戦争の形態―横隊戦術から混合隊形へ



 かつて戦場にいた兵隊たちは、密集するのが当たり前であった。人類の長い歴史を見ても、軍隊というのは敵を前に味方同士で寄り集まっていた時代が大半を占めている。古くはペルシャ軍を相手に戦ったギリシャ兵から、新しいところでは20世紀に入っても、兵士たちはしばしば味方と肩が触れ合うほどの距離を保って戦場の狂気に耐えようとした。

 密集隊形が好まれた理由の一つとして、情報伝達が簡単な点があげられる。今では近代科学技術の発達により有線無線それぞれを使って遠距離にいる者と連絡を取ることが可能になった。だが、19世紀中ごろまでは、人間の持つ連絡手段は自らの声と紙に記した文章が中心だったのだ。戦場で上官の意思を部下に伝えるには、味方部隊の陥っている状況をすばやく指揮官に知らせるには、そうした限られた手立てを使うより他に方法がなかった。

 部隊を密集させておけば、彼らと連絡を取るのが極めて簡単になる。もし部隊がだだっ広い範囲に散開していたらどうなるか。数千人、数万人単位の人間が何の脈絡もなく散らばっている時、彼らを有機的に動かして戦闘に勝利を収めるのは不可能だ。密集した兵隊たちを、それもできれば秩序だった隊形を維持した兵隊たちを。昔から軍人の多くはそうした軍隊を求め、兵をそのように訓練してきた。

 だが、密集した隊形が好まれた最大の理由は、「昔からそれが行われてきたためだ」という説もある。具体的なメリットというより、欧州の長い伝統こそが密集隊形を採用する理由になっていたというのだ。実際、連絡手段が発達し、小火器の火力が増して密集隊形を取るメリットが失われていった19世紀後半以降になっても、なお密集隊形は生き延びていた。さすがに第一次大戦で戦場からは姿を消したが、今でも演習場などでは密集隊形が採用されている。

 18世紀はそうした隊形の中でも特に横隊が重視された時代だ。深さ3列程度で、横に細長く伸びたこの隊形は、17世紀のグスタフ=アドルフのころから広く使われるようになり、18世紀に欧州ではほぼ完成を見た。特にプロイセンのフリードリヒ2世が率いた軍はこの完成形態のように思われていたし、軍事大国プロイセンの持つ伝統への尊敬故にフランス革命戦争の時代になっても横隊戦術は広く欧州各国で使用され続けていた。

 横に広く伸びた隊形にはメリットもあればデメリットもある。まず、横隊の方が歩兵の持つ武器であるマスケット銃の威力を最大限に発揮できる。当時のマスケット銃は極めて命中精度の低い武器だったが、そういうものでも横に広がった部隊が一斉に射撃をすればかなりのダメージを相手に与えることが可能だった。精度より量を重視するなら、この隊形の方が望ましかったのだ。また、大砲による損害を抑える効果もあったという。深さ3列の部隊に砲弾を撃ちこんでも、その砲弾が巻き込んで損害を与えられる人数は少ない。もし単純に人間が密集しているところへ大砲を撃てば、転がる砲弾が多くの人間をなぎ倒していく。しかし、横隊の場合、数人なぎ倒した段階で砲弾の効果はなくなる。

 もちろん、デメリットもある。非常に細長く伸びた部隊が動き回るため、地形その他の要因ですぐに移動力が低下してしまうのだ。いや、移動しながら隊形を維持することすら、実際にはかなり難しかったと思われる。高度な訓練を積んだ部隊であって初めて可能な隊形が横隊だ。

 絶対王政の時代に横隊戦術は極めて有用なものだった。国王が私費を投じて賄っていた当時の常備軍では、兵隊とは即ち国王の私的財産だった。この兵隊たちは高いレベルの訓練を受けており、横隊で戦うためのノウハウはすべてその体に叩き込んでいた。もちろん、それだけの訓練を施すにはかなりの時間がかかる。国王にとって、時間と労力と資金をつぎ込んだ兵隊たちは、いくら戦争だからといって簡単に消耗していいようなものではなかった。その意味でも、人情も手加減もなしに人を殺す砲弾の威力を減殺できる横隊が好まれた。

 しかし、隊形を崩して完全に部隊を散開させるのは好まれなかった。情報伝達手段の問題だけでなく、兵隊の質もその理由になった。絶対王政の兵士たちとは、犯罪者だったり力ずくで軍隊に取られたりした人間たちから成り立っていた。志願して軍に入った連中の中にも、機会があれば脱走して別の軍に入り、契約金をせしめようと考えている者がいた。彼らを散開させ自由に行動させれば、多くの兵士がすぐに脱走すると思われていたのだ。国王の財産を守るためには隊形を維持して規律を保ち、部隊を集権的にコントロールする必要があった。密集しすぎてもダメ、散開しすぎてもダメ。この両方のニーズに対応できる隊形が横隊だった。

 絶対王政の下で花開いた横隊戦術だったが、必ずしも横隊一本槍だったわけではない。既に18世紀の中ごろには、より一層兵士を散開させる散兵戦術が登場していた。最初はオーストリア軍の軍政国境地帯の兵たちが使ったこのやり方は、やがて欧州の諸列強にもゆっくりと広がっていく。しかし、この散兵戦術が決定的な意味を持つようになってきたのはアメリカ独立戦争だった。まともな訓練を受けていないが戦意は高い民兵たちが好んだのが、自らの判断で動き、必要なら物影に隠れて相手を撃つ散兵戦術だった。そして、横隊戦術のプロフェッショナルであるイギリス軍がこの民兵たちに敗北したことが、欧州にも大きな影響を与えた。

 フランス革命戦争においても散兵戦術はしばしば採用された。祖国を守る熱意溢れた兵隊たちは、むりに隊形に縛り付けなくても脱走することはない。むしろ、彼らの積極性を戦場で活用した方がいいとの判断から、フランス軍は積極的に散兵戦術を採用するようになった。他国にも散開して戦う兵隊はいた。だが、フランス軍はどの列強よりも大規模な散兵を投入できた。君主の軍隊でなく国民の軍隊だったからこそ可能な戦法だった。

 横隊が持つ移動の困難を解決しようとする試みも、革命以前から行われていた。18世紀の軍事理論家ギベールが唱えたのが、戦場での移動の際には縦隊(縦隊と言っても縦に細長い形ではなく、横長の長方形をイメージした方がいい)を採用し、敵の隊列に近づいたところで横隊に組みなおして射撃や突撃を行うという手法だ。このやり方は1791年の歩兵操典で採用され、その後もフランス軍の基本的な戦術としてナポレオン戦争以降まで使われた。

 もっとも、訓練不十分な兵士が多かった革命フランス軍にとっては、この柔軟な隊形変換が必要な戦術は現実には対応が難しいものだった。常備軍の兵士と1年近い訓練を受けていた1791年の志願兵が主体となっていた1792年の戦闘ではこの戦術が採用されたが、1793年から94年にかけて総動員による大量の兵士が流れ込んできた段階ではこのやり方は困難だった。Gunther E. Rothenbergの"The Art of Warfare in the Age of Napoleon"によると、この時期には縦隊のまま隊形変換をせずに攻撃を行う方法や、全ての兵士が散開して戦うといったあまり訓練を受けていない兵士にも可能な戦術が採用されていたという。

 しばしば横隊は射撃戦用の、縦隊は白兵戦用の隊形と見られているようだが、現実にはそうでもなかったようだ。横隊は射撃や白兵戦用、縦隊は移動及び横隊の採用が困難な場所(集落内など)での戦闘用に使われていたという。後のナポレオン戦争時代になると縦隊のまま前進していく例が見られたが、これも砲撃と散兵部隊の射撃で敵を動揺させたうえでの攻撃であり、実際には白兵戦に入る前に敵が退却する事例が大半。実際に兵同士が正面から銃剣を振るって戦う場面などほとんど存在しなかった。

 やがて長引く戦争の中で革命フランス軍は次第に訓練不足の部隊ではなく実戦で鍛えられたプロフェッショナルの軍隊へと変貌していく。それに伴い、フランス軍は散開と密集を組み合わせ、柔軟な隊形変換を要する戦術を使いこなしていくようになる。一般に「混合隊形」と呼ばれるこのやり方は、複数の部隊がそれぞれ横隊と縦隊を組みながら前進し、その前面を多数の散兵がカバーするという方法を取った。散兵の機能を生かしつつ、横隊と縦隊を臨機応変に組み替えながら状況に応じて適切な隊形を取るこの手法によって、フランス軍は全ヨーロッパを席巻するのである。



――「背景」に戻る――

――ホームに戻る――