度、37度とか8度とか、体温を越える温度なんて聞いた事
 はありませんでした。それだけ高温は、他の異常気象を巻き起こし深刻になっているのです。
  高温の原因は太平洋高気圧です。この上空からの乾燥した暑い空気がもたらすのです。これが
 弱くなると少し涼しくなって、いわゆる秋到来と簡単に言えばなるのです。しかしこれは季節と地域性
 の問題です。全体的にはどうしても地球温暖化を考えねばなりません。いわゆる「CОー2・フロン・
 メタン」等の温室効果ガスの問題です。私たちにとって必要なこのガスは産業革命以降増え続け
 温暖化をもたらしています。「今年は太平洋高気圧の張り出しが弱いから涼しくて楽だね」なんて
 言っている場合ではありません。全地球規模での地球温暖化対策の徹底化こそ急務と言えます。
  それにしても暑いです。いつまで続くのでしょうか。

   ● 道路愛護月間活動参加町内会活動  8/19(土)・20(日)

















  道路というのは不思議なものです。一番身近な公共物、一番恩恵を受けているのに本当に
 何気なく利用しています。「国交省」では毎年8月10日を「道路の日」と定め、また8/1~
 31を「道路ふれあい月間」とし、道路とふれあい、役割・重要性を改めて認識し、安全に利用
 出来るよう、協働による環境美化活動を呼びかけています。
  この道路愛護月間活動に参加する我が本二町内会の活動は、お盆明けの土・日です。
 土曜日は役員のみの参加で久喜小の生垣の剪定、日曜日が広く町内会会員の参加を得て
 町内主要塘路の美化活動、久喜小周辺道路の除草、L字構にたまる土砂の清掃という形で
 持ってきました。
  今年は特にそうですが、何せ暑い盛りです。スタートが土曜7:00、日曜6:00ですので 
 典型的遅寝・遅起きの私にはつらい行事です。19日は久喜小の校長・教頭先生の参加を
 頂いて周囲の生垣剪定、2時間弱で終わりました。剪定した枝は明日の仕事に残しておき
 ました。
(―上・左2枚―) 毎年のことです。学校側から冷たい飲み物の接待を受けました。
 ありがとうございました。

  20日は50名余の町内会会員の参加を頂きました。ありがたいことです。小・中生も多く
 しっかりボランティア手帳にシールを張らせていただきました。
(―上・右―)今日の作業は
 2つです。町内幹線道路(旧西口駅前通り=提燈祭り通り、市役所通り、六間道路)の道路
 清掃、除草。排水溝の蓋に堆積している土砂の清掃です。これを2班に分け、もう1つは
 昨日の続き、久喜小の生垣の清掃です。
(―下・左2枚―)  暑い盛りです。早朝とはいえ
 熱中症に注意せねばなりません。役員の方で随所に給水所を設置しました。
(―下・右―) 
  大勢の参加を頂きましたので予定90分を、若干早く終わらせることができました。
 久喜小裏庭の木陰でのどを潤しつつしばし団らんの後、解散しました。 
  この次は8/26(土)の久喜小校庭の親子除草、そして9/2(土)の総合体育館での
 市の「防災訓練」です。忙しいことは良いことです


                    訪問者の皆様へ!  8/19(土)

  いつも「岸 輝美ホームページ・みどりの風」にご来訪いただきありがとうございます。この
 ページは私が関わる「天王様・提燈祭り」、「町内会活動」、個人として参加する各種旅行等を
 報告して来ました。本年G・Wを過ぎた頃、このページのみ故障(私の何らかの操作ミス)し、
 更新が不可能となりました。やむを得ず最近では1番更新度数の少ない「市政ニユース」の
 ページにて報告しつつ、このH・P開設以来の私のパソコンの師匠であるS氏に修理して
 頂きました。久喜市アラカルトのページが復活し、本来のページでの更新となったのですが
 「市政ニユース」にある、「アラカルトのページ」で報告すべき部分の「移動」を行っている際
 また私の何らかのミスでページ全体を消してしまいました。まことにお恥ずかしい次第です。
  恥じを忍んで再びS氏に修理をお願いしたのですが、修復不能ということでした。やむえず
 今までの「久喜市アラカルトのペ―ジ」は廃棄し、新たに本日からこのページはスタートと
 いうことにさせていただきます。
  なお本年5月以降から本日までの「久喜市アラカルト」のページでの報告は(天王さま・提燈
 祭り関係、陸奥秘湯巡りツアー、町内会活動関係のうち、多くを「市政ニユース」で報告して
 いますのでご参照ください。
  私のこの問題の知識の程度を皆様に披歴してしまった、実に情けない出来事でした。
 あきれずご訪問いただきます事をお願いいたします。
                    訪問者の皆様へ!  8/19(土)

  いつも「岸 輝美ホームページ・みどりの風」にご来訪いただきありがとうございます。この
 ページは私が関わる「天王様・提燈祭り」、「町内会活動」、個人として参加する各種旅行等を
 報告して来ました。本年G・Wを過ぎた頃、このページのみ故障(私の何らかの操作ミス)し、
 更新が不可能となりました。やむを得ず最近では1番更新度数の少ない「市政ニユース」の
 ページにて報告しつつ、このH・P開設以来の私のパソコンの師匠であるS氏に修理して
 頂きました。久喜市アラカルトのページが復活し、本来のページでの更新となったのですが
 「市政ニユース」にある、「アラカルトのページ」で報告すべき部分の「移動」を行っている際
 また私の何らかのミスでページ全体を消してしまいました。まことにお恥ずかしい次第です。
  恥じを忍んで再びS氏に修理をお願いしたのですが、修復不能ということでした。やむえず
 今までの「久喜市アラカルトのペ―ジ」は廃棄し、新たに本日からこのページはスタートと
 いうことにさせていただきます。
  なお本年5月以降から本日までの「久喜市アラカルト」のページでの報告は(天王さま・提燈
 祭り関係、陸奥秘湯巡りツアー、町内会活動関係のうち、多くを「市政ニユース」で報告して
 いますのでご参照ください。
  私のこの問題の知識の程度を皆様に披歴してしまった、実に情けない出来事でした。
 あきれずご訪問いただきます事をお願いいたします。
 
 

久喜市アラカルトのページ

           ◆  久 喜 市 ア ラ カ ル ト  

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