戦争の形態―コルドンシステム



 しばしば18世紀の戦争の特徴は「コルドンシステム」という言葉で表現される。ただし、この言葉は複数の意味を含めて言われることも多い。欧州では特に18世紀と19世紀の間で戦争のやり方が大きく変わったという認識が強く存在するのだが、具体的に戦争のどの側面が大きく変わったのかという点では様々な見方がある。

 一般にコルドンシステムとは、できるだけ幅広く部隊を展開して敵の反撃がどこから来ても対応できるようにするほか、要塞などの拠点を確実に手中に収めることを重視する戦争のやり方を指す。前進する時も防御に当たる時も、相手に背後に回りこまれないよう広く部隊を展開する。また、進撃の際には側面や後方に要塞など敵の拠点を残さないようにするのが普通である。つまり、コルドンシステムを採用した場合、戦争とは相次ぐ要塞攻撃を意味する。

 一つ一つ丹念に要塞を潰すため、部隊の動きは遅い。そうでなくても部隊を幅広に展開するため、そうした部隊を効率よく前進させるのは困難なことが多い。結果としてコルドンシステムとはしばしば動きの遅い作戦計画を皮肉った名称となる。慎重ではあるが、慎重すぎて十分な成果をあげることができない戦争の総称として使われるのだ。

 実際、そういう意味でのコルドンシステムは18世紀最後の戦争であるフランス革命戦争でも使われていた。1793年にフランドルへ攻め込んだ連合軍は、フランドルにある要塞全てが陥落するまで前進を止めたし、逆に1794年にはフランス軍がやはり要塞落としにこだわって部隊の前進を遅らせた。部隊が異常なほど広範囲に散らばる現象もしばしば見られる。1793年から94年の冬にかけてフランドル地方に展開した連合軍は、ムーズ河から海までの広い範囲全体に部隊を散らばらせた。1799年に連合軍の攻撃を受けたフランスのイタリア方面軍もアッダ河沿い120キロメートルの広い範囲に部隊を散開させた。これほど広く散らばった部隊が素早く移動するのは不可能で、この戦いでも逃げ遅れたフランス軍1個師団が捕虜となっている。

 だが、両軍が同じコルドンシステムに則って活動している限り、このシステムそのものの弱点は見えてこない。コルドンシステムという言葉が批判的な意味を内在させるようになったのは、無意味に広く散開した敵を、逆に部隊の集中によって打ち破った人物が登場したためである。その人物の名はナポレオン・ボナパルトという。彼は第一次イタリア遠征で、しばしば連合軍が幅広く展開した戦線の一部に部隊を集結させ、そこを突破して勝利を収めている。モンテノッテやボルゲットーの戦いはコルドンシステムを打ち砕く模範例と言っていい。

 ナポレオンの才能だけでなく、フランス革命によって動員された大軍がコルドンシステムを打ち破る要因になったとの見方もある。マーチン・ヴァン・クレヴェルトはナポレオンについて「指揮下にある軍隊が大規模だったために、包囲戦をやらなくて済んだ」と指摘している。コルドンシステムを支えるうえではヴォーバンによって作り上げられた要塞群が重要な役目を果たしていたが、ナポレオンが率いた軍隊は「城塞一ヵ所――必要ならば一ヵ所以上――を包囲し、かつ前進を続けるに十分な規模だった」ためこうした要塞群を無視して敵の野戦軍との決戦に集中することができた。

 自軍の側面や背後を異常に気にするという点で、コルドンシステムの特徴を「Wars of Position」と表現する向きもある。戦闘を中心とした戦争ではなく、あくまで互いの位置取りが重要視される戦争。有利な位置を占めればそれだけで戦争に勝てる、血腥い戦闘はほとんど生じない戦争。クラウゼヴィッツはそうした戦争を様々な外部要因に規定される限定的な戦争と解釈し、より戦争の実相に近い「絶対戦争」とは異なるものだと考えた。クラウゼヴィッツにとって戦争のより純粋な形はあくまで両軍の決闘によって決着がつくもので、位置取り戦争はいわば不純な戦争だった。つまり、コルドンシステムとは敵軍の殲滅を目標としない戦争なのだ。そして、18世紀的戦争を覆したナポレオンは、絶えず敵軍主力のみを目的として戦争を行った。

 そうしたクラウゼヴィッツの考えに反対したのがリデル・ハートである。彼はコルドンシステム、つまり位置取り戦争を「間接アプローチ」と表現し、敵軍との決闘を重視する絶対戦争を「直接アプローチ」と呼んで戦争遂行のうえではより拙劣な手段だと指摘した。ここでは位置取り戦争はプラスの価値をもって語られている(以上の説明はかなり省略し簡略化したものであり、クラウゼヴィッツもリデル・ハートも実際の論旨はより複雑である。興味のある方は両者の著書に当たっていただきたい)。

 コルドンシステムの制度的な面に着目しているのはロバート・エプスタインである。彼は著書の中でコルドンシステムと表現される18世紀の戦争について、最大の特徴を集権的な軍制度にあると解釈した。18世紀の軍隊では一人の将軍が数万人の部隊を完全に己の独裁下に置いていた。スペイン継承戦争のマールバラ公などはまさにそうだろう。当時の軍隊は数十の連隊がかき集められた組織で、その全てに指揮官が目を光らせていた。

 このシステムに変化がもたらされたのは18世紀後半である。フランス軍は複数の連隊をまとめた常設の師団を作り、指揮官と各連隊の間に中間管理職を置くようにした。しかも、各師団はしばしば個別に活動する権限を与えられた。全てを指揮官が司っていた集権的制度がここで分権化したのだ。指揮官は彼ら中間管理職に対し自らの戦争技術をドクトリンとして伝え、彼らが一定の行動原理に従いつつ個別に判断できるようにした。最初にこの仕組みを実際の戦場で使いこなしたのはフランスのブールセである。

 つまりエプスタインによれば、コルドンシステムの最大の特徴は、指揮官の集権的指揮の下に一まとまりとなって動くことしかできない軍の制度にある。逆に言えばコルドンシステムを克服した19世紀の戦争を最も特徴づけるのは、軍制度の分権化をもたらした軍団システムである。モローが1796年に試験的に採用し、ナポレオンが権力者になって本格的に導入した軍団制度は、より集権的つまり融通のきかない動きしかできない連合軍を圧倒した。連合軍がナポレオンに対抗できるようになったのは、彼らもまた軍団制度を導入した後である。エプスタインはフランス軍とその敵の両方が軍団制を採用して戦った1809年の戦争を近代戦争の始まりと位置付けている。

 コルドンシステム最大の特徴が何かという点は別にして、フランス革命戦争がまだコルドンシステムの多大な影響下に行われた戦争であるのは間違いない。すでにコルドンシステムを覆すような手法はいくつか生まれていたが、それを大規模に実践できたのはナポレオン・ボナパルトだけだった。その意味ではフランス革命戦争は過渡期の戦争である。すでに国家総動員は実現し、ナショナリズムのもたらす熱狂も戦争を彩る特徴の一つになっていた。だが、国民戦争が容易に大量死につながることが明らかになるには、ナポレオンによるコルドンシステム抹殺が必要だった。



――「背景」に戻る――

――ホームに戻る――