フランス革命戦争の経過



 「フランス革命戦争」というのがどの時期を指すのかについては複数の見方がある。戦争が始まった時期については、フランスがオーストリアに宣戦布告した1792年4月20日であることに異論を唱える人はいない。だが、終わった時期はどう考えられるのか。

 1797年10月17日まで、というのが最も期間の短い説だ。フランスとオーストリアの間にカンポ=フォルミオ条約が結ばれたこの日をもって革命戦争が終わる。この時期は所謂第一次対仏大同盟の時期とも重なっているのだが、少し問題なのはこの1797年時点でまだイギリスはフランスと戦争を続けている点だ。また、この時点で革命戦争が終わりとなると、それ以降の戦いは「ナポレオン戦争」と呼ばれることになるのだろうが、ナポレオン・ボナパルトはこの時点ではまだフランス共和国の一将軍に過ぎない。彼の名前を冠するにはまだ実力不足だろう。

 そこで、フランス革命戦争の終了時期を1799年11月9日まで遅らせる考え方が出てくる。ボナパルトがブリュメールのクーデターで政権を握るその時までだ。この考え方の背景には、ボナパルトの政権奪取と統領政府の成立によって革命は終わったとする歴史認識がある。革命が終わった以上、革命戦争も終わり。これ以後ヨーロッパで行われた戦争はすべてナポレオン戦争になる。確かに、筋は通っているように見える。だが、この解釈はフランスの視点でしか物事を見ていない。イギリスもオーストリアも、ブリューメルのクーデター前後で違う国と戦っていたつもりはないだろう。

 最も遅い時期まで引き延ばすなら、1802年3月27日。アミアン条約で英仏間の戦争が(一時的に)終了した時点がフランス革命戦争の終わった時となる。この条約によって1792年から生じていた欧州列強の間の戦争状態が全て終わりを告げた。当サイトでは10年に及ぶ戦乱の時代がようやく終止符を打ったこの時をもって革命戦争終了とみなす。従って、このサイトで取り扱う戦争は1792年から1802年までのものに限っている。

 では、この革命戦争はどのような推移をたどったのだろうか。詳しくは詳細版を見ていただきたいが、ここでは簡単な経過を説明しておく。

 第一次対仏大同盟

 革命戦争は大きく2つの時期に分けられる。それぞれ「第一次対仏大同盟」と「第二次対仏大同盟」の戦争と呼ぶことができるだろう。複数の列強が対フランス同盟を結び、実際にフランスと戦争を交えている状態を、歴史上では「対仏大同盟」と呼んでいる。数え方にもよるが、最終的に対仏大同盟はナポレオンがセント=ヘレナに流されるまで7回に渡って結成された。

 第一次対仏大同盟の成立は、正式に言えば1793年のイギリス・スペイン参戦時点になるだろう。だが、一般的には1792年時点から第一次対仏大同盟の戦争がはじまっていたとみなされる。この戦争は1797年にカンポ=フォルミオ条約でオーストリアが戦線離脱するまで続いた。

 対仏同盟に参加している国だけを見るなら、第一次対仏大同盟は3つの時期に分割できる。プロイセンとオーストリアがフランスと戦っていた1792年。これにイギリス、スペインなどが参加して欧州のかなりの国々が戦争に巻き込まれた1793年から94年。プロイセンとスペインが単独講和を結んで戦線から離脱した1795年以降。

 戦場の状況に焦点を絞るなら、両陣営が一進一退を繰り返した94年半ばまでと、一方的にフランス軍が攻勢に出たそれ以降とに分けられる。このうち前半をさらに詳しく見れば、まず1792年秋に連合軍の攻撃があるが、これはヴァルミーの戦いで頓挫。同年晩秋からフランス軍の前進が始まる。だが、1793年春からは再び連合軍が攻勢に。フランスがこれを食い止めたのは同年秋で、逆襲に出たのは1794年からだ。94年半ば以降の後半部は基本的にフランスが一方的に押し、連合軍は機会をとらえて反撃するのが精一杯だった。最終的に戦争を終わらせたのは、イタリアを席巻しウィーンへ迫ったボナパルト将軍である。

 第二次対仏大同盟

 革命戦争第二部ともいうべきこの戦争は1798年から1801年まで(1802年は和平交渉が中心で戦闘はほとんどなかった)。第二次対仏大同盟の成立は1799年と考えた方が正確かもしれないが、一応1798年からと理解した方が分かりやすい。

 さらに中身を細かく見るなら、1年ごとに理解した方がいいだろう。1798年はボナパルトによるエジプト遠征が中心であり、戦争より対仏大同盟成立に向けた政治的活動が焦点だった。1799年は連合軍による攻勢の時期。フランスの危機に応じてボナパルトがクーデターを起こしたのはこの年の暮れだ。1800年はフランスの反撃の時期。1801年はやはりエジプトで戦争が続いていたものの、基本的に和平に向けた模索の時期となる。

 要するにフランス革命戦争とは、欧州諸列強を相手にフランスが軍事的に押しまくった戦争である。アミアン条約が成立した時点で欧州でのフランス領土は歴史上かつてなかったほどに拡大し、しかもオランダ、スイス、イタリアに衛星国家まで従えていた。フランスに勝利をもたらしたのはボナパルトの天才だけではない。むしろ、戦場の勝利を根底で支えていたのは、欧州諸列強の軍勢全体をいとも簡単に凌駕したフランス軍の「数」であり、その数を提供した国民のナショナリズムであろう。

 フランスの戦争はこれで終わりではなかった。1803年には早くも戦争が再開され、フランスは10年以上を費やして革命戦争時代に得たものを全て失う。



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