カール大公がドイツ全諸侯に送った回覧状
1799年8月19日



 カール大公殿下が皇帝の部隊及び帝国元帥の立場で全諸侯に送った帝国軍への派遣部隊供給に関する回覧状、1799年8月19日付

 帝国の戦争状態が再開されたことに関する帝国議会への布告と、国家が支配しているその参加者の義務とが、諸君にかつて私が心を奪われていた我が国の名誉と幸福のために完全に必要なもの、即ち皇帝の軍と帝国軍に派遣部隊を供給するという主題に関する私の考えを伝える機会を利用できるようにした。
 ドイツが心から平和を望んでいたラシュタットの交渉におけるフランスのやり口は、広く知られている。休戦期間中にどのようにしてドイツ帝国への罪が犯され、スイスの征服によって侵略と革命の新たな脅威に晒されたかも、また知られている。交渉中に存在する条約に反して行われたエーレンブライトシュタイン要塞へのやり口も、歴史において前代未聞の出来事だ。要するに、和平交渉が始まった時以来彼らが犯している一般的な諸国民の権利に対する不法行為は、彼らがドイツに対する戦争の再開だけでなく、かつて分裂していなかった時には極めて手強かったこの古の同盟の破壊と征服を決心していることについても疑問を残さないものである。実際にこの目的のための準備がなされた。敵の作戦計画は、その物理的な点においては、彼らが1796年と1797年に始めたものと同じであった。ジュールダンの軍は、イタリア及びスイスの軍と合流して帝国の中心部へ侵攻すべく、シュヴァーベンを占領した。計画を実行するに際して唯一異なったのはそのやり方で、フランス政府の不誠実な政策は、平和的心情の仮面の下で我々の防衛手段を弱め、より少ない抵抗下で最も危険な絶滅戦争を実行すべく、我々を騙した。彼らは狡猾に言葉の真の意味を歪め、そのような軍事的配置は状況に求められて行ったものに過ぎないというふりをしながら、その限度については発言しなかった。フランスの全軍はその陣地から前進した。総裁政府と将軍たちの脅しを添えた曖昧な宣言(しかしながらその目的は明白である)が、それに先行した。休戦協定締結によって定められた線は、合意されていた事前の通知なしに破られた。シュヴァーベンは侵略され、少なくとも文明化された諸国における敵地よりも酷い扱いを受けた。既に今年3月6日には、グリゾン地方で指揮を執るアウフェンベルク将軍に対して何の事前通知もないままグリゾンとフォーラルベルク地方がマセナに攻撃された。一方、ジュールダンの軍は何の宣戦布告もないまま、ドイツの異なる地点に前進した。敵はマンハイムの市街と要塞を占拠し、最も不名誉なやり方で守備隊を武装解除した。ベルナドット将軍はフィリップスブルクの指揮官に対し、諸国民の権利に関する最も聖なる原則を足下に踏みにじった手紙の中で彼を脅し、降伏を要求した。執政官に対しては皇帝と帝国に対する裏切り者になることを求め、そしてフィリップスブルクを贈賄、陰謀、秘密の計画によって獲得しようと試みた。彼は敵の残忍な目的を明らかにし、全ドイツ人の胸を嫌悪で満たす布告を発した。
 これらのフランス人による敵対的なやり口の結果、私は麾下にある兵と伴にレッヒ川を越えて前進し、陣を敷いてドイツの名誉と保護のために状況に完全に応じた予防的な対応を取った。オストラッハまで前進していた敵は、その地とシュトックアッハで打ち破られた。スイスへ敵を追撃することにより、私はドイツの左翼を安全にしようと試みた。帝国のいくつかの国は既にその権利、領地及び歳入を回復している。行われた多くの行動と、フランス総裁政府が公言しているところから、敵の計画が成功していた場合のシュヴァーベン、バイエルン、及びフランケンの周辺クライスの運命がどのようなものであったかは、もはや秘密ではない。そして敵に対する勝利によってドイツの安全のため多くのことが成し遂げられた点は認めなければならない。これの説得力ある証拠として、過去にフランスの陰謀、専制的脅迫、及び抑圧に晒されていたいくつかのドイツ諸侯が既に享受している安定がある。この点は、我々が再び強いられている戦争こそが、素早く、本物で永続する平和を実現する唯一最良の手段であることを確証する。同様に重要な他の目的がまだ残っている。即ち、我々が得た優位を確固たるものにすること、敵を完全にドイツ領から追い払うこと、そしてその国境を確保することだ。ドイツの国境要塞は未だ彼らの手にあり、ドイツ国家のかなりの国力を占め、再び彼らの祖国に加わることを望む地域が未だ彼らの圧制の頚木にかけられている。ラシュタットの交渉は、彼らが望む時に自身はほとんど危険にあうことなく再びドイツを侵略するための力を完全に保つことを、どれほどフランス人が望んでいるかを明らかに示した。しかしドイツの安全のために多くのことが既に成し遂げられた今こそ、古の境界を取り戻し、かつての尊厳、統合、自由、そして独立を得て、その権利、領土、及び財産、諸侯と個人を回復し、最も屈辱的な抑圧から救い出し、名誉ある永続的平和を結ぶのに相応しい。しかしこの偉大な目的を達成するには、これまでにフランス人のやり口によって同様に侵害されており、その将来の安全と独立が同じ危険に晒されているドイツ諸侯が、これ以上自分たちを侮蔑と伴に扱われることなく、直ちにその全ての力を糾合して、連携することによってその勇気を何度も証明してきたこの強力な同盟の全構成員を脅かす同じ危険をもたらす敵の陣を攻撃することが完全に必要である。今こそ相互に誠意を持ち、公共心と調和を増し、我々の国を我らの敵の強奪、野心、そして計画から守るあらゆる手段を用いるべき時である帝国の全諸侯がその義務を果たし、特に5倍の派遣部隊を供給すれば、1794年12月22日、1795年2月10日、同7月3日、同11月19日の帝国での決議を根拠に宣言された講和条件に敵がすぐ応じることを強いられるのは疑うべくもない。我々は敵がその古の境界まで追い払われるだけでなく、ドイツの安全と独立に対するさらなるあらゆる計画をやめることを余儀なくされるであろうと確固として信じる。私は、今こそ帝国とそのあらゆる構成員が将来の安全と幸福を手に入れるに適切な時だと完全に確信しており、差し迫った状況と陛下及び帝国から受けた命令ゆえに特に私がしなければならない憲法に基づく派遣部隊供給の強制的要求をすることが帝国元帥としての義務だと考えている。
 皇帝陛下は長年にわたって巨額の費用と彼が使えるあらゆる手段をもって防衛策を講じており、そしてドイツの保護がほとんど皇帝の軍単独で成し遂げられたことから、私は帝国の構成員がその義務を果たし、可能な限り素早く派遣部隊を供給するための措置を取ることを期待する権利があると考えているし、彼らに信頼を抱いている。

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8" p318-320


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