戦場の実態――隊形の使用例



 未訓練だがやる気のある兵士たちが数に物を言わせて戦う。基本的には密集した縦隊で銃剣突撃を中心にしながら、時には大量の散兵で連合軍の横隊を圧倒しながら。後のナポレオン戦争時代と比べると隊形運用は未熟だが、数の優位と兵の革命的熱狂とでそうした不利を補った。これが革命戦争時の戦場が持つ一般的なイメージだ。だが、それはどこまで本当なのだろうか。革命軍の兵士たちは現実の戦場でどのように戦っていたのだろうか。

 Paddy Griffithの"The Art of War of Revolutionary France, 1789-1802"の中には、デュムリエが採用した戦場での隊形運用についての説明が掲載されている。それによると、攻撃の際にフランス革命軍の各大隊はそれぞれ縦隊を形成して横に並び、その形で前進をした。そして敵と接近した段階(敵との距離が300―1000メートルまで接近した段階)で、各部隊が自らの判断で適当と思える隊形に変更して戦闘に突入したという。射撃戦が必要なら横隊に、銃剣で攻撃するのならそのまま縦隊で、森での戦闘ならば散兵に、敵騎兵が来るなら方陣に、といった具合だ。

 ただし、こうした方法を実施するためには兵士が十分な訓練を受ける必要がある。未訓練の兵士が敵に接近した段階で隊形を変更すると、かえって混乱してしまう可能性があるからだ。デュムリエが率いた兵士は旧常備軍と主に1791年の志願兵から成り立っていた部隊だが、彼らは1792年夏の期間を訓練に充てることでこうした隊形運用をこなせるだけの能力を身につけていた。1792年秋のジュマップの戦いで革命軍の兵士たちは柔軟な隊形運用を見せたが、同じ事を同年春の未訓練な部隊に求めてもできなかった可能性はある。

 より詳細な戦場の実態分析に取り組んでいるのはJohn A. Lynnの"The Bayonets of the Republic"だ。彼は1792年から94年の北方軍"Armée du Nord"が行った戦闘についての一次資料を分析し、その中に出てきた各種の隊形について定量的なデータにまとめあげた。彼の分析を「密集隊形」(横隊、縦隊、方陣)と「散開隊形」に分けて説明しよう。

 密集隊形の実例としてLynnは北方軍が行った108の戦闘を分析対象とした。このうち横隊が使用された戦闘は44あり、その中で計55の横隊使用事例が存在した。1つの戦闘で複数の使用事例があったことが分かる。縦隊の使用事例は42あり、さらに行軍縦隊の例が5つあった。方陣の事例は6つにとどまったという。

 密集隊形の中で最も多くの使用例が見つかったのは、実は横隊だった。フランス軍といえば縦隊というイメージは強いが、実際には様々な状況で横隊を使っていたらしい。最も使用例が多かったのは防御時であり、22例がそうだった。この中には退却時の防御用隊形として使われた例も含む。次に多いのは待機中の使用例で13に達した。横隊は砲撃を受けても損害が少ない隊形であり、規律保持にも適していたために、戦闘前や戦闘中に部隊を待機させる際にはよく使われたようだ。他には散兵支援に使われた例(6)、行軍時の使用例(3)などもある。攻撃の際に使われたケースも7つあり、その中にはデュムリエが指揮をしたジュマップの戦いもあげられている。ジュマップでは縦隊で行軍し、最終的な攻撃をする直前に横隊に組み替えたというのがLynnの主張だ。

 縦隊はその大半が攻撃時に使用されている。42事例のうち35までが攻撃だ。最も、資料の中では様々な表現が使用されているようで、Lynnは縦隊"Colonne"と表現されていたものだけでなく、密集"en masse"や銃剣突撃"à la baionnette"と紹介されていたものも縦隊だと判断している。騎兵に対して縦隊で突撃した事例もあったらしい。攻撃時以外の使用例は少なく、散兵支援のためが1例、待機中の事例が3例、退却時の機動用が3例などにとどまった。

 方陣の事例は少ないうえに、時期も大半が1794年である。革命戦争の特に初期においてオーストリア軍の騎兵がかなりの活躍をしたことは知られているが、これはフランス側の騎兵が未熟だったことに加えて歩兵部隊も十分な対抗措置を有していなかったためであろう。騎兵に十分対抗できるようになるには時間がかかった。

 散開隊形については、まず誰がこの戦闘方法を担ったかが分析されている。散兵となるのは兵の中でも狙撃能力に優れた選ばれたエリートだったという説がある一方、未熟な兵士たちが大量の散兵となって戦ったという説明もある。Lynnは散開隊形が使用された73の事例のうち、どのような兵士が使われたかについて記されていた39の事例を調査した。うち31例では散兵用の特別な部隊が散兵戦に参加していたが、残る8例ではそれ以外の部隊が散兵戦に加わっていたという。通常は散兵用部隊が行うが、必要なら全部隊が散兵戦に加わるのが革命戦争時のフランス軍の戦い方だった。オンドスコートの戦いではフランス軍は全軍が散兵となって戦った。

 散開隊形の中でも、散兵が独自に戦った事例と、密集隊形を組んだ部隊を支援するために戦った事例とがある。前者は48例、後者は13例見つかった。前者の中にはほとんど日常的に行われていた哨戒線での小競り合いや、森や村など密集隊形では戦えない場所での戦闘などが主に含まれていた。それに対して後者は密集部隊の前進を散兵が掩護するという方法で、後のナポレオン戦争時に恒常的に使われるようになるものだった。ただ、この1792―94年時点での使用例は少なく、しかもその時期は大半が1793年秋以降に集中している。散開隊形と密集隊形を巧妙に組み合わせたフランス軍の戦術が、北方軍がフランドルの平原で戦っていたこの時期を淵源としていることが窺える。



――「背景」に戻る――

――ホームに戻る――