1793年10月15−16日
ワッチニー





ワッチニーのジュールダン


「時ニジュールダン代テ北軍ノ司令官トナリコブール公トワッチギーニ戰テ關係ノ重大ナル勝利ヲ得且ツモーブージュヲ圍メル敵兵ヲ追攘ヒシカハ北境ニアル佛國兵ハ今ハ防戰兵タルヲ兔レテ再ヒ舊ノ如ク攻撃兵トナル事ヲ得タリ」
近代デジタルライブラリー フランソア・ミギヱー「佛國革命史」p494


 1793年秋、フランス北部では連合軍とフランス軍が一進一退の攻防を続けていた。フランスはヴァレンシエンヌ、コンデ、ケノワといった国境付近の要塞を失ったが、一方でオンドスコートでは連合軍の攻撃を撃退するのに成功していた。冬が来るまでにはまだ間がある。両軍の次の争点になったのはモーブージュだった。
 連合軍の指揮官ザクセン=コーブルク公はモーブージュを包囲し、配下のクレアファイトがその南方に防衛線を敷いた。これに反撃を試みたのはジュールダン率いるフランス北方軍であり、そこには派遣議員としてパリからやって来たラザール・カルノーの姿もあった。
 戦闘の焦点となったのは連合軍防衛線の左翼(フランス軍側から見ると右翼)にあったワッチニーの村だった。10月15日、フランス軍はクレアファイトの全防衛線に圧力をかけたが、オーストリア軍の抵抗で攻撃は失敗に終わった。事態の打開を図るため、フランス軍はその夜、作戦計画の変更に踏み切った。

「10月15−16日の夜、カルノーとジュールダンは基本計画を変えた。15日にフランス軍はオーストリア軍全戦線を攻撃した。16日にはジュールダンの軍の大半をオーストリア軍の左翼に集中させることになった。数で圧倒されながらオーストリア軍は巧妙に激しく戦ったが、2度の失敗した攻撃の後で3度目の攻撃はオーストリア軍を押し流した」
John A. Lynn "The Bayonets of the Republic" p14

「こうした絶望的状況が、カルノーに、ジュールダンに、天の啓示を与えた。彼らはとほうもないことをやってのけた。四万五千の兵力のうち、二万四千をひきい、それを左翼[註]へ投入したのだ。中央と右翼とには弱体の戦列を残しておく。ここは撃破されること、必定である。もっとも、中央と右翼とは犠牲にはされたが、行動は行う。ごく穏やかな行動をおこす予定だ」
ジュール・ミシュレ「フランス革命史」(世界の名著48)p388

(註:ミシュレは終始、ワッチニーが左翼にあると間違った記述をしている)

 広い範囲で行う攻撃を諦め、ワッチニー村に集中的に戦力を投入する。この作戦が功を奏し、連合軍はモーブージュの包囲を解いて退却した。フランスは守られ、翌年になると総動員令によって戦場に現れた兵士たちが連合軍を国境のはるか彼方まで押し返した。

 戦争の流れを変えたワッチニーの戦い。特に重要だったのは15日夜に行われた作戦計画の変更であり、派遣議員のカルノーがそこで大きな役割を果たしたとの説明は多い。

「ジュールダンとカルノーはただちにモーブージュへ進み、十月十五日に攻撃を命じた、これはフランス中央軍が敵軍を砲撃している間に、両翼から包囲する攻撃であった。帝国軍は第一日はよく頑張った。夜中のうちにカルノーは七千人を左翼から右翼へうつし、翌日未明に、この右翼の増強軍でヴァッチニー村に攻撃を再開した。彼自身もジュールダンとともに攻撃部隊の先頭にたった。ヴァッチニーは、とったり、とられたりしたが、さいごにフランス軍の手に確保された。十六日午後コーブルクは、二千二百人をうしなった後に退却を命じた。こうしてモーブージュは解放された」
アルベール・マチエ「フランス大革命(下)」p104

「10月8日にカルノーはギュイーズでジュールダンと合流し、15日朝にジュールダンはオーストリア軍の側面を攻撃した。同日夕、カルノーは作戦会議を開き、そこでフランス軍の左翼と中央を弱めて右翼に攻撃を集中することが決定された。ジュールダンの兵は10月16日早朝から移動した。森が多く生垣が張り巡らされたその地域は濃い霧に覆われ、フランス軍の3個縦隊はワッチニーの丘の前面で再編することができた。『マルセイエーズ』を歌いながら数で勝るフランス軍は攻撃し、オーストリア軍を混乱させた。10月17日、連合軍の戦線は破れ、クレアファイトとコーブルクはモンへと退却しモーブージュは解放された」
Samuel F. Scott & Barry Rothaus "Historical Dictionary of the French Revolution" p83

「ジュールダンは10月15日に攻撃したが、オーストリア軍は連携の取れていないフランス軍の攻撃縦隊に大きな損害を与えて撃退した。カルノーに勇気づけられたジュールダンは、兵を再編し10月16日に再度攻撃した。多くの指揮官たちの経験不足のためまたもフランス軍の攻撃は連携が不十分だったが、縦隊の一つは村への進路を切り開いた。12門の対応に支援され、フランス軍はオーストリア軍の反撃を撃退した。10月17日、フランス軍の攻撃の激しさに動揺したザクセン=コーブルクは包囲を諦め、ベルギーへ後退した」
Steven T. Ross "Historical Dictionary of the Wars of the French Revolution" p178

「才能と人気を併せ持った革命期の軍人によく見られる素早い昇進によってジュールダンはオート=ヴィエンヌ志願兵大隊の指揮官から師団長まで上りつめ、事実上は陸軍大臣[註]カルノーがもたらした1793年のワッチニーの勝利とそれに伴うモーブージュ解放によってデュムリエとピシュグリュと並ぶ革命の守護者にすらなった」
Archibald Gordon Macdonell "Napoleon and his Marshals" p21-22

(註:この時期のカルノーは陸軍大臣ではなく公安委員会メンバー)

 中にはよりはっきりと、部隊を右翼へ集中させる作戦を発案したのはカルノーだと指摘する向きもある。

「ジュールダンは左翼への攻撃を再開したがったが、工兵出身のカルノーはワッチニーの高地が鍵を握ると考え、そして彼の意見がまさった。夜の間、失敗に責任を負っていた部隊とほぼ同じだけの兵力が配置を修正され、攻撃用の兵力がワッチニー対面に集結した」
1911 Encyclopedia Britannica "Wattignies"

「しかしカルノーはマニュアルには従わず、代わりに彼の機動的な『携帯』砲兵と最も経験豊富な兵たちを敵の弱い側面に向けることを決めた。カルノーの主力が交戦する場としてコーブルクがもっとも予想していなかった側面、右翼のワッチニー村がそうだった」
Pierre Beaudry "Lazare Carnot: Organizer of Victory"
The American Almanac

 会戦初日はうまくいかなかったが、勝利の組織者カルノーが提案した作戦変更によって最終的にはフランス軍が勝利を掴んだ。カルノーは敵の弱点を見抜き、軍人たちの意表をついた作戦に踏み切って祖国の危機を救った。これまで示した研究者はそのように見ている。そうした事例は彼ら以外にもあるようで、Ramsay Weston Phippsは典型的なカルノー伝説について次のように描き出している。

「集まった将軍たちの中でジュールダンはドゥーレル[戦線中央にある村]への陽動と、左翼による奇妙な機動によって敵の両翼を打ち砕くことを提案した。ライン方面軍によるヴィサンブール線の喪失の連絡を受けていたカルノーはその間、自分の考えにふけり、状況を考慮していた。最後に彼は顔を上げ、もしワッチニーを勝ち取ることができれば勝利は確実だと宣言した。ジュールダンはこの驚くべき意見に抵抗したが、カルノーは既に必要な計画の準備を整えていただけでなく、その実行まで担うことになるのであった。
 長い議論の末、最後にジュールダンも同意した。かくして、戦いの最終日の間、部隊を先導し、混乱した兵を再編し、下馬して不慣れな兵たちの銃を撃ったのは、弟[カルノーの弟も戦場にいた]を伴った派遣議員であり、そして最後にカルノーとデュケノワ[派遣議員]がワッチニーの丘で出会って互いに抱きあい、一方の軍の勝利と他方の敗北と告げる叫びを上げたのである。ジュールダンと約4万の兵たちに残された活躍の場はほとんどなかった」
Phipps "The Armies of the First French Republic, Volume I" p259


 Phippsによるとこうした話はカルノーの息子が残した回想録や、カルノーの伝記作家たちが伝えているものだそうである。実際、カルノーの息子は以下のように記している。

「会議が開かれ、ジュールダンが意見を述べた。古い戦争の原則に従い、敵の中央に対する攻撃を諦め、バランスを回復するため左翼に戦力を振り向けることを彼は提案した。カルノーは逆にフロメンタン師団を呼び戻し、特に若い兵士たちにとって重要な攻勢による利益を保つためにも既に成功の途上にある右翼に努力を集めることが、戦争に勝つ機会を増すうえでも必要だと言った。彼は『右翼と左翼のどちらからモーブージュに入城することが重要だと思う? それは勝利を得られる方だ!』と彼は叫び、その指で地図上のワッチニーを指し示した。ワッチニーはドゥーレルよりも町と幕営地に近く、ここさえ奪えば他の地は重要性を持たなくなる。さらにエリー将軍とボールガール将軍が率いて敵の最左翼に向け前進しているアルデンヌ軍の別働隊が、カルノーの示唆した移動をすぐに支援できるようになっていた」
Google Book Search Hippolyte Carnot "Mémoires sur Carnot" p407


 だが、世の中には異なる見解の持ち主もいる。例えば以下のような人々だ。

「不完全に組織されたフランス軍の未経験な兵たちは夕方にはかなりの損害とともに撃退されたが、夜の間にジュールダンは作戦に失敗した左翼から8000人の兵を再配置してワッチニー村に面する右翼を増強した。これによってフランス軍はオーストリア軍の左翼を包囲することが可能になり、16日早朝に戦闘が再開されるとすぐに連合軍の戦線は側面から脅かされた。ザクセン=コーブルクとクレアファイトはモーブージュの包囲を諦め、包囲用塹壕から1万4000人の兵を引き上げさせて冬営に入るべくライン河に後退した」
Chandler "Dictionary of the Napoleonic Wars" p484

「フランス軍の左翼と中央は数千人の損害を出して当初の地点まで押し返されたが、ジュールダンの右翼は日没時にはワッチニーを見下ろすいい場所を占拠した。ジュールダンは左翼から7000人を移動させ、10月16日朝に2万2000人をもってワッチニーを攻撃した。攻撃はオーストリア軍の陣地を圧倒し、5000人の損害を蒙ったコーブルクは夜には包囲を諦めた」
Stephen Pope "Dictionary of the Napoleonic Wars" p516

「その夜、おそらくはジュールダンの助言によって、翌朝の決定的な攻撃は右翼に対して行い、その間中央と左翼は正面の敵を牽制することが作戦会議で決められた。16日朝、ジュールダンとカルノーは右翼に赴き、そこで彼らは激しい戦闘に向け兵たちを勇敢に率いた」
Huntley Dupre "Lazare Carnot" p124


 ChandlerとPopeはジュールダンが右翼への兵力移動をしたと記している。Dupreはジュールダンの助言によってそうした作戦変更が決まったと指摘している。ジュールダンの反対を押し切ってカルノーが決断したという「カルノー派」の主張とは全く逆である。
 なぜそう言えるのか。実はカルノーの戦術的センスを疑わせる事態が、15日の戦闘中に起きていたのだ。

「最初は左翼のフロメンタンも右翼のデュケノワ[将軍、同名の派遣議員の兄弟]もうまくいっており、カルノーはすぐに中央のバランをドゥーレルに投じるよう提案した。あまりにタイミングが早すぎたためジュールダンは左翼がもっと進むまで前進するべきではないと主張した。しかしカルノーは自分の意見に固執し、そして慎重すぎると勝利が遠ざかると述べた時に、ジュールダンは本人によると若さ故の誇りと活気のためその意見に従った。実際にはおそらくカルノーを軽視したうえで敗北した場合の危険を見て取ったための行動であろう。とにかく彼は自らバラン師団の先頭に立ちドゥーレルへ前進した。彼はそこで断固とした抵抗に遭い、彼の重砲兵隊は間に合うことができず、彼の軽歩兵部隊は敵の大砲によって打ち砕かれた」
Phipps "The Armies of the First French Republic, Volume I" p253

「フロメンタンとデュケノワ師団が得た最初の成功に関する情報を聞いた国民公会議員カルノーは(中略)成功すれば決定的となるであろう攻撃を実行するのに相応しい時が来たと信じた。彼はバランに対し、オーストリア軍の戦線を分断するためドゥーレルの丘を攻めるよう命じた。ジュールダンはこの作戦に反対したが無駄に終わり、受け入れざるを得なかった。かくして中央師団は渓谷に向かい、敵の散兵を追い払って対面の丘に登った。息を切らして高地に到着した時、彼らが直面したのは恐ろしい砲兵隊が叩きつけてきた散弾の嵐だった。前進が止まったところにオーストリア軍騎兵の大軍が襲い掛かった。
 カルノーの議論の中でその慎重さを指摘されていたジュールダンは、自身の熱狂度を試すかのように3回か4回ほど危険な進撃を試みたが、無駄に終わった。恐ろしい虐殺が続いた。――オーストリア軍はフランス師団の側面を脅かした。攻撃を続けた場合の損害に恐れをなしたカルノーは、作戦を続けることは無駄であると判断した。彼は遂に軍の運命を危険に晒し、ただ1500人の勇者を無駄に死なせただけの試みを諦めることを決意した。
Gallica Abel Hugo "France Militaire, Tome premier" p205-206

「第1日には『カルノー風味』の戦略に従い、両翼が敵を攻撃している間に、ベルナドットとモルティエもいたバランの中央師団が敵の中央に差し向けられたが、その時両翼の部隊は撃退されていた。左翼のフロメンタンと右翼のデュケノワ将軍は最初は上手くやっており、明らかにカルノーはバランの部隊をドゥーレルに投じるよう提案した。ジュールダンは、タイミングが早すぎで左翼がもっと進軍するまで前進は遅らせるべきだとの意見を述べたが、最後はカルノーの主張に譲った」
Dupre "Lazare Carnot" p123


 カルノーは中央部隊を前進させるタイミングを間違えた。ジュールダンはそう主張して派遣議員を押し止めようとしたが失敗に終わり、過早に投入されたバラン師団は敵の反撃で損害を蒙り退却を強いられた。それがPhippsらの主張である。Dupreによればジュールダンはこのカルノーのミスに対して以下のように述べている。

「ジュールダンは『他の状況の際には、カルノーとその弟は総指揮官に役立つ忠告をしていた』と書き留めている」
Dupre "Lazare Carnot" p298


 実際、カルノーの忠告がない方がジュールダンは上手くやれたのではないかと指摘している同時代人もいる。一人がスールトだ。

「ジュールダンの配置は命じられたものであり、彼の権威はあらゆる力を持っていた派遣議員の前に屈せざるを得ず、またさらに指揮権を巡る競合関係の中でいつも部下の服従を得られた訳ではなかったと信じる根拠もまたある」
Phipps "The Armies of the First French Republic, Volume I" p260


 さらにPhippsによれば、陸軍省から軍に送られたエージェントのスリエとベルトンも以下のような報告をしているという。

「ジュールダンはあまりに彼の計画を妨げられたために、何人かの愛国者が彼を思いとどまらせなければ既に辞任を申し出ていたであろうことを我々は知っている。しかし、それは国家の神聖さに覆われた人々が軍に対してあるべき姿以外のあらゆるものとなって彼を困らせることを妨げなかった」
Phipps "The Armies of the First French Republic, Volume I" p260


 カルノーに対して最も批判的な見解としては以下のようなものもある。

「カルノーの『勝利の組織者』としての才能には反論の余地はないが、彼の戦術的な技能は限られたもので、その欠点を彼は歴史を注意深く書き換えることで隠した。拙い指揮の下にある2万人の防衛線を北方軍が使える4万5000人の兵力で追い払うことは何の問題もない筈だったが、実際の仕事は酷いしくじりとなった。カルノーは彼の好む両翼包囲と正面攻撃を組み合わせるべきだと主張し、数的優位にあったフランス軍を注意深く散り散りにした。この計画は痛烈に撃退され、12門の大砲が失われた。かくして翌日、マリー=アントワネットが処刑されたその日に、ジュールダンは自らの判断に従い、圧倒的な戦力を右翼に集め、大した困難もなくワッチニーの戦い(1793年10月15−16日)を勝利に導き、モーブージュを解放した。カルノーは事件に関する彼自身の見解とジュールダン将軍に対する嫌悪を抱えたままパリへ戻った」
Michael Glover "The True Patriot" Napoleon's Marshals p160


 ワッチニーで何が起きたかについてはカルノーとジュールダンそれぞれに言い分があるのだろう。だが、後にカルノーはパンテオンに祭られるほどの有名人になったのに対し、ジュールダンはあくまでナポレオンの元帥の一人(それも地味な方の)にとどまった。カルノーの主張に基づく話が比較的広く知られるようになったのも、そうした後の時代の評価が関係しているのかもしれない。

――大陸軍 その虚像と実像――