フランス革命戦争の歴史的位置づけ



 世界史の教科書でフランス革命は大きな地位を占めている。中世の残滓である身分制を引きずった絶対主義王政の時代に終止符が打たれ、民主主義に基づく近代的な国家制度が作り上げられる推進力となった事件。人権宣言を行い、自由、平等、友愛という理念を掲げたフランス革命は、歴史の中で重要な意味をもつ転換点として位置付けられることが多い。

 マルクス主義的歴史観の中でも、フランス革命はそうした「歴史の里程標」として取り扱われている。フランス革命は典型的な「ブルジョワ革命」と定義され、それによって生まれた資本主義社会がやがてさらなる革命によって社会主義社会へ、そして共産主義社会へ向かう。明るい未来へ至るルートを示す一つのしるしがフランス革命だとされた。だが、そういった「科学的」な未来予測を立てたマルクス主義的歴史観は、20世紀末になって「バラ色の未来」という予想が外れたため信頼を失った。今では「典型的なブルジョワ革命」といっても、それだけでは何の意味もない。何より、フランスで産業革命が起きたのは典型的ブルジョワ革命が起きた1790年代ではなく、王政復古後の1830年代であることの説明がつかない。

 そうした進歩主義的な歴史観に対し、むしろ歴史が循環するという発想から唱えられているのが「覇権国家の交代」論だろう。この議論の中では、16世紀ごろに世界システムが成立し以後はそのシステム内で国家間の覇権を巡る争いが繰り広げられていると説明される。16世紀にはスペインが、17世紀にはオランダが覇権を握るヘゲモニー国家となった。理性の時代である18世紀に覇権を握ったのはイギリスである。そして、いつの時代も覇権国家に対しては挑戦者が現れる。18世紀にイギリスに挑戦した覇権国家候補はフランスだった。

 覇権主義論でフランス革命を位置付けると、英仏の覇権争いの一幕という定義に収斂する。所謂「第二次英仏百年戦争」の終盤を飾る一連の戦争(フランス革命戦争、ナポレオン戦争)こそが革命期に生じていた国際的騒乱の正体であり、この戦争で挑戦者を退けたイギリスは18世紀に続き19世紀も覇権を握った。イギリスがその覇権国家の地位をアメリカに譲るのは20世紀になってからだ。

 この覇権主義論は、「近代の成立」という解釈から零れ落ちる欧米以外の地域を見る視点を与えてくれる。確かにフランス革命によって絶対主義王政は没落への道を歩み始めた。フランスの国民は、さらに19世紀中に他の欧米諸国の国民も自由かつ平等になったかもしれない。だが、地球の他の地域を見る限りでは、20世紀になっても植民地が残り自由でも平等でもない人々が大勢いた。ならば、革命による身分制の打倒より、覇権を巡る争いの方こそが歴史の主題だとも考えられる。

 実際、フランス革命戦争そのものが始まった理由についても、理念の衝突というより参加各国の利権衝突として理解した方が実相に近いかもしれない。オーストリアにとっては自領のベルギーなどに革命の影響が及ぶのを抑制するのが最大の狙いだっただろうし、プロイセンは間違いなく北部ドイツへの関心から戦争に身を投じた。先のアメリカ独立戦争で最大の植民地を失っていたイギリスは、他の地域でで失地回復を図るのが主要な目的だっただろうし、その目的はインドで叶えられた。そして何より、フランス自身が(ナポレオンが政権を握る前から)身も蓋もない侵略主義への道を歩んでいた。つまりフランス革命戦争とは、よくある国家間の利権争いを、もっともらしい理念(自由、平等、友愛)で取り繕っただけ、と解釈するのも可能なのだ。

 だが、それだけで説明を終わらせるには事態はいささか複雑である。革命国家が己の利権だけのためにやったにしては、戦争の損害が大きすぎるのだ。ルネ・セディヨは「フランス革命の代償」の中で、この時期に行われた戦争がフランスの人口分布に歪みをもたらし、19世紀における発展の可能性を阻害したと指摘している。革命とその後のナポレオン戦争を通じて得たものに比べると、失ったものの方が大きすぎるという訳だ。もしフランスが最初から己の利益のみ重視して行動していたなら、国家は損害が膨らみすぎる前にどこかで手を引いただろう。実際には彼らは踏みとどまることなくどこまでも暴走していったのだ。

 なぜフランスは自らの限界をわきまえることなく突き進んだのか。物理的に国家を支えたのは、革命によって政治の表舞台に参加するようになった数多くの国民たちだろう。身分制に基づく君主制国家では政治に関与する人間の数は限られている。多くの国民はただ税金を取られるだけの立場だ。しかし、政治の世界において、「参加」というコインの裏側には「動員」という文字が彫り込まれている。

 君主制国家の国民は、税金さえ払えば後は余計な義務を負わずにすんだ。特に18世紀の欧州はその傾向が強かった。当時は国王が整備した常備軍が戦争を担当していたが、彼らはいわばプロの傭兵たちであり、多くの国民とは異なる世界の住人だった。それに対して共和制国家の国民たちは、税金だけでなく兵役の義務も負う。フランスでは革命政府が危機を乗り切るために国家総動員を実施した。政治に参加するようになった国民は、同時に政治の側からいわば強制的に動員されるようになったのだ。動員によって生まれた大規模な軍隊は、フランス国家の暴走をいくらでも支えることができた。

 そして何より、参加の裏にある「動員」を正当化するイデオロギーが、この時代から歴史に大きな影響を与えるようになった。そのイデオロギーとは「ナショナリズム」である。ネーションが一まとまりになって国家を形成するという動きは、すでに絶対主義王政の時代から見られた現象である。その意味で、ナショナリズムとは必ずしもフランス革命の時期に生まれたものではない。だが、革命がこの化け物を鎖から解き放ったのも事実だ。革命以前の「ナショナリズム」は身分制の下で飼いならされていた。革命以後、身分制は姿を消すことが決まった。そして身分に代わるアイデンティティの源としてクローズアップされるようになったのが、ネーションという幻想だった。

 フランス革命によって火をつけられたナショナリズムは、ナポレオンの手によって欧州各地へばら撒かれた。多民族国家であり、ナショナリズムを忌避する傾向の強かったハプスブルク帝国ですら1809年には国民のナショナリズムに訴えて兵を集めた。1813年の「諸国民戦争」はその名の通り「ネーション」同士の争いが歴史の中心になっていくことを示していた。19世紀のうちにナショナリズムは欧州を越え、世界に広まる。そして21世紀になった今もなお、ナショナリズムは我が物顔で世界を闊歩している。



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