戦争の舞台



 フランス革命戦争は分かりにくい。その理由の一つとして、戦場が非常に多岐にわたっていることがあげられるだろう。あちこちの戦場でそれぞれに戦闘が行われていたため、全体として戦況がどうなっているかが掴みにくいのである。そこで、Paddy Griffithの"The Art of War of Revolutionary France"を元に革命戦争の主な舞台を取り上げ、簡単に説明しておこう。

 1)フランドル戦線

 今のフランス―ベルギー国境を中心とした戦線で、特にハプスブルク領ネーデルランドとフランス北部とで戦闘が繰り広げられた。パリにも近く、革命戦争初期のフランス側にとっては最も重要な戦線であったが、実は連合軍側にとってはそれほど重視されていない戦線でもあった。オーストリアはすでにかなり前からこの地を捨てて代わりにイタリア方面に領土を得たいと考えていた(ウィーン会議によってこの目論見は達成した)。1794年に連合軍があっさりとフランドルから撤退したのも、オーストリア側のそうした考えがあったためだ。

 この地域はまた18世紀を通じてフランスが最も防衛に力を注いできた地域でもあった。ヴォーバンの築き上げた数多くの要塞は、かなり老朽化していたものの依然としてかなりの力を持っていた。平坦な土地が広がり連合軍側の騎兵が大いに活躍する余地があったにもかかわらず、革命政府がこの地域を守りきれたのは、この遺産のおかげだとも言える。

 ベルギー国境の西半分を防衛に当たったのは北方軍であり、東半分はアルデンヌ軍(1794年6月29日以降はサンブル=エ=ミューズ軍に代わった)が配置された。フランドルの連合軍が追い払われた後、1795年5月26日以降の北方軍は兵力を大幅に減らされ、その後は1799年のイギリス・ロシア連合軍の北部オランダ上陸までほとんど活躍することはなかった。

 2)ライン戦線

 今のフランス―ドイツ国境が中心。フランドル戦線に比べると地形は起伏に富むが、後に紹介するアルプス戦線などに比べれば平坦である。この戦線はフランス革命戦争が始まったときから延々と戦争が続いた地域でもあり、現地調達を中心としたフランス軍の活動によって大変な損害を蒙った。互いに一進一退を繰り返すことが多かったこともあり、Griffithはここを第一次世界大戦中の西部戦線に喩えている。

 実際、1795年以降はここがフランス軍にとって最も重要な戦場になった。既に1794年1月時点でフランス軍は全軍(63万4000人)の62%に当たる39万4000人をここに配置していたという。第二次対仏大同盟を最終的に崩壊させたのも、このライン戦線での勝利によるものだった。

 モーゼル軍(1792年10月1日までは中央軍と呼ばれていた)と、ライン軍(1792年10月1日から1793年3月1日まではヴォージュ軍だった)がこの地域に配置されていた主な部隊だった。この両軍は1795年4月に合体してライン=エ=モーゼル軍となった。さらに1797年9月29日にはサンブル=エ=ミューズ軍と一緒になってドイツ方面軍になったが、この部隊はすぐにマインツ軍、ヘルヴェティア軍、ドナウ軍の3つに分けられ、さらに後にまた合体してライン軍となった。

 3)アルプス・イタリア戦線

 最も地形の険しいこの地域は革命政府にとって重要度はかなり低い場所だった。パリから遠いうえに、地形を利用すれば少数の部隊で敵の攻撃を止められるため、最初から配置された兵力は少なかった。現地調達が難しい地域だったため、物理的に多数の兵を配置できなかったのも理由だ。また、反革命勢力の地盤に近かったこともあり、この地域の部隊は時に対外戦争でなく国内の反乱鎮圧に優先的に回されることがあった。

 状況が変わったのはボナパルトのイタリア遠征から。アルプスを越えて北イタリア平原に乗り込んだ革命軍は、二次的な戦場に過ぎなかったこの地域を歴史の表舞台に引っ張り出した。また、フランドルに比べて本格的な要塞が少ない地域であったため、激しい野戦が繰り広げられた。

 当初は南部フランス軍が存在していたが、これは1792年10月1日にアルプス軍(1797年8月21日まで存在していた)となり、11月にはイタリア軍が作られた。さらに占領地域の拡大に伴ってローマ軍、ナポリ軍なども出来た。Griffithはボナパルトのエジプト遠征軍(オリエント軍)もこの中に含めている。

 4)ピレネー戦線

 フランスの国境防衛としては最も重要視されていなかった地域であり、その防衛も地元の民兵などにほとんど任せきりだった。中央政府の統制が利かない地域だったため、時には派遣議員が特定の将軍と結びついて好き放題やっていた。一方で有能な人間にとっては腕の振るいがいがある場所でもあり、カルノーは最初にこの地域に派遣されて兵力動員にその能力を発揮している。

 最初は南部フランス軍がこの地域を担当していたが、1792年10月1日にピレネー軍が新たに作られた。さらに1793年4月30日にはこれが西部ピレネー軍と東部ピレネー軍に分割。両軍ともスペインとの戦争が終了するまで存在し続けた。

 5)西部フランス及び海岸防衛

 当初、フランス軍が西部海岸地域に配置していたのは主に監視を任務とした小規模な部隊だった。時々やって来る襲撃者を相手にするだけの任務だったが、その状況は1793年のヴァンデ反乱以降は大幅に変わる。当初配備されていた部隊だけでこの反乱を抑えられなかった革命政府は、ラインラントからマインツ部隊を増援として送り込み、兵力を増強する。

 ヴァンデの鎮圧以降も王党派のキベロン湾上陸があるなど、この地域に配置された部隊はかなり忙しく働いた。ただ、革命政権内部でもカルノーを代表とするテクノクラートはやはりこの地域の重要度は低く評価していたという。

 1793年1月に沿岸軍が組織され、4月30日にはこれがブレスト沿岸軍とシェルブール沿岸軍に分けられた。一方、国内軍から予備軍、さらにラ=ロシェル沿岸軍と名を変えた部隊は、ブレスト沿岸軍から兵力を一部譲り受けたうえで10月2日に西部軍となった。1795年12月26日、以上の全ての部隊は統合されて大洋沿岸軍となり、これは1796年9月まで存在した。一方、1795年7月12日から1796年9月22日まで、パリ周辺を担当する国内軍というのもあった。

 6)海外

 フランス軍が行った海外遠征となると、最も有名なのはボナパルトによるエジプト遠征である。さらに、オッシュが中心となったアイルランド遠征や、その後のアイルランド反乱を支援する遠征などもあった。しかし、いずれも最終的には失敗に終わっている。

 植民地戦争で中心となったのは西インド諸島だった。また、オランダの植民地だったケープ植民地やセイロン島などでも戦闘が行われている。インド洋にはフランス側の拠点であるモーリシャスがあり、そこからフランスはインド諸勢力の一部を支援していた。だが、海外植民地を巡る争いでも基本的にフランス軍は負け続けた。

 1796年7月20日にアイルランド遠征軍が組織されたが、これは遠征失敗により1797年2月9日に解体されサンブル=エ=ミューズへ送られた。また、1797年10月26日にはイギリス遠征軍が作られたが、遠征計画は破棄され、この部隊は1800年1月17日に西部軍となった。1801年10月に組織されたサン=ドミング遠征軍は1802年2月3日にサン=ドミングに上陸したが、作戦は失敗して1803年11月28日にスペイン領土へ退却し解体された。その他にも多くの小規模な守備隊などが存在した。



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