ウィーン
1799年6月12日



 ウィーン、6月12日

 既に言及したように、伯爵ベレガルデ中将指揮下の軍団は、ティロルとグリゾン地方の戦況が変化した結果、イタリアへ前進してそこの軍の作戦を支援するよう命令を受けた。ベレガルデ伯のキアヴェンナ到着は既に知られている。
 イタリア方面軍の司令官から受け取った詳細な命令に合わせ、伯爵の軍団の一部はイタリア方面軍の右翼で活動し、ミジアンドーネとドモ=ダゾラに陣を敷いた。そうすることでイタリア方面軍とカール大公殿下の指揮下にある軍の連絡を確保した。彼[ベレガルデ]自身は軍団の残りと伴にコモへ迅速に前進し、それからミラノとパヴィアを経てトルトナへ向かった。
 伯爵ハディック中将は既にベリゾーヌに終結した兵の先頭に立っていた。この部隊の大半はローハン公爵、シュトラウス、及び伯爵サン=ジュリアン大佐の旅団で構成されており、ベレガルデ伯爵はこの部隊を上述した軍右翼の作戦に従事させる一方、自身はさらなる目的地へ前進するため残る兵と伴にコモ湖で乗船した。
 伯爵からの5月30日、31日及び6月3日の報告によると、伯爵ハディック中将はフランスのロワゾン将軍が増援を得てアイロロ付近及びサン=ゴッタルド山の陣地を保持する意向だとの助言を得て、この企図に対抗することが必要だと考えた。
 5月28日の夕方6時、この目的で彼はサン=ゴッタルド山のこちら側の麓にいる敵を攻撃した。敵の頑強な防戦は、この陣地がいかに彼らにとって重要であるかをはっきりと示していた。切り立った岩のため中央での戦闘は特に困難であり、敵がティチーノ川の橋を破壊したため左翼縦隊はすぐに支援することができなかった。とうとうバナリス師団に支援されたル=ルー中佐が指揮する軽歩兵が、戦線中央におけるこれらの困難を根気強く全て乗り越えた。今や戦闘は全面的になった。敵はその数や優位な地形、そして勇気を全て使い、戦闘の行方はしばし不透明だった。しかし公爵ヴィクトール・ド=ローハン大佐が左翼縦隊と伴にティチーノ川を渡り、敵右側面の極めて険しい岩を登り、そしてジーゲンフェルト少佐が彼の縦隊と伴にサン=ゴッタルド山の左翼を見下ろす山に布陣した時、敵はこの重要な峠における陣地を維持するのが不可能になった。
 この決定的な状況下で翌29日朝、敵はサン=ゴッタルド山の反対側で伯爵サン=ジュリアン大佐から攻撃を受けた。彼[サン=ジュリアン]は午前1時半に上ラインタールのゼルヴァから出発し、ウルスラ山に登り、敵の哨兵を追い払い、退却する場合に備えて背後に1個大隊を残して「悪魔の橋」における敵陣地を攻撃しウルゼーレンに向かうべく猛烈な勢いで山を下り、活発な攻撃によって敵にこの有利かつ重要な陣地を放棄することを余儀なくさせた。敵はあまりに大慌てだったため、退却を援護する役目を担った大隊ですら、補給隊幕僚のカール中尉が指揮するド=ヴァン師団によるその側面への正確な射撃によって混乱に陥り、素早い追撃によってその指揮官は何人かの士官及び多くの兵と伴に捕虜になった。
 追撃の最中に、勝利によって活気づいた我々の兵は、前夜のウルスラ山越えの夜間行軍と戦闘に伴うあらゆる疲労を忘れ、ゲスティーナ及びヴァーセンを越えてシュティーレまで敵を5リーグにわたって追跡し、敵が陣を敷き直すのを妨げた。敵後衛のいくつかの師団から捕虜を奪い、そしてもしシュティーレに置かれていた大隊が逃亡兵を集め退却の際には前もって決められ準備されていた橋の破壊を実施して我々の更なる追撃を妨害しなければ、敵をルツェルン湖のアルトドルフまで追い払っていただろう。その場合、もっとよい成功が収められていたに違いない。というのも、クリッツリー山を越えてシュティーレへ向かうよう命じられていた縦隊が道路を通り抜けることができず、地域の住民の案内にもかかわらず間に合うことができなかったからだ。
 攻撃の主な目的(伯爵ハディック中将との合流、及びサン=ゴッタルド山とルスタールから通じるあらゆる峠の確保)が完全に成功したため、伯爵サン=ジュリアン大佐はヴァーセンとゲルティーナ近くに布陣し、必要なあらゆる方法でそれを支援することで満足した。
 これらの連続した執拗な戦闘における我々の損害は僅かなものではなかったが、敵のそれは我々よりはるかに多かった。より詳細な記録はいずれ得られるだろう。報告が送られた時点では531人の捕虜が得られ、その中には大隊指揮官と12人の士官が含まれている。
 敵はアイロロに穀物400袋、ワイン100樽、ブランデー数樽、及び他の物資、さらに4ポンド砲1門とかなり多くの歩兵用弾薬を残していた。
 伯爵ハディック中将と伯爵サン=ジュリアン大佐は兵たちの勇気と忍耐を広く激賞した。ハディック伯は特に地形に対する正確な判断や最も効果的な地点への誘導、及び個人的な勇気の手本を見せ、戦闘の行方に主要な貢献をなした縦隊を指揮したル=ルー中佐、ジーゲンフェルト少佐、及び補給隊幕僚のゾコロヴィッチ大尉を賞賛した。さらにハディック中将は、上記のゾコロヴィッチ大尉と伴に最初にティチーノ川に飛び込むことで兵たちに後に続く決意を呼び起こしたミヒャエル・ヴァリス連隊のロスベルク大尉の大胆な行為を褒めた。
 伯爵サン=ジュリアン大佐は特に大隊指揮官であるムンガツィ[連隊]のヴェセリッヒ大尉、ド=ヴァンのブドナ大尉、及びノイゲバウアーのレーン大尉の思慮深く勇気ある行為を認めた。また勝利を手助けしたのみならず、ド=ヴァンのザンクト=イヴァニー大尉によって森の中で降伏を余儀なくされた2個中隊を含む捕虜の確保に貢献した補給隊幕僚のカール中尉も褒めた。
 大佐はまた砲兵第3大隊のツェリーニ伍長の行為も称賛した。彼は旅団に所属する8門の1ポンド砲の枠組みを作り上げ、人を配置したのみならず、自らそれをあらゆる機会に、特にこれらの直近の戦闘において、才能と効果をもって参加させた。
 最後に、敵に差し押さえられていたかなりの量の絹や他の商品がアイロロで発見されたが、その地が強襲によって奪われたにもかかわらず、兵たちはそれに手を触れなかった。ハディック中将はこれらの商品をかつての持ち主に返すべく確保した。
(後略)

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8" London Gazette, p241-244


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