不幸な人たち



 フランス革命戦争の初期段階で重要な問題の一つに、戦争指導において誰が主導権を握るかという点があった。そのための政治闘争は、時として戦況そのものにも影響を及ぼした。クラウゼヴィッツの言う通り、「戦争は他の手段をもってする政治の延長」である。そしてまた、戦場で生じた現象が政治にフィードバックすることもあった。

 そもそも戦争を始めるか否かで、各種政治勢力の思惑が働いていたのは有名な話だ。好戦的だったのは国王とジロンド派であり、前者は外国軍によって革命勢力が打ち破られるのを期待し、後者は戦争の勝利をもって政治的主導権を握ろうとしていた。戦争に反対していたロベスピエールらモンターニュ派が平和主義者だった訳でもない。

 戦争指導の面でも混乱があった。1792年4月の開戦直後においては、国王と議会の間での主導権争いが中心にあった。ただ、ヴァレンヌ逃亡事件以後、国王の権威はかなり失墜していたため、時とともに主導権は議会へと移っていった。しかし、8月10日事件で王権が停止されて以後、軍の指揮権と戦争指導が完全に議会へ移行したのかというとそうでもない。

 8月10日事件以後、戦争大臣となったパッシュは旧王政時代以来の軍務官僚をモンターニュ派のメンバーへと入れ替え、官僚組織そのものを左翼化する動きに出た。彼はしばしばジロンド派が主導権を握っている議会及び前線の指揮官たちと対立した。特に1792年末のジュマップ戦役に於いては補給方法について北方軍のデュムリエと戦争大臣パッシュが敵対し、パッシュは戦役にほとんど協力する姿勢を見せなかったほどだ。

 結局、パッシュは1793年1月に職を退き、後任にはより穏健派のブールノンヴィユ将軍が任命された。官僚組織内の左寄りメンバーも入れ替えられたのだが、この流れはフランドルでのデュムリエの敗北によって一転した。戦況悪化で追い詰められた挙句にクーデター未遂を起こしたデュムリエの行動のため、議会内でのジロンド派の地位は悪化し、官僚組織も大きな影響を蒙った。

 3月9日に民衆は軍務省を襲撃し、新たな戦争大臣にはブーショットが選ばれた。だが、この時点で官僚組織の実権を握ったのは左派の中で力を増していたエベール派である。エベール派の一人ヴァンサンが事務次官となり、戦争前からいた官僚たちを全て追放し、軍務省をエベール派とパリコミューンの牙城に仕立て上げたのである。将軍の任命や派遣議員への指令、その他事務的な権限の多くが極左派の手に落ちた。

 結果として軍務省は再び議会との対立関係に戻った。ただし、議会側も主役は替わっており、1792年時点のジロンド派からこの時はロベスピエールに代表されるモンターニュ派に主導権は移っていた。結果として1793年からはエベール派の軍務省とモンターニュ派の議会(特に公安委員会)とが戦争指導を巡って相争うことになった。

 このとばっちりを蒙ったのが最前線で指揮を取っていた将軍たちだった。この時期、戦場で指揮官となっていたのは基本的に王政時代の将軍たちが中心であり、当然ながら貴族の比率が高かった。彼らは極左派の牙城となった軍務省から目の仇にされ、彼らの政治的主張のための生贄の山羊とされた。

 最前線の将軍たちが次々と交代させられ、失敗した者がギロチン送りになったのは1793年の夏ごろ、つまりエベール派の軍務省が議会を抑えて戦争指導の主導権を握っていた時だ。例えば1792年にライン軍の指揮を取り、その後北方軍指揮官となったアダム=フィリップ・ド=キュスティーヌは1793年8月に処刑された。エルティングに言わせれば「彼の本当の罪は兵たちの間で人気が高すぎたこと」となるし、親モンターニュ派の歴史家マチエも「罪ほろぼしの犠牲者だった」としている。

 もう一人の典型的な事例はジャン=ニコラ・ウーシャールだろう。キュスティーヌの後任としてライン軍の指揮官となった彼はさらに北方軍を引き受け、オンドスコートの戦いで連合軍を打ち破るという殊勲をあげる。1793年初のネールヴィンデンにおける敗北以降、フランス軍が連合軍の動きを止めるのに成功したのはこれが初めてだった。にも関わらず、彼はその後の追撃が不徹底だったという理由で逮捕され、11月に処刑された。他にもアルマン=ルイ・ド=ビロン将軍などがやはり1793年末にギロチンの露と消えている。ジャック・オモラン将軍などはジャコバン派リーダーの健康のために乾杯しなかったとの理由で逮捕され、処刑された。

 ブラニングによると1793年と94年の2年間にギロチン送りとなった将軍は84人に達したという。将軍という地位が極めて危険なものになったため、結果として将軍になるのを拒否する軍人まで出てきた。ジャン・ルイ・レイニエールは1794年6月に将軍への任命を拒絶した。有能な軍人がそのように慎重になる一方、単に極左派に受けがいいだけの人物が将軍として前線に送られ、しばしば指揮に混乱をもたらした。ヴァンデ鎮圧の指揮官だったレシェルなどは典型的な無能将軍で、クレベールは彼を「最も臆病な兵士、最悪の士官、そしてこれまで見た中で最も無教養なリーダー」と酷評している。

 軍務省事務次官のヴァンサンや、政治的暴力装置とも言える革命軍"Armée Révolutionnaires"のリーダーであるロンサンといった極左派が実権を握る一方で、彼らによって追い詰められた軍事テクノクラートたちは議会側についた。1793年8月には元工兵士官だったカルノーが公安委員会に入り、戦争指導に関わり始めた。公安委員会を牛耳っていたロベスピエールなどのモンターニュ派は、こうしたテクノクラートたちよりエベール派の方を危険視していたため、結果として公安委員会が軍事テクノクラートの避難所として機能した。

 公安委員会と軍務省の主導権争いは1793年12月の革命政府法成立によって前者の勝利に終わる。ヴァンサンやロンサンはエベールとともに1794年3月24日にギロチン送りとなり、Armée Révolutionnairesは3月27日に解体された。以後の戦争指導は政治的思想より軍事テクノクラートの合理性の方が優先されるようになり、総動員によって兵力を拡大したフランス軍は全戦線で攻勢に出る。戦況は変わった。

 変わらなかったのは元貴族である将軍たちの不幸な状況だ。モンターニュ派が主導権を握った1794年はむしろ恐怖政治の絶頂期であり、依然として元貴族の将軍を血祭りに上げる動きは続いていた。典型的な例がアレクサンドル=フランソワ=マリー・ド=ボーアルネ将軍(ナポレオンの妻ジョゼフィーヌの最初の夫)だろう。1793年にライン軍を率いてマインツ救援に失敗した彼は軍務から引退していたが、1794年になってその失敗の責任を問われて逮捕され、テルミドールの反動直前に処刑された。1792年にライン軍司令官だったニコラ・ド=リュックナーもまた94年に処刑されている。

 結局、最前線指揮官が政治的思惑に翻弄される動きはロベスピエール一派が没落し恐怖政治が終わるまで続いた。そして、その後はむしろ最前線指揮官の暴走に政治家が振り回される状況が始まる。



ギロチン送りとなった不幸な人たち



アダム=フィリップ・ド=キュスティーヌ(1742-1793)



ジャン=ニコラ・ウーシャール(1739-1793)



アルマン=ルイ・ド=ビロン(1747-1793)



アレクサンドル=フランソワ=マリー・ド=ボーアルネ(1760-1794)



ニコラ・ド=リュックナー(1722-1794)



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