リヴォリの戦い 1797年1月14―15日



(以下の文章はSIMTAC社のゲーム『Rivoli,1797』に掲載されたJ. L. ArcónのHistorical Introductionを翻訳したものである。勝手翻訳なのでこのページは隠しページ扱いとしている)


・はじめに

 1796年3月、フランス共和国の総裁政府はナポレオン・ボナパルト――この時26歳の若き将軍だった――に、オーストリア軍とピエモンテ軍によるイタリアからの切迫した攻撃に晒されている部隊の指揮を任せた。4月、ボナパルトは主導権を握り4万5000人のイタリア方面軍を率いてピエモンテに侵入した。モンテノッテとミレシモの勝利で彼はボーリューのオーストリア軍とコッリのピエモンテ軍を分断した。彼はモンドヴィでコッリを殲滅し、踵を返してボーリューに向かい、彼をボルゲットーで打ち破ってロンバルディアを征服した。彼はアディジェ川を強力な防衛線とし、帝国軍の残骸が避難場所としたマントヴァの包囲をカバーする壁とした。

 7月、オーストリアはヴルムゼル指揮下の解囲軍を送り出したが、ロナートとカスティリオーネで敗北しティロルへの退却を強いられた。オーストリアの将軍は適切な増援を受けたが、今回はボナパルトの方が先に動き、アディジェ川を遡った彼は帝国軍をロヴェレードとバッサーノで蹂躙し、彼らの連絡線を遮断してヴルムゼル自身をマントヴァに閉じ込めた。

 11月、まだ増援を受け取る前に、アディジェ川沿いのボナパルトの防衛線はアルヴィンツィとダヴィドヴィッチ率いる2つの新たな解囲軍によって再び攻撃を受けた。オーストリアの将軍たちはマントヴァへ行軍する前にヴェローナでの再合流を図る。アルヴィンツィ――7年戦争以来のベテランでシャルルロワとネールヴィンデンの勝者――はカルディエロでボナパルトの攻撃を撃退したが、3日間に及ぶ激しい戦闘の結果、彼はアルコレの戦場から退却を余儀なくされた。2ヵ月後、ウィーンは新たな軍をアルヴィンツィに委ね、またもマントヴァ解囲を試みる。今や経験をつんだオーストリアの元帥は、ボナパルトを戦場からできるだけ引き離そうと努力するヴェネツィアと――特に――ローマからの間接的な支援を計算に入れることができた。上手く行けばフランスの将軍は手遅れになるまで部隊の大半を集結できないかもしれない。この最後の解囲の試みがどうなるかはリヴォリで決まる。

 この20年後、ナポレオンはセントヘレナへ配流されている間にリヴォリの戦いについてラス・カーズ伯爵に口述した。この戦闘についての良く知られた研究は、程度の差はあれこの口述に基づいており、そしてほとんどオーストリアの資料は参照していない。その大半においてリヴォリは予定調和的な勝利として示されている。オーストリア川の連携の欠如と全般的な無様さ、そしてナポレオンによる見事な計画と戦闘中に生じた危機に対する効果的な対応とによって勝ちが決まっていたかのようだ。この文章の目的は伝統的な解釈は丸めて捨て、より詳細な内容を紹介し、リヴォリでボナパルトに勝利をもたらした他の決定的な要因を示す。特に、最悪の環境でのフランス兵の驚くべき戦闘への意思と断固たる士気と、全ての有能な将軍が保有しているとナポレオンが信じていた説明しがたい質、つまり幸運がそうである。

・戦役の前段階

 アルコレの後、イタリア方面軍は約7000人の増援を得た。これまでの損失を埋め合わせて兵力は(マントヴァ包囲の8500人を除き)3万7000人に達した。ジュベール師団はリヴォリの北方数マイルのラ=コロナに布陣し、ティロルからアディジェ川を下ってくる侵入路の防衛に当たった。マセナはブッソレンゴとヴェローナの間で中央の位置を占めた。オージュローはアディジェ川下流を担当し、セリュリエ師団はマントヴァを封鎖した。ガルダ湖の西からチーゼ川を下ってブレシアへ行くルートを防ぐため、ナポレオンはレイの元に新しい師団を編成した。

 ナポレオンはボローニャにいてローマの外交を見守っており、教皇がフランスとの休戦を破ればすぐ相手を罰することができるようにしていた。1月7日、ローマからウィーンへの伝令がフランス軍に捕まる。この伝令文は2つの宮廷の間に密接な連絡があることを示すと同時に、新たなオーストリアの攻勢がいつあってもおかしくないと警告していた。その直後、ウィーンからの伝令が捕らえられた。そこではヴルムゼルに対してこれ以上要塞を持ちこたえられないならマントヴァの南方へ脱出せよと命じていた。彼はポー川を渡り、オーストリアと教皇の連合軍の指揮を取る。1月8日、オーストリア軍はアディジェ下流、オージュローの前哨線があるレニャーゴ前面を攻撃し、アルヴィンツィによる二度目の攻勢を開始した。

 アルヴィンツィは4万9000人の兵を持ち、再び二つの独立した部隊による前進を行うことにした。今回、彼自身が率いる主力軍――歩兵2万6175人、騎兵1790騎、約60門の大砲――は6つの縦列に分かれてアディジェ川をトレントからリヴォリへ下り、それからマントヴァへ向かう。プロヴェラ元帥率いる第2部隊――歩兵8379人、騎兵718騎、大砲36門――パドヴァからヴェネツィア平原を越えてアディジェ下流へ向かいレニャーゴを脅かす。その間、バヤリッチ少将の歩兵6081人と騎兵160騎はヴェローナ正面で陽動を行い、二つの主力軍をつなぐ役目を果たす。プロヴェラはフランス軍を南方に引きつけるため1月8日に前進を始めなければならないが、アルヴィンツィの攻撃は1月12日まで始まらない。アルヴィンツィはイタリア方面軍の大半がプロヴェラと戦闘している間にマントヴァへ突破したいと望んでいた。彼が失敗した時はフランス軍が北へ移動して彼と戦おうとしているのだから、プロヴェラが成功できるはずだ。もしプロヴェラがマントヴァに到達できなかったら、彼はポー川を渡って南方へ進み教皇の軍と合流する。ヴルムゼルも、すでに述べた通り、物資が尽きる前にアルヴィンツィが到達するのに失敗した際には南方へ突破するよう命じられていた。

 その間、攻勢が切迫しているのに気づいたナポレオンはボローニャから彼の司令部があるロヴァベラへ戻ってきた。彼はどの方角からオーストリア軍の主攻勢が来るのか知らなかった。彼はジュベールの前面に何か現れるのではないかと感じていたが、しかしそれがアルヴィンツィの主攻勢なのかそうでないのか分からなかった。一年のこの時期には、主攻勢はヴェネツィア平原を越えて来るように思われた。

 1月12日、バヤリッチは広い前線に渡って3つの縦列でもって陽動を実行した。彼自身は中央縦列――第51シュプレニィ歩兵連隊の第2及び第3大隊、ヨーゼフ大公軽騎兵の部隊――を率いてヴェローナへ向かい、ブリュヌが指揮する第18半旅団と第5竜騎兵の部隊で構成されるマセナの前衛部隊がいたサン=ミケーレを奇襲した。急襲を受けてフランス軍は村から追い出されたが、マセナは素早く反応し、アディジェの左岸へ渡って9個大隊と2個騎兵スコードロンをもって反撃した。第75半旅団の擲弾兵が攻撃を主導し、サン=ミケーレを奪回し大砲3門を奪った。バヤリッチは680人を失い(ほとんどは捕虜になった)カルディエロへと退却し、そこで他の2縦列と再び合流した。

 その日の遅く、ジュベールはラ=コロナで攻撃を受けたが、最初の位置を確保しつづけていると報告してきた。スパイからの最新の報告ではヴェネツィアの町々で主な兵の動きが見られていると示唆していたため、いまだに確信してはいなかったがナポレオンはアルヴィンツィの主な脅威がアディジェ下流にやってくるものと判断した。状況の進展を待つ間、彼は攻撃がティロルかヴェネツィア平原のどちらから来ても対応できるようマセナ師団に再び川を渡らせた。

 翌日午後3時、アルヴィンツィの司令部――トリ=デ=ボルゲットー――から直接やって来た二重スパイが、アルヴィンツィと彼の参謀の居場所について、前日の報告が指摘したようにバッサノにいるのではなく、アディジェ上流のアラとアヴィオの間にいるとのニュースをもたらした。午後遅く、ジュベールから1月12日に報告した攻撃が大規模な攻勢になったと知らせてきた。彼は数で勝る敵に背後に回りこまれ、味方から切り離されないためにリヴォリへと後退しなければならなかった。もはやナポレオンはアルヴィンツィの計画について悩むことはなかった。オーストリアの主攻撃はティロルからアディジェを下ってやってくる。彼は可能な限りの兵を率いてすぐにジュベールと合流しなければならなかった。

・戦闘計画

 アルヴィンツィ元帥は13日遅くになってジュベールを増援しようとするナポレオンの動きを知った。これは彼の計画を酷く危うくした。アルヴィンツィはボナパルトをアディジェ下流に引きつけるためにプロヴェラをレニャーゴに、バヤリッチをヴェローナに派出しており、孤立したジュベール師団を数で勝る味方部隊で粉砕できると信じている各縦列の指揮官たちは、すでに翌朝実行すべき特別の命令を受け取っていた。リヴォリ高地を取り囲んで制圧しようと考えていた彼は部隊を6つの縦列に編成していた。ゼッケンドルフ率いる最初の3縦列は山間部の道を通って高地の北斜面に到着することになっていた。山道は凍結したうえに険しかったため、オーストリア軍は僅かな山岳砲兵を除いて全ての大砲を後方に残していかなければならなかった。

 オーストリア軍参謀長のヴァイローテル少佐が示した命令の詳細によるとルシナンの第1縦列はペッツェーナとアフィを経由してジュベールの西方から迂回し、ピパロ山を占領して彼を背後から攻撃し同時に増援の到着を妨害することになっていた。リプタイの第2縦列はカプリーノを経由してツアンヌ高地へ前進し、ルシナンとの連絡を維持しつづけるよう努力する。ケブレスの第3縦列はルビアラとサン=マルコの教会へ行軍し、ドガーナの塹壕を背後から強襲してクォスダノヴィッチのために道を開く。そのクォスダノヴィッチは、軍の騎兵と砲兵の大半を伴っているオクスカイの第4、ロイスの第5縦列とともにアディジェ川右岸で待機する。最後にヴュカソヴィッチの第6縦列は左岸に沿って行軍し、ドガーナの塹壕を砲撃して舟橋を使ってアディジェを渡り、ルシナンと合流してフランス軍を側面と背後から襲う。アルヴィンツィがジュベール将軍に対する来援の存在を知らされたときには、この計画を変更するにはもはや遅すぎた。その夜、彼はかろうじてオクスカイの歩兵を急ぎバルド山に登らせ、ケブレス将軍の背後に配置して第3縦列が朝に実行する正面攻撃を活発に支援するよう命じることだけできた。

 フランス側を見ると、ボナパルトが13日午後にヴェローナから発した命令は、リヴォリ高地に――翌朝早くに――歩兵1万9000人、騎兵1500騎、大砲30門を集結させるのを狙いとしていた。副官モンニエ率いる2000人は湖畔の道を使ったオーストリア軍の迂回を阻止するためガルダ湖に派遣された。ボナパルトは2万8000人のオーストリア軍と対峙していたが、彼らは険しくほとんど通行不能なバルド山の斜面によって分断されており、敵軍の半分ずつが合流してマントヴァへの行軍を続けることができる場所はリヴォリ高地だけだった。故にフランスの将軍にとって高地の支配権を維持するのが最も重要であった。午後11時、彼は2台の馬車に参謀たちと一緒に乗り込み、100騎の「ガイド」に伴われてヴェローナを出発した。数時間後に騎兵縦列――マセナの第1騎兵連隊と騎馬砲兵、そしてオージュロー師団から分遣された第5騎兵連隊――が続いた。マセナが大半の歩兵とともに出発したのはその後だった。

 14日午前2時、ボナパルトはリヴォリの教会でジュベールとその部下に会い、そこで彼は慣れ親しんだ場所で防御に有利な場所を占めることを計画した。彼はマイユボワとブールセの作った地図でこの地について研究しており、マセナとジュベールを連れて何度も実地に見学していた。

 オーストリア軍の宿営の火を注意深く観察した後で、ボナパルトは朝10時になるまでアルヴィンツィはどんな攻撃も実行できないと結論付けた。そのころにはマセナも到着するだろうし、モンニエはガルダ湖の道路を封鎖し、レイもリヴォリへ接近してくる。つまりフランス軍はバルド山からやってくるオーストリア軍を数で上回ることになり、しかも砲兵と騎兵を持ってどちらも持たない歩兵を相手にするという優位も得られる。そうした理由に心動かされ、彼はできるだけ早く攻勢に転じることを決意した。さらに、高地とアディジェ峡谷の交差点にあるマニョーネ山をコントロールできるサン=マルコの教会――前日にジュベールが放棄していた――を奪回する必要もあった。教会が立つ岩がちの尾根はさらにオーストリアの騎兵と歩兵がリヴォリ高地に登ることができる唯一の道が通っていたインカナルの狭い通り道も制圧していた。この道は防御工事が施されており、敵軍による正面攻撃からは簡単に防衛できる状態にあったが、敵が高地から背後へ襲いかかれば奪われる可能性があった。さらにマセナの到着の前に戦闘が始まるリスクまで考えた結果、ボナパルトはジュベールに対してこの尾根を夜襲によって再び確保することを命じた。ヴィアルの第4軽半旅団がケブレスの軽歩兵を奇襲し、彼らを教会から追い出してこの夜襲は成功した。前哨線に沿って散発的な射撃戦が生じたものの、戦闘が激化することはなかった。ボナパルトは、オーストリア軍はまだ攻撃の準備ができていないと正しく推定した。

・ジュベールの攻撃

 ボナパルトは午前7時から8時の間にジュベール師団を攻撃に投じた。ヴィアルの旅団で構成され、第33半旅団の一部に支援された右翼はサン=マルコからルビアーラとギャンバロンを攻撃した。第22軽半旅団の一部と師団砲兵に応援されたサンドの第14半旅団が中央部隊としてサン=ジョヴァンニとサン=マルティーノへ前進。ルブレー旅団は左翼となり、トロンバローレとツォヴォの高地を占領して他の部隊が実行に移している攻撃の蝶番の役をする。ボナパルトは、アディジェ峡谷に沿って前進してくる敵縦列からインカナルの道を防衛しているドガーナの塹壕にはシャヴァルシェと第22軽半旅団の残り、そして第14半旅団の擲弾兵を残した。ルクレールの騎兵とマイヤー旅団はマセナとレイの師団が到着するまで彼の唯一の予備となった。

 ツアンナ高地からボナパルトは、ケブレスの前衛が退却しジュベールの兵がルビアーラとサン=ジョヴァンニを奪取するのを喜びとともに見ていた。フランス軍の前進は止められることなく――第14半旅団の一個大隊はサン=マルティーノにまで足を踏み入れた――午前8時半まで続き、そこでジュベールは新たに到着したオクスカイ少将の大隊に支援されたケブレスとリプタイの縦列の大半と接触した。戦闘はフランス軍にとって悪い方向に向かい始めた。特に彼らは連続した戦線を築くことができず部隊の間に大きな隙間が存在したため、多くの部隊は突然側面が脅かされるようになったのに気づいた。数分のうちにルブレー将軍が負傷し、彼の旅団――しばらく前まで勇敢なマセナの配下にあった――はリプタイがその左側面を攻撃したときにずたずたに引き裂かれた。そして左側面を露呈した第14半旅団も指揮官を失い、ヘーフェンヒューラー擲弾兵にラ=プレーサまで押し返され、同擲弾兵は白兵戦でサン=ジョヴァンニを奪回した。ヴィアル将軍の第17及び第4半旅団はケブレスの縦列によってルビアラとサン=マルコの教会から放り出され、両半旅団の指揮官を負傷で失い、激しい戦いの末にマニョーネ山の斜面を下って退却を余儀なくされた。

 今や朝の9時半となり、ボナパルトは惨状に対応するため戦線を再編した。ジュベールは右翼のみを指揮することになり、部隊の退却を止め峡谷と山の双方からインカナル通路の入り口を守るよう命じられた。第39半旅団が彼を支援することになった。次にボナパルトは中央戦線――ツアンナの宿屋の前面に構築された――を彼の参謀長であるベルティエに委ねた。ベルティエの左翼は空白だったが、マセナの半旅団がヴェローナから到着し次第彼らがこの側面をカバーするように配置され、ルブレーの大隊の壊走によって生じた隙間を埋めることになっていた。今やマセナの兵がリヴォリへ接近してくるのがはっきりと見えており、ボナパルトとマセナの両名はその縦列を可能な限り早くリプタイに差し向けるため猛烈なスピードで縦列の先頭へ馬を走らせた。この間、ボナパルトは彼の最後の歩兵予備――第33半旅団の1個か2個大隊――が勝ち誇るオーストリア軍将軍たちの前進を遅らせるのに十分であることを期待していた。

 最前線に来たマセナの副官の一人であるティーボール少佐は、間違いなく「この瞬間に我々はばらばらになり、さらには叩きのめされている」と信じた。ティーボール少佐はマセナ将軍に同行してリヴォリの戦場に「朝の8時か9時ごろ」に到着し、マセナはすぐにジュベールの左翼の指揮を取った。彼らはルブレーの部隊の壊走を止めるには力不足だった。

「敵は縦隊で第29半旅団へと行軍し、彼らにその位置を捨てさせた。その時、司令官はミュラとルマロワと一緒に戦線に沿って通過している最中であり、私も彼の行くところへついていった。第29半旅団が退却したときに彼は第29半旅団からそれほど遠くない第85半旅団の右後方におり、彼らの退却を見た。私に気づいた彼は鋭く言った。『第85半旅団の大隊を率いて第29半旅団へと行軍している縦隊の側面に突撃せよ』。これは極めて適切な考えであり、私は第85半旅団の指揮官が彼自身の責任でその行動を実行するだろうと考えた。その場にいた士官たちの誰に与えても構わない命令をボナパルト将軍から受領したことに喜び、私は命令実行を急ぐため馬を走らせた。しかし、悪魔が私の幸運を嫉んだのだろうが、私が第85半旅団から300歩の距離まで近づいたときにその部隊は総崩れになった。私は指揮官のところへ急いで命令を伝えこの状態を何とかすべきだと指摘した。彼はこの災いを避けるために何もすることができず、その部下たちも同様だった。しかし、私がさらに努力を払い僅かな兵を押し止めて核となる部隊を編成した時、どのようにして来たのか分からないがマセナ将軍が現れた。私は全てを彼に報告した。彼はすぐに私が頼むしかできなかったことを命令したが、その命令は私の言葉以上の影響を及ぼさなかった。彼はののしり始め、指揮を取っている士官たちを侮辱した。とうとう、私は彼がそんなことをしたのは生涯に一度しか見なかったのだが、彼は剣を抜き、逃げる兵に対してだけでなく、彼らの前に立ちはだかって押し止めることをせずに兵に続いて逃げていた士官たちにも剣の平を振り下ろした。第85半旅団がイタリア方面軍の中で自らの名誉を汚したのはそれが二度目で、軍に加わる資格はないことを示したとしてボナパルト将軍は本気でそのことを軍旗に刻ませようと考えたほどだ。

 …一人の副官と私しかそばにいないにも関わらずマセナはその場所を動きたくなかったため、我々の右前方にある小さな村落はフランス軍大隊に占拠されている筈だと彼は思い、私に行って部隊を全速力で連れてくるよう命じた。私は彼に対し、あそこには我が方の兵はいる筈がないと指摘するのが義務だと思った。彼は怒り出した。私は出発し、そして幸運なことに、最初の家から100歩離れたところでマスケット銃の一斉射撃を受けた。彼らがもし私を捕まえようとしていたのなら、単に私が目的地に到達するのを待てばよかったのだが。弾丸が雨あられと降ってくる中で私は馬首を返そうとしたが、地面が濡れて滑りやすくなっていたため馬は転倒した。急ぎ馬に乗り直し、私は逃げ出した。十数人が射撃しながら私を追って走っており、さらにその後方には強力な縦隊が村から現れてついてきた。私はマセナと再合流したが、彼は私の失敗を見ており、そのため私は大隊を連れてこれなかったことや攻撃部隊の早い到着について報告するという困難に直面せずにすんだ。彼は押し止めるのに成功した百人ほどの兵と一緒にいたが、彼らは敵が接近するのを見ると全員逃げ出した。またも我々は孤立した。私がマセナの下を離れた際に彼と一緒にいた副官も第32半旅団の先導2個大隊と第75半旅団の先導2個大隊を連れてくるために去っていた。

『将軍――私は危険を冒して話しかけた――ここは将軍が哨兵としているべき場所ではありません』。彼は何も答えず、『捕虜! 捕虜!』と叫びながら我々の方へやってくる敵の散兵を見ながら口笛を吹き始めた。そして、突如として決意し、到着を待っていた兵に会うべく可能な限り早く馬を走らせた。

・マセナの勝利とジュベールの崩壊

 マセナはちょうどリヴォリに到着したばかりだった彼の師団の先頭――ランポンの第32半旅団――に直接乗りつけた。彼は2個大隊を攻撃縦隊――先頭は擲弾兵――に編成し、馬を下りボナパルトの前を通って彼らを砲声へと率いた。ランポンの大隊はルブレーの打ち破られた旅団兵の一部と合流しながら決然と敵に接近した。険しい地形とリプタイの頑強な抵抗のためその前進は鈍かったが、彼らは容赦なく進んだ。午前10時半、第32半旅団はオーストリア軍をツアンヌ=ブレンツォーネから追い出し、その1時間後に第75半旅団がツォヴォ山の守備隊を圧倒してリプタイを出発地点まで押し戻した。オーストリアの将軍はタッソ川の背後で戦線を建て直すのに成功するが、その後の彼の役割は川の両側でマセナと戦う彼自身の散兵線を支援することに限られた。

 マセナがルブレーが壊走した後にフランス軍左翼の状況を安定させるのに成功した理由は、おそらく「その方面のオーストリア軍団がすぐに方向を変え、我々の背後をすぐに追って彼らが得たばかりの優位を生かそうとせずに、我々の左翼を通り過ぎていったことにある。…なぜオーストリア軍は第29半旅団を後退させ第85半旅団を壊走させた後でその成功を続けようとしなかったのか、そして数で勝る敵がなぜ自らの利益に反するのにわれわれが一息入れるのを許し、戦闘を維持する必要がないと考えたのか。私にはもっともらしい答えは思いつかない」

 おそらくリプタイは、右翼を伸ばしてルシナンと連携しフランス軍を完全に包囲せよというアルヴィンツィの命令を実行に移そうとしたのだろう。しかし、この機動がマセナのベテラン兵による猛襲に抵抗するリプタイの能力を弱めたのは間違いない。さらに、フランス軍将軍の攻撃は第29軽半旅団分遣隊の再編を可能にした――第85半旅団の残りは戦闘終了時までリヴォリの南にいた――だけでなく、第33半旅団のベテランであるピュティニー伍長の回想録から推論するなら第33半旅団の一部の再編も手助けした。

「リヴォリ高地の町の前に位置し、我々は夜明け前にヴェローナを出発したマセナの部隊の到着を待たなければならなかった。10時にアルヴィンツィのオーストリア軍が大軍で攻め寄せ、我が第29半旅団と第85半旅団は高地の一部を敵に渡した。私は第二線にいた。何人かの指揮官が怒鳴り、ドラムが鳴り響き、そして私のマスケット銃の射程内に大きな十字帯と質のいい制服を着込んだオーストリアの老練な男たちが現れた。彼らがやる気であることに私は気づいた。突然、激しい衝撃で私はよろめいた。私の弾薬箱のど真ん中に弾丸が命中したのだ。最後に彼らは退却し、第29半旅団と第85半旅団は我々の背後で再編した…」

 トロンバローレとツォヴォの高地を取り返し、マセナはこの間高原に沿って前進を続けていたオーストリア軍中央を脅かし始めた。正面をオクスカイに拘束され両翼をリプタイとケブレスの前進に脅かされていたベルティエは、ツアンヌの宿屋とインカナル通路に通じる十字路を支配する近くの丘まで退却を余儀なくされていた。同時にジュベールと混乱したフランス軍右翼は、ロヴィナとセルパーレから追い出された後、すぐ背後をケブレスの部隊に追われながらこの隘路へ下がってきた。正午、オクスカイの兵がインカナル通路が高原に登りきった場所へと近づいたため、ベルティエはルナール大佐――サンドーが重傷を負って倒れた後の第14半旅団指揮官――に対してこの重要な地点を死守するよう命じた。騎馬砲兵4門が疲れきった部隊を強化するため第14半旅団の前面100ヤードの場所へ運ばれた。しかし、オーストリアは彼らの砲撃をその砲兵部隊に集中し、数分のうちにほとんどの砲手と馬は死ぬか負傷して倒れた。オクスカイの兵が放棄された大砲の場所へ来たとき、インカナル通路の下から押し寄せてきた第14半旅団第3大隊の50人の擲弾兵がそれに飛びつき、うち2門をひったくって戦線まで引っ張ってきた。オーストリア軍は残る2門の砲口を通路の下に向け、ドガーナの塹壕へ絶え間ない砲撃を始めた。

 ドガーナでは、アディジェ川の左岸に位置したヴュカソヴィッチの砲兵隊が隘路の守備隊に砲弾を浴びせ、クォスダノヴィッチ元帥もまた攻撃を振り向けた。第39半旅団に増援された塹壕の守備兵は頑強に抵抗したが、ケブレスの山岳に配置した大砲とオクスケイが奪取した大砲が背後から砲弾の雨を降らせるに至って士気を失い、フランス軍はその場を捨ててカステロ山とリヴォリの村へと退却していった。その間、ヴュカソヴィッチの歩兵はヴェローナ道路に沿って前進を続け、チウサ=ヴェネタの古い要塞を強襲した後で、川を渡ってフランス軍を包囲すべくロッカ山の南方で舟橋の建設を始めた。

・ルシナンがフランス軍を包囲

 ボナパルトにとって状況は絶望的になりつつあった。インカナル道路が大くずれする少し前、彼はカステロ山の観察地点から新たなオーストリア軍縦隊――ルシナン――が彼の後衛に近づき退却路を脅かすのを見た。フランス軍は左翼では勝っているものの、中央は強烈な圧力を受け、まさに右翼が圧倒されている時に最左翼から完全に包囲される危険に晒された。ボナパルトは未だレイ師団について何のニュースも得ていなかった。彼に向けて送り出された伝令は突破できなかったか、さもなくば帰還できなかった。そこでフランスの将軍はレイの位置を特定しルシナンの前進を抑制するため馬をリヴォリ南西の高地に進め た。新たなオーストリア軍縦列の前進を止めるため、ボナパルトは彼の唯一の歩兵予備――第75半旅団の1個大隊――をティファロへ送り出し、さらにマントヴァ道路を開けてレイとの連絡をつけるため、ジュノーに彼の騎兵の大半――第1騎兵連隊の4個スコードロン――を委ねた。この時、ボナパルトと同行していたティーボールは回想録でこう述べている。

「…第1騎兵連隊はまだ突撃していなかった。総司令官はレイの3000人の兵に移動を急がせるよう連絡を取るために、そして我々を封鎖しているルシナンの部隊に対する攻撃に参加させるために、副官のジュノーに対して第1騎兵連隊の先頭にたち突破するよう命じた。騎兵部隊が集まり、ジュノーは一つのハンカチを顎の下まで結んで帽子を動かないようにし、さらに右手の剣も同様にした。こうしたいくらか大げさな準備の後で彼は出発したが、20分後には完全に失敗し混乱したまま全速力で戻ってきた。この攻撃失敗と混乱した退却は兵のやる気を殺いだ。十分な厚みを持った縦隊が我々の左手にあるリヴォリ盆地の境界を形成している丘を下ってくるのを見ながら、浮かぬ顔をした兵たちはほとんど話すことなく互いの顔を見合わせた。最初に考えたのは、我々はあらゆる方角から攻撃されつつあるということだった。しかし、何人もの副官が新たに来た部隊を偵察するため出発しようとして、また彼らを迎え撃つべく手配が行われているその時、その縦隊から一人の士官が現れ幕僚たちで構成されたグループへと全速力で馬を走らせた。それは、敵の部隊が彼らと我々の間を通り抜けて我々の背後に回り込もうとするのをガルダ湖から見ていたモンニエ大佐だった。彼は自らの責任で敵の縦隊の最後尾を側面から攻撃し、彼らを壊走させ、そして今や第18連隊全部とともに我々と合流しつつあった。軍楽を鳴らし軍旗をはためかせながら到着したこの予想外の増援は、新たな攻撃者の代わりに200人の捕虜を連れてきた。そして、我らが望んだその時に兵の士気は回復し、多くのものたちに落胆の代わりに熱狂をもたらした」

 モンニエの第18半旅団の2個大隊と2門の4ポンド砲は、モンニエの前進を阻むべくルシナンがその縦隊から派遣してカルチーナに配置した4個中隊を打ち破って来た。12時半、彼の小さな部隊はボナパルトがティファロに派遣し、ルシナンの軍によってそこから追い出された第75半旅団の大隊とポッツォーロで合流した。オーストリアの将軍は第75半旅団を追撃しなかった。代わりにリプタイと連絡を取るための偵察部隊をティファロから遠くまで派遣し、そしてアルヴィンツィの命令を実行すべくピパーロ山とマントヴァ道路への行軍を続けた。同時に彼はアフィの町にさらに3個歩兵中隊を――部隊長――レイの前衛部隊を阻むために派遣した。優柔不断な将軍はオーストリア軍がリヴォリの場所からかなり深く後方に存在していること、増援してくれると考えていた軍についての情報の欠如、そしてナポレオンの敗北についての最初の噂が流れ始めたことなどに当惑し、彼の部隊の前進を止めてアフィの南方に配置し、状況の進展を待った。

 午後1時ごろ、ルシナンの前衛部隊はピパーロ山に到着した。ヴュカソヴィッチによる渡河作戦をカバーするために兵がアディジェの岸に派遣され、さらにギューライ・フライコープスの2個中隊がリヴォリの南方郊外へと送られた。午後2時、軍の大半をピパーロ山周辺に集めたルシナンは彼の歩兵に一回の一斉射撃を命じた。これはアルヴィンツィに対しフランス軍の背後を攻撃する用意が整ったことを知らせる合図だった。だが、最後の時になって状況は大きく変わり、ルシナンの縦隊はもはや包囲軍ではなくなった――むしろその逆に、包囲され、一掃されようとしていたのだ。

・クォスダノヴィッチがリヴォリ高地に登る

 午後1時ごろ、インカナルの防衛線を破った後でクォスダノヴィッチの前衛部隊は高地へと登り始めた。騎兵大尉シャファーが放棄されたドガーナの塹壕に竜騎兵部隊を率いる間、ロイスの工兵が溝に飛び込み高地への接近を妨げている障害物を取り除いた。雪に覆われたインカナル通路で、砲兵部隊はオステリア=ドガーナ後方に集まり道路が掃除されるのを待った。隘路は乗り物と大砲と弾薬車で混雑し、高地からアディジェへと下る峡谷はリヴォリへ登ろうと骨を折る歩兵によっていっぱいになり始めた。カレンベルク近衛大隊は高地に足跡を記し、オーストリアの散兵線はボルゴ=カステロの家々から射撃を始めた。しかしこの村落の近くには15門の大砲を持つフランス砲兵部隊がまだ頑強かつ殺人的な砲撃をアディジェ峡谷とインカナル通路に浴びせており、オーストリア軍の前進をさらにやっかいにして遅らせていた。

 その間、ベルティエ将軍は中央部から引き抜いた兵と逃げた兵のうち彼が押し止めることができた者たちに、リヴォリの墓地を守らせた。その時、彼はジュベールのもとに駆けつけ「…弾丸のシャワーと息苦しい砲煙による深い雲の中で…彼はほとんど非難するような口調で怒鳴り、少なくとも彼の師団を守る最後の防衛線はジュベールが築くべきだったと指摘した。ジュベールは軽蔑した様子で応じ、ベルティエに対してボナパルトこそが彼の師団を指揮しており彼は右翼しか指揮していなかったことを思い出させた。そしてさらに、いまだに攻撃のために斜面を登っている最中の敵に対する断固とした攻撃があれば、まだ状況を救うことができると述べた。ベルティエは騎兵2個スコードロンを率いて敵縦隊の先頭に突撃すべきであり、その間にジュベール自身は軽歩兵をもって攻撃側の側面を急襲する。彼はすでに高地は失われたと考えており、そしてこれがそれを取り返す唯一の方法だった」

 ジュベールは2本のカービン銃を腕に掴んで会話を終わらせ、ベルティエに向かって自分は部隊をすぐに出発させ、インカナル通路へ前進し、その背後から回復した兵たちを追随させると叫んだ。ベルティエはジュベールの性急な前進を支援するため第33半旅団の一部を送った。そしてすぐに、最後の投入されていない予備騎兵部隊がいるヴィラの南方へ馬を走らせ、彼らに前進を命じた。この騎兵部隊は、ラサールがちょうどマントヴァから連れてきたばかりの第22猟騎兵連隊の大半と、第5騎兵連隊によって構成されていた――全体で約300騎だった。ラサール率いる軽騎兵部隊はツアンヌ交差点目指して北上した。ルクレールと彼の重騎兵は、峡谷を上って高地へとなだれ込もうとしているオーストリア兵を襲撃すべく当方へ回り込んだ。

・フランス軍の反撃

 高地の上では勝利したものの疲れきったケブレスとオクスカイの兵が前進を続け、フランス軍をムテイから追い立てツアンヌから南方へと広がっていった。それぞれの連隊史によると、この時点でオーストリア軍2個縦隊の最も前にいた部隊は散開し、「散兵線の大群」になっていたため、フランス騎兵が正面から突入すると彼らは完全な混乱に陥った。いくつかの部隊は急いで退却し――ラサールが、おそらく自分の引き起こした混乱を予想できなかったために、当初はオーストリア軍を慎重に追撃したにもかかわらず――混沌はすぐに散兵線全体に広がって、彼らは支援部隊の背後へ急いで退がった。自身の散兵線に走り越され、右翼にいるマセナの兵に希望を失い、そして数百のパニックに陥った歩兵を踏みにじるラサール騎兵の予想外の登場に驚いて、ムテイとサン=マルコの間にいたオーストリア軍主力も退却を始めた。

 ルクレールの攻撃も同様の幸運に恵まれた。高地へ登ったオーストリア歩兵は、登山と、峡谷全体に対するフランスの侵攻と、そしてフランス砲兵によるやむことのない砲撃で完全な混乱に陥った。彼らが対応する前にルクレールの騎兵は彼らに遅いかかり、切りつけて彼らを峡谷へと追いやった。彼らは峡谷にいた前衛部隊の残りと押し合いへしあいした末に、彼らすべてを完全な混沌状態で退却させた。

 その間、シャファーの竜騎兵はインカナル通路を封鎖していた新たなバリケードのために止められていた。何人かがそれを取り除くため馬を下りたが、行軍を再開する前に竜騎兵は高地から逃げてきた逃亡者に通り越され、それに混じったフランス騎兵によって無慈悲に切りつけられた。再編されたジュベール師団の兵はやる気を取り戻し、いまだにフランス砲兵から完璧に叩かれている当惑したオーストリア軍に対し、高地から下る斜面や峡谷の縁から怒りの射撃を浴びせ始めた。予想もしなかったことに、第39半旅団も自らの判断で競り合いに参加した。塹壕防衛線から壊走した後で第39半旅団はカステロ山の斜面で秩序回復に成功し――ルクレールの成功した突撃に勇気づけられ――もっとも適当な機会に浮き足立ったオーストリア兵の左側面を叩くべく戻ってきた。ピュティニー伍長は帝国兵の敗北を目撃した。

「オーストリア軍は高地から押し戻され、羊のように束になって曲がりくねった道を走り、崖の上から自らを放り出した。追撃は勝利より厳しかった。ラサールは軽騎兵の先頭に立って突撃し、これまで多くの騎兵突撃を見てきた我々全てが彼を応援せずにはいられなかった。弾丸が帽子に穴をあけたことに気づき、私は帽子をしっかりと被りなおした。5人の戦友とともに斜面を先回りして降り、道を見下ろせる高台で待ち伏せして17人の捕虜を得た。あらゆるところで完全な勝利となり、ボナパルトは幸せだった」

 短い戦闘の後、クォスダノヴィッチの前衛部隊は敗北して逃げ、それを追撃したジュベールの歩兵は600人の捕虜を得た。インカナル通路で渋滞していたロイスの縦隊の中では混乱が大半に及んだ。フランス砲兵はオーストリアの前衛部隊が巻き込まれた敵味方が混在した集団に対する砲撃をやめ、道路から障害物が取り除かれるのをドガーナの宿屋周辺に集まって待っていた騎兵、砲車、弾薬車などのオーストリア縦隊後方へと大砲の狙いを変えた。フランス軍の砲弾が運送車両の間で爆発を始め、すぐにいくつもの弾薬車が爆発した。後衛部隊での爆発の騒音とそれに伴う虐殺はロイス部隊の混乱をパニックに変え、全縦隊は混沌とした退却に転じた。にもかかわらずいくつかの歩兵中隊はフランス軍が道路が狭くなっている場所で掘っていた斜面の掩体壕に入った。彼らはそこからフランス軍を射撃し、塹壕を再占領するのを妨げようとした。ロイス部隊のいくらかはインカナルの西で配置につくことができ、フランス軍がドガーナ道路から出てきてアディジェ峡谷に沿って追撃するのをとどまらせた。

 オーストリア軍の攻撃が次第に崩壊していく間、ボナパルトはカステロ山の観測地点に戻り、すぐにラサールの最初の成功をオーストリア軍中央に対しても利用するよう命じた。もっとも損害を受けていない部隊――第22軽半旅団と第33半旅団――を前面に置き、ボナパルトは彼の中央の残りをマセナの右翼へつなげるように動かした。再構成されたフランス軍戦線はサン=マルコとルビアラへ突進し、1800人の捕虜を獲得。彼らの前進はオーストリア軍がタッソ川の向こうまで押され、そこでリプタイの兵と合流するまで止まらなかった。そのしばらく前、ボナパルトはロッカ山の頂上にある観測地点からの連絡を受けた。左岸にいたオーストリアの架橋部隊がクォスダノヴィッチの敗北を知り、すでに設置した橋の径間を素早く取り壊し、そして全縦隊が明らかに後退しようとする様子を見せていた。ジュベールとマセナにアルヴィンツィの動きを抑えるよう命じ、ボナパルトは彼の後衛に未だ付きまとっていた危機に対応するため南方へ全速力で馬を走らせた。

・ルシナン縦隊の最期

 午後2時過ぎ、ピパーロ山の山頂から聞いたリヴォリ高地の戦闘の騒音は次第に弱まり、遠ざかった、正午にルシナンがリプタイの縦隊と連絡を取るために送った分遣隊からは何のニュースもなく、彼がフランス軍に対する同時攻撃についてアルヴィンツィへ派出した伝令は敵の戦線を突破することができなかった。他の味方部隊の運命についての疑いは、モンニエの大隊――いまだに十分な遠方にいたが――が積極的に接近してくるのを見た時に霧消した。その間、第18及び第75半旅団の散兵線にカバーされながら、ボナパルト自らが率い強力な騎兵縦隊に先行された大砲兵部隊が、道路に沿って着実に前進してきた。妨げられることなくボナパルトは弱体なオーストリア軍を散弾砲の射程内におさめるカンパーニャ南方の高台で大砲を前車から降ろした。

 ルシナンは左翼をブラニッツィ山へ下げ、右翼ではピパーロ山を維持し、リヴォリ南方へ送り出したクロアチア中隊の退却をカバーするためクレベック大隊をモンティドーネに派出した。ほとんど1時間の間、ルシナンの右翼はいくつかの12ポンド砲を含むフランス砲兵の縦列射撃による酷い被害に耐えた。ボナパルトはモンニエの3個大隊をいくつもの攻撃縦隊に組み、ピパーロ山を襲撃させた。士気を失ったオーストリア歩兵は持ちこたえることができずブラニッツィ山へと急ぎ退却した。夜にならなければ退却できないため、ルシナンはそこで日没まで抵抗する決心をした。それはつまり、さらに2時間フランス軍の砲撃に耐えなければならないことを意味した。

 このころ、ボナパルトの副官の一人であるマルモンがオージュローの司令部から到着した。彼はオーストリア軍の警戒をうまく避け、プロヴェラがアンヒアリでアディジェを渡ってフランス軍戦線を突破し今やマントヴァへ行軍中だとのニュースを伝えた。彼はさらに、レイが誤った情報に混乱して、打ち破られたボナパルトの部隊の生き残りに避難所を用意すべくオルツァ近辺に防衛陣を敷いていることも報告した。ボナパルトはすぐに別の士官をレイに送り、すぐに師団を率いてモンニエが正面から攻撃している間に真っ直ぐルシナンの背後をつくよう命じた。ボナパルトはルシナンをできるだけ早く片付け、すぐにプロヴェラ元帥へと行軍し彼を倒したいと考えていた。

 ブラニッツィ山の山頂ではルシナンの兵の士気が次第に下がり始めた。彼らは長い行軍と前日までの激しい活動に疲れており、この48時間は補給もなかった。フランス軍重砲の砲撃にたたかれ――彼ら自身は砲兵を持っていなかった――レイの縦隊が彼らの後方に戦闘隊形で現れたときに部隊の崩壊が広がった。ゾイレン中佐――ラッテルマン連隊の1個大隊を率いた――がコステルマン村への退却を援護した。しかし、モンニエがガルダ近くに残しておいた第18半旅団第3大隊が彼らの退却路を塞いだため、ほとんど縦隊全てがブラニッツィとガルダの間で捕虜になった。ルシナンと16人の士官、270人の兵だけが突破し無事に味方戦線に到着した。

・幕間

 14日の午後おそくアルヴィンツィの軍は前日と同じ場所を占拠していたが、そのうち1250人が戦死、2126人が負傷し、6000人以上が行方不明か捕虜になった。砲5門と軍旗2本――ドイチュマイスター連隊とミトロフスキー連隊のもの――が敵の手に落ちた。一方フランスは行方不明と捕虜を含めて約3000人の損害を受けた。勝者の損害比率の高さ――レイ師団を除き、戦闘に参加した部隊の20%――は戦闘の残忍さを証明しており、勝利を疑問視させた。

 夜になってボナパルトは彼の将軍と副官たちをアフィ近くのカ=ディ=リに集め、戦闘で名をあげた者全てを暖かく迎えた。レイ将軍は機会を捉えて彼の遅れを正当化しようとした。彼は早朝にリヴォリへ出発せよとの命令を受けたが、サロにいたミュラの前哨部隊からガルダ湖西岸でオーストリア軍の攻撃が切迫しているとの報告があったため出発を4時間遅らせた、と説明した。これが間違った噂であると分かったため彼はすぐにカステルヌオヴォまで行軍したが、そこで3つの相反する命令を見出した。ロヴァベラのセリュリエを支援せよ。バヤリッチかプロヴェラのアディジェ渡河を邪魔するよう機動し、そしてリヴォリを後方から攻撃せよ。すぐにリヴォリへ行軍せよ、の3つだ。彼の兵はデセンツァノからの行軍で疲れきっており、彼は兵を休めてその間にボナパルトに新たな命令を聞くため副官のパルトノーをリヴォリへ送り出した。しかし副官とその護衛についた竜騎兵は、オーストリア騎兵の強力な警戒部隊がいたラ=セーガに飛び込んだ後で引き返してきた。2時ごろ、敵がボナパルトの背後に回ったとのニュースを聞き、彼は兵を配置して戦場へ前進しボナパルトの軍の退却路を確保するのが適当だろうと思った。そうした冗長な説明は冷淡な反応しか呼ばなかった。総司令官にとってレイは言語道断な主導権の欠如を示しており、古くからある「迷った際には砲声に向かえ」という軍事的常識を踏みにじるという罪を犯した。

 翌日の命令はすぐに下された。レイ師団とマセナの第75半旅団の増強を受けたジュベール師団は勝利を確定したうえで、この瞬間に――第12軽半旅団を率いてガルダ湖をボートで渡りトッリに上陸した後で――バルド山に登りオーストリア軍の後方に近づいているはずのミュラと連絡を取る。ボナパルト自身はルクレールとマセナの兵とともにその夜のうちにマントヴァへ行軍する。

 一方、オーストリア軍の野営地では、アルヴィンツィ元帥が朝には攻撃を再開しようと意図していたため、士官たちが必死に混乱した部隊を再編し兵の士気を高めようとしていた。ベテランのオーストリア軍指揮官は足を怪我しており、彼の兵がいかに落胆し意気消沈しているか気づいていた。彼らの中には不服従や反抗の動きが起きていた。しかしフランス軍がプロヴェラの縦隊を邀撃するのを妨げるためには彼らをリヴォリにくぎ付けにすることが必要だった。マントヴァ要塞の包囲線を突破してヴルムゼル元帥を救い出すという最後の希望がまだあったからだ。そして、彼はルシナンについて何のニュースも受け取っていなかったが、ルシナンの現在の状況――ボナパルトの軍の真ん中で孤立していた――は危機的であるに違いなく、彼が生き残る唯一の機会はフランス軍を避けてプロヴェラ元帥の軍団と合流することにしかないと思っていた。そこで、彼の部下の運命は朝の時点で彼がボナパルトの軍を攻撃し彼らをくぎ付けにできるかどうかにかかっていると考えられた。

 戦闘を決意し、アルヴィンツィはケブレスに対し、夜明けにマニョーネ山とサン=マルコの教会を占領するよう命じた。オクスケイはその左翼をケブレスの縦隊に委ね、そして午前6時にはサン=ジョヴァンニに向け前進する。その間リプタイはツォヴォへ行軍する。また、ロイスは6個大隊ででインカナル通路を攻撃する。しかし、フランス軍は再び不幸なオーストリアの将軍より優れた計画を実行しようとしていた。

 朝4時、第33半旅団の大隊に支援されたヴィアル旅団は前日夕に続いてサン=マルコの教会に対する攻撃を成功させ、2時間の戦闘後にケブレスの部隊をマニョーネ山の頂上から追い出し、オクスカイの左翼を脅かした。マニョーネ山の喪失を見てロイスは前進を止めて攻撃をインカナル通路の砲撃のみに止めた。ヴィアルの成功と同様、ルブレー旅団――今ではヴォーが指揮し、第22軽半旅団に支援されていた――カプリーノを西方から包囲してリプタイの右翼を攻撃し、短い小競り合いの後で彼らをサン=マルティーノへ退却させた。その戦闘でオーストリアの将軍は捕虜となり、シャヴァルデ准将は致命的な重傷を負った。中央ではジュベールが砲兵を集め――20門ほどの大砲――トロンバローレとツォヴォの高地からオーストリア軍中央へ砲弾を浴びせ、彼の歩兵の大半――弱体化した第14、第33、第39半旅団に支援された第58及び第75半旅団――がヴォーとヴィアルが敵戦線両翼へ圧力をかけるまでその場に立ちはだかりオーストリア軍の攻撃を遅らせた。

 午前9時、ジュベールは第58、第33、第39半旅団を大隊ごとの攻撃縦隊に編成し、その指揮をバラギュアイ・ディリエール将軍に委ねてサン=マルティーノに差し向けた。ジュベールの騎馬砲兵が攻撃に加わって各大隊の間に沿って前進し砲撃した。その時までオクスカイの兵はサン=マルティーノを成功裏に防衛しており、村に通じる主な接近路を塞いだ2門の山岳砲の助けも得てヴォーの攻撃を撃退していた。しかし、新たな方角からの脅威が迫ったのを見て、彼らは村を捨て退却に加わった。朝の10時には全ての抵抗は止み、オーストリア軍はフェラーラへ向け完全な混乱状態で逃げ出した。ヴォー、ヴィアル、ミュラもまた彼らの退路を山の中で断つべく同じ方角へ急いだ。ラ=コロナの狭い道で包囲の環は閉じ、ほとんど5000人の逃亡兵が捕虜になったほか、数百の兵が崖の上から自らの身を投げ出したり山頂から撃たれた。後にフランス軍はラ=コロナの教会に通じる道の上だけで1000の死体を数えた。

 ピュティニー伍長は回想録の中でディリエール将軍の攻撃とその後の追撃を詳述した。

「バラギュアイ・ディリエール将軍が指揮する我々第33及び第39半旅団はサン=マルティーノの2門の大砲を奪って300人を捕虜にし、スピアッツィとラ=コロナへと追撃を続けた。フランス軍がすでにそこにいたため、オーストリア軍は押し止められ、峡谷の底に切り離されて彼ら自身を守ることができなかった。我々は自身の楽しみのためと、彼らの考えを変えさせるために山頂から彼らを撃った。その後我々は彼らを急襲した。6000人の捕虜と彼らの物資全てが我々の手に落ちた」

 アディジェ峡谷ではオーストリアの退却はもっと損害が少なかった。クォスダノヴィッチはインカナルにサン=ジュリアン大佐指揮下の2個大隊といくらかの騎兵を残し、彼らは縦隊の他の部隊がブレンティーノへ退却するのを上手くカバーした。ヴュカソヴィッチは危害を加えられることなくペリへ後退した。

 2週間もしない間に、アルヴィンツィの主力軍6個縦隊はその戦力の半分以上にあたる兵14770人、大砲9門を失った。損害は特にバルド山から攻撃した4個縦隊に集中した。川沿いの谷間から攻撃した部隊――ロイス、ヴュカソヴィッチ、オクスカイの騎兵――が蒙った1640人の損害(戦力の15%)の大半は高地から谷間の底へ追い落とされたロイスの大隊、つまりカレンベルク連隊、キンスキー連隊、カールシュテッター辺境防衛連隊に所属していた。オーストリア騎兵は僅か90人(5%)しか失わなかった。

・プロヴェラのマントヴァへの行軍

 1月14日午後1時半、アディジェの上流ではボナパルトとアルヴィンツィが来る戦闘のための配置を完了したころ、プロヴェラ元帥はオージュローの前哨線の裏をかき、約60キロメートル下流のアンヒアーリに舟橋を架けた。兵2000人と大砲14門を橋の防衛と後衛のために残し、彼は兵7000人と大砲22門でマントヴァへ行軍した。その夜、彼は要塞から僅か20キロメートルしか離れていないノガラ高地にたどり着いた。

 オージュローが最初の報告を受けた時はプロヴェラの行進を邀撃するには遅すぎたが、にもかかわらず彼はアンヒアーリのオーストリア軍を攻撃し舟橋を破壊した。後にランヌの旅団が合流し、両者はチェレアでプロヴェラの後衛を攻撃し全滅させた。しかしオージュローは彼がいない間にさらなるオーストリア軍の渡河があることを恐れてプロヴェラ縦隊の大半を追わなかった。カステルヌオヴォでオーストリア軍を止めるためのオージュローの無益な試みを知らされたボナパルトは、ヴルムゼルが一度解放部隊が接近しているのに気づいたら出撃してプロヴェラを支援するのではないかと恐れ始めた。前と後ろから攻撃されればセリュリエの部隊は崩壊する危険がある。そこで彼はマセナの兵とともに15日の午前中に強行軍を行い、マントヴァを視野におさめられるロヴァベラへ夕方に到着した。彼はまたヴィクトールの下でヴィアフランカに予備として残っていた第57半旅団をそこへ送り出した。

 15日夜明け、プロヴェラの前衛――白い外套を着込んだエルデディ軽騎兵連隊――がマントヴァの東にあって主要な入り口をカバーしている小さな村、サン=ジョルジオに接近した。プロヴェラはこの地域が要塞化されていない――僅かな堡塁を除き――のを知っており、エルデディ連隊が第1フランス軽騎兵連隊に似ているため、数ヶ月前にレニャーゴでやったのと同様に大胆な攻撃によって奇襲できることを期待していた。

 サン=ジョルジオ守備隊指揮官のミオリスは、オージュロー師団がアディジェ川にいるため要塞に面した側以外には特段の注意を払っていなかった。しかし村から200歩離れたところで薪を切っていた守備隊のあるベテランの軍曹がオーストリア騎兵に遠くから気づき、疑いを深めて戦友にそれを伝えた。――彼は接近してくる兵の白い外套が古いバルシュニー軽騎兵のものにしては新しすぎると考えたのだ。確信しきれぬまま彼らは彼らは急いでサン=ジョルジオに戻り、警告の叫び声をあげて門を閉じた。騎兵は駆け足に移ったが間に合わず、気づいたフランス兵に射撃された。正午、プロヴェラ縦隊の大半がサン=ジョルジオ前面に到着したが、ミオリスの1200人の兵は胸壁に取り付き、その日の間中、解放軍がマントヴァへの主要接近路を確保しようとする全ての試みを撃退した。砲声を聞き、オージュローはアディジェの位置を捨ててマントヴァへ向かうことを決意した。

 サン=ジョルジオの前に牽制部隊を残し、プロヴェラはマントヴァ要塞の正面にあるラ=ファヴォリタ――包囲された軍に唯一残された逃亡路――へ行軍した。その機動があからさまだったので、セリュリエはヴルムゼルの弱く急ぎすぎた出撃に悩まされながらもいくつかの堡塁をラ=ファヴォリタ南方に作る余裕があった。そして夕方の間プロヴェラを牽制し続けた。戦線を突破して要塞にたどり着こうとする最初の試みは、成功するチャンスは大きかったものの、ミオリスによる偶然の抵抗とセリュリエの適切な指導によって打ち破られた。その夜、プロヴェラは翌朝のラ=ファヴォリタに対する攻撃でヴルムゼルと協力するため士官を一人要塞に送り込むのに成功する。

 その間、ロヴァベラではボナパルトが翌日の戦闘計画を立案するために15日の最後の時間を費やしていた。ヴルムゼルが戦線を突破してプロヴェラに合流できないようセリュリエはきっちりと支援される必要がある。そしてオーストリアの解囲軍は包囲し全滅しなければならない。プロヴェラを牽制するためマセナはラ=ファヴォリタに第18半旅団と第25猟騎兵連隊、デュジュアの騎兵予備――第3竜騎兵連隊と第10猟騎兵連隊――、ヴィクトールの歩兵予備を配置するよう命じられた。ランポンと第32半旅団はヴィクトールの左翼に配置され、さらに左にはルクレール――第1騎兵連隊と第8竜騎兵連隊――がモリネーラ川沿いに到着してオージュローと接触し、プロヴェラを後方から攻撃することになった。セリュリエは要塞からのあらゆる出撃に対応するためデュマをサン=タントニオに残し、1500人の兵とともにヴルムゼルとプロヴェラの間を遮断するためラ=ファヴォリタの西へ行軍した。

 1月16日午前6時、戦いが始まった。ゼボッテンドルフの1万人が恐ろしい攻撃をしかけた。オットの縦隊はサン=タントニオに向かい、ミシュコヴィッチの縦隊はラ=ファヴォリタに対した。要塞の使える大砲全てがこの移動の支援に向けられた。最初にオット将軍はデュマをサン=タントニオから放り出したが、ボナパルトがラ=ファヴォリタから送り出した2個大隊がオーストリア軍の前進を止めた。セリュリエもまた激しい戦闘に巻き込まれたが、ヴィクトールの第57半旅団による反撃がミシュコヴィッチの縦隊を叩き、彼らは多くの損害と400人の捕虜を残して引き上げた。孤立しないためにオットも要塞に戻った。

 その間、ヴィクトールとデュジュアの兵に支援されたマセナ師団はプロヴェラを牽制し続けた。オーストリアの攻撃は全て撃退され、午前10時ごろには士気を失ったオーストリア元帥の兵はサン=ジョルジオへ向けて混乱したまま退却を始めた。ミオリスの兵による予想外の出撃が彼らの退路を遮断した時に、脱出の機会はすでに極めて僅少になっていた。ランポンがすぐにミオリスの救援に駆けつけ、オーストリア軍は罠にはまった。正午ごろ、オージュローの前衛部隊がカステラーロに現れたのを見てプロヴェラは士官が武器と馬を保持できることだけを条件に降伏を申し出た。条件は受け入れられ、プロヴェラ元帥は彼の残った5000人の兵とともに降伏した。軍旗20本、大砲22門、そして43の大砲部隊もまたフランスの手に落ちた。

・オーストリアの敗北

 4回目のマントヴァ解囲の試みは始まって9日後に完全に失敗した。それは最も悲惨な失敗だった。アルヴィンツィが戦役を始めたときに4万9000人いた兵のうち、戦闘できる部隊として残っていたのは僅か2万5000人だけだった。マントヴァの運命と、そしてイタリアの運命が決まった。マントヴァに希望のないまま包囲されたヴルムゼルの軍では食糧が尽きた。彼らは最後は騎兵の馬を殺して生き延びていたが、飢餓の上に病気が彼らを一掃し始めた。抵抗の継続は無意味であるうえに常識に反し、そして何よりボナパルトが年老いた元帥に名誉の降伏を申し出ていた。彼はその場所を幕僚全てとともに去ることができるし、その際により屈辱的でない出発ができるよう騎兵200騎、歩兵500人、大砲6門も同道できる。彼の兵はフランスの捕虜と交換するべくトリエステに連れて行かれる。かくしてマントヴァは2月3日に降伏した。捕虜1万3000人、大砲350門がフランス軍の手に落ちた。

 勝利に喜んだフランス総裁政府はイタリアでの戦争を終わらせることを望み、ボナパルトにライン方面軍から2個師団を送った。一方のオーストリアは、最近のドイツでの勝利に勇気づけられ、再びイタリアで戦火を交えようと望んだ。オーストリアの最高軍事会議は彼らの最高の将軍をボナパルトに対して送り込んだ――アンベルクとヴュルツブルクでジュールダンを倒したカール大公を。しかしイタリアにいるオーストリア兵の士気は広く崩壊しており、大公はイタリア方面軍の攻撃を止めることができず、彼らはウィーンから100キロメートルもない場所まで前進した。リヴォリの3ヶ月後、帝国はレオーベンの休戦に応じるほかなくなり、ミラノとロンバルディアを放棄した。それはフランスにとって栄光ある平和であり、ナポレオン・ボナパルトが権力へ踏み出す最初の一歩だった。

(訳注:J. L. Arcónはティーボールの回想録から色々な話を引用している。ただ、彼の回想録の信頼性については疑問を呈する向きも多い。エルティングは『彼の本は悪意に満ちた挿話に溢れており、その中には真実を含んでいるものもあるかもしれないが、他の信頼できる史料で裏付けられない限りは受け容れるべきではない』と指摘しているし、ある書評家は彼の回想録はゴーストライターが書いたものだと断じている)



――1797年イタリア戦線に戻る――