1813年7月12日
トラッヘンベルク





“諸国民の戦い”


「連合軍は、ナポレオンが来ればさっさと退却し、別の所で攻勢をかける。あわててナポレオンがそちらへ向かうと、再び踵を返して攻撃に出てくる。要するに連合軍が恐れているのはナポレオンただ一人。あの怪物さえいなければ、新兵ばかりのフランス軍などひとひねり、というわけだ」
森谷利雄「大陸軍その光と影 その4」(タクテクス第5号)p79


 1813年夏。ナポレオンと連合軍は休戦を結んだ。前年のロシア遠征の失敗から奇跡的な兵力回復を成し遂げたナポレオンは春の間にザクセンでロシア・プロイセン連合軍を2回に渡って撃破したが、騎兵を中心とした兵力の再編を進めるために一息入れる時間を欲していた。連合軍にとっても敗北の後だっただけに戦闘行為の中断はありがたいものだった。
 休戦期間入りを受けて積極的に動き出したのは、春季戦役の間武装中立を維持していたオーストリアだった。メッテルニヒは一方で連合軍側として参戦する準備を整えながら両軍の仲介を図るべく動いた。欧州の勢力均衡を目指す彼はこれを機にナポレオンを自然国境の彼方へ閉じ込めようと試みたが、足元の勝利で自信を取り戻していたナポレオンは提案を拒否。その態度は結果としてオーストリアを連合軍側へ追いやることになった。
 その間、連合軍首脳はオーストリアの参戦を前提とした新たな軍編成と作戦計画について話し合いを進めていた。中でも広範囲に散らばった大軍の行動を規定する基礎的な戦略構想を取りまとめることは、寄せ集め部隊である連合軍が効率的に機能するためには必要不可欠だった。彼らがまず会合を持ったのはブレスラウ北方にあるトラッヘンベルクで、そこでは既に対仏戦争に参加していたロシア皇帝、プロイセン国王、そしてスウェーデン皇太子ベルナドットらが顔をあわせている。さらにオーストリア軍も含めて計画の細部についてすりあわせが行われ、最終的にライヘンバッハで連合軍が合意に達したのは7月19日だった。
 この「トラッヘンベルク=ライヘンバッハ・プラン」は見事に機能する。春季戦役においては優勢な立場にあったナポレオンも、休戦が終わって戦闘が再開された秋季戦役では連合軍の思惑に嵌り、苦戦を続ける。そして最終的にはライプツィヒの戦い(諸国民会戦)で、数で圧倒的に勝る連合軍の前に敗北を喫した。「トラッヘンベルク=ライヘンバッハ・プラン」こそがナポレオンの覇権にとどめを刺したのだ。

 トラッヘンベルク=ライヘンバッハ・プランとは、簡単に言えば消耗戦略のことである。ザクセンに展開するフランス軍主力に対し、連合軍はそれを三方から包囲するように部隊を展開した。北にはベルナドット率いる北方軍、東にはプロイセンのブリュッヒャー将軍率いるシュレジエン軍、そして南にはオーストリアのシュヴァルツェンベルク公麾下のボヘミア軍。この3軍はいずれもナポレオンの側面や連絡線に向かって前進する。もし3軍のいずれかにナポレオン率いる主力が接近してきたら、その軍は戦闘を避けて後退する。その間、残りの2軍はさらに前進を続けてフランス軍の後方を脅かす。いずれナポレオンは後方への脅威に対応するため別の方向へ進路を変更するだろう。そうすれば後退していた軍も再び前進に転じる。そうやってナポレオンの部下を相手に小競り合いを繰り広げ、互いの戦力をすり減らしていくことで予備兵力に乏しいフランス軍を追い詰めることが、プランの目的だった。
 もっとも、そうした計画がすぐに合意に達したわけではなさそうだ。Francis Loraine Petreによると、まずトラッヘンベルクでオーストリア軍を除く連合軍首脳によって合意に達した計画は以下のようなものだったそうだ。

「(1)連合軍の全ての部隊は敵の主力部隊がいる方角を目指すべきであり、敵の側面もしくは後方で作戦行動を行う部隊は最短のルートを通って敵の連絡線を目指すべきだということを基本的な原則として定める。
 (2)主力部隊は敵がどの方向へ向かおうともそれに対して前進できる場所に布陣する。要塞のようなボヘミアの突出部はこの行動を容易にするであろう。
 (3)休戦期間終了の数日前にシュレジエン軍のうち9万人から10万人がランズフート、グラーツ、ユング、ブンツラウ、そしてブディンを経由してオーストリア軍に合流するよう移動し、その兵力を20万人以上まで増やす。
 (4)ベルナドットはハンブルクを見張るための1万5000人から2万人を残したうえで、残る7万人を率いてトロイエンブリーツェン付近に布陣することで、エルベ河をトルガウとヴィッテンベルクの間で渡ってライプツィヒへと前進できるようにする。
 (5)シュレジエン軍は敵がエルベ河へ後退するならばそれに追随するが、並外れて有利な状況にならない限り本格的な戦闘は行わないようにする。エルベに到着した後は、ベルナドットと合流するためドレスデンとトルガウの間で渡河を試みる。それが不可能な場合、すぐにボヘミア軍と合流すべく行軍する。
 (6)ボヘミア軍は状況に応じてエーゲル、ホーフ、シュレジエンのいずれかに前進するか、或いはドナウ河へと退却する。もしナポレオンがこの部隊を攻撃するなら、ベルナドットは強行軍を行ってその背後に襲いかかる努力をする。
 (7)同様に、もしベルナドットが攻撃目標となった場合は、ボヘミア軍とシュレジエン軍はナポレオンの連絡線に襲いかかり、本格的な会戦を強要する。
 (8)全連合軍は敵のキャンプを目的として攻勢を取る。
 (9)ロシア予備軍を率いるベンニヒゼンはカリッシュを経由してグローガウへ行軍し、敵を攻撃するか敵のポーランドへの前進を阻むことができるようにする」
Petre "Napoleon's Last Campaign in Germany 1813" p181-182


 まとまりに欠けた内容であり、相互に矛盾している部分すらあるが、(5)から(7)を見ると単独でナポレオンと戦うのは回避するという基本方針については一致していた様子が窺える。そして、オーストリア軍も含めてライヘンバッハで合意に達した時には、その内容は次のようなものになっていた。

「(1)連合軍は要塞に対してはこれを包囲せず、封鎖するにとどめる。
 (2)主力部隊は敵の側面及び連絡線に対して作戦行動を行う。
 (3)連絡線への攻撃により、敵は派遣隊を送るかもしくは主力をもって脅かされた地点へ急がざるを得ない。
 (4)敵が分かれた時で、かつ連合軍が圧倒的に有利にある時のみ敵を攻撃する。
 (5)もし敵が大軍をもって連合軍の一軍に向かってきた時はその部隊は退却し、残る二部隊は前進する。
 (6)全軍が集結する場所は敵の司令部とする」
Petre "Napoleon's Last Campaign in Germany 1813" p183-184


 こちらの方がはるかに簡潔にまとまっている。実際にはライヘンバッハで合意文書は作成されなかったそうで、上の文章は1813年11月にシュヴァルツェンベルクが記した覚書に基づくものだが、連合軍が採用した戦略の基本的な発想が上のようなものであったことは間違いあるまい。連合軍はこの戦略を活用して戦神ナポレオンを追い詰め、敗北へと追い込んだのだ。

 問題は、この戦略を編み出した張本人はいったい誰だったのかということにある。実に多くの人間が発案者として名を上げられている。プラン作成の過程が極めて錯綜していたことが、こうした混乱をもたらした理由だろう。

「この目的のために多くの会議が開かれ、次々と戦略案が提示され議論された。(中略)この件から言えることは、当時の幕僚将校たちはブルボン王家のように、何も学ばず、何も忘れようとしなかったということだ」
Frederic Natusch Maude "The Leipzig Campaign" The Struggle of Nations Scenario Folder, p32

「連合軍のプランは確定するまでに何十もの段階を経なければならなかったし、その時点でもそれは複雑な合成物でしかなかった」
Chandler "Campaigns" p901


 実際に論議の経過を詳述したPetreの本を読むと、プランの正体が「複雑な合成物」であるとの説明も一理あるように思える。

「論議の対象になった多くの案の詳細を描き出すことは不可能である。彼らはまず6月9日にトール[ロシアの将軍]が書いたものから始めた。同時にラデツキー[オーストリアの参謀長]が別の案を出した。トールの案はバルクライ[ロシアの将軍]が修正した。ベルナドットは3つのプランを送ってきたが、それは予想通り、全般に連合軍の大義より彼自身の利益を狙ったものだった。彼は、彼自身及びナポレオンを除くと何者にも相応しくない全連合軍の指揮官という立場に任命されることを望んでいた。
 そしてクネーゼベック[プロイセン国王の側近]の記した案と、さらにボルステルとフォン=ボイエン[いずれもプロイセンの将軍]が用意した2つの案が論じられた。クネーゼベックは全軍の3分の2をボヘミア軍に、3分の1を北方に配置するよう求めた。結果として指揮権はベルナドットとオーストリア軍の間で分割され、プロイセンとロシアは全く排除されることになる。トールとクネーゼベックの案をつなぐ手段として、ベルナドットに北方軍の大きな指揮権を与え、シュレジエン軍のうち5万5000人を除いた部隊をボヘミア軍の支援に送ってボヘミア軍を主力とし、残った5万5000人の指揮をプロイセン軍に残すとの案が示された。ロシア軍は何の指揮権も残されないにもかかわらず明らかにこの計画を受け入れた。しかし、オーストリア軍は全シュレジエン軍をボヘミアへ移すことを目論んでいたクネーゼベックの計画の方を好んだ。明らかに連合軍の多くはナポレオンがボヘミアに対して攻勢を取るだろうと推測していた」
Petre "Napoleon's Last Campaign in Germany 1813" p180-181


 同様にこのプランが様々な人間のアイデアを合算したものだという説としては、以下のようなものもある。

「将来の戦争指導についてシャルンホルスト[プロイセン軍の参謀長]が6月に死ぬ前に思い描いていたのは、連合軍は分散して前進し、その後に決定的な戦闘の機会が生じれば積極的に集結すべきだというものだった。一方、オーストリア軍のドクトリンはカール大公――広く尊敬されていた軍人で、アスペルン=エスリングにおいて初めて戦場でナポレオンを破った敵となった――の著作に基礎を置いていた。このドクトリンは注意深い機動と作戦拠点の安全という、より18世紀流の軍事思想を支持していた。慎重さに基礎を置いたこの哲学は一つの会戦に賭けるよりもハプスブルク帝国の存続にとって効果的だった。かくしてオーストリア軍参謀長である中将ラデツキー伯が5月と6月に記した作戦覚書は、敵軍の壊滅が連合軍の主要目的であると主張しながら、実際は大規模な戦闘より損耗戦略を通じてナポレオンの戦力をすり減らすことに頼ったものとなった。ボヘミア軍はフランス軍の連絡線へと前進すべきで、『他の連合軍が我々と合流するまで優勢な敵との会戦は避けるべきだ』と主張したのはシュヴァルツェンベルクだった。
 ロシア皇帝の相談役だったトールはいくつもの独創的なプランを提示したが、プロイセンとオーストリアの案を折衷することで最終的にまとまったプランの生みの親となったのも彼だった。その過程で彼を支援したベルナドットは、彼自身が全指揮権を握る計画を妨害されながらも、『オーストリアの中心部を偉大なナポレオンの墓とする』ことを提案した」
Jonathan P. Riley "Napoleon and the World War of 1813" p116-118


 Petreはトール、ラデツキー、バルクライ、ベルナドット、クネーゼベック、ボルステル、フォン=ボイエンらの名を上げ、Rileyはシャルンホルスト、カール大公、ラデツキー、シュヴァルツェンベルク、トール、ベルナドットといった面々を紹介している。実際、彼らが指摘するように、最終的に計画がまとまるに際しては大勢の人間が関与したのは事実だろう。
 だが、それでは彼らの中で「ナポレオン率いる主力との交戦は可能な限り避け、彼のいない所で攻勢に出る」という、最も基本的なアイデアを提示したのが誰かとなると、論者の意見は一致しなくなる。研究者によってプランの「生みの親」が誰であるかに関する説明が違うのだ。

 まず、スウェーデン皇太子であり、前フランス帝国元帥であるベルナドットの名を上げるものがいる。

「彼[ベルナドット]はすぐに彼自身の20年に及ぶフランス軍の戦略に関する経験を彼の同盟国に示した。会合における彼の忠告は、持久戦法によってナポレオンを消耗させること、彼の暴君的な企図に反対する世論を盛り上げること、皇帝自身が指揮している時には会戦を避けること、そしてあらゆる機会を捕らえて彼の部下と戦うことだった。
 (中略)戦役計画を作り上げたのはベルナドットであり、会合における協議を誘導し固め上げるために影響力を及ぼしたのが彼の人となりであることは一般に認められている」
Dunber Plunket Barton "The Amazing Career of Bernadotte" p283

「彼[ベルナドット]は彼ら[連合国]に対し彼の知る戦争におけるナポレオンのやり方を話し、ナポレオンの元帥たちの弱みと相互の対立関係について詳しく説明した。彼は戦場と銃後でナポレオンを消耗させるために遅滞戦術を使うよう忠告し、もし連合軍の3軍(彼自身が率いる北方軍、ブリュッヒャーのシュレジエン軍、そしてシュヴァルツェンベルクのボヘミア軍)のいずれかが攻撃されたなら、その軍は他の部隊がやって来るまでの時間を稼ぐために後退することを提案した」
T. A. Heathcote "Serjent Belle-Jambe" Napoleon's Marshals p32


 かつてナポレオンの下で戦ったことのあるベルナドットが、その知識を活用してトラッヘンベルク=ライヘンバッハ・プランの基礎になる考え方を提示したという訳だ。ナポレオン自身もその可能性を疑っていたという。

「セント=ヘレナ島で皇帝は、彼自身との衝突を避け元帥たちを各個撃破することで勝利する方法を連合軍に示したのはベルナドットだと明言した。大いなる悲痛と伴に彼は『彼が我々の敵に対し、我らの政策と我が軍の戦術の鍵を明かし、フランスの聖なる土地へ達する道を示した』と付け加えた」
Richard Phillipson Dunn-Pattison "Napoleon's Marshals" p73


 また、トラッヘンベルクの会合に加わっていたと見られるイギリス政府関係者が「ベルナドットの提示した戦役計画について合意がなされた」(Barton "The Amazing Career of Bernadotte" p283)と記しているとの指摘もある。そのためもあってか、ベルナドット「生みの親」説はそれなりに広く知られているようだ。

 しかし、これが定説になっている訳ではない。異論はたくさんある。例えばロシアのトール将軍は自身が果たした役割が重要であると主張しているようだ。

「この[トラッヘンベルク]会合はフォン=トールが[7月]12日にロシア皇帝、プロイセン国王、そしてベルナドットに示したプランに帰着した。(中略)フォン=トールの記述によれば、これが1813年戦役に勝利した戦略の誕生である」
Digby Smith "1813: Leipzig" p14


 スウェーデンやロシアに負けじとプロイセンも戦略立案の生みの親を自分たちの陣営に求めているようだ。そこで引っ張り出されるのは、もちろんプロイセン軍制改革の英雄であるシャルンホルストでありグナイゼナウである。このうちシャルンホルスト自身はトラッヘンベルクの会合前に死んでいるのだが、それでも彼らこそが本当の立案者だと指摘する人もいる。

「一八一三年の秋季戦役と一八一四年にかけての冬季戦役の戦略構想は、どちらもほとんどがグナイゼナウの功績だった。特に秋季戦役の作戦計画に彼の将帥としての天分が発揮されている。ただし基本構想はまだシャルンホルストの計画に基づいていて、中部ドイツのチューリンゲンとザクセンに集結中のナポレオン軍主力を、三方向から発進する三個軍で包囲するのである。(中略)もしナポレオンがこれら三個軍のどれか一つを攻撃してきたら、それが退避しつつある隙に他の二個軍がナポレオンの側面または背後に回り込むことになっていた」
ヴァルター・ゲルリッツ「ドイツ参謀本部興亡史」p70

「1813年5月31日、シュヴァルツェンベルク公とラデツキーがプラハに行き、ブリュッヒャーの参謀長で致命傷を負ってかの地の病院にいたフォン=シャルンホルストに会った。そして『トラッヘンベルク』プランの原則は、この3人の間でこの日交わされた議論の結論として生まれた。フォン=シャルンホルストの偉大な精神力と戦略的原則に対する理解を考えに入れるなら、こちらの方がより蓋然性が高いと思われる」
Smith "1813: Leipzig" p14


 だが、実は諸説ある中でおそらく最も有力なのは以下の説だろう。

「多くの同時代人が所謂トラッヘンベルク・プランの著作者であることを主張しているが、その権利はオーストリアのラデツキー・フォン・ラデッツ伯に所属する。彼の計画はオーストリア軍と3つの主要な連合軍部隊の協力に依存していた」
Michael V. Leggiere "Napoleon & Berlin" p128


 オーストリア軍参謀長のラデツキーこそがトラッヘンベルク=ライヘンバッハ・プランの製作者であるとの指摘する者はLeggiere以外にも大勢いる。

「1813年秋の連合軍の戦略を導いた計画――所謂トラッヘンベルク・プラン――の作者はラデツキーだった」
Gunther E. Rothenberg "Napoleon's Great Adversary" p230

「今日ではウィーンの宮廷がナポレオンに対する戦役に参加する最後の決断を下す以前からオーストリアが軍事計画を作っていたのはよく知られている。1813年3月17日の時点で既にラデツキーは作戦計画を提出しており、それはプロイセン及びロシアと連携するものであった」
Kurt Mitterer "Bemerkungen zur Schlacht bei Leipzig im Jahre 1813" Offiziersgesellschaft Salzburg

「1848−49年のイタリア戦役で未来の英雄となるラデツキーは、1813年の秋季戦役で3つの軍の機動を導いた戦略計画の作者だった。ただし、この名誉に関する彼の主張はロシア人とスウェーデン人から異論が出された」
Gordon A. Craig "Problems of Coalition Warfare"
Harmon Memorial Lecture Series

 彼らがそう主張するのは、ラデツキーが計画をまとめた時期が他の候補者たちが主張する時期より前だったからだ。ラデツキーが最初に対仏戦争計画をまとめたのは、Mittererによるとまだ春季戦役が本格化する前の3月時点だった。

「そのプランには敵を後方の連絡線から遮断し、北部及び南部ドイツからの集中的な攻撃によってナポレオンの軍隊を分断するという根本的なアイデアが含まれていた。オーストリア軍の攻撃はドナウ渓谷沿いに実行され、プロイセンとロシアの部隊はエルフルト―バンベルクの線を進んでマインツからライン河の地域を獲得する。ラデツキーは既にこのプランの中に後の作戦計画の核となる哲学を盛り込んでいた。即ち、多くの軍が同時にナポレオンの軍隊と対峙して敵を疲労させるというものだ。少なくとも最初の時点において連合軍は早々に個別に撃破されないようナポレオンとの深刻な衝突は避けることになっていた」
Mitterer "Bemerkungen zur Schlacht bei Leipzig im Jahre 1813"
Offiziersgesellschaft Salzburg

 Rothenbergも同じく3月にラデツキーが最初の計画を作ったとしているが、彼によるとその計画の中身はMittererの描いているものと必ずしも同じではなかったようだ。

「[対仏戦争への]介入を予想して彼は2月に兵站将校としての決まりきった仕事をビーネンタール大将(Feldzeugmeister)に委ね、連合軍としての合同作戦計画立案を始めた。3月に彼はドイツに残されたフランス軍を壊滅させたうえでライン河へ進軍する計画を提出した。しかし、ナポレオン軍の急速な回復と連合軍のどの指揮官も皇帝に正面から対抗する能力がないことに気づいて、彼はこの計画を放棄し消耗戦に基づいた案に切り替えた」
Rothenberg "Napoleon's Great Adversary" p230-231


 3月時点での計画には、後のトラッヘンベルク=ライヘンバッハ・プランにつながるようなものはまだなかったというのがRothenbergの見方だ。さらにCraigになると「早くも1813年5月に、彼[ラデツキー]はオーストリア軍の戦争介入を見越して上官に作戦計画を出した」(Craig "Problems of Coalition Warfare" Harmon Memorial Lecture Seriesと第一案をまとめた時期も違っている。
 だが、彼らもMittererも、ラデツキーが情勢の変化に合わせた新たな計画を6月までにまとめていたことでは一致している。ラデツキーはこの計画をロシア軍のトール将軍に提示したそうだ。

「ラデツキーはこの状況を計算に入れて、連合軍を指揮するための新たな計画を6月10日に提出した。(中略)この作戦計画は最終的にトラッヘンベルクで連合国によって承認され、すぐに実行に移されることになった」
Mitterer "Bemerkungen zur Schlacht bei Leipzig im Jahre 1813" Offiziersgesellschaft Salzburg

「6月にラデツキーはロシア皇帝の参謀長だったトール将軍と会い、この将校は彼に完全に同意して7月のトラッヘンベルクでの連合軍会合に計画を提出し、認められた」
Rothenberg "Napoleon's Great Adversary" p231

「6月に彼[ラデツキー]はロシア皇帝の兵站将校だったトールとギッチンで会い、この将校が彼の考えに完全に同意していることを知った。そして7月に連合軍が(オーストリア軍を除いて)トラッヘンベルクに集まった際には、彼らはベルナドットとトールの提出したラデツキー自身の計画とよく似た作戦計画を受け入れた。さらに後にその計画は彼[ラデツキー]の構想とより調和するよう修正された」
Craig "Problems of Coalition Warfare"
Harmon Memorial Lecture Series

 Craigが指摘している「後の修正」にもラデツキーが大きな影響を及ぼしていた様子は、Petreの本に記されている。

「そしてトラッヘンベルク・プランがオーストリアの承認を得るために送られてきた時、オーストリアは極めて有利な状況にならない限りナポレオンとの本格的な衝突は避けるという命令について、連合軍側の3軍全部に適用するべきだと主張した」
Petre "Napoleon's Last Campaign in Germany 1813" p183


 その結果が、上で紹介したライヘンバッハの作戦計画になったという。
 ただし、ラデツキーが計画の生みの親であるとの指摘を否定する向きがいるのも事実。ナポレオン戦争期のオーストリア軍研究者として有名なDavid Hollinsは「1813年にトラッヘンベルク・プランを生み出したという彼の主張は疑問の余地がある」("Austrian Commanders of the Napoleonic Wars" p50)としている。

 いずれにせよ、リュッツェンとバウツェンの戦いで正面からナポレオンに挑んで敗れた連合軍にとって、トラッヘンベルク=ライヘンバッハ・プランは起死回生を図る手段となった。「トランジメーノの戦い後のクウィントゥス・ファビウスのように、連合軍はナポレオン軍をすり減らすために時間と消耗に頼った」(Esposito & Elting "Atlas" map133)。そして、ナポレオンはその術中に陥った。彼は決定的な勝利を求めてザクセンの戦場を彷徨い、次第に兵力を失い、連絡線を脅かされ、追い詰められていった。そして、最後の勝負を求めてライプツィヒに部隊を集結させた彼の前に姿を現したのは、2倍近い兵力を誇る連合軍の大軍だった。ナポレオンは敗れ、撤退した。彼は冬将軍ではなく、連合軍に負けた。ナポレオンの没落は決定的になった。
 歴史を変えた作戦計画であるトラッヘンベルク=ライヘンバッハ・プラン。その本当の「生みの親」が誰なのかという問題は、今後も議論の対象になるだろう。だが、真にナポレオンを打ち負かしたのが、この計画に従って苦しい行軍を続け、最後にライプツィヒの戦場で血を流して戦った兵士たちだったことは忘れてはならない。

――大陸軍 その虚像と実像――