ロンドン・ガゼットの記事
1799年7月27日



 カール大公殿下は先月28日付及び29日付の報告で、伯爵メールフェルト将軍が伯爵スタライ中将の命令でハズラッハを越えて偵察隊と伴に前進し、敵をオッフェンブルクの周辺から追い払い、26日に伯爵メールフェルト将軍がそこを占拠したことを伝えてきた。
 敵はケールへ退却した。メーフェルト将軍とゲルガー将軍は、前者がゲンゲンバッハに、後者がオッペナウに布陣した。
 この遠征で大佐1人、士官6人、及び兵240人の捕虜を得た。フランスの第10及び第23騎兵連隊はほぼ寸断された。我々の損害は大したことはなかった。
 伯爵スタライ中将は、この機に著しく名を上げた者たちの名を送るつもりである。
 ここで殿下が送ってきた6月4日のチューリヒ近くの戦いに関する詳細な話を伝える。

「フランス軍が5月27日のヴィンタートゥール近くでの敗北後、クラット川を越えて退却することを余儀なくされ、そして6月1日に約1万から1万2000人の兵力でトーズ川沿いの我が右翼に対してローアバスとウンター=エンブラッハで不成功に終わった攻撃を行い、彼らの後衛がクラット右岸から後退を強いられたところで、殿下は彼らをリンマットの対岸までは無理でも、少なくともチューリヒ付近の彼らの防衛陣地内まで取り除き追い払うことを決断した。殿下が様々な報告を受けていたその陣地の正確な状況を突き止められる状態にすることで、そこに対する攻撃を準備し命令できるようにするためである。
 ヴィンタートゥール奪取直後、殿下はイェラチッチ将軍に軍の左側面を援護するためプフェフィコンへ行軍するよう命じた。そして敵がクラットを渡るや否や伯爵ベイ将軍はグライフェンゼーへ、そしてイェラチッチ将軍はグリメンゲンへ行軍し、そこからチューリヒ湖とクスナッハ湖沿いに前進するよう命じられた。
 6月2日、軍はクラットへ前進し、トゥーベンドルフの橋を奪った。伯爵ベイ将軍は敵を蹴散らし、シュヴェルツェンバッハ付近でクラットを渡り、そこからヴィティコンへ進んだ。同時にイェラチッチ将軍は敵に多大な損害を与えてツォリコンから追い払い、そこに陣を敷いた。
 ホッツェ中将はロートリンゲン公ヨーゼフ元帥[ママ]をトゥーベンドルフ付近に置き、ベイ伯爵と共同でヴィティコンの高地を支配するよう命じた。彼[ホッツェ]自身は自らの縦隊と伴に、ヴィンタートゥールからチューリヒへの街道上にあるヴァリゼレンにあった。殿下は彼と、左翼の全部隊の指揮及び攻撃行動について相談した。
 公爵ロイス元帥[ママ]は4日の夜明け前、彼の師団と伴にクロッテンからチューリヒへ通じる街道上のクラット右岸にある高地に置かれ、前衛部隊を指揮している公爵ローゼンベルク将軍は既にクラット橋を自らのものにしていた。4日早朝、敵はヴァリゼレンでクラットを渡る橋に火をつけることに成功した。炎を消すことも、他の橋を架けることも無理だった。というのも敵はシュテットバッハからシュヴァンマーディンゲンまでの全域を見下ろすチューリヒベルクと呼ばれる山の下り斜面に数多くの砲兵を持っていたためで、橋を架けるためのあらゆる試みは無駄だった。その結果、ホッツェ中将は後方に第60ハンガリー連隊と騎兵の一部隊、及び予備砲兵の1個中隊を伯爵プロンケット大佐の麾下に置き、あたかも本気でそこを渡ろうと意図しているかのように絶えず陽動することを命じた。その間、元帥[ママ、ホッツェ]はトゥーベンドルフにいる縦隊と伴に、シュテットバッハからシュヴァンマーディンゲンまで布陣している敵の右側面から攻撃するべく行軍した。
 左翼は既に敵と交戦していた。イェラチッチ将軍は彼らからいくつかの拠点を奪い、彼らをリースバッハ対岸、チューリヒの城壁のところまで追い払った。伯爵ベイ将軍は彼らをヴィティコンから追い出し、キルシュラント村から取り除いた。ロートリンゲン公ヨーゼフの前衛部隊を指揮していた伯爵オレイリー将軍は彼らにアルダースベルゲンとドベルホフの放棄を余儀なくさせ、中将ロートリンゲン公がベイ伯爵と合流するためヴィティコンに布陣する間、その場にとどまった。
 この中将の縦隊の移動は完全な効果を発揮した。攻撃は正しい判断と勇気、秩序をもって行われ、敵はあらゆる方面で退却した。しかし殿下にとって遺憾なことにシュテットバッハでホッツェ中将がマスケットの銃弾で腕に僅かな怪我を負い、しばらくは縦隊と伴にとどまり彼らをシュヴァンマーディンゲンまで率いたものの、そこで指揮権をペトラッシュ中将に譲らざるを得なくなった。
 殿下は敵の左翼陣地に接近し、そうすることでペトラッシュ中将の前進を助けるため、ロイス公の師団を縦隊に配置し、ローゼンベルク公に前衛部隊と伴にクラットを渡り敵をゼーバッハ及びその近辺から追い返すよう命じた。
 予備の部隊はロイス師団の位置を占めた。ローゼンベルク公は敵をゼーバッハから追い払い、オルリコンとアフォルテルンへ前進した。その間、ロイス公は彼の師団に従い、ゼーバッハの高地に戦線を敷いた。
 ペトラッシュ中将の縦隊がシュヴァンマーディンゲンへ前進した時、伯爵プロンケット大佐は彼の連隊と伴にクラットを渡り、縦隊に再合流した。
 我々の継続的な前進のため、敵は自らの陣の安全に不安を抱き始めた。彼らは背後に予備として置かれていた擲弾兵たちを、主にマセナ将軍のいた右翼を強化するべく前進させた。しかし彼らの骨折りは我が兵たちの熱意の前には無力だった。
 ペトラッシュ中将はシュヴァンマーディンゲンからかなり前進したため、彼の前衛部隊はシュヴァンマーディンゲンからチューリヒベルクへの街道から斜面を登っている敵防御柵の真ん中近くまでやってきた。同時にローゼンベルク公は、敵が有利な高台に布陣し周囲の砲兵隊の大砲に守られているにもかかわらず、敵にオルリコン村からの立ち退きを強いた。彼は村と高台、そしてオルリコン前面の小さな森を占領し、そうすることでローゼンベルク公とペトラッシュ中将が完全に合流した。直後に騎兵4個部隊が、オルリコンと、シュヴァンマーディンゲンからチューリヒへの街道との間にあるなだらかな上り坂に沿って配置された。この隆起は彼らを敵の射撃から守り、敵が陣の中央から何かを試みる際にはその側面に襲い掛かることができる状況にあった。しかしながら彼らは何らそうした試みを成さず、代わりにその左翼が高地を奪うことでローゼンベルク公の軍を退却させるためゼーバッハの高地にいるロイス公の師団を攻撃した。
 彼らはこの攻撃を何回か繰り返したが、常に多くの損害を出して撃退された。
 しばらくの間殿下は、敵の右翼が布陣し防御柵が存在しているチューリヒベルクへ向かう主な隆起からの射撃が、常にアルダースベルガー=ホフ近傍の同じ場所にとどまっているのを観察した。そこで彼はヒラー将軍麾下にあるテゲトフ及びトゥフ擲弾兵大隊と、ゼボッテンドルフ将軍麾下のフェルディナント大公[連隊]の2個大隊に、シュヴァンマーディンゲンへ行軍し、防御柵へ前進して、オレイリー将軍が彼のいる方面から前進できるよう可能ならそこを突破することを命じた。
 殿下はこの縦隊と左翼全体の指揮を砲兵将軍ヴァリス伯爵に与えた。彼は擲弾兵の先頭に立って前進し、チューリヒベルガー=ホフ近くの森から出撃し、隊列を組み、敵に向かって極めて勇敢に行軍した。しかし彼はすぐに脚に実弾による打撲傷を受けた。そしてすぐ後にヒラー将軍も同様にマスケットの銃弾で負傷した。
 地形が困難で、徒歩でなければ兵を率いることができなかったため、双方とも戦場から立ち退くことを余儀なくされた。しかし攻撃は男爵ゼボッテンドルフ将軍の指揮下で継続された。擲弾兵は、フェルディナント大公[連隊]の1個大隊と伴に銃剣攻撃を行い、防御柵を突破して砦を奪った。しかし彼らはこの優位を放棄することを余儀なくされた。敵が同時に予備の部隊と伴に、一部は防御柵の中に入り残りは彼らに続こうと試みていた[オーストリア軍]縦隊の先頭を攻撃したためだ。
 夜が迫り全てのさらなる試みが不可能となったため、ゼボッテンドルフ将軍は縦隊と伴に退却し、フェルディナント大公[連隊]の1個大隊をチューリヒベルガー=ホフへ向かう森に布陣させ、残る兵をシュヴァンマーディンゲン近くに配置した。会戦は午後9時まで続いた。
 我々は敵をその陣地まで押しやり、殿下がそれを調べられるほど近くまで接近し、攻撃計画を立てた。
 この日、全ての兵は著しくその名を上げた。
 将軍たち、特に砲兵将軍ヴァリス伯爵、男爵ホッツェ中将、ロイス公、及びペトラッシュ、さらにイェラチッチ、ベイ伯爵、オレイリー伯爵、ローゼンベルク公爵らの少将たちは、その軍事的知識と際立って勇敢な範を示すことで、戦闘の幸運な結果に最も貢献した。
 ホッツェ中将とペトラッシュ中将は、特に第60歩兵連隊の伯爵プロンケット大佐、スクラヴォニア・ユサール[連隊]のヴィーダーベルク中佐とフレーリヒ大尉、ベンダー[連隊]のアルトシュテッテン中佐、第4ペーターヴァルダイン大隊のエトヴェス少佐、補給部隊幕僚のロンベルク及びバウムガルテン大尉、ヴァラキア第1連隊のグラッツェ大尉らの活動と熱意を、そして期待できる最大限の情熱と知識をもって任務を遂行した砲兵のヴァッヒェンブルク少佐を称賛した。
 大いなる活動によって自らも名を上げた中将ロートリンゲン公は特に、常に伯爵オレイリー将軍と伴に前衛部隊の先頭にあって自らの範で兵を活気づけた補給部隊幕僚のサレット大尉、コーブルク竜騎兵連隊所属でオレイリー伯の従卒だったダルケン中尉、同連隊の公爵ベルンブルク=ヴィトケンシュタイン中尉、そして彼[ロートリンゲン公]の従卒である中尉テュイレン男爵を評価した。
 イェラチッチ将軍は、皇帝歩兵[連隊]のジョンソン大佐とラマリーヌ中佐、第2槍騎兵連隊のブレットシュナイダー及びハルニシャー大尉、ヴァルデック[連隊]の男爵ジャコビ少佐とシュタイガート大尉、シュタイン歩兵[連隊]のシェーンタール中佐、ツラバ及びベルマンス大尉、ムンツハウゼン中尉、モデナ竜騎兵[連隊]の公爵バルトロッツィ大尉、砲兵隊の工兵クッテン、そして彼[イェラチッチ]の従卒ペトリチェヴィッチ中尉と、補給部隊幕僚のマイアー大尉を評価した。
 ゼボッテンドルフ将軍は、擲弾兵たち及びフェルディナント大公連隊全体の勇気と、特にフェルディナント公[連隊]のカンディアニ大佐とメリッツ少佐、擲弾兵[大隊]のテゲトフ中佐、ハンマー及びヘルメス大尉、補給部隊幕僚のツォリッチ大尉とフィアー中尉、及び彼の従卒であるクヘル=ド=ヴァン中尉を褒めた。
 敵の死傷者は4000人にのぼる。負傷者の中にはシェラン、ウディノ、ユンベル将軍と、工兵将軍ド=ヴィユ、そして参謀副官ド=ビリーが含まれているという。我々は500人の捕虜を得たが、その中には2人の参謀副官がいる。
 我々の損害は、死者、負傷者、捕虜を合わせ、おそらく1600人にのぼる」

 会戦の翌日、即ち5日、敵の陣地が偵察された。軍事的陣地を強化するため自然と人工物によって提供できるあらゆるものがそこにはあった。右翼の端は湖まで延び、チューリヒの城壁にある大砲によって守られていた。そこからチューリヒベルクにある防御柵の右側までの上り坂、ホッティンゲンとフルンテルン村の前面からヒルシュラントにかけて、くぼんだ道と溝、峡谷によってあまりにも地形が険しくなっているため、大半の場所で敵の陣地まで徒歩で到達するのが不可能だった。
 チューリヒベルクの下り坂に沿ってシュヴァンマーディンゲン街道までは防御柵があり、堡塁と大砲によって巧みに守られていた。右側の前面には小さな開けた場所があり、そこでは敵騎兵がずっと優位な状況で活動することができた。というのもアドレスベルガー=ホフとドベルホフからこの平地に向かうあらゆる通りは、砲兵隊からの砲撃に完全に晒されていたためだ。
 我々の砲兵と騎兵を彼らに対峙するところまで運んでくること、そして敵の砲撃下で歩兵が攻撃隊形を取ることができないため、この方面から攻撃するのは不可能だった。
 敵陣の中央は深く開けた山々の連なりに置かれ、その表面はグラシスのオルリコンへ向けて下りながらなだらかにカーブを描き、12の堡塁と突角堡からの砲撃に守られていた。敵の左翼は同様に有利な森がちの高台にあり、同様に巧みな防御柵と堡塁によって強化されていた。左翼はリンマット沿いの道を見下ろすホンクの背後にある3つの砲兵陣地で終わっていた。これらの利点に加え、陣地は強力に集中しており、あらゆる地点から周囲の全域を3マイル遠方まで見ることができた。
 克服できないように思えるこれらの障害にもかかわらず、殿下は攻撃のためのあらゆる準備をなし、さらなる自信を持って、我らの兵が既にあらゆる方面で[敵]陣地の近くに集まり、自らその地を支配するべく、あらゆる可能性を踏まえてもあまり時間をかけることなく[敵]陣に迫り、いつもの勇気をもってそこを襲撃する日を6月6日と定めた。
 しかし敵はこの攻撃を待たず、大慌てで夜の間に退却したため、夜明けには完全にその陣地を捨て、塹壕の中に大砲25門、榴弾砲3門、弾薬車18両を残した。
 正午、ローゼンベルク公は前衛部隊と伴にチューリヒに入城し、右翼の騎兵をヴィティコン、アルビスフリート、及びアルトシュテッテン方面へ前進させた。町中では砲149門と、様々な大きさ及び口径のものを合わせ、合計で177門の大砲が見つかった。
 敵軍はアルビスの山を越えてツークへ、そしてリマトに沿って退却した。

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8" London Gazette, p263-267


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