連隊(半旅団)編成



 軍隊の編成の基本になるのは連隊(Régiment)である。革命期のフランス軍歩兵については半旅団(Demi-Brigade)と呼ばれていた。兵力動員などは連隊単位で行われることが多く、戦場で目印として使われる軍旗もまた連隊単位で保有するのが通例だった。そこでフランス革命戦争時の連隊編成について見ておこう。

 革命前の国王の常備軍には103の歩兵連隊があった。近衛歩兵連隊2個、フランス人歩兵連隊78個、ドイツ人またはアイルランド人歩兵連隊12個、スイス人歩兵連隊11個である。各連隊はそれぞれ2個大隊で構成されており、各大隊は1個擲弾兵(Grenadier)中隊と8個小銃兵(Fusilier)中隊の計9個中隊で構成されていた。また、それ以外に12の猟兵(Chasseurs)大隊あるいは軽歩兵(Légère)大隊があった。

 しかし、革命期に入ると部隊編成ははるかにややこしくなった。志願兵はしばしば地域ごとに集められた国民志願兵大隊に所属したし、それ以外に地域や個人によって集められた"Legion"とか"Free Corps"などと呼ばれる部隊も存在した。

 こうした混乱を収めるために採用されたのがアマルガム法である。その中では連隊という言葉が「政治的に正しくない」という理由で使用しないことが決まり、半旅団という用語が採用された。1個半旅団は旧常備軍の1個大隊と志願兵2個大隊を組み合わせるのが基本だが、より細かな編成についても法律の中で述べられている。

「アマルガム法第5条
 半旅団は、それぞれ次のように組織される。
 参謀部――半旅団長1名。大隊長3名。参謀部付き経理官2名。副官3名。参謀部付き外科担当軍医3名。曹長3名。鼓手曹長1名、鼓手伍長1名および楽手8名(うち楽長1名)。洋服仕立師1名。靴製造師3名。
 各大隊は擲弾兵1箇中隊と小銃兵8箇中隊、あわせて9箇の中隊よりなるものとする。擲弾兵1箇中隊は、中隊長(大尉)・中尉・少尉各1名、曹長1名、軍曹2名、給養係伍長1名、伍長4名、下士官候補4名、擲弾兵48名、鼓兵2名、あわせて将校3名および下士官・兵士62名からなるものとする。小銃兵1箇中隊は、中隊長(大尉)・中尉・少尉各1名、曹長1名、軍曹3名、給養係伍長1名、伍長6名、下士官候補6名、兵士67名。あわせて将校3名および下士官・兵士86名よりなるものとする。
 おのおのの半旅団には、4口径の大砲6門とそれに必要なすべての付属用品とが装備される。そして、この大砲の整備と使用のために、半旅団ごとに志願兵の砲兵1箇中隊を置く。この砲兵1箇中隊は、砲科の兵士の数が64名である点を除いて上述の擲弾兵1箇中隊のように構成される。
 したがって、将校、下士官、兵士よりなる半旅団1箇は、正規定員2437名であり、4口径の大砲6門を備える。
 前線部隊軍団全体は、196の半旅団よりなるから、兵員総数は47万7652であり、1176門の野砲を有するものとする」

 旧常備軍との違いは1個半旅団が3個大隊編成になっている点(旧常備軍の1個連隊は2個大隊編成)だろう。後にナポレオンが政権を握る時期になると4個目の大隊を持つ連隊も登場するようになる。

 各大隊は旧常備軍と同様に9個中隊(擲弾兵1個中隊と小銃兵8個中隊)から編成されるようになっていた。この編成はナポレオンが政権を奪い、半旅団という言葉が消えて連隊が復活した後も続いたが、1808年には1個大隊が6個中隊編成という仕組みに変わる。

 ちなみに1個大隊が9個中隊編成というのは他の国に比べるとかなり大きめである。例えばオーストリア軍を例にあげると、各連隊は3個大隊で編成されており、うち2個大隊は各6個中隊編成、1個大隊は4個中隊編成になっていた。それ以外に2個の擲弾兵中隊が連隊に所属していた。

 とはいえ、法律はあくまで法律でしかない。現実の運用は文章に記した通りにいかないのが当然である。アマルガム法に予定された兵員数を満たしていた半旅団など、現実にはおそらく存在しなかっただろう。エルティングによると、定員2400人に対して現実の兵力は300人程度という部隊が多く、時にはたった50人の半旅団もあったという。第二次アマルガムが実施されたのは、こうした兵員数の現実に対応する狙いもあった。

 一方、騎兵については最初からアマルガムという手法は実施されなかった。ここでは政治的に正しくないはずの「連隊」という言葉も生き延びて、革命戦争の間もずっと使用されていた。革命期は単に騎兵連隊(Cavarly Régiment)と呼ばれていた部隊(1803年以降にはその一部が胸甲騎兵になる)や戦闘時には馬から下りて戦うこともあった竜騎兵(Dragons)などの重騎兵部隊と、猟騎兵(Chasseurs à Cheval)やユサール(Hussar)などの軽騎兵部隊との間には編成に少し差があった。

 1793年2月21日以前について言うと、騎兵および竜騎兵連隊はそれぞれ3スコードロン(騎兵大隊)で編成されており、各スコードロンは150人構成されていた。一方、ユサールと猟騎兵連隊は4スコードロン編成であり、うち1つは補給拠点の守備用とされていた。

 1793年2月21日以後になると、騎兵および竜騎兵連隊は4スコードロン編成になり、各スコードロンは170人で構成した。ユサールと猟騎兵連隊は6スコードロンでうち1つは補給拠点守備用。さらに1796年以後になると騎兵連隊は3スコードロン、その他の全騎兵連隊は4スコードロン編成となり、各スコードロンは232人(2個中隊)で構成されるようになった。

 もっとも、革命戦争期のフランス騎兵は正直言って強くない。元々騎兵は貴族の比重が高い兵科であり、革命によって貴族の亡命が進んだ結果として最も大きなダメージを蒙った部隊でもあった。これと逆の経過をたどったのが専門性の高い砲兵や工兵で、元々ブルジョワなどが士官になるケースの多かったこのあたりの部隊は革命によってもそれほど戦力は落ちなかったと言われている。

 だが、その騎兵も長い戦争の結果として次第にプロフェッショナル性を高め、やがては全欧州でも屈指の破壊力を誇る部隊に進化していく。これを縦横無尽に使いこなしたのがナポレオンだが、彼が政権を握る以前の長い戦争の歴史がなければ、たとえ彼であってもあれだけ騎兵を効果的に使うことはできなかったかもしれない。



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