1809年7月5―6日
ドイチュ=ヴァグラム





最後の戦勝


「ドープレは頷いた。『次の昇進にはまだ早すぎる。わかるな』
『何か手があると言う訳ですね』
『ベルナドット元帥の司令部付将校にひとつ空きがある』
 ドープレは私の反応を窺うように言葉を切った。確かに、その提案は私を驚かせた――魅力よりは突拍子もなさによってである。
『元帥は陛下の不興を買ってパリに帰されたのでは』
『有能な司令官は少ない。陛下も機嫌を直さざるを得まい』」
佐藤亜紀「1809」p71-72


 1809年戦役の決着をつけたヴァグラムの戦いは、ナポレオンにとっては勝利のうちに戦役を終えた最後の事例となった。そしてまたこの戦いは、ベルナドットがフランス軍元帥として最後に参加した大規模な会戦でもあった。もちろんこの後にも「1809年8月12日 スヘルデ河口」で書いているように彼がフランス軍の指揮を取る場面はあったのだが、そこでは戦闘らしい戦闘はなかった。ベルナドットが次に本格的な戦場に立った時、彼は対仏大同盟の一軍を率いていたのである。
 そのヴァグラム会戦においてもベルナドットは後世の歴史家から非難を受けている。その理由は、佐藤が小説で描いたように彼がナポレオンの「不興を買って」、ザクセン人部隊で構成されている第9軍団の指揮官を罷免され、パリへ帰されたからだ。

「ヴァグラムでは彼の軍団の取り扱いを酷く誤り、即刻解任された」
Emir Bukhari "Napoleon's Marshals" p5

「その後、彼の運勢は下降線を辿る。アウエルシュテットではダヴーを支援するのが遅れたためにナポレオンから厳しく批判され、そしてヴァグラムで彼の軍団の取り扱いを誤った後、彼は軍から追い出された」
Philip J. Haythornthwaite "Who was Who in the Napoleonic Wars" p31

「北ドイツの占領軍を指揮した後、ベルナドットは1809年に前線指揮任務に戻り、第五次対仏大同盟に対する戦争でザクセン軍部隊(第9軍団)を率いた。だが彼はヴァグラムでの間の抜けた行動のためにその場で解任され、再び二次的な任務に左遷された」
Stephen Pope "Dictionary of the Napoleonic Wars" p101

「1809年7月10日、[オーストリア軍指揮官]カール[大公]は休戦を申し出た。その間、第9軍団(ベルナドットが無能と不服従のために解任されたため、今やレイニエール麾下にあった)の増援を受けたウジェーヌとヴァンダンムは、ウィーン南方の地域を一掃していた」
Esposito & Elting "Atlas" Introduction to the Russian Campaign


 Bukhariらは部隊の取り扱いを誤ったのが解任の理由と書いている。Esposito & Eltingによれば無能と不服従が理由だという。だが、具体的に彼が一体どんなことをしたのかとなると、実は研究者によって指摘することが違っているのが実情だ。ベルナドットは何をしたのか。そしてそれに対する批判は果たして正当なものなのか、それともイエナ・アウエルシュタットの戦いのように疑問が残るものなのか。以下で調べてみよう。

 ヴァグラムの戦いは7月4日深夜から始まる。ロバウ島に集結した大陸軍は嵐に紛れて夜の間にドナウ河を渡り、オーストリア軍の待ち構える北岸へ進出。オーストリア側が水際で抵抗せず北方にあるルスバッハ川北岸の高地で待ち構える作戦を取ったため、5日の日中フランス軍は扇のように広がりながらドナウ北岸の平原(マルヒフェルト)を前進した。研究者の中には、この行軍時点で早速ベルナドットを非難する向きもある。

「彼[デュパ]は、オーストリア軍の[ルスバッハ]高地への秩序だった退却を守っていたリヒテンシュタイン麾下のルーセルとレーデラーの騎兵部隊に脅かされた。デュパは左翼に方陣を組んだ2個大隊を行進させたが、ポレンツ麾下のザクセン第1師団が遅れ、支援に来たのがザクセン騎兵の前衛部隊であるユサール連隊とクレメント公軽騎兵連隊のみだったため、ルーセルが成功裏に退却することを許した」
[註:大半の研究者はポレンツをザクセン第2師団長としている]
François Guy Hourtoulle "Wagram" p116


 ベルナドット率いるザクセン軍の前進が遅れたために後退するオーストリア軍を捕捉できなかった、というのがHourtoulleの批判の要点だ。だが、これはさすがに研究者の間でも少数派である。大半はこの時点でのベルナドットの行動に何の問題点も見出していない。

「第9軍団の前衛部隊であるデュパ将軍のザクセン・フランス混合師団はノルトマンの前衛部隊のリーゼ旅団及びヴァラキア=イリュリア軍事国境連隊とラースドルフで午後3時半頃に衝突し、簡単にオーストリア守備隊を追い出した」
Ian Castle "Aspern & Wagram 1809" p60-61

「ベルナドットがアーデルクラーに前進している時、ノイ=ヴィルトハウスから退却してきたルーセルの胸甲騎兵旅団に左翼を脅かされているのに彼は気づいた。これに対し彼はザクセン軽騎兵部隊を送った。胸甲騎兵は立ち止まって突撃を受けるという致命的な失敗を犯し、その当然の結果として敗れ去り、レーデラーの胸甲騎兵部隊による適切な支援のお蔭でかろうじて逃げ出した」
Francis Loraine Petre "Napoleon and the Archduke Charles" p357

「ほぼ同じ[午後3時]頃、ウディノの左翼のラースドルフで、ベルナドット軍団の前衛部隊であるデュパ師団は、ヴァラキア=イリュリア軍事国境連隊及びシャステラー連隊の生き残りと合流したリーゼ旅団の抵抗に出会った。しかし防御側は第5軽歩兵連隊の2個大隊によって素早く追い出され、ホーエンツォレルンの第2軍団のところに追いやられた。次いでベルナドット軍団の大半はアーデルクラーを奪うために旋回し、先導騎兵部隊はそこで午後3時半頃にダーバル胸甲騎兵旅団と遭遇した。そしてザクセン軽騎兵とオーストリア胸甲騎兵の間で衝突があった。双方のいくつかの部隊は同じザクセン=テッシェン公アルベルトを連隊のパトロンとしていたため、この遭遇はかなり有名になった。だが、実際にはこれは単なる小規模な衝突に過ぎなかった。フランス軍騎兵が配置につけるよう、ザクセンのクレメンス公軽騎兵連隊は繰り返し突撃したが、オーストリア軍のカービン銃による斉射で撃退された。ただ、この斉射は規則を無視し、止まった位置からの当時最も有効な策[突撃のこと]に反して実行されたもので、オーストリア騎兵部隊で劣悪な指揮と訓練が一般的だったことを示していた。敵に妨げられることなく、今や増援を受け取ったザクセン部隊は再び突撃し、ルーセルの部隊は追い払われレーデラー旅団に守られながら逃げ出した。午後4時頃、リヒテンシュタインは第4軍団と一緒にマルクグラーフノイジーデルに5個連隊を残して騎兵の大半を元々いたヴァグラムとゲラスドルフの間に後退させた。結局オーストリア軍騎兵はこの会戦初日に、たった1万2000人しかない騎兵予備軍団の戦力を考えれば痛い損失である1000人の損害を蒙りながら、ほとんど何も達成できなかった」
Gunther Rothenberg "The Emperor's Last Victory" p164

「若く平凡な訓練しか受けていない馬に乗った彼ら[ザクセン騎兵]は、今やフランスの亡命士官である子爵ルーセル=ダーバル少将麾下のオーストリア胸甲騎兵旅団と対峙した。そこにフランス軍幕僚が、ザクセン騎兵は胸甲騎兵を追い払えとの命令を持って到着。ザクセン騎兵の指揮官は命令を果たす準備ができていなかった。彼らが配置につく時間を稼ぐため、クレメント公軽騎兵連隊250人が突撃した。オーストリア重騎兵は簡単にこれを撃退したが、ザクセン軍はその間に残る10個騎兵大隊の配置を成し遂げた。
 ザクセンのフォン=グットシュミットとファイリッチュ両将軍は自ら兵の先頭に立った。ザクセンの騎兵規則は突撃の際に鋭い速足から始め、短いギャロップへと加速し、最後は全力突撃に移るよう教えていた。二人の騎兵指揮官はこの規則に正確に従った。走ってくるザクセン騎兵に対抗突撃する代わりにダーバル子爵は胸甲騎兵たちにカービンで一回斉射したうえで敵を剣先で迎え撃つよう命じた。既に戦力で3対1と劣勢だったうえにこの戦術的大失敗もあって、ザクセン騎兵がカービン射撃の影響を振り払って近づいてきたところでハプスブルク騎兵の運命は決まった。攻撃側にはアルバート公軽騎兵連隊の1個大隊が含まれていた。防御側にはアルベルト公胸甲連隊がいた。中欧の混乱した政治情勢のため、両部隊は名目的には同じザクセン=テッシェン公アルベルトの指揮下にあった。フランスの亡命士官の下で戦った兵たちはナポレオン側で戦った者たちに比べてうまくやることができなかった。短い白兵戦の後、ザクセン騎兵はオーストリア胸甲騎兵を戦場から追い払った」
James R. Arnold "Napoleon Conquers Austria" p126

「彼ら[ザクセン騎兵]が敵重騎兵に向かって速足で前進している時、横隊の最右翼にいたユサール連隊は存在に気づいていなかったオーストリア歩兵の射撃を受けた。フォン=ロプコヴィッツ少佐とフォン=リンデナウ騎兵大尉は冷静に第1騎兵大隊を右に旋回させ小癪な歩兵に突撃した。短い戦闘で歩兵は踏みにじられ、部隊旗を失い多くが喜ぶ騎兵に対し降伏した。翌日、旗をナポレオンに献上した際に、それを敵から奪い取った4人の騎兵は黄金と皇帝の称賛という報酬を受けた。評判によれば皇帝は彼らに『この傑出した連隊を軍の中でも最も勇敢な部隊の一つとして憶えていよう』と言った。
 汗にまみれ勝ち誇った騎兵は部隊再編のためラースドルフ北方へ戻ってきたところで満足したベルナドットと出会った。彼は近衛胸甲騎兵連隊の士官たちに向かって『私はいつも君たちのことを頼りにしてきたが、きょうの君たちは期待を上回る活躍だった!』と叫んだ。彼には満足するに足る理由があった。ザクセン騎兵の突撃はラースドルフとアーデルクラー間の戦場を効果的に一掃し、第9軍団の歩兵が後者の村に前進することを可能にしたのだ」
John H. Gill "With Eagles to Glory" p296-297


 戦闘に参加していた人物の残した記録も基本的にトーンは同じだ。

「[5日午後]2時頃、我々はオーストリア軍がルスバッハ川の背後にある丘に陣を敷き、その渡河点を守る準備をしているのを見た。これまでのところオーストリア軍側の抵抗は弱かったが、ベルナドット軍団のみは深刻な戦いをしており、敵はしばしザクセン軍を撃ち破る希望を抱いてその騎兵に多くの激しい突撃をしていたが、毎回勇敢に撃退されていた」
Napoleonic Literature "Memoirs of Baron Lejeune, Volume I Chapter X"


 ザクセン軍団についてはその騎兵の活躍を評価する声が大半。歩兵師団の到着が遅れたというHourtoulleの指摘はほとんど難癖と言ってもいいだろう。だが、彼のベルナドット批判はそれだけでは止まらない。5日の日没後に行われたヴァグラム村への攻撃に関しても次のような非難を浴びせている。

「第9軍団のうちデュパのみが配置についており、レイユは彼をイタリア方面軍ラマルク師団の左翼で攻撃に投入した。デュパはヴァグラムに突入すらしたがオーストリア軍は彼を押し返しその夕方最初のパニックが生じた。もしポレンツの第1師団が配置についていたら彼はデュパを支援したであろうが、その部隊は1時間遅れて到着した。夜になり他の戦闘が終わったところででポレンツ師団は交戦に入った。ベルナドットが一緒に行動していた第2師団は午後10時半頃に彼らを助けようと試みたが、ツェシュヴィッツ[第2師団長]の兵たちは彼らの戦友が白い軍服を着ていたためにそれをオーストリア軍と見誤り、ルコックとツェシャウの兵を撃ち、二度目のパニックを引き起こした」
[註:ルコックはポレンツ師団所属の旅団長、ツェシャウはツェシュヴィッツ師団所属の旅団長]
Hourtoulle "Wagram" p116-117


 このヴァグラム村攻撃に関してはHourtoulle以外にもベルナドットの失敗を指摘する研究者がいる。

「彼は午後7時少し過ぎに命令を受け取っていたにもかかわらず、午後9時半になるまで動かなかった」
Rothenberg "The Emperor's Last Victory" p169

「デュパ、ウジェーヌ[イタリア方面軍指揮官]、ウディノ[第2軍団指揮官]がオーストリア軍中央に圧力をかけている間、ベルナドットは彼の他の師団の到着を待ちナポレオンに多くの兵を寄越すようせがんでいた。このほとんど2時間に及ぶ遅れのため、彼はデュパがベレガルデの左翼を押すのと同時にその右翼にあたるヴァグラムを攻撃する機会を逃した。さらにようやく攻撃を実行した時も、戦術的手腕に欠けることを曝け出してしまった。同調させた襲撃も村を包囲する試みもなく、ザクセン旅団はヴァグラムに各個に投入され個別に撃破された」
Gill "With Eagles to Glory" p301

「彼ら[ザクセン軍団]は激しく戦い、多くの上級士官を失った。しかし彼らは各個に戦闘に投入され、この戦術的罪悪のために高い代償を支払った。フォン=ロウ歩兵連隊と国王歩兵連隊は半数近くの兵を失った。他の多くのザクセン部隊は3分の1の損害を受けた」
Arnold "Napoleon Conquers Austria" p133


 だが、ここでも大半はベルナドットに対する全面的な非難を差し控えている。ザクセン軍団のヴァグラム攻撃が失敗したのには、彼の責任とは言えない不運が関わっていたと見られるためだ。

「この状況の素早い変化のためフランス兵は隊列を乱し、そして暗さが増す中で彼らは左翼にいたデュパ麾下の白い軍服を着た2個ザクセン大隊をオーストリア兵と勘違いし、射撃を開始した。撃たれた(フォン=メッチュの)狙撃兵大隊と(フォン=ラーデロフの)擲弾兵大隊は崩壊し、一部はヴァグラム村の境界にある建物に難を逃れ、他は混乱して後方へ逃走した」
Castle "Aspern & Wagram 1809" p64

「午後10時半頃、ハルティッチュ少将が最後のザクセン歩兵と伴に到着し、そこで近衛擲弾兵大隊、(フォン=ボーゼの)擲弾兵大隊、(フォン=エギディの)狙撃兵大隊を率いて前進しヴァグラムを奪うよう命じられた。不幸なことに彼はザクセン兵が既に村の中で戦っていることを知らされず、そしてハルティッチュが前進するとヴァグラムから多くの白い軍服を着た兵士たちが現れた。オーストリア兵だと思い込んだ彼の部下たちは射撃を始め、間違いに気づく数分の間に多くの人間が倒れた」
Castle "Aspern & Wagram 1809" p65

「村の家々を焼く炎以外に光はなく、戦闘の混乱が激しかったため絶えず味方が味方に射撃することになった。双方の兵士たちの多くがドイツ語を話していたという事実も疑いなく理由の一端であろう」
Petre "Napoleon and the Archduke Charles" p361

「マクドナルド自身が剣を手に秩序を回復させようとしていた彼の軍団からの増援は、デュパ師団の白い軍服を着たメッチュ狙撃兵大隊とラーデロフ擲弾兵大隊の2個部隊をオーストリア軍と間違え、彼らを撃った」
Rothenberg "The Emperor's Last Victory" p168

「最後の一撃は午後10時半頃に来た。ハルティッチュ少将がエリート擲弾兵大隊からなる最後のザクセン歩兵と伴に到着したが、彼らはザクセン兵が既に村の中で戦っていることを知らされなかった。またも白い軍服を来た兵士と対峙した彼らは射撃を始めた。誤りは数分で明らかになったが、味方からの射撃とハルティッチュの致命的な負傷はザクセン軍の士気に最後の一撃を与えた」
Rothenberg "The Emperor's Last Victory" p169

「午後10時半、ベルナドット元帥は残った2個大隊――近衛隊とフォン=ボーゼ擲弾兵――に“炎上する町”を奪うよう命じた。このエリート部隊にどうにかできることは、屠殺場の勘定を積み上げることだけだった。混乱した夜間戦闘の中で白い軍服を着たザクセン軍は互いを敵と勘違いし相互に撃ちあった」
Arnold "Napoleon Conquers Austria" p133

「この時、ベルナドットの2個ザクセン師団がヴァグラムへ前進してきた。ザクセン兵はオーストリア兵と同様にドイツ語を話し白い軍服を着ていたため、暗かったこともあって彼らは混乱し互いに撃ちあいを始めた」
Robert M. Epstein "Napoleon's Last Victory" p154

「不幸なことに暗さの増す中でマクドナルドの兵がデュパの右翼後方にやって来た時、彼らはメッチュの白い軍服を着たザクセン兵をオーストリア兵と間違えて射撃を始め、ドイツ兵にショックを与え混乱させた。この不運と同時にカール[大公]の個人的指揮の下で行われたオーストリア軍の強力な反撃があったため、すぐにフランス軍とザクセン軍全部隊は安全な場所を求めてルスバッハ川を渡ろうと溢れだした」
Gill "With Eagles to Glory" p298

「擲弾兵たちを走り越え、[ベルナドット]元帥の副官の一人がハルティッチュに“炎上する村”を襲撃せよとの命令を伝えたが、ザクセンの将軍に彼の同胞が既に燃え盛る街路で戦っていることは話さなかった。この命令と暗さ、そして全般的な混乱の結果は悲劇的なものだった」
Gill "With Eagles to Glory" p300

「彼ら[ザクセン軍団]はウディノ将軍が反対側から入ったのと同じ時にヴァグラムに突入した。暗闇の中でウディノの兵とザクセン兵は互いを敵と間違えた。この失敗のためヴァグラムはオーストリア軍に奪回され、ザクセン軍は大きな損失を蒙った」
Dunbar Plunket Barton "The Amazing Career of Bernadotte" p219


 混乱の中で同士討ちがあったことは戦闘参加者の記録や公報にも書かれている。

「同時にベルナドット元帥麾下のザクセン部隊がウディノ将軍が入ったのと反対側からヴァグラムに突入し、そして硝煙によって一層強められた暗闇の中で、この二つのフランス兵たちは互いを敵と間違え、彼ら自身の戦友に多くの損害を与えた。この犯罪的な失敗のお蔭でオーストリア軍はヴァグラムとバウメルスドルフを奪回することができ、彼らはそこで夜を過ごした」
Napoleonic Literature "Memoirs of Baron Lejeune, Volume I Chapter X"

「この移動は当初完璧に実行されていたものの、夜の接近に加え、オーストリア軍軽騎兵の正面からの攻撃に抵抗したばかりの我が軍の歩兵は支援のために彼らの背後にやって来たサルム将軍のフランス騎兵旅団を見て退路を断たれたと勘違いして混乱に陥り、さらにいくつかのザクセン人大隊がラマルク師団を撃つという失敗によって混乱は増大した」
Napoleonic Literature "The Memoirs of Baron de Marbot, Volume II Chapter II"

「公報第25号
 1809年7月8日、ヴォルカースドルフ
 (中略)
 ヴァグラム攻撃が実施され、我が兵はこの村を確保した。だがザクセンとフランスの部隊が暗闇の中で互いを敵と間違え、そしてこの作戦は失敗した」
J. David Markham "Imperial Glory" p232


 ベルナドットの指揮する部隊が大きく減らされていたと指摘する向きもある。本来はベルナドット軍団に所属していたデュパ師団がそうだ。

「帝国親衛隊の一部砲兵と、第9軍団からデュパの歩兵師団がマクドナルド[イタリア方面軍の軍団長]支援のため送られてきた」
Epstein "Napoleon's Last Victory" p154

「一時的にイタリア方面軍に所属したデュパの混合師団は前進を先導し、急斜面を登ってそれから左翼のヴァグラムへ向かった」
Castle "Aspern & Wagram 1809" p62

「同じく午後8時頃、[バウメルスドルフの]西方では一時的にイタリア方面軍に所属したデュパの小さな混合師団が、バウメルスドルフの炎上する建物から出る煙を利用しながらルスバッハ川を越えて前進した」
Rothenberg "The Emperor's Last Victory" p167


 デュパ師団以外にも派出しなければならない部隊があったため、ベルナドット軍団の兵力はかなり少なかった。

「部隊は分遣隊を出したため既に弱体化していた。攻撃命令の中でヴィンケルマン及びハーケ擲弾兵大隊はレイニエール将軍麾下のロバウ島守備隊に割り当てられ、昼過ぎには明らかにベルナドットに知らされないままヨハン公[軽騎兵連隊]が砲兵を守るためにウディノに所属させられた。さらにデュパ師団に加わった2個大隊(メッチュとラーデロフ)を差し引くと、ザクセン軍団はたった12個歩兵大隊と16個騎兵大隊だけでマルヒフェルトに乗り出したことになる。さらに軍団砲兵の半数に当たるヒラーとクードレーの砲兵中隊及びフートシュタイナーの大砲2門は橋の渋滞と混乱のために遅れ6日朝までロバウ島に取り残されており、7月5日時点でベルナドットが保持しているのはザクセンの大砲14門だけだった。第1師団[ツェシュヴィッツ]とヨハン・フォン=ホイエル大尉の砲兵中隊がマルモン軍団の到着までロバウ島からの橋を守るためグロス=エンツェルスドルフに止まるよう命じられた時、状況は一段と悪化した。かくして第9軍団は、ヴァグラムの戦いに参入する時点でグットシュミットの前衛部隊とデュパ及びポレンツ師団だけに減らされた」
Gill "With Eagles to Glory" p294-295

「皇帝の命令は以下のようなものだった。2個大隊はロバウ島に残す。デュパ師団はバウメルスドルフ近隣で戦っているイタリア副王[ウジェーヌ]の支援に回す。ヨハン公軽騎兵連隊はウディノ軍団に所属する砲兵を守る。
 こうしたロスの結果、ベルナドットにはザクセン歩兵13個大隊、騎兵16個大隊と砲兵3個中隊が残された。この戦力だけで元帥は前進しなければならなかった」
Friedrich Wencker-Wildberg "Bernadotte" p204

「後にベルナドットは、何時間もこの[ザクソン軍団のポレンツ]師団で介入するよう求められたが、使えるのがたった10個歩兵大隊しかなかったうえオーストリア予備騎兵軍団が左翼側の平地に展開していたため、部隊を投入するのを躊躇ったと主張した」
Rothenberg "The Emperor's Last Victory" p169

「デュパがいなかったうえに橋を守る分遣隊を残さなければならなかったため、彼[ベルナドットの部隊]は非常に弱かった。ヴァグラムを攻撃した時点で彼は10個歩兵大隊を持っており、あたりは既に暗くなっていた」
Petre "Napoleon and the Archduke Charles" p361


 ベルナドットは兵力が減らされたことに不満を述べ、増援を要求したが、それは叶えられなかったという。

「ポレンツの歩兵師団と大砲8門(ボニオの砲兵中隊とフートシュタイナーの大砲2門)しか使えず、増援の要求も全て拒否されたことが、おそらくベルナドットにとって攻撃を遅らせる口実にできたのだろう。しかし、彼がゆっくりとヴァグラム前面で部隊を配置につけている間におそらく機会は失われていった」
Gill "With Eagles to Glory" p299

「ベルナドットを弁護するなら、ヴァグラムに向かって移動を始めた時の第9軍団は歩兵(多くの分遣隊を考慮すると9500人以下だった)と砲兵(14門)が特に弱く、ナポレオンは元帥から2回の増援要請を受けながら何もしなかった。加えて暗さが増していたこととルスバッハ川がもたらす障害物とが一緒になってザクセン軍にとってほとんど越えられない指揮系統上の問題を作り出していた」
Gill "With Eagles to Glory" p301

「この失敗はベルナドットの指揮権が傷つけられたことを示す――彼は後に司令部の“隠れた手”が適切な支援を受けることを妨げたと皇帝に不満を述べている――のみならず、1809年のフランス軍がもはや1805年のような団結力のある存在でないことの兆しでもあった」
Rothenberg "The Emperor's Last Victory" p169-170

「1809年7月5日、大陸軍はヴァグラムでオーストリア軍と対戦した。ザクセン軍は多くの損害を受けて撃退され、ベルナドットはベルティエが意図的に彼の支援を逸らしたと不満を述べた」
T.A. Heathcote "Serjent Belle-Jambe" Napoleon's Marshals p28

「[午後]7時にはルスバッハ川だけが彼ら[ザクセン軍団]とドイチュ=ヴァグラムを隔てていた。皇帝は村を奪うよう命令を下した。
 言うのは簡単だが増援は一切与えられず、ベルナドットは単独で攻撃を敢行するしかなかった」
Wencker-Wildberg "Bernadotte" p205

「ベルナドットが彼の予備を探しに人を送り出した時、その予備はどこにも見つからなかった。参謀長のベルティエ元帥がベルナドットに知らせないままそれを戦場の別の場所へ行かせたことが判明した。
 翌日、ベルナドットは皇帝に激しく不満を述べた。
『陛下、』彼は言った。『貴方はとても高い地位を占めているので、栄光を分け合う誰かを嫉むのを望むようなことはあるまいと思います。しかし、不誠実あるいは裏切りの行為が私の30年に及ぶ誠実な奉仕の果実をほとんど奪い取ろうとしています』
 皇帝は、ベルナドットの予備を移動させたのは重要な作戦の最中には避けられない手違いの一つだと答えた」
Barton "The Amazing Career of Bernadotte" p219


 何より5日夕の攻撃が失敗したのは、大陸軍各部隊の連携が整わないまま攻撃に踏み切ったことが大きな理由である。これはベルナドットの責任ではなく、ナポレオンのミスだ。

「ナポレオンは間違っていた。全戦線において攻撃は連携を欠き、準備がなっていなかった。何よりフランス軍、特にイタリア方面軍の各師団が蒙った損害は大きなものだった。3人の師団指揮官、セラ、サユーク、グルニエが負傷し、特にグルニエは手を砕かれ翌日の戦いに参加できなかった。もしナポレオンの目的が敵を現在位置に釘付けにして翌日それを破ろうとするものだったなら、彼は成功した。だが、もし彼がハプスブルク軍の多くを夜のうちに滅ぼすことを望んでいたのなら、彼は失敗した」
Rothenberg "The Emperor's Last Victory" p170

「彼が全面攻撃の命令を送り始めたのは午後6時から7時の間で、決定的な成果を期待するにはたとえ7月の夜であってもほとんど遅すぎた。加えてフランス側の各軍団は目的地まで同じ距離にあった訳では全くなく、その事実ゆえに攻撃はばらばらかつ各個に行われた。右翼のダヴーと左翼のベルナドットが彼ら自身を中央と同じ位置に持ってくるまで攻撃を延期するだけの時間はなかった」
Petre "Napoleon and the Archduke Charles" p359

「戦闘に加わる各部隊はルスバッハ川へと一様に近づいていた訳ではないため、多くは攻撃開始地点につくため異なる距離を行軍して接近しなければならなかった。これを調整するため、ナポレオンは攻撃開始時刻を特定しなかった。さらに深刻な遺漏は、彼が襲撃部隊の指揮官たちに明確な目標をはっきり示すのに失敗したことにあった。午後7時に彼の砲兵が砲撃を始めた時、あまりに急ぎすぎた準備の結果がどうなるかが明らかになった」
Arnold "Napoleon Conquers Austria" p128

「7月5日の第9軍団によるヴァグラム攻撃失敗は多くの要因のためだろう。まず、ナポレオンの会戦指揮は模範的とは言えなかった。全軍による威力偵察は急いで計画され、実行された。それは最後の賭けのように見えた。この攻撃は注目に値する成功に近づいたものの、決定的な結果を期待するには時間が遅すぎたし、ナポレオンは多くの攻撃部隊を協力させようとする努力をほとんど見せなかった」
Gill "With Eagles to Glory" p301


 5日の戦いにおいてベルナドットには確かにミスもあったが、それが解任の原因となる「部隊の取り扱いの誤り」だと批判する研究者はほとんどいない。むしろ問題なのは6日の彼の行動だ。ヴァグラム村で破れたザクセン軍団はアーデルクラー村へ退却していたが、6日未明にベルナドットはこの村を引き払う。この行為が多くの研究者によって非難されている。

「しかしながらヴァグラムで彼は部隊の取り扱いを誤り、そして鍵となるアーデルクラー村を放棄した」
Chandler "Dictionary of the Napoleonic Wars" p53

「ポンテ=コルヴォ公[ベルナドット]は右翼のウジェーヌと左翼のマセナに接近することで戦線を縮小しようと望んだようで、午前3時から4時の間に帝国司令部に照会することなくアーデルクラー村を放棄した。ナポレオンは重要な拠点が一発も撃つことなくベレガルデのオーストリア軍[第1軍団]に与えられたことに気づいて激怒し、ただちにベルナドットとマセナに対し損害に構わずそこを奪回しろと命じた」
Chandler "Campaigns" p723

「そこで4時頃、ベルナドットは突然彼の陣はあまりに危険に晒されていると決めつけ、アーデルクラーの東方ほとんど1マイルまで退却した。ベレガルデは素早く右翼を前進させてその村を占領したが、そこでプロチャスカ[予備軍団の擲弾兵師団長]を待つため動きを止めた」
Esposito & Elting "Atlas" map 105

「ダヴーに彼自身の攻撃準備を再開するよう命じたところで、ナポレオンはベルナドットが夜の間に戦線を縮小するため重要な中央の位置にあるアーデルクラーから自身の判断だけで後退したことを発見した」
Pope "Dictionary of the Napoleonic Wars" p508

「彼ら[ザクセン部隊]はいまだにアーデルクラーへ来援している生き残った未投入の大隊の周辺でどうにか再集結した。ベルナドットは後退を選び、この大切な村を放棄して数え切れないほどの負傷者をそこに残した。彼は部隊をさらに1500メートル離れたところで再集結した」
Hourtoulle "Wagram" p116-117

「朝の早い時間、ベルナドットは彼の動揺した第9軍団をアーデルクラーの危険に晒された場所からより安全な村の南東へ後退させた。午前3時直後、ベレガルデが強力な抵抗に遭遇することを予想しながら第1軍団と伴にアーデルクラーへおずおずと前進してきた。だが、彼の前衛部隊は村が防衛されていないと報告してきた。幸運に小躍りしたベレガルデは即座にアーデルクラー及びその村とヴァグラムの中間地点をヘンネベルク、クラリー、モッツェン、シュトゥッテルハイム旅団で占領し、2つの横隊に配置した。(中略)夜の間に第4軍団と伴にアーデルクラーへ向かうよう命じられていたマセナが到着し、ベルナドットによる村の放棄に激怒していたナポレオンから即座に村を奪回するよう派遣された」
Castle "Aspern & Wagram 1809" p69

「15個歩兵大隊と8個騎兵大隊を率いたベレガルデは、デドヴィッチと7個歩兵大隊を後方に残して午前3時直後にアーデルクラーへ移動した。午前4時頃、ベレガルデの前衛部隊はザクセン部隊が間違いなくベルナドットの命令でアーデルクラーから撤収するのを見た。オーストリア軍前衛部隊は抵抗を受けずにそこを占領し、彼らの主力部隊は村とヴァグラムの間に配置された」
Petre "Napoleon and the Archduke Charles" p366-367

「夜の間にベルナドットは彼の兵が危険に晒されすぎているとの口実に基づき、皇帝に知らせることなく無責任にも彼の動揺したザクセン歩兵――今や実働兵力は6000人以下だった――を村の南東約1000ヤードまで後退させ、騎兵をその左翼に配置した」
Rothenberg "The Emperor's Last Victory" p178

「ベルナドットが彼の陣を放棄したことに激怒したナポレオンは、オーストリア軍が突破してくる恐れに気づきマセナの馬車で短い協議をした後で、軍団来援中だった元帥にすぐアーデルクラーを奪回するよう命じた」
Rothenberg "The Emperor's Last Victory" p179

「ベルナドット元帥による奇妙なへまのため、アーデルクラーは無防備だった。ヴァグラムでの激しい白兵戦の後だけに彼のザクセン部隊は休養と再編が必要だとベルナドットは考えた。彼らを休ませるために彼は愚かにもアーデルクラーを放棄し、僅かな分遣隊だけを残した。残された者たちは夜の間掠奪に没頭して防御の準備を何もせず、シュトゥッテルハイムの部隊と接触した瞬間に逃げ出した」
Arnold "Napoleon Conquers Austria" p139

「アーデルクラー村はフランス軍戦線の拠点を形成しており、計画されたヴァグラムに対する攻撃の発起点となっていた。7月5日にヴァグラムから撃退された後、ベルナドットの軍団はアーデルクラーを確保していた。ベルナドットはその地点はあまりに危険に晒されていると感じ、彼の側面をより安全にウジェーヌとマセナに結び付けたいと望んだ。そして7月6日午前3時から4時の間にベルナドットは彼自身の判断でアーデルクラーを撤収した。ヴァグラムを保持していたベレガルデは情報を受け、この機会をすぐ掴みアーデルクラーを確保するためオーストリア兵を送った」
Epstein "Napoleon's Last Victory" p157

「午前3時に既に動き回っていたベレガルデの偵察隊は午後4時少し後にアーデルクラーへ侵入し、ベルナドットの第9軍団が数時間前にそこを去っていたことを発見した」
Gill "With Eagles to Glory" p54


 Gillが「彼の誹謗者は彼が不誠実あるいは悪意に基づいて行動したと言い、彼の支持者は彼はナポレオンの軍中央に接近するようにとの命令に従っただけだと主張している」(Gill "With Eagles to Glory" p63)と述べているように、ベルナドットを擁護する向きもいるようだ。別の理由を上げる人もいる。

「最高司令部からの命令は、全部隊は夜の間、現在占領している位置にとどまり、皇帝の命令がない限り攻撃するなというものだった。ベルナドットがこれを受けた時には既に遅かった。ザクセン部隊は彼らの野営地が敵陣地の正面にあるという理由で、夜明けにアーデルクラー近くにあった夜間の陣を引き払っていた。ザクセン軍が去った直後にオーストリア軍が村を占領していたため、戻ることはできなかった」
Wencker-Wildberg "Bernadotte" p206


 一方、同時代人の残した回想録の中には、アーデルクラーは放棄されたのではなく戦闘の結果、奪われたと記している人もいる。

「我が軍の中央では既に激しい一斉射撃が交わされており、我が兵はあまりに強力な攻撃を受けたためアーデルクラーを捨ててラースドルフへ後退した」
Napoleonic Literature "Memoirs of Baron Lejeune, Volume I Chapter X"

「ナポレオンにとって大いなる驚きだったが、それまで自身防勢にとどめていた大公が攻撃を始め、我々からアーデルクラーを奪った」
Napoleonic Literature "The Memoirs of Baron de Marbot, Volume II Chapter III"


 ザクセン軍団がアーデルクラーを放棄したという話は、おそらくオーストリア側の史料が論拠になっているのだろう。ヴァグラム会戦があった同じ1809年に出版された本には以下のような話が載っている。

「その間、[オーストリア]第1軍団は夜明けにアーデルクラーにいたザクセン軍団がラシュドルフへの行軍を続けていることに気づいた。男爵テッテンボルン騎兵大尉がクレナウ騎兵大隊と伴に、その村の放棄に関する確かな情報を得るためアーデルクラーへ偵察に派出された。
 この士官は与えられた命令を、優れた洞察及び決断力で実行した。彼は何人かの士官とポンテ=コルヴォ公の幕僚数人を捕虜とし、前日に負傷したザクセン兵で溢れる村を軍団の到着まで占領した」
Relation über die Schlacht bei Deutsch-Wagram. p11


 一方で同年に出版された雑誌Minerva, Vierter Band. Für das Jahr 1809.のように「ベレガルデ伯は擲弾兵と伴にアーデルクラーを奪った――敵は頑強に戦った」(p58)と、ザクセン軍が戦闘の結果アーデルクラーから追い出されたかのように書いているものもあることはある。だが、テッテンボルンという固有名詞が出てくる「ザクセン軍自主的撤退説」の方が説得力があるのは確かだろう。
 6日午前2時にベルティエから自軍の哨戒線を見回るよう命じられたルジューヌは「我が軍の兵士に占領されていたアーデルクラーを通過して」(Napoleonic Literature "Memoirs of Baron Lejeune, Volume I Chapter X")見回りをしたと書いている。もしかしたらその後でベルナドットは自主的にアーデルクラーからの撤退を判断したのかもしれない。

 問題は、このアーデルクラー放棄がナポレオンの意思に反していたかどうかだ。反していたから非難に値する、という主張を広めた一つの要因になっているのではないかと思われるのが、Jean-Jacques-Germain Peletの記したMémoires sur la guerre de 1809, Tome Quatrième.だ。同書には以下のような文章がある。

「しかし、この時ばらばらになったルスバッハ高地への激しい攻撃を行えば、大公の中央は混乱したであろうし、朝のうちにその布陣を破り、さらには敵軍を分断して、ほとんど戦わずしてこれを蹴散らせただろう。ナポレオンはこの移動の優位性を見抜き、実行しようとしていた。全ては夜の間に準備されていた。不運なことに、アーデルクラーが大公の軍の一部によってちょうど占拠されたところだった。アーデルクラーは両軍にとってとても重要な場所だった。我々にとってはルスバッハへの攻撃の側面を支援し、またヴァグラム攻撃も支援できたし、敵にとっては、接近して側面の動きを守り、戦線両翼をつなぐものだった。大公はこの拠点の放棄を知らされ、クレナウ連隊の1個騎兵大隊と伴にテッテンボルン大尉を送った。すぐにシュトゥッテルハイムが第1軍団の前衛部隊とともにアーデルクラーを占めた」
Mémoires sur la guerre de 1809, Tome Quatrième. p205


 Peletの主張が正しければベルナドットは確かにナポレオンが検討していた反撃を難しくするような失敗をしたことになる。だが、別の人間が残した記録によるとそうとも言えなくなる。5日から6日にかけての夜間にマテュー・デュマは以下のような命令を皇帝から受けた、と記している。

「皇帝は私に全戦線に沿って移動し、敵が何らかの動きを見せその意図を示すまで前哨線を縮小しどのような攻撃にも応戦しないようにという彼からの命令をいくつかの軍団の全司令官に伝えるよう命じた。古い橋とアスペルン村から出撃し、我々の左翼を形成していたマセナ元帥の軍団は、この命令に含まれなかった。私の任務は、戦線中央にあるポンテ=コルヴォ公麾下のザクセン軍団のところで止まることになっていた」
Souvenirs du lieutenant général comte Mathieu Dumas, Tome Troisième. p369


 デュマの本は1839年出版で、Peletよりは遅い。だが一方で彼は自分こそが皇帝の命令を受けた本人であると主張している。つまり、自分は当事者だと言っているのだ。その当事者が皇帝の命について「前哨線を縮小しどのような攻撃にも応戦しないように」と伝えていることは重要だろう。デュマの指摘が正しいのなら、オーストリア軍の攻勢が迫るのを見たベルナドットがアーデルクラーを放棄したのは、むしろ命令に忠実に従ったためだとも解釈できる。
 さらにデュマは実際にベルナドットの下を訪ねた時の様子を以下のように記している。

「私はアーデルクラの入り口でベルナドット元帥と会った。彼は心配しており、また極めて不満を抱いていた。私が皇帝の命令を伝えたところ、彼は攻撃から身を守ることはできず、そして彼の前面にとても有力な敵がいるため、現在位置を維持できれば極めて幸運だと想定できると述べた。強力な部隊がヴァグラム村から現れる準備をしていた。彼は私を、谷間を完全に見ることができるアーデルクラの上にある小さな丘に連れて行き、かなりの歩兵部隊が丘から降りてくるのを見せた。私は元帥に、皇帝がアーデルクラ背後に予備としているデュパ将軍の師団を彼の指揮下に置くよう命じたことを伝えた。そして皇帝は左翼[右翼の間違いか]でダヴー元帥による攻撃を行うつもりであり、この攻撃が始まり次第、彼自身が戦線中央に来てザクセン軍を間違いなく支援するだろうとも言った。私はさらに彼の置かれた状況について皇帝に説明するためあらゆる努力をすること、そしてもし彼が副官の一人を私に同行させてくれるならこの士官が陛下の彼に対する返答と新たな命令を伝えてくれるだろうということを付け加えた」
Souvenirs du lieutenant général comte Mathieu Dumas, Tome troisième. p371-372

「皇帝は副官をベルナドット元帥の下に戻し、彼自身がザクセン軍のところへ行くと伝えさせた。実際に彼はそこへ9時から10時の間に出向き、その途上でヴァグラム村から現れた部隊による激しい攻撃で引き起こされた混乱の修復に大いに努めた。ザクセン歩兵は退却し多くの地歩を失っていた。皇帝は下馬して既に壊走していた大隊のいくつかに加わり、彼らを再び前進させ、アーデルクラとジーベンブリュン村に向かって斜めに陣を敷いたナンスーティ将軍の重騎兵師団に彼らを支援させた。
 ザクセン軍を後退させた強力な部隊はアーデルクラのこちら側まで前進してきた」
Souvenirs du lieutenant général comte Mathieu Dumas, Tome troisième. p372-373


 ザクセン軍が「後退」した理由について明確には書かれていないが、デュマの記録が正しければ、ベルナドットが帝国司令部に何も伝えなかったという非難も事実に基づいていない可能性があるのだ。
 いずれにせよ一つはっきりしているのは、アーデルクラー陥落がベルナドット解任の直接の理由ではない点だ。ナポレオンは確かに「激怒」したのかもしれないが、同時に彼はベルナドットに対しアーデルクラー奪回を図るマセナに協力するよう命じている。解任した人間に攻撃命令を出すことはない。

 だが、別のタイミングにおいてナポレオンがベルナドットに「即刻解任を言い渡した」と主張する研究者もいる。それはアーデルクラー奪回作戦に失敗したザクセン軍団が壊走状態になった時だ。

「彼[カール大公]はアーデルクラー近くで断固とした攻撃を始め、ベルナドットのザクセン第9軍団を破った。そして不興を覚えたナポレオンは即座にベルナドットを戦場から退場させた」
Chandler "Dictionary of the Napoleonic Wars" p471

「ベルナドットは村の奪回を命じられたが、彼のザクセン兵はカールの予備部隊による反撃の間に縮み上がらせるようなオーストリア砲兵の砲撃を受けて逃げ出した。ナポレオンは二度目の攻撃でアーデルクラーを確保し、ほぼ一時間に及んでオーストリア軍主力がマセナに対する作戦を実施している時に、ベルナドットを解任した」
Pope "Dictionary of the Napoleonic Wars" p508


 ベルナドットの解任に至るには伏線があったとの説明も多い。

「彼は既に向こう見ずにもナポレオンの戦い方を批判していたため、皇帝は彼の指揮権を奪い軍から追い出した」
Chandler "Dictionary of the Napoleonic Wars" p53

「会戦初日、元帥は部下の士官たち何人かが聞いているところで皇帝がドナウ渡河とカール大公攻撃に採用した手法を厳しく批判し、もし彼自身が指揮官だったならほとんど一撃も与えることなく科学的機動によって大公を降伏させたであろうと自慢した。何人かがこの自慢を皇帝に報告した。翌日、ベルナドットの軍団はオーストリア騎兵に撃ち破られ、元帥自身とその幕僚たちが主力部隊を使って逃亡兵の群れを止め再編するよう努力したことでかろうじて完全な壊滅を免れた。皇帝は元帥がちょうど壊走を止めた時にその場に現れ、皮肉たっぷりに尋ねた。『これが大公を降伏させることができる科学的機動というやつか?』そして元帥が返事できるようになる前に続けた。『私はこれだけ酷く取り扱った軍団の指揮官から貴公を外す。すぐに退き、24時間以内に大陸軍を去れ。お前のようなへまなヤツは私には不要だ』」
Richard Phillipson Dunn-Pattison "Napoleon's Marshals" p68-69

「オーストリア軍擲弾兵と予備騎兵が戦闘に投入され、すぐにザクセン部隊はマセナ軍団の一部を巻き込みながら後方へと全力で逃げ出した。彼らを再編するためその前に出ようと馬を駆っていたベルナドットにとって不幸なことに、この型にはまらない機動は結果として彼をナポレオンのいるところへ真っ直ぐ導いた。報告された昨晩のベルナドットの発言を忘れていなかった皇帝は、復讐の誘惑に抵抗できなかった。『これが大公を降伏させることができる効果的な機動というやつか?』彼は鋭く問い質した。愕然としたベルナドットは口ごもるしかなかった。『これより私はこれだけ絶えず酷く取り扱った軍団の指揮官から貴公を外す』皇帝は続けた。『すぐに私の前から退き、24時間以内に大陸軍を去れ』。冷酷な罰だったが、ベルナドットは状況が示すように決して臆病者ではなかったものの、長いこと信頼できず部下としては背信的ですらあった」
Chandler "Campaigns" p724

「7月5日のヴァグラムへの攻撃が撃退されたことはベルナドットを困惑させた。自尊心を守るため彼は数人の士官の前でナポレオンを批判し、ドナウ渡河とその後の戦闘は失敗であり、もし彼が指揮官であったなら彼は『科学的機動』によってカール大公を降伏させられただろうと宣言した。この意見はナポレオンに報告されており、その日の朝に皇帝が示した興奮と当日に達成した偉業を考えるなら、この見解は特に無礼なものだった。ナポレオンは怒り狂った。この件は続いて戦場で起きたことと関連しなければ些細な話で終わっていただろう」
Epstein "Napoleon's Last Victory" p156-157

「ザクセン歩兵は崩壊し逃げ出した。部下を再編しようとしたベルナドットは彼らの先頭へと馬を駆りナポレオンのいるところへ真っ直ぐ駆け込んでしまった。『これが大公を降伏させることができる科学的機動というやつか?』ナポレオンは皮肉たっぷりに聞いた。ベルナドットが答えを口ごもった時、皇帝は言った。『私はこれだけ酷く取り扱った軍団の指揮官から貴公を外す。すぐに退き、24時間以内に大陸軍を去れ。お前のようなへまなヤツは私には不要だ』。そしてナポレオンはベルナドットに背を向けた。第9軍団は戦闘から外された」
Epstein "Napoleon's Last Victory" p157

「他のものと話している中でベルナドットは皇帝の戦略に対する軽率な批判にふけり、もし彼(ベルナドット)の予備を取り上げる代わりに皇帝が彼に2万人の兵を送っていれば、彼はヴァグラムを確保できただろうと宣言した。そうすることで彼は『翌日の血腥い戦闘を避けることができ、そして科学的機動によってほとんど一撃も与えることなくカール大公を降伏させられる』と主張した。この見解は皇帝に報告され、皇帝は将来のためにそれを記憶した」
Barton "The Amazing Career of Bernadotte" p219


 このように主張する研究者たちが論拠としているのは、マルボである。

「ベルナドットはこの日[5日]の早い時間帯におけるナポレオンの戦闘のやり方を批判し、そしてマルボによると、アーデルクラー奪取の失敗を隠すために『彼が指揮官だったなら、彼はカールを――“効果的な機動”によって――ほとんど戦うことなく降伏させただろう』と言った。もちろん、ベルナドットの発言はナポレオンの耳に届いた。翌日、ベルナドットのザクセン師団が撃ち破られ後方へ逃げた後で、ベルナドットは彼らを再編するため逃亡兵の群れの先頭へと馬で向かった。ナポレオンが姿を現し言った。『これが大公を降伏させることができる効果的な機動というやつか?』ベルナドットはどうにか返答しようとしたが、ナポレオンの発言に遮られた。『すぐに私の前から退き、24時間以内に大陸軍を去れ』」
George F. Nafziger "Historical Dictionary of the Napoleonic Era" p293

「ラースドルフへ逃げながらザクセン部隊は多くのフランス人を巻き込み、先頭に立って馬を駆っていたベルナドットはナポレオンのいるところへ駆け込んだ。逃亡する兵を元に戻すため指揮官が彼らと向き合うようにするのは軍事的な習慣だったが、ナポレオンとベルナドットの関係は既に緊張していたしその朝皇帝は怒っていた。マルボの言う通り、ベルナドットが前の晩、ナポレオンは夕方の攻撃で拙い行動をしており彼ベルナドットがもし指揮官だったなら彼は“科学的な機動”によってほとんど戦うことなしにオーストリア軍を圧倒できると自慢していたことを、皇帝は知らされていた。既に前夜のベルナドットの自慢に激高していたナポレオンは言い訳を聞く気分になく、これが戦闘に勝つための“科学的機動”なのか教えるよう要求した。ベルナドットが自身を正当化しようとすると皇帝は怒って彼を解任した。『私はこれだけ酷く取り扱った軍団の指揮官から貴公を外す。お前のようなへまなヤツは私には不要だ』」
Rothenberg "The Emperor's Last Victory" p180-181


 マルボは以下のように書いている。

「[ヴァグラム村から]撃退された後でベルナドットは何人かの士官に、ドナウ渡河とその後の行動は失敗であり、もし彼が指揮官だったなら科学的機動によってほとんど一撃もなしに大公を降伏させられただろうと言ったようである。この意見は同日夜に皇帝に報告され、皇帝は当然ながら激怒した」
Napoleonic Literature "The Memoirs of Baron de Marbot, Volume II Chapter IV"

「このルールに従い、個人的勇気の点では疑問の余地がないベルナドットは、幕僚たちの先頭に立ち、逃亡兵たちの前に出て彼らを止めるため平地へ駆け込んだ。人ごみから出るや否や、彼は皇帝と正面から向き合っていることに気づいた。皇帝は彼を見て、皮肉交じりに言った。『これが大公を降伏させることができる科学的機動というやつか?』」
Napoleonic Literature "The Memoirs of Baron de Marbot, Volume II Chapter IV"

「やがて自分を取り戻した彼はぼそぼそと説明に言葉を出そうとした。だが皇帝は厳しく横柄な口調で言った。『私はこれだけ酷く取り扱った軍団の指揮官から貴公を外す。すぐに退き、24時間以内に大陸軍を去れ。お前のようなへまなヤツは私には不要だ』そして彼は元帥に背中を向け、しばしザクセン部隊の指揮を取り、秩序を回復させて彼らを再び敵に向かって導いた」
Napoleonic Literature "The Memoirs of Baron de Marbot, Volume II Chapter IV"


 マルボの本は特に英語圏ではよく知られているようで、多くの研究者が彼の回想録を引用している。だが、実は彼の回想録は信頼ならないと指摘する向きもある。

「マルボはナポレオンが戦場でベルナドットを解任し、そして元帥は絶望のあまり敵の手による死を望んだと書き加えている。だがこの話は単にマルボが奔放な想像力を羽ばたかせたものに過ぎない」
Barton "The Amazing Career of Bernadotte" p220


 マルボの話が信頼性に乏しいことは、会戦の翌日も、さらにその翌日になってもナポレオンがベルナドット宛ての命令を出している点からも窺える。

「[7月7日]ベルナドットはヨハン大公を見張るためグロス=エンツェルスドルフへ戻された」
Petre "Napoleon and the Archduke Charles" p380

「[7月8日]彼ら[オーストリア軍]は明らかにツナイムへ行軍していた。そこでナポレオンは強力な部隊を彼らに対して送り出し、一方でヨハン、ギューライ、シャステラーによる後方ウィーンへの襲撃の可能性に備え、ベルナドットと副王[ウジェーヌ]及びピュリーの竜騎兵を背後に残した。ザクセン部隊とヨハンの前哨線の間に小規模な戦闘があり、前者は極めて不必要にもウンター=ジーベンブリュンまで後退した」
Petre "Napoleon and the Archduke Charles" p382-383

「ヴォルカースドルフ、1809年7月8日
 ベルティエへ
 (中略)
 ポンテ=コルヴォ公に、強力な前衛部隊をマルヒエッグに、偵察部隊をマルヒ川に送り出してプレスブルク方面を調べるよう伝えよ。貴公の幕僚の一人をこの前衛部隊に随行させ、戻ってきて何が起きているか知らせるようにせよ」
La Correspondance de Napoléon Ier Histoire du Consulat et du Premier Empire


 6日の戦闘中に解任した人間に対し、7日や8日に命令を出すことなどあり得ない。おまけに、以下のような決定的な証拠もある。

「公報第30号
 1809年7月30日、ウィーン
 ポンテ=コルヴォ公が指揮していた第9軍団は8日に解散された。その一部を構成していたザクセン人部隊は今、レイニエール将軍の麾下にある」
Markham "Imperial Glory" p243


 公報の中でベルナドットの指揮していた部隊の解散は8日だったと言明されているのである。6日に彼がクビになっていたのなら、公報にもそう書かれているべきであろう。マルボの書いていることは明らかに裏付けに欠けるし、それを安易に引用する研究者の姿勢も問題だ。
 実際にはナポレオンとベルナドットの間でどんなやり取りがあったのだろうか。マルボの使用を避けた研究者たちは、以下のように書いている。

「白色のペルシア馬ユーフラテスに乗ったナポレオンはザクセン部隊を再編するため戦場を駆けた。彼はザクセンの参謀長に『ザクセン人よ、しばし持ちこたえよ――すぐに状況は変わる』と言った」
Arnold "Napoleon Conquers Austria" p142

「フランス軍の中央は今(午前9時頃)差し迫った危機にあった。丁度そこにナポレオンが到着し、恐るべき混乱にいくらかの秩序をもたらした。ザクセン兵の間を馬で乗り回しながら、彼は踏み止まるよう説き、すぐに状況は変わると言った。彼は兵たちに片言のドイツ語で話し掛けすらした。『ザクセン兵よ! 逃げるな! 進め!』彼はしばしマセナの馬車に座り、元帥にアスペルンへ向かうよう指示し、ベルナドットと無愛想な遭遇を果たしておそらく厳しいやり取りを交わした」
Gill "With Eagles to Glory" p303

「翌日、戦闘は再開されザクセン部隊は再び陣を持ちこたえるのに失敗した。ナポレオンは命令の実行に失敗した元帥[ベルナドット]の傍に到着し、怒りに満ちた言葉が交わされた。ベルナドットは彼の信用を傷つけようとする陰謀の存在を感じ、そのような理由で部下を犠牲にするよりも辞任をしたいと申し出た」
Heathcote "Serjent Belle-Jambe" Napoleon's Marshals p28-29

「戦場で怒りに満ちた言葉のやり取りがあったのは事実だ。密集隊形による前進が命じられた時、ベルナドットはザクセン部隊に散開隊形で前進するよう言い、幕僚に聞こえるよう叫んだ。『不必要に部下を殺すのは私のやり方ではない』。彼は、負傷者を戦場から後送するため陣を離れることを禁止した命令を拒絶したと伝えられている。そしてザクセン部隊の救急車が大砲を運ぶため持ち去られたことに抗議したともいう」
Barton "The Amazing Career of Bernadotte" p220-221

「[午前]10時、皇帝自身が戦線の脅かされたこの地域に現れた。彼とベルナドットの間で怒りに満ちたやり取りがあった。ナポレオンは不必要な遅延と配慮の欠如及び無視、さらには命令実行の遅れについて彼を非難した。これは元帥が我慢できる限界を超えていた。『もし私の身に起きていることが私の没落を意図したものであるなら、これほど多くの勇敢な兵たちの犠牲につながるよりももっと不名誉でないやり方をするべきでしょう。陛下は他人の名声を嫉むにはあまりに高貴でしょうが、昨日は不誠実あるいは裏切りが私の30年に及ぶ名誉ある軍歴の果実を奪い取ろうとしました』。
 皇帝は興奮したガスコン人をなだめ、これらの命令によって生じた悲しむべき誤解について話した。しかしベルナドットはその説明を受け入れることを完全に拒んだ。『いずれにせよ陛下、私は将来においてこのような予測のつかない事態に晒されることは望みません。私の名誉はそのような侮辱には耐えられません。陛下にはどうかこの戦いが終り次第、私が辞任することを許可するよう望みます』」
Wencker-Wildberg "Bernadotte" p206-207


 ナポレオンとベルナドットの間で口論があったことは間違いないが、その場で解任されたことはない。もしかしたらベルナドット側から辞任を申し出た可能性もあるが、その場合でもベルナドットは戦闘後に辞任したいと述べている。いずれにせよ、マルボの主張する説は成立しない。
 ザクセン軍に対する非難についても異論がある。確かにザクセン軍団は壊走した。戦闘に参加した当事者の発言を見ても、マルモンは「敵はゲラスドルフの丘から下り、強力な部隊をもって我が軍の左翼に接近してきた。そしてザクセン部隊は恥ずべきことに逃げ出した」(Gallica "Mémoires du maréchal Marmont duc de Raguse, Tome troisième" p235)と記しているし、ルジューヌも「ザクセン部隊はフランス部隊を支援しようと試みたが、彼らは大変な混乱の中で退却を強いられ、敵の追撃を阻止したルグラン及びモリトール師団の背後でようやく部隊を再編することができた」(Napoleonic Literature "Memoirs of Baron Lejeune, Volume I Chapter X")と書いている。
 だが、逃げ出したのはザクセン軍団だけではない。この時は「特にサン=シール師団をはじめとしたフランス軍も含め、他の部隊も同様に壊走した」(Rothenberg "The Emperor's Last Victory" p181)のだ。その中で特にザクセン軍団だけが批判されているのは、彼らが都合のいいスケープゴートにされたからである。

「散弾の弾幕に守られナポレオンはマセナ元帥と彼の馬車で会合した。馬を下り馬車に登った彼は尋ねた。『さて、この騒ぎは一体どうしたことだ?』マセナは答えた。『陛下、ご覧になった通りこれは私の誤りではありません』『ああ、そうとも、これはあのほらふきのベルナドットのせいだ』。実際にはナポレオンもマセナも潔白とはいえなかったが、彼らは第三者を非難した方が互いに都合がいいことに気づいていた。選択は簡単だった。ザクセン部隊を非難すればいい。オーストリア軍による砲弾と散弾の嵐の中で、(そして実際に逃亡するザクセン部隊の群れと、同じくらい多くの逃げるフランス人の中で)戦闘のこの局面を説明するための申し合わせた嘘が始まった。それは戦闘後の報告書で使われ、その後も参加者が回想録を書く過程で繰り返された。失敗はザクセン部隊の責任だ、と」
Arnold "Napoleon Conquers Austria" p142


 ナポレオンによって失敗の責任を一方的に負わされたベルナドットとザクセン軍団。ベルナドットは当初からそうなる可能性を見越していたようで、彼はザクセン人の参謀長に5日の戦闘後、「私は諸君を名誉の戦場へと導きたいが、諸君の前にあるのは死だけだ。諸君は私が望んでいる全てを成し遂げてくれたが、諸君は私の指揮下にあるがために正当な扱いを受けることはないだろう」(Gill "With Eagles to Glory" p306)と述べている。両者の間に存在した政治的対立が、戦闘の過程におけるいくつものトラブルを経て修復不能な段階まで進んだことが窺える。

 だが、それでもベルナドットはヴァグラムの戦いでは解任されなかった。彼が解任された直接の理由は、戦いの翌日に彼がやったことにある。

「しかしベルナドットは不可解にも勝利の栄誉は彼自身とザクセン軍団にあると主張し、解任された」
Castle "Aspern & Wagram 1809" p90

「彼は戦闘後に個人的な公報を部下に出すという愚かな失敗を犯し、その中で彼は部下の勇敢さを誉めたのである! これを知ったナポレオンは立腹した。皇帝の公報に付け加えるようなものを公表することは職業的行為の深刻な違反であった。ベルナドットを召還した皇帝は彼を大陸軍から追い出した」
Ronald Frederic Delderfield "Napoleon's Marshals" p128

「このあからさまな口論の好ましくない影響は、勝利した戦闘で彼の部下が果たした役割を称賛したベルナドットの大げさな布告によってさらに酷くなった。彼は部下に対して、その隊列はブロンズのように不動だったとかその他同様のことを言った。そして7月8日、彼は指揮権を譲り渡してパリへ旅立った。ナポレオンは激怒し、ポンテ=コルヴォ公の布告は真実と政策、国の栄誉に反するものだと公式に非難した」
Heathcote "Serjent Belle-Jambe" Napoleon's Marshals p29

「このような扱いは元帥の激しやすい性格が耐えられるものではなく、それゆえに彼は、あらゆる軍事規則にも礼儀にも反して皇帝の許可なくザクセン兵を称賛した公報を出し、そうすることで彼自身の重要性を誇張した。皇帝は激怒し、他の元帥たちに私的な覚書を送り、その中で『陛下が自身で軍を指揮しているか否かにかかわりなく、誰がどの程度の栄誉に値するかを定めるのは陛下だけである。陛下はその軍事的成功をフランス兵に負っているのであり、外国人に負っているのではない。ポンテ=コルヴォ公が彼自身のものとしている成功はマクドナルド元帥と彼の兵によるものである』と宣言した。ベルナドットの経歴は終わりを告げたように見えた」
Dunn-Pattison "Napoleon's Marshals" p69

「ヴァグラムの翌日、ポンテ=コルヴォ公にして可愛いデジレ・クラリーの夫であるベルナドット元帥は皇帝の勝利に関する公報に彼自身の私的な公報を付け加え、それを彼のザクセン軍団に公表した。そこで彼は部隊がこのような優れた勝利を得たことに感謝し、事実上他のフランス軍がそこに全く存在しなかったとほのめかした。これは最後の決定打だった。ベルナドットは何年も前のブリュメールの時にずるく立ち回り、モローと伴に陰謀をめぐらし、1806年にはダヴーを見捨てたのではないかと深刻に疑われ、デ=ラ=ロマーナのスペイン人部隊ほぼ全部がデンマークから逃げ出すのを許した。そして今、彼は大っぴらに皇帝の勝利が、皇帝の計画と皇帝の大砲兵隊と皇帝の歩兵隊によって勝ち取られた勝利が自分に帰属するものだと主張したのである。ベルナドットは司令部に召還され、公式に大陸軍から放り出された」
Archibald Gordon Macdonell "Napoleon and his Marshals" p178

「第9軍団はヴァグラムの数日後にさらなる損害を蒙った。指揮官が犠牲者だった。ベルナドットによるザクセン部隊への布告に激怒したナポレオンが、気性の激しいガスコン人を解任し彼をパリへと“退散”させた。そして7月9日、第9軍団は解体され、誠実さと戦術能力で知られた強情で陰気なスイス人、ジャン=ルイ=エベネゼール・レイニエール将軍がザクセン部隊の指揮官に任命された」
Gill "With Eagles to Glory" p304


 戦闘時に解任されたという説を採用している研究者の中にも、この話に触れている者がいる。

「彼は既にナポレオンの戦闘のやり方を前夜のうちに批判しており、そして指揮官の地位を解任された後で彼はザクセン部隊に対し、戦闘中の彼らの行動について誇張した主張をしている布告を出した。厳しく批判され、軍団を解体された彼は最後の戦闘の時まで旅団規模の部隊指揮官として残され、そして軍から追い出された」
Rothenberg "The Emperor's Last Victory" p214


 この戦闘後にベルナドットが出した布告が解任の直接のきっかけであったことはほぼ間違いない。戦闘参加者の中にもそのように記している者がいる。

「この時、ベルナドットが軍を離れた。(中略)彼は戦闘の成果を、恥知らずにも逃げ出した部下のザクセン部隊にも割り当てたいと望んだ。皇帝は苛立ち、彼の行為に傷ついた。軍団の指揮官たちのみに宛てられた公式の宣言が出され、ベルナドットの布告を厳しく、しかし正当に非難した。皇帝は彼に対し、健康上の理由を口実に軍を去りパリへ戻るよう命じた」
Gallica "Mémoires du maréchal Marmont duc de Raguse, Tome troisième" p256

「この将軍[レイニエール]は、実際には戦場から姿を消して私がその場所を代わりに守らねばならなかったザクセン部隊について前日の戦闘における勝利は彼らのものだと記した布告を公表したことで皇帝から解任されたベルナドット元帥の後任だった。(中略)ベルナドットに対してとても怒っていた皇帝は、元帥たちにのみ宛てた命令で彼自身の不満を表明し、指揮官からザクセン部隊に対して与えられた称賛は本来自分と自分の兵たちに属するものだと言った」
War Times Journal "Recollections of Marshal Macdonald, Chapter16"


 後にベルナドットと出会った人物も、同様の話を紹介している。

「10月11日、彼[ベルナドット]はハンブルクに到着し、そこに3日宿泊した。彼はその時間のほとんど全てを私と伴に過ごし、そこで私に対して当時の秘密の歴史に関わる奇妙な話と、わけても特にヴァグラムの戦いに関する話をした。私はまず新たなスウェーデン皇太子に対し、彼の麾下にあった部隊が示した行動に関して疑わしい点を記した報告書について触れた。私はボナパルトがこの兵たちに不満を抱いていたことを彼に思い出させた。なぜなら、公報に含まれている不満を記したのは間違いなく皇帝であり、さらに彼がベルナドットの部隊から兵を引き抜いたこともあったからだ。ベルナドットは、ナポレオンの非難は不公平だと確言した。戦闘の間、彼は兵たちが示したやる気のなさに不満を述べていた。『彼は私に会うことを拒絶した』とベルナドットは付け加えた。『彼が拒絶したのは、私が聞いていた筈の彼の不満にもかかわらず、私が戦闘に勝利したと自慢し、私が指揮していたザクセン部隊を公に祝福したことを知って彼が驚き不快に思ったからだと言われた』。
 そしてベルナドットはヴァグラムの戦い後に彼が書いた公報を私に見せた。私は、戦闘の際に最高指揮官であった将軍以外の人物が公報を書いたと言う話は決して聞いたことがないと述べ、その後事態がどうなったのか聞いた。彼は、ナポレオンが各軍団を指揮する元帥たちにのみ送ったという命令書の写しを私に渡した。
 ベルナドットの公報はボナパルトの命令書の中に印刷されていた。それは前代未聞のものだった」
Louis Antoine Fauvelet de Bourrienne "Memoirs of Napoleon Bonaparte, Volume III" p234-236


 呆れたことに、マルボ自身もこの話を回想録の中で記している。

「怒りに任せて彼[ベルナドット]はもう一つのとても深刻な失敗を犯した。もはやザクセン部隊の指揮官ではないのに、通常ある最高指揮官からの認可を待つこともなく彼は彼らに布告を出し、その中で彼らの偉業、つまり彼自身の偉業を述べた。この規則違反は皇帝の怒りに油を注ぎ、ベルナドットは軍から退去させられフランスへ戻った」
Napoleonic Literature "The Memoirs of Baron de Marbot, Volume II Chapter IV"


 実際には上にも述べた通り、ベルナドットは布告を出した時点(7月7日)ではまだ解任されてはいなかった。この布告こそが第9軍団指揮官の地位を失う理由になったのだ。では一体ベルナドットはどんな布告を出したのだろうか。Arnoldは以下のように述べている。

「より深刻だったのは、実に大胆にも戦闘の2日後にザクセン部隊の7月5日の行動を称賛する布告を配った論争好きのベルナドット元帥の行為だった。ベルナドットはそこで彼の部下が『敵の中央を貫き』、深夜まで戦いを続け、『オーストリア軍戦線のど真ん中で野営し』て事実上勝利を勝ち取ったと書いた。そこではフランス軍について何も触れず、ザクセン軍がヴァグラム村を奪って確保したと示唆していた。7月6日の戦いについてベルナドットは、縮み上がらせるような砲撃の中で彼の部下の縦隊が『動かずにい続けた』とその頑張りを称賛した。
 この布告はナポレオンを激怒させ、彼はすぐ対応した。『誰がどの程度の栄誉に値するかを定める権利は彼[皇帝]だけに属している』。ナポレオンは、ヴァグラム村は外国人ではなくフランス軍によって勝ち取られた、なぜなら『ダヴーが側面を迂回したのと同時にマセナとウディノが敵の中央を突破した』からだと書いた。ナポレオンはさらにベルナドットの主張について一つ一つ反駁し、ザクセン部隊は砲撃の下で不動だったのではなく7月6日に一番最初に逃げ出したという容赦のない結論を出した。つまるところ、ベルナドットは『誤った権威』を『平凡な』兵たちに与えた。ナポレオンの連合軍に対するさげすみの影響――彼らは砲弾用の餌程度に思われており、ナポレオンは翌日にはザクセン軍団を解体して兵たちを他の部隊に割り振った――に加えて、誇り高いガスコン人の元帥に対する彼の公式な懲らしめは相手を確かに怒らせるものであった」
Arnold "Napoleon Conquers Austria" p175


 より詳細に紹介しているのはサヴァリーだ。彼の回想録にはナポレオンが参謀長ベルティエに宛てて出した手紙の写しなるものが載っている。

「我がいとこよ。
 添付された布告を各元帥に配布すると同時に、彼らに対しこれは非公開の情報であることを知らせよ。布告をレイニエール将軍に送ってはならない。2人の軍務大臣とヴェストファーレン国王にも送付するように。云々。
『布告
 1809年7月11日、シェーンブリュンの帝国幕営地より
 陛下は元帥ポンテ=コルヴォ公に対して、彼が7月7日にレオポルダウで出し、同時にほとんど全ての新聞に掲載された以下の布告に対して不快感を示した。
“ザクセン人よ!
 7月5日の戦いで7000人から8000人の諸君は50門の大砲に支援された4万人の敵を相手にしてその中央部を突破し、ドイチュ=ヴァグラムまで到達した。諸君は深夜まで戦闘を続け、オーストリア軍の真っ只中で野営した。6日早朝、諸君は同様の根気強さで戦闘を再開し、敵の砲火による破壊のただ中で諸君の縦列は真鍮のように不動であり続けた。偉大なるナポレオンは諸君の献身的な勇気を目撃している。皇帝は彼の勇気ある兵たちの一員として諸君を評価している。
 ザクセン人よ! 兵にとっては義務を果たすことが財産だ。諸君は委ねられた義務にふさわしい働きをなした。
 1809年7月7日 レオポルダウの野営にて
 第9軍団長 元帥
 ベルナドット”
 陛下が自ら軍の指揮を取っているか否かにかかわらず、誰がどの程度の栄誉に値するかを定める権利は彼だけに属している。陛下は軍の成功を外国兵にではなくフランスの兵に負っている。控え目に言っても二次的な存在でしかない兵たちに誤った権威を与えがちであるポンテ=コルヴォ公の布告は、真実や政策、そして国の栄誉に反するものだ。5日の戦闘の成功は、元帥リヴォリ公と、元帥アウエルシュタット公の軍団が敵の左翼を迂回している間にその中央を突破したウディノの軍団によるものだ。ドイチュ=ヴァグラム村は5日のうちに我々の手に落ちることはなかった。ウディノ元帥の軍団がその村を奪取したのは6日の正午になってからだった。ポンテ=コルヴォ公の軍団は真鍮のように不動ではなかった。彼らは真っ先に退却した。陛下はその部隊が副王[ウジェーヌ]の軍団とマクドナルド元帥が指揮するブルーシエール及びラマルク師団、ナンスーティ将軍麾下の重騎兵師団、そして親衛騎兵の一部によって守られたことに感謝している。ポンテ=コルヴォ公が自身のものと主張している称賛は、かの元帥とその兵たちに属するべきものだ。陛下はこの不快感の表明が見本となり、元帥が他者に属する栄光を自分のものにすることを防ぐようになることを望んでいる。しかしながら陛下は、ザクセン軍にとってはつらいものであるこの布告が秘密にされるよう指示している。もちろんかの兵たちには彼らが与えられた称賛に値する資格がないことを分からせなければならない。さらに陛下はこの布告が各軍団を指揮する元帥たちにのみ配られるよう指示している。
 ナポレオン』」
Gallica "Mémoires du duc de Rovigo, Tome quatrième" p192-194


 ナポレオンがこの件を最も問題視していたことは、彼の書簡集を見ても分かる。

「シェーンブリュン、1809年7月29日
 クラーク将軍へ
 もしポンテ=コルヴォ公に会うことがあるのなら、彼があらゆる新聞に印刷させた奇妙な布告について私が不快感を抱いていることを伝えよ。彼自身が終日ザクセン部隊に不満を述べていただけに、それは一層に場違いなものだ。
 さらにこの布告には嘘も含まれている。6日正午にヴァグラムを奪ったのはウディノ将軍だ。ポンテ=コルヴォ公がそれを奪取することはできなかった。彼はまたザクセン部隊が5日に敵の中央を突破したという嘘も書いている。彼らは一発の銃弾を撃つこともなかった。
 要するに、貴公も知っている通りポンテ=コルヴォ公はこの戦役でいつも役に立たなかった」
La Correspondance de Napoléon Ier Histoire du Consulat et du Premier Empire

「シェーンブリュン、1809年9月11日
 フーシェへ
 私はポンテ=コルヴォ公の布告に不快感を抱いている。それによるとまるで私は1万5000人の兵しかもっていなかったように思えるが、それだけの兵の方が20万人のザクセン兵より役立っただろう。この男の自惚れはとてつもない」
La Correspondance de Napoléon Ier Histoire du Consulat et du Premier Empire


 この布告こそ、ベルナドットがナポレオンの「不興を買った」理由そのものだと見て間違いないだろう。ベルナドットはヴァグラム村への攻撃失敗を理由に解任されたのではない。アーデルクラー放棄のために職を解かれたのでもない。マルボが書いているようにザクセン軍が壊走している真っ最中に戦場でナポレオンから罷免されたのでもない。7月7日付けで出された布告が、彼の第9軍団長としての任務を終わらせたのである。

 ただし、細かい部分で疑問は残っている。まず、ベルナドットは解任されたのか、それとも辞任したのか。多くの研究者は解任されたと書いているが、Heathcoteのように「彼は指揮権を譲り渡してパリへ旅立った」としている者もいる。同様の主張をしている者は他にもいる。

「これ[ベルナドットの布告]はまた軍団に対する彼の別れの挨拶であった。7月8日、彼は指揮権を譲り渡し、軍を離れフランスへ戻った。ナポレオンは激怒した。9日に元帥がヴォルカースドルフにある司令部に自身で報告に訪れた時、皇帝は彼に会うことを拒んだ」
Wencker-Wildberg "Bernadotte" p208

「ツナイムの戦場でベルナドットはナポレオンへの報告の際にパリへの帰還を認めるよう皇帝に求めた。彼の厚かましさに驚いたナポレオンは『しかしまだ砲撃は止んでいない』と言った。『それがどうしました!』ベルナドットは答えた。『私の軍団と呼ばれるものを指揮するのは、フランスの准将で十分ではありませんか?』
 堪忍袋の緒を切る代わりにナポレオンはベルナドットが任務を遂行するよう説得を試みたが、元帥は譲らなかった。ナポレオンはベルナドットの出立が彼らの間の断絶を深くするものであると理解していたが、その分裂の度合いがどれほどのものかについては気づいていなかった。後になってようやく彼は『ベルナドットは我々の胸中の蛇だった』ということを理解した」
Arnold "Napoleon Conquers Austria" p175


 もう一つの問題が、サヴァリーも指摘しているがベルナドットの布告が新聞に掲載されたという点だ。研究者の中にも、細部に相違はあるもののそう指摘する向きは多い。

「これだけ少ない行数にこれだけ多くの嘘を並べるのは、ある種の鉄面皮であることは確かだろう。より深刻だったのは、この演説が新聞に掲載されたことだ」
Hourtoulle "Wagram" p117

「この命令はフランス軍にとって怒りをかきたてるものでかつ“不正確”だったが、もしフランクフルトのドイツ語新聞がこれを取り上げて掲載しなければ事態は静かに推移したであろう。ベルナドットが意図的に“この思いもよらない布告”をドイツ語新聞に配ったと確信したフランス人士官たちは激怒した」
Gill "With Eagles to Glory" p305

「布告はドイツ語新聞に掲載され、ベルナドットは彼の行為をいくらかでも正当化するためそれがフランスの新聞にも載せられるよう注意を払った」
Wencker-Wildberg "Bernadotte" p208

「ベルナドットは『恥を晒して』パリにもどってきた。陸軍大臣が彼の布告について話した時、彼はそれを落胆していた兵たちを勇気づけるために出したのであり、それが新聞に載ってしまったことを悔やんでいると返答した」
Barton "The Amazing Career of Bernadotte" p222-223


 だが、もしサヴァリーの書いていることが正しいのなら、奇妙なことになる。サヴァリーによれば皇帝がベルナドットの布告を知り、それが新聞に掲載されたことに対する不満を述べたのは7月11日だ。これはベルナドットの布告が出た4日後のこと。ウィーン北方の野営地でベルナドットが出した布告をフランクフルトの新聞が入手して掲載し、それが再びウィーン近くにいるナポレオンの手元に届くまでたった4日で済むだろうか。現代のような情報化社会ではない。基本的には馬による伝令が中心だったし、シャップの腕木通信はドイツにまでは広がっていなかった(参照)
 それに関連して、ナポレオンの布告は7月11日ではなくもっと後になって出たと指摘する向きもある。例えばRobert Ouvrardは「皇帝の布告は8月5日に喇叭のように響き渡った」(Ouvrard "Batailles d'Essling et de Wagram" Histoire du Consulat et du Premier Empireと記している。Gillも「8月5日、皇帝はこの件に関する秘密の布告を出した」(Gill "With Eagles to Glory" p305)としている。
 もしナポレオンの布告が8月5日に出たのであれば、時間的矛盾はなくなる。7月7日の布告が新聞に載り、それがやがてナポレオンの手元に届いて彼の逆鱗に触れる。一ヶ月の猶予があれば十分に生じ得る事態であろう。ただしその場合、ベルナドットが7月8日に解任された理由として布告を新聞に載せたことをあげつらうのは無理になる。新聞に載ったのがバレたのは彼が解任されたずっと後のことだったのだ。ベルナドットの解任は彼の布告が新聞に掲載されたのが理由ではなく、単に布告を出したこと自体が問題視されたと解釈するほかなくなるのだ。そして、実はサヴァリー自身も新聞に布告が載ったのは解任の後だと述べている。

「皇帝はすぐこの無責任な布告のことを知った。彼は自惚れの強い元帥を呼びにやり、彼を指揮官から外した。この戒めは効果がなかった。ザクセン兵に与えた奇妙な祝福の正当性を保つことに固執したベルナドットは、それを新聞に掲載させた」
Gallica "Mémoires du duc de Rovigo, Tome quatrième" p191-192


 そして最後の問題。果たしてベルナドットの布告はそれほど批判を浴びる性質のものだったのだろうか。ナポレオン自身やブーリエンヌ、マルボなどはベルナドットが最高指揮官でもないのに布告を出したこと自体を問題視しており、それが規則であったとも書いているが、それに対して疑問を呈する研究者もいる。

「フランス軍の将軍たちの間で"ordres de jour flatteurs"という名で知られる兵たちを褒め称える布告を出すことは慣習となっていた。どのフランス将軍もその際に自分たちが『嘘をつかないと宣誓している』などとは考えなかった。将軍たちの好きにやらせるのが普通だった」
Barton "The Amazing Career of Bernadotte" p221


 実際、1812年のロシア遠征時にはレイニエール将軍がこうした布告を出しているらしい。クレメンス公歩兵連隊のフォン=ヴォルファースドルフ中尉の日記によると同年10月にエッセン将軍麾下のロシア軍とビアラで戦闘し、勝利した時に「レイニエール将軍は彼の満足を特別な布告で表明した」(Digby Smith "Napoleon against Russia" p139)という。もちろん、レイニエールはこの布告を出したかどで処罰されてなどいない。

 それでもベルナドットはこの布告が理由で第9軍団長の地位を失った。内容が事実とかけ離れ過ぎていたのか、それともナポレオンとベルナドットの間に存在した緊張関係がこの布告で一気に決壊したのか、詳しいことは分からない。だが、彼の解任について安易に「麾下部隊の取り扱いの誤り」や「無能と不服従」と決め付けることが、実際に起きたことを知るきっかけを失わせているのは確かである。



 ベルナドットがザクセン軍団に出した布告

Saxons, dans la journée du 5 juillet, sept à huit mille d'entre vous ont percé le centre de l'armée ennemie et se sont portés à Deutsch-Wagram, malgré les efforts de quarante mille hommes, soutenus par cinquante bouches à feu; vous avez combattu jusqu'à minuit, et bivouaqué au milieu des lignes autrichiennes. Le 6, des la pointe du jour, vous avez recommencé le combat avec la même persévérance et au milieu des ravages de l'artillerie ennemie, vos colonnes vivantes sont restées immobiles comme l'airain. Le grand Napoléon a vu votre dévouement; il vous compte parmi ses braves.
Saxons, la fortune d'un soldat consiste à remplir ses devoirs; vous avez dignement fait le vôtre.
Au bivouac de Léopoldau, le 7 juillet 1809.
Le maréchal commandant le 9e corps, Bernadotte.
Gallica "Mémoires du duc de Rovigo, Tome quatrième" p193


――大陸軍 その虚像と実像――