補給



 革命戦争期の軍隊への補給制度はめまぐるしく変わった。当初はできるだけ政府の関与を少なくするという革命の理想もあって、補給は民間の業者との契約によって行われた。だが、これは僅か数ヶ月しか持たなかった。続いて政府が代理人を選定して補給する方法になったが、この方法もすぐに廃れ、その後は政府が補給に責任を持つ方法と、各大隊が直接調達する方法とが使われた。

 国王の常備軍において、補給担当の将校にはしばしば貴族の秘書などが任命されていたという。これに対して国民公会は、彼らを国家の財産を横領している存在と見なして追放したうえで、より信頼の置ける若い将校たちを補給担当に任命した。1793年4月には20代から30代の補給係将校が390人選ばれている。

 だが、いくら制度を変えても、有能な人材を選んでも、革命戦争期の軍への補給は結局のところ失敗に終わった。軍務に就いた兵たちは服装や武器を自弁で揃えるはめに陥り、食糧や衣料は軍隊が駐留する地域の負担になった。必要な物資が届かない場合、軍隊は実力でそれを調達することになった。餓えた兵士たちはしばしば暴力を使って必要なものを調達した。

 実際、1793年9月には公安委員会自らが占領地からの物資調達を命令している。ベルギーでは補給係の将軍が現地の生産物の半分を軍に回すよう命令を出した。東ピレネー軍のように、人口12万5000人の地域に1万人から4万人の軍隊が駐留した場所では、地域経済は完全に破綻した。ライン地方のように長年にわたって軍隊がとどまった地域も同様だ。共和暦3年(おそらく1795年)、ライン方面軍の兵士は「この4日間、野菜とキャベツとカブしか口にするものがない。パンがなくなってもう11日になる」と手紙を書いている。

 補給が破綻した最大の要因は、これまでにない大軍を動員したことにある。総動員法で駆り出された兵隊は、後方部隊まで含めれば100万人超という、フランスの歴史上それまでは存在したことのない大兵力であった。補給したくても必要な物資が存在しなかったのだ。これは特に銃や火薬といった戦闘に必要不可欠なものについては大きな問題を引き起こした。結局、銃と火薬については政府が自ら増産を図るべく体制整備を行った。当面の不足を賄うためにパリの街中で銃の製造を行ったほか、将来の生産能力向上のため各地の鍛冶屋を軍に動員した。

 食料や衣服、靴といった日用品も同様に不足していたが、こちらについては政府は自ら生産増強に取り組むことはなかった。結果として軍の指揮官、補給係将校、あるいは派遣議員といった人々がとにかく自分たちの分だけでも確保しようと悪戦苦闘することになった。そうした物資は結局のところ地元で調達する他になく、ライン方面軍に派遣されたサン=ジュストはストラスブールにある衣服と靴を根こそぎ調達して軍の倉庫に入れたという。

 生産体制を整えても、それを最前線まで運ぶシステムが構築できなければ無駄である。そして、この時代のテクノロジーでは大量の物資輸送は不可能に近かった。最も効率の良い物資輸送方法は河川などの水運を使う方法だが、国境のほとんどが前線となった革命戦争期には水運のない地域にも補給を運ばねばならなかった。

 Albert A. Nofiの"The Waterloo Campaign"に面白い話が載っている。1トンの荷物を運ぶことのできる荷車があり、6頭の馬と1人の御者が必要だとする。人間1人が1日に必要とする食糧は包装も含めて2キログラムから2・5キログラム(0.45キログラムの肉、0・45キログラムのパンまたはビスケット、0.45キログラムのジャガイモまたは乾燥豆、0・5から1リットルのワインまたはビール、そして他に塩や砂糖、タバコなどが0・7キログラムから1キログラム)。1頭の馬が必要とするのは12キログラム(5から5・5キログラムの飼料と6から6・5キログラムの飼い葉)。つまり、この荷車を運転するためには一日に約75キログラムの食糧(人間1人と馬6頭分)が必要になる。80キロメートルほど離れた場所にこの荷車を運ぶには片道で5日、往復10日を要する。10日間に馬と人間が消費する食糧は実に750キログラム。1トン搭載できるこの荷車の75%は、馬と御者の食糧で占められてしまうのだ。

 Nofiの計算が正しいとすると、この荷車が最前線の兵に運べる食糧は10人が10日間食べられるだけの量にとどまる。10日後にはまた同じ量の食糧を運ばなければならない。もし5万人の軍隊をこの方法で補給するなら、必要となる荷車は5000台、馬は3万頭だ。6頭立ての荷車5000台を連ねると、いったいどれだけの長さになるのだろうか。数十キロメートルに及ぶ可能性がありそうだ。

 また、このシステムを効率よく動かすためには管理業務を熟知した補給係将校と、運送担当者、そして大量の馬匹(あるいはそれに代わる動物)が必要になる。実際に、政府は運送を行う業者もまた大量に集めた。一部には徴兵を忌避するために運送担当者になる者が出てくるとの理由で反対する意見もあったが、補給がなくては最前線勤務も成立しないため、国民公会は彼らの業務に高い優先度をつけた。さらにまた馬、ロバ、牛などを含めた大量の荷駄調達も課題となったが、最前線で必要な騎馬も不足していただけに荷駄の確保は困難だった。要するに鉄道も内燃機関もない時代にこれだけの兵隊を補給するのは物理的に無理だったのではないだろうか。

 王政末期から問題となっていた財政破綻もまた、軍の補給を困難にした。兵士たちが地元の店で必要なものを購入しようとしても、兵たちに給与として渡されたアッシニア紙幣を受け取らない店が多かった。政府は最高価格法でもって物価を統制し、必要な物資を購入しやすくしたが、結局のところ最後にものを言ったのは軍隊が持つ暴力の機能(もしくはそれを背景にした脅し)だったようだ。

 だが、革命政府が軍の補給を諦めて現地調達に切り替えた段階で、戦争の持つ意味は変わった。祖国を守るための戦いが、占領地から財貨を入手するための戦いに変化したのだ。現地調達によって「戦争が戦争を養う」ようになっただけでなく、後にはボナパルト将軍がイタリアでやったように占領地の財宝を様々な名目をつけて奪い取るのが当たり前になった。戦争は「儲かる事業」になったのだ。



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