軍国主義



 軍国主義とは何か。広辞苑によると「国の政治・経済・法律・教育などの政策・組織を戦争のために準備し、軍備力による対外発展を重視し、戦争で国威を高めようとする立場。ミリタリズム」となる。これを引用した林信吾氏は「つまり、軍国『主義』とは言っても、特定の思想体系があるわけではなくて、国家システムの在り方の問題だ」としている。イデオロギーではなくシステム。それが軍国主義のメルクマールだという理解だろう。

 逆に言えば、どのような主義主張を持つ国家であっても、その国家が「軍備力による対外発展」を試みたり「戦争で国威を高めよう」としたならば、それは軍国主義国家と呼ばれることになる。革命期の共和制フランスもまた、そういう意味で言うなら「軍国主義」国家であろう。

 フランス革命戦争と軍国主義についてはT. C. W. Blanningが論じている。彼の議論によると1789年の革命騒ぎは、旧制度(アンシャン・レジーム)から支配の正統性だけでなく、「力の独占」まで奪い取ったという。王政を根っこのところで支えていたのは常備軍の持つ物理的な力(暴力)だった。だが、バスチーユ襲撃前後の常備軍は、決して国王に従って行動しようとはしなかった。むしろ、この時期に暴力を持って政治の動向に影響力を与えたのは、パリの民衆だった。いや、国王が「力の独占」を失っただけではない。ヴェルサイユ行進の際には「国民議会までが(民衆の)捕虜となった」。力の独占体制は崩れ、政治を動かすための正統な暴力の行使権が誰の手の内にあるか分からなくなった。

 そうした状況から政府が再び「力の独占」を取り戻したのは、Blanningによると1795年のヴァンデミエールのクーデターの際だという。この時、革命後初めてパリ民衆の暴動が軍隊によって鎮圧された。「正統な暴力」の空白状態を終わらせ、政治的な求心力を回復するには、軍隊の力が必要だったのだという。ここにフランスが軍国主義へと向かう路線が敷かれた。ヴァンデミエールで軍を指揮し、民衆に向けて砲弾を叩き込んだのは、ボナパルト将軍である。

 内政において軍隊の占める比重が増しただけではない。外交の分野でも軍隊の持つ意味は大きくなっていた。ロベスピエールはジロンド派内閣が戦争へ向かうのに反対した際に、戦争がやがて軍事独裁をもたらすことに気付いていたという。実際に1792年に始められた戦争はやがて独自のメカニズムでもって動くようになった。基本になったのは「戦争が戦争を養う」仕組みの完成とその拡大だ。

 Paddy Griffithは革命期の大量動員によって成り立った巨大な軍隊が、戦争を再生産する原因になったと見ている。あまりに数の多い軍を養うことができないフランス政府は、軍自身が自らを扶養することを求めた。つまり、「現地調達」という名の略奪をするよう仕向けたのだ。そのためには軍隊は国境外への侵攻を続けるしかなかった。国内で略奪はできないし、国外でも一定期間軍隊が駐留した場所はやがて経済的に力尽きて軍隊を養えなくなった。軍隊が存在し続けるためには、新たな戦争を立て続けに起こし、次々と戦場を拡大するより他になかったのだ。戦争を終わらせることは、財政の均衡維持のために軍隊の動員を解除することを意味しており、それは失業と国内の分裂と混乱につながることが明らかだった。

 戦争のために軍隊が必要になり、その軍隊が今度は戦争を必要とする。そうした循環に巻き込まれたフランスは「現地調達」ができる地域を求めてはるか彼方まで遠征し、挙句の果てにロシアの奥地まで出かけて行って力尽きた。ここでは戦争そのものが目的と化してしまうシステムの存在が窺える。

 政府の行動が戦争優先、軍事優先になるだけが「軍国主義」の特徴ではない。市井の人々の間で、戦争や軍事が高い価値を持つものと認識されることも軍国主義のメルクマールの一つだ。革命戦争期には兵士を「市民」の側に近づけようとする動きが多かったが、これがナポレオン戦争期になると軍隊に憧れる市民を大勢生み出すに至った。Elzéar Blazeの回想録には「19世紀初めごろ、若い者の脳裏には好戦的な考えが渦巻いていた。わが軍の不朽の功績は我々の心を熱くし意気上がらせていた」と記されている。ナポレオンがレジオンドヌール勲章を作り、特に軍人に対して名誉をばら撒いたのも分かりやすい事例だろう。

 ただ、戦争による国威発揚や、軍事的栄光の持つ高い価値といった傾向は、実は帝国主義時代の列強ほぼ全てに当てはまる傾向でもある。別にフランス革命から第一帝政に至るフランスのみに特徴的だったわけではない。軍国主義という言葉はいささか定義が広すぎ、曖昧すぎるのだ。革命後のフランスが軍国主義的だったと指摘しても、それがどれほど意味のある指摘なのかと言われると難しい。

 むしろ「極端な軍国主義」の実例と比較した方がいいかもしれない。究極の軍国主義ともいうべき事例と言えば、代表的なのは第二次世界大戦当時の日本や、第一次世界大戦末期のルーデンドルフ独裁期のドイツなどが上げられるだろう。双方に共通するのは、軍事的な目標達成のためにあらゆる手段が動員されている点にある。こうした国々ではもはや政治は軍事に隷属するものでしかなくなっている。

 クラウゼヴィッツはこう言った。「戦争は他の手段をもってする政治の延長である」と。彼にとっては政治こそが主役であり、戦争はそのための道具という位置付けになっている。だが、かつてのドイツや日本は違った。戦争こそが主役になり、政治は戦争のための道具に成り下がったのだ。手段が目的となった本末転倒の状況と言ってもいいだろう。これが「極端な軍国主義」と言われる状態だ。

 だとすると、フランス革命戦争期はともかく、ナポレオン戦争期は「極端な軍国主義」に当てはまるかもしれない。ナポレオンは対英戦争の手段の一つとして「ベルリン勅令」、つまり大陸封鎖令を打ち出した。だが、後に彼はその大陸封鎖令貫徹のためにスペインやロシアに攻め込んだ。手段でしかないはずの大陸封鎖令がいつの間にか目的となり、彼はその目的達成のために戦争を拡大した。まさに本末転倒である。

 もちろん、ナポレオン時代と例えば第二次大戦当時の日本との間には相違もある。アルフレート・ファークツによると「ミリタリズムは、軍事的方法の科学的性格を拒絶しつつ、階級(カースト)と儀式、権威と信仰という特質を示す」という。第二次大戦当時の日本では軍事的合理性とは無縁の作戦がしばしば展開されており、政治が軍事の道具となるだけでなく軍事作戦までもが軍の威信や権威を根拠に立案されるようになっていた。それに対し、ナポレオンは軍事的合理性の追及を忘却したことはない。ナポレオン帝国は20世紀の後継諸国ほどミリタリズム的ではなかったということになる。

 ただ、「極端な軍国主義」はいずれ体制崩壊に至るという点ではどちらも共通している。手段が目的と化してしまった状態は永遠には続かない。かつてそれを身をもって体現したのがナポレオンであり、20世紀にはドイツと日本がその後を追った。



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