変人元帥



 軍人にも色々な種類の人間がいる。基本的に軍人に必要なのは戦いに勝つための能力であり、それ以外の部分は「どうでもいい」と見なされることが多い。そのため、軍人の中には時に奇人変人が登場し、その奇行で人々を驚かせることがある。司馬遼太郎によると日本海海戦時の連合艦隊参謀である秋山真之は、上着の上からベルトをして戦闘の最中にポケットに入れた豆をぼりぼりと頬張っていたそうだ。これもまた奇行の一種であろう。しかし、世の中上には上がいる。秋山真之など子供扱いしてしまうほどの奇行の主、奇人変人のチャンピオンともいうべき人物として、18世紀のロシアで最も有能な将軍だったスヴォーロフを取り上げよう。

 アレクサンドル・ヴァシリエヴィッチ・スヴォーロフは1730年11月24日オレールに生まれた。若い頃はセミョノフスキー近衛兵連隊に所属し、やがて7年戦争に従軍しクネスドルフの戦いなどに参加した。さらにポーランドやトルコなどで経験を積み、1794年11月30日には元帥の位まで上り詰めた。

 速さと勢いを重視した彼の軍事行動は、「コルドンシステム」を基調とした18世紀の戦争の中ではかなり異色なものであった。リデル・ハートは彼が銃剣は弾丸より強いと言ったことを批判しているが、リデル・ハートの時代とスヴォーロフの時代は違う。確かに、銃剣による死傷者は弾丸より圧倒的に少なかったのは事実だが、一方で銃剣は弾丸より素早く戦闘を終わらせる効果を持っていた。何よりスヴォーロフ率いるロシア軍が強かったのは間違いのない事実。軍事的リーダーとしてはナポレオンに並ぶという人もいるほどだ。

 だが、軍人としてでなく単なる一人の人間として見た場合、こいつはかなりエキセントリックな爺さんである。身長5フィートと当時としても極めて小柄だったこの人物は、朝はしばしば4時ごろに起き、すっきりと目覚めるために冷たい水に飛び込むか頭から冷水を浴びていたそうだ。また、朝になるとドラムの音の代わりに彼がテントから出て雄鶏の鳴き声を真似して3回鳴き、それは軍にとって目覚めの合図であり、時には戦闘へ進軍する合図でもあったという話も伝わっている。

 そのうえで午前9時ごろから悪名高い「朝食兼昼食」を開始。関係者を集めてまず酒精を一杯。きちんと消化できるように十分に間を置いて7、8種類の食事を食べるのだが、その間しわがれ声で喋りまくりつつ次々とタンブラー一杯に入った強力なアルコール飲料を嚥下。しかも、目撃者の証言によると時にはシャンパン、時には蒸留酒といった具合にチャンポンで飲んでいたらしい。で、付き合わされる連中がふらふらになった頃、スヴォーロフはいきなり床にぶっ倒れて眠りだし、同席した連中も後に続くのが通例だったそうだ。何のために朝イチで冷水を浴びたのやら。

 結局のところ、スヴォーロフが正気を取り戻して活動を再開するのは早くて夕方6時。その間、軍がどんな危機的状態にあろうと、彼は完璧に無視していたという。まあこれはいささか大げさな指摘のような気がするが、おそらく特段にやっかいな事態が生じていない場合は毎日暴飲→爆睡をやっていたのだろう。

 また、しばしば食事の最中に彼の副官の一人が席を立ち、彼に近づいてそれ以上食べるのを制止することもあった。「誰の命令だ?」とスヴォーロフが問いかけ、副官が「スヴォーロフ元帥自身の命令です」と答えると、スヴォーロフは「彼には従わなければならん」と話しながら立ち上がり、彼自身の名で彼自身に対し散歩などをするように命じたという。

 とにかく落ち着きがないのも彼の特徴だ。ある人はスヴォーロフの表情について「ほとんど同時に狂人のように歯をきしらせ、猿のように顔をしかめ、老婆のように哀れっぽく泣くのを見ることができる」と言っている。パレードの時も30分以上同じ場所に立っていることができず、しかもその間叫んだり歌ったりしていた。サロンなど人の多いところではテーブルの上に飛び上がるか床に身を投げ出すかのどちらかだったらしい。ある時はペットにしていた七面鳥の死を悲しみ、切り落とされたクビにキスしたうえでそれをくっつけなおそうとした。宮廷ではしばしば女性から女性へと駆け回り、持ち歩いているエカテリーナの肖像画にキスをして、十字を切ったり跪いたりした

 軍人であれば軍事行動のためあちこち移動することは多い。元帥にもなればしばしば地元の有力者などが宿を提供するのだが、その際に彼はなぜか最も粗末な部屋に泊まりたがったという。それだけなら飾らない人ということになるのだが、やはりそれだけでは止まらない。スヴォーロフが泊まる部屋には予め彼の部下がやってきて本、印刷物、装飾品、鏡などを一斉に撤去したそうだ。うっかり残しておくとスヴォーロフがそれを叩き壊してしまうからで、特に鏡は見つけた瞬間に粉々に打ち砕いてしまったという。おまけにスヴォーロフはしばしば「寒くないから」という理由で窓を取り外し、「何も怖いものはない」という理由で扉すら外してしまった。

 たまに彼は「自分は医者だ」と言いながら病院を訪れることがあった。そこで見つけた病人に対して塩と大黄を摂るよう強制し、単に弱っているだけの者を見つけると杖で打った。しばしばスヴォーロフの兵士は病気になることは許されないと言いながら全員を病院から追い出すこともあった。

 彼は必要なときにはまともな服装を着用していた。宗教的儀式に出る際や彼の勝利を祝う席には緑色の完全正装で現れ、飾りや宝石をふんだんにあしらっていたそうだ。彼はそのために装飾品をわざわざ持ち歩いていた。だが、逆に普段の服装になると極端すぎるほどシンプル。暑い夏でも寒い冬でも関係なく、帽子と開襟シャツ、頑丈な木綿のズボンという服装で通した。通常はブーツを着用していたが、裸足のこともあったという。

 スヴォーロフはしばしば部下に対して意味不明な質問を投げかけたそうだ。「カスピ海には何匹の魚がいるのか? 空までの距離は? 天国にはいくつの星があるのか?」。別に科学的な解答を求めていた訳でなく、この質問に上手く答えられる者には戦局を見る才能があるということだったらしい。ほとんど禅問答の世界だが、それでも勝てば官軍。スヴォーロフが勝利を収める限り、誰も文句は言えなかっただろう。

 同時に彼はフランス語、ドイツ語、ポーランド語、イタリア語、トルコ語と複数の言語を自在に操るインテリでもあったらしい。単なる滅茶苦茶なオヤジではなかったようだ。それとも天才は頭の構造がどこか常人とは異なるのだろうか。

 何はともあれ、彼は1799年に初めて革命フランスとの戦争に参加し、シェレール、モロー、マクドナルド、ジュベールと次々にフランスの有名な将軍たちをイタリアで撃破していった。さらにはアルプス越えさえ実施しスイスの山中でフランス軍と戦ったが、彼と歩調を合わせて攻撃に出るはずのコルサコフ将軍が大敗したためドイツへと脱出した。この戦争をやった時、彼は68歳の高齢である。さすがに爺さんにアルプス越えはきつかったのか、彼はロシアへの帰還途中に体調を崩し、1800年5月17日に死んだ。



アレクサンドル・ヴァシリエヴィッチ・スヴォーロフ(1730-1800)



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