マレンゴの親衛隊



 PBS Napoleonというホームページがある。動画データやナポレオン・スクリーンセーバーなどマニアにとっては非常にありがたいものを沢山掲載しているページだ。その動画データの中で、ワーテルローの戦いについてAlistair Horneという歴史家が以下のように述べている。

They were absolutely magnificent. He had nearly broken through the British line, but it was too late. The first time in the whole history of the Napoleonic wars the Guard was seen to falter and then eventually fall back, shouting "Sauve qui peut." "Every man for himself." And then the word ran through the army, "La Guarde recule," "The guard is retreating."

 有名な帝国親衛隊の攻撃の場面である。戦闘の最終局面でイギリス軍の戦線に向かって投入された親衛隊は、イギリス軍近衛部隊の反撃を受けて敗退した。Horneは「ナポレオン戦争の全歴史の中で初めて親衛隊が前進を躊躇い、そして最終的に退却した」と述べている。どの戦場でも最後の予備部隊としてとどまり、彼らが投入される時はフランス軍が勝つ時だと言われた親衛隊の退却により、ナポレオンの没落が決まった。

 ただ、親衛隊の歴史そのものは僅か10年少しで終わった第一帝政の歴史より長い。Digby Smithの"Napoleon's Regiments"によると親衛隊歩兵の中心であったGrenadiers à Piedの歴史は1789年6月20日に作られたGarde de l'Assemblée Nationaleに遡るという。この部隊は1792年9月30日にGrenadiers de la Gendarmerieとなり、1795年7月にはGrenadier de la Convention大隊に、同年11月1日にはGarde du Directoireになった。執政親衛隊(Garde Consulaire)になったのはナポレオンがクーデターによって政権を握った後、1799年11月28日であり、これが帝国親衛隊となったのは1804年5月10日だった。

 問題は、ナポレオンが行った全戦争(皇帝になる前も含む)の中で親衛隊が退却したのはワーテルローが初めてかどうかである。実はこれが少々怪しい。最も問題となるのは1800年6月14日に行われたマレンゴの戦い。オーストリア軍とフランス軍が北イタリアの覇権を巡って争ったこの戦闘における親衛隊の戦いぶりについては、実は様々な説がある。

 まず最初に長塚隆二氏の著書「ナポレオン」から関連の場面を拾ってみよう。

「執政府親衛隊の擲弾兵がサン・ジュリアーノの広大な平野の真ん中に、花崗岩の角面堡さながらに布陣していた」(六月十五日付『予備軍公報』)

 長塚氏は予備軍公報(後の大陸軍公報)から文章を引用しているが、この公報について彼は別の場所で「公報は『戦争文学のすばらしい傑作の一部』(マドラン)にはちがいないが、事実を正しく伝えているかどうかは疑問がある。ナポレオン自身も『公報は歴史ではない』と、断言してはばからなかったのである」と述べている。

 しかし、この公報と同じく、親衛隊は退却するフランス軍の中で頑強に抵抗したという話を紹介している書物は多い。例えばVincent J. EspositoとJohn R. Eltingの"A Military History and Atlas of the Napoleonic Wars"には以下のような文章がある。

The Consular Guard infantry had also advanced, supported by remnants of Champeaux's cavalry. Forming square southwest of Villanova, it repulsed several charges by Ott's cavalry. Ott met this check by concentrating infantry and artillery against two faces of the square. Frimont supported his attack. After a game half-hour stand, losing 260 men out of 800, the Guard had to retire.

「ヴィラノヴァの南西で執政親衛隊は方陣を組み、オット(オーストリアの将軍)の騎兵部隊の突撃を何度も跳ね返した」「半時間の抵抗の後、800人の部隊のうち260人を失った親衛隊は後退した」と彼らは書いている。あたかもその場に止まって抵抗し続けたかのように書かれている公報に比べれば控えめだが、それでもここに描かれた親衛隊は頑強に戦ったうえで最後にやむなく下がったように見える。同様の表現はThe Gamers社が出しているシミュレーションゲーム"Marengo"のHistorical Notesにもある。

Napoleon, who had just arrived on the field, was forced to commit his Consular Guard to slow Ott's pursuit. The Guard (a mere 800 men) formed square and stood off Elsnitz's cavalry. Then they slowly retired in the face of enemy infantry and cavalry. In doing so they allowed the French to reform around Giuliano Vecchio.

「親衛隊はオーストリア軍の騎兵相手に戦いながらゆっくりと後退し、他のフランス軍がジュリアーノ=ヴェッキオで再編する時間を稼いだ」のだそうだ。ここでの親衛隊も敵の歩兵と騎兵の攻撃を受けながら混乱することなくゆっくりと後退している。フランス軍の全軍が後ろへ下がる危機的な状況の中で、親衛隊は言わば殿の役目を立派に務めたのだ。

 歴史群像シリーズ「ナポレオン戦争編」の特別付録に載っている河村啓之氏の説明も、そうした解釈から大きく外れるものではないだろう。

「執政親衛隊の抵抗空しく、午後3時にはサン・ジュリアーノへ後退した」

 親衛隊は頑張ったのだが、それだけで戦闘の流れは変えられなかった。戦局を大きく動かしたのはドゼー率いるフランス軍の増援到着だった。マレンゴの戦いについてはそういう理解をする人が多い。

 だが、全ての著者がそう断言している訳ではない。何しろ「親衛隊の活躍」を裏付ける元ネタが公報であるだけに、もう少し慎重な言い回しをする人もいる。David G. Chandlerは"The Campaigns of Napoleon"の中で以下のように述べている。

The Guard advanced in a square formation in the face of ferocious enemy fire which decimated the ranks, but their intervention temporarily eased the pressure on Watrin and gave Monnier time to deploy his men on the extreme right.

「敵の砲火の中へ前進した親衛隊は多くの損害を出した」。Chandlerが親衛隊について触れたのはそれだけである。もっとも、彼は親衛隊が退却したことも書いていない。味方の再配置を助けたとあるので、これを読む限りでは親衛隊はそれなりに役目を果たしたとも考えられる。

 しかしながら、中には親衛隊の活躍ぶりについてはっきりと疑問を呈する向きもある。J・P・ベルトは「ナポレオン年代記」の中でマレンゴの戦いについて以下のように触れている。

「11時に、ボナパルトは統領親衛隊を率いてオットー将軍の軍勢を背後から攻撃するための移動を行った。多くの死傷者を残し、親衛隊は退却した」

 短い文章に過ぎないが、ここの親衛隊は決して「活躍」や「抵抗」していない。単に大きな損害を出して後退したとしか説明されていないのだ。もっと過激なことを書いているのがDavid Hollinsの"Marengo 1800"である。

As they formed into line, the Guard were in a precarious position... The cumulative effect was to leave the Guard without support, separated from Lannes by a 500-meter gap in the French line... Suddenly, Oberst Frimont, a former Hussar, saw his opportunity and led his men charging north into the Guard. Slashing their way into the left rear, the flood of Dragoons and Jaeger zu Pferd, overwhelmed Bonaparte's elite infantry... About a hundred guardsmen on the right followed the flag carried by Grenadier Aune to make their escape in a small clump.

 他の著者が軒並み「方陣を組んでいた」としているのに対し、彼は親衛隊の隊形が「横隊」だったと説明している。横隊は白兵戦に弱い。背後から騎兵の攻撃を受けた親衛隊は壊滅し、僅か100人がかろうじて逃げ出した。Hollinsは"The Guard destroyed"と表現し、さらに以下のように述べている。

Thrown forward by Napoleon in a last bid to stabilise the French right, the Guard were outgunned by the smaller IR51 Splenyi for 15 minutes and then crushed by Frimont's four squardrons. Over four hundred were taken prisoner and the four guns dismounted; emigres in the Bussy Jaeger zu Pfend joyfully scooped up trophies and fired on the small group who escaped east around the flag.

 親衛隊900人のうち400人以上、つまり半数近くが捕虜になった。EspositoとEltingの書いている「損害260人」に比べると随分と数字が違う。彼は「親衛隊は大敗北を喫した」と指摘しているのだ。

 なぜこんなことになるのか。War Time Journalの特集記事"Marengo Revisited"には以下のような指摘がある。

Most accounts from this period indicate that the French Consular Guard infantry conducted a rearguard action against heavy odds, suffering substantial (but not crippling) casualties in the process. At least one Austrian secondary source dating from 1823 claims the actual destruction of the Consular Guard infantry at the hands of Austrian cavalry.

 オーストリア側の二次資料(1823年に書かれたもの)の中に執政親衛隊の壊滅について触れたものがあるというのだ。その資料について、及び他の状況証拠についてどう判断するかで、マレンゴで何が起きたかについて書かれた本の間にこれだけの差が生じてしまうのだろう。

 もっとも親切なのは両論を併記しているアントニーノ・ロンコの「ナポレオン秘史」だ。彼はまずフランス側の言い分として、歴史家ティエールの文章を紹介している。

「ナポレオン親衛隊は騎兵隊の突撃でもこれを追い払うことができなかったため、大砲の発射で攻撃された。壁のようにそれに突破口を開けようとして、この親衛隊に対して、フリモンの騎兵が投入された。親衛隊はかなりの損失を蒙り、退却するが、粉砕されはしなかった」

 そしてコワニェの書いた回想録にも触れている。

「発砲を繰り返したために、銃身の中に薬包を通すことももはや不可能だった。銃身のかすを取り去るために内部に放尿しなければならなかったし、それを乾かすためには、火薬を詰め込まずにそれをそこで燃やさねばならなかった。われわれは発砲を開始しながら、整然と退却した。薬包が不足しにかかったとき、布袋の中に薬包を詰め込んだ八百名を引き連れて、親衛隊が到着した。彼らはわれわれの横列の後ろに回り、弾薬を補給してくれた。これでわれわれの生命は救われた……」

 一方、オーストリア側の言い分については「公式報告書」からの引用として以下のような話を掲載している。

「敵も隊形を整えていた。射撃は連続したが、勝利がどちら側にあるのかはまだまったく予見できなかった。突如フリモン連隊長が到着し、電光石火のごとく親衛隊の背後に移動し、その瞬間までマレンゴ側の主要縦隊の近くにいた、四隊の軽騎兵の先頭で親衛隊に攻撃した。親衛隊は押し返され、親衛隊を形成していた兵士たちはほとんどすべて殺されるか、捕虜となり、大砲は捕獲された」

 同様に双方の言い分を載せている(フランス寄りの記述の方が比重が高いが)のが、James R. Arnoldの"Marengo and Hohenlinden"だ。そこでは執政親衛隊がオーストリア軍竜騎兵の攻撃を撃退したとか、公報に述べられている「花崗岩の角面堡」という言葉などを紹介しつつ、一方でオーストリアのフリモントの活躍にも触れている。

Then, the energetic Oberst Frimont, who had begun the day by leading the advance guard against Victor's outposts, led a cavalry charge against the flank of the Consular Guard. Frimont's four squardrons tipped the balance.

 フリモント大佐率いる騎兵が執政親衛隊に側面から突撃をかけ、均衡していた戦況をオーストリア側優位に傾けたというのだ。

 要するにマレンゴにおける親衛隊の動向については、フランス軍側を中心とした見方と、オーストリア軍側が主張する説とが対立していると考えればいいだろう。一次史料を巡る解釈の問題が、こうした差異を生んでいる。

 マレンゴの戦いはナポレオン時代に山ほどあった戦闘の中の一つに過ぎない。まして、その中で親衛隊が関わったのは時間的にも空間的にもほんの僅かだ。なのに、その「僅か」の間に何が起きたのかについて、「花崗岩のような抵抗」から「壊滅」まで様々な意見がある。歴史というものは、ことほど左様に難しい。



マレンゴの戦い(1800年6月14日)



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