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■ 宮城道雄と春の海
◇誰でも知ってる「春の海」
宮城道雄の春の海といえば、誰もが一度は聞いたことのある曲です。
そんなの知らない!  とおっしゃる方もあるかもしれません。 でも、お正月と言えば、もうこの曲、尺八と琴の合奏曲「春の海」です。デパートやスーパー、会社の年始などで 流れている琴の音、たいていがこの「春の海」です。
春の瀬戸内海の印象をもとに作曲、ゆったりとした波や海鳥の声の描写、のどかな調べで奏でる箏と尺八の二重奏です。 これれはバイオリンとフルートでもよく演奏され、昭和7年に、フランスの女流ヴァイオリニスト、ルネ・シュメー との協演で世界的な名声を得ました。


生い立ち  宮城道雄といえば、箏曲の演奏家として、また「春の海」の作曲者としてよく知られています。 彼は神戸の居留地で生まれ、13歳まで神戸で育ちました。
当時の神戸は国際貿易港として急速に発展しており、特に居留地は大きな西洋館が建ち並ぶ エキゾチックな場所でした。彼は生後7ヶ月で目を患い、幼いころはぼんやりとは見えていたものの、 7歳でほとんど視力を失ってしまいました。 そのころ、生田流の2代中島検校(けんぎょう)に入門し、以後、箏曲の道を歩みはじめます。
後年、随筆の中で「私は今考えてみると、こうした外国の雰囲気があった神戸の居留地で、西洋の音楽や、 いろいろのことを見聞きしながら、9歳の頃まで育ったということが、
自分の作曲や、芸の上に倖せを しているのではないかと思っている。また、その頃まで眼が見えていたということも倖せであった」と述べています。 彼が幼いころに見た神戸の情景は生涯心に焼き付いて、折りにふれて懐かしく思い出されたのかも知れません。 

○宮城道雄(1884〜1956) は、神戸に生まれ、7歳の時に失明、箏曲の道に入門しました。 生田流の2代中島検校(けんぎょう)に入門。11歳の時、3代中島検校より免許皆伝を受け、師匠の「中島」の 1字を許されて、中菅道雄を名のりました。
作曲は、先の「春の海」がいちばんポピュラーですが、他にも「水の変態」「秋の調べ」「越天楽変奏曲」など 多くあります。今日の代表的な琴の流派は、生田検校に始まる生田流と、山田検校に始まる山田流の2つがありますが、 宮城道雄は生田流に属しています。

○水の変態(処女作) 宮城道雄は13歳の時、韓国の仁川(インチョン)に渡りました。
14歳で処女作 「水の変態」を作曲、この曲で伊藤博文に認められ、伊藤は宮城道雄を上京させて後援することを 約束したのですが、その直後伊藤は暗殺され、この約束は果たされずに終わりました。

○新しい音楽世界の開拓 伝統の上に洋楽の要素を入れた新しい音楽世界開拓のために 箏の改良や演奏技法の拡大に努めました。 17本の絃を有する低音用楽器として考案された大型の箏、十七絃は特に有名です。 演奏技法では、トレモロ、スタッカート、グリッサンド、アルペジオなどの技法を 箏演奏に取り入れるなど新しい手法を確立しました。


○教育者 としても功績があり、門人の指導に当たるばかりではなく、 昭和5年からは東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)でも教授することになりました。
五線譜や絃名譜を積極的に活用したり、初心者用の箏や三味線のための教則本を作成、出版、また、 ラジオによる箏曲講習など、新しい邦楽教育を実践しました。 「宮城道雄小曲集」はピアノのバイエルンに匹敵する筝曲の教則本として親しまれています。


◇検校(けんぎょう)ってなに?
お筝では、生田検校とか山田検校とか、検校という言葉がよく出てきます。 これは、室町時代以降続いた「当道(とうどう)」という盲人組織における位階制度の位のことです。 平家琵琶、地歌・箏曲の演奏家などに従事する人たちが属し、幕府も保護政策をとっていました。
江戸時代の盲人音楽家の八橋検校(やつはしけんぎょう)は現代にまでつながる近世箏曲を大成したことで よく知られています。けれど、明治に入るとこの制度は廃止され、特権も失われました。
しかし、地歌・箏曲演奏家たちは独自の団体を組織しこの制度を続けたのです。 宮城道雄は大正5年に大検校を授与されています。



◇宮城道雄の年譜

明治27年 神戸市三宮に菅道雄として生まれる。
明治35年 失明の宣告を受け、二代目中島検校(初代絃教)に入門。
明治38年 筝曲奥許・三味線中許・奥許巻物伝授 免許皆伝。中菅道雄の芸名を許される。
明治40年 朝鮮に渡り琴・尺八を教える
明治42年 処女作「水の変態」を作曲する。
大正3年 吉田晴風を知る。
大正4年 宮城道雄と改姓する。
大正5年 大検校となる。
大正6年 帰朝。
大正8年 本郷中央会堂にて第一回作品発表演奏会主催する。
大正9年 内田百閧知る。以後、交友続く。
大正14年 ラヂオ試験放送に出演。東京放送局名誉技芸員に推選される。
昭和5年 東京音楽学校講師・東京盲学校講師となる。
昭和10年 最初の随筆集『雨の念佛』三笠書房より刊行される。
昭和12年 東京音楽学校教授(高等官六等)となる。
昭和23年 日本芸術院会員となる。
昭和25年 東京芸術大学専任講師となる。
昭和31年 列車より転落重症。 病院にて死亡。享年62歳。


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