昇進



 「全ての兵たちの弾薬入れには元帥杖が入っている」。このプロパガンダはナポレオン時代によく使われたものだ。たとえ一介の兵士であっても、実力と運さえあれば元帥にまでなれる。野心のある若者を惹きつける魅力を持った組織が軍隊だ。革命期は全般に社会的流動性が高まった時代であるが、軍隊もまたそうした立身出世の希望を抱ける組織と見なされていた。

 旧制度の軍隊はどうだったのか。しばしば紹介されているのは、貴族ばかりが士官の地位を独占し平民はずっと兵士の地位にとどまって昇進する可能性はなかったという話だ。ただ、これはいささか物事を単純化し過ぎている。まず、貴族の中にも宮廷貴族と地方貴族の間には大きな違いがあった。大佐(連隊長クラス)より上に昇進できるのは宮廷貴族だけ。地方貴族は大半が尉官のままでキャリアを終え、ほんの一握りだけが軍務を終える最終段階で佐官になれたのだ。Samuel F. Scottの"From Yorktown to Valmy"によると、アメリカ独立戦争時に北米遠征をしたフランス軍士官たちの中で年配の地方貴族に占められていた中佐の平均年齢が44、5歳だったのに対し、宮廷貴族の職だった大佐は32、3歳だったという。

 逆に平民から士官になったものもいる。最も分かりやすい例が所謂「叩き上げ」タイプの士官だろう。彼らは通常は40代前半の下士官の中から選ばれ、日常的な管理業務に携わることが多かった。昇進してもせいぜい中尉くらいまでだったが、それでもこうした士官が革命前のフランス軍の全士官のうち一割ほどを占めていた。その他にも平民が士官になる様々な抜け穴があった。1781年に「4世代遡った貴族だけが士官になれる」という法律ができたのも、基本的には貧しい地方貴族たちが裕福な平民に士官の地位を奪われるのを妨げるためだ。

 革命が始まり、貴族の特権は失われた。一部の貴族が国外へ逃亡しはじめたため、士官の地位が手薄になった。少なくなった士官の地位を埋めたのは、軍事について経験を持つ旧制度時代の兵士たちだった。一介の兵士が成り上がって閣下と呼ばれる地位にまで上り詰める時代がやって来た。

 分かりやすい例として、第一帝政が始まった1804年に元帥に任じられた18人を見てみよう。彼らのうち元貴族はダヴーとセリュリエ、そして父親がルイ15世によって貴族に叙せられたベルティエなどごく少数である。大半は平民出身で、特に中産階級と見られる人物が多かった。革命なくして彼らが元帥の地位にまでたどり着くことはなかっただろう。

 実際に革命期の昇進システムを見ると、まず目立つのは兵士の互選による士官任命だ。1791年に全国で集められた「国民志願兵」は、それぞれの大隊内部で士官を選び出すのが通例だった。しばしば「声が大きく、平均より背が高く、目立つ髭を生やしている」人間が士官になることがあり、軍事的能力そのものが問われることは少なかったという。ただ、中には有能な者もいた。例えば常備軍を辞めさせられた後で志願兵大隊に入り、そこでいきなり中佐になったダヴー(常備軍時代は少尉)もその一人だ。

 また、有力者が自らの負担で志願兵部隊を編成する際に、士官の地位をエサに常備軍に所属する有名な兵士をヘッドハンティングすることもあった。怪力で知られたアレクサンドル・デュマ(三銃士の作者の父親)は単なる常備軍の伍長に過ぎなかったが、引き抜きにあっていきなり志願兵部隊の中佐になった。

 ただ、こうしたシステムはアマルガム法で志願兵部隊と常備軍の融合が進むと使われなくなり、士官への昇進は上官の判断によるようになった。その際に重要視されたのは、読み書きや計算、地図を読む能力、そして(写真が登場する前の時代だけあって)絵を描く能力も求められた。要するに、ある程度のレベルの教育を受けた者の方が有利なシステムに変わったのだ。当時のフランスの識字率は正確には不明だが、1830年時点で自分の名を書ける兵士が全体の52%を超えなかったと言われており、フランス革命当時きちんとした文章を読み書きできる者は少数派にとどまっていたと見られる。結果的に士官の地位はその多くが中流階級以上の出身者によって占められた。

 革命期のもう一つの特徴は、士官になってからの昇進速度が時代によって極端に異なることにある。特にフランスが危機にあった1793年から94年にかけては極端に早い昇進をする事例が多かった。革命前に素早い昇進ができるのは宮廷貴族だけだったが、革命後は生まれとは異なる理由で出世が決まった。政治的要因と、戦場での活躍だ。羽振りのいい政治家に気に入られた軍人が、前線勤務もなしに一気に出世の階段を駆け上がることもあったし、一方でボナパルトのように戦場での活躍によっていきなり三階級特進ということもあった。

 そして、当然のことながら、政治的任命で選ばれた将軍たちの中には役立たずも多かった。特にヴァンデの反乱鎮圧を命じられたレシェル、ロシニョール、ロンサンなどは、全く指揮能力に欠ける人物だったことが知られている。もっとも、同じヴァンデの戦場には実力を評価されてのし上がった連中(クレベール、マルソー、アクソなど)もいたため、反乱軍相手の戦争そのものには勝つことができた。

 志願兵という形で旧制度下の軍隊とは関連が薄い兵が大量に入ってきたにもかかわらず、結果的に革命軍で出世したのは常備軍で既に軍務に就いていた者がほとんどだった。Paddy Griffithの紹介している研究によると、過去の経歴が分かっている将軍1082人のうち894人は、当初から陸軍あるいは海軍での経歴を有していたという。そもそも、志願兵内部でも常備軍出身者が高い地位に就いていた。John A. Lynnによると1791年の志願兵部隊のうち兵士と下士官の大半は常備軍の経験を持っていなかったが、中隊クラスの指揮官のうち3分の1近く、そして大隊指揮官の3分の2は常備軍での従軍経験を有していた。1804年の元帥を見ても、革命前にまったく軍隊と関係を持っていなかったのはブリュヌ(新聞発行人)とモルティエ(繊維工場経営)くらい。1793年から94年は政治的な緊張下で慌しい昇進が行われた時代であったが、全般的に言えばプロフェッショナルが高い地位に就いたと言えるだろう。

 ただ、危機の時代が去った後は極端な昇進をする例も減った。危機の時代に将軍の地位に達した者たちの中には有能な者も多く、彼らが軍組織の上層部を握ってしまうと後から入り込む余地がほとんどなくなってしまったのだ。士官の年齢も上昇している。1794年当時、35歳以上の少尉は全体の25%に過ぎなかったが、1797年になると36%まで増えた。

 95年より後に迅速な出世をした軍人は、ボナパルトに気に入られた子飼いの部下たちくらいである。たとえば1795年にボナパルトの部下になったミュラは1796年に准将、99年に将軍となった。ランヌは1797年に准将、1800年に将軍、ベシエールは1800年に准将、1802年に将軍と出世。3人は揃って1804年に元帥の地位にたどり着いた。1793年に准将となったヴァンダンムが、それから将軍になるのに6年もかかり、遂に元帥にはなれなかったのに比べると、彼らの昇進の異常な早さがよく分かる。彼らはボナパルトが皇帝の地位に上り詰めるのに合わせるように出世の階段を駆け上っていった。



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