ウィーン
1799年6月11日



 ウィーン、6月11日

 スプレニー連隊のレビンガー中尉によって昨日もたらされた殿下の声明を公に伝える前に、我々は順番に従い、郵便トラブルによって到着が遅れたその前の報告を紹介する。
 5月25日、敵はおそらく我々とホッツェ中将の合流を阻止する狙いで、極めて優勢な兵力で我々の前哨線全てにわたって攻撃を行い、トゥールまで退却することを余儀なくさせ、アンデルフィンゲンの橋を敵が奪うことを可能にした。
 川岸に布陣した我々の砲兵は彼らの前進を食い止めた。彼らはとうとう橋から取り除かれ、かなりの損失を受けながら追い払われた。
 戦闘開始時に彼らを包囲しようと試みた敵ユサール連隊をほとんど完全に壊滅させることで、キーンマイヤー将軍とマーゼリー大佐は大いに名を上げた。
 戦闘が始まったその時にピアチェック将軍は負傷した。
 にもかかわらず、敵はホッツェ中将の前衛部隊を猛烈に攻撃し、交互に5回の成功を収めた。この際、カウニッツ及びゲミンゲン連隊が特に名を上げた。しかしながら夕方にかけ、我々は敵の優勢な数の前に譲歩を余儀なくされ、ホッツェ中将のところへ退却した。その後、敵はプフィンの方角へ向かい、橋を占拠した。
 ジムション将軍がカレンベルクの大隊及び騎兵分遣隊と伴に敵を取り除くため送り出された。彼は日没までにたどり着くことができなかった。夜になってプファッヒャー将軍が攻撃を行い、大いに成功を収めたため敵は橋から取り除かれただけでなく多くの損害を出して追い払われた。
 試みが失敗したのを知った敵は26日、あらゆる戦線で退却した。我々の前衛部隊が彼らを追った。にもかかわらず敵は27日、トスを強行突破し、それによって我々の連絡線後方に侵入するため、エンブラッハでナウエンドルフ中将の前衛部隊を攻撃した。この攻撃は撃退された。敵はエンブラッハから追い払われ、我々はこの大きな村に陣を敷いた。
 28日夜、敵は完全にクラットの背後へ後退した。結果、我々の左翼の前衛部隊はバセスドルフ前面に、右翼の前衛部隊はブラッハ前面に布陣した。これらの敗北と、我々が示した体勢によって、敵は既にイタリアのモローの軍に合流するため移動していた縦隊を引きとめるよう仕向けられた。
 上に述べたレビンガー中尉は今月6日、敵が後方にある全ての橋を破壊した後でクラット右岸全てを放棄し、その川の左岸に陣を敷いたことを記した報告と伴に、殿下によってクラッテンから送り出された。
 チューリヒ近くに敵が用意した強力な塹壕に接近し、彼らをクラット右岸から追い払うため、そこにかなりの前衛部隊を編成する目的で、殿下はホッツェ中将と公爵ローゼンベルク将軍に対し、午前4時にトゥーベンドルフ付近でクラットを渡り、クラット橋から敵を追い払うよう命じた。この命令は極めて頑強な抵抗にもかかわらず実行された。同時にロートリンゲン公ヨーゼフ中将がフィリケンから、イェラチッチ将軍がツリコンから塹壕の側面へ勢いよく前進し、イェラチッチ将軍はチューリヒの郊外へ、ロートリンゲン公は堡塁と凸角堡によって守られていたチューリヒベルクの逆茂木陣地まで侵入した。
 敵にとって塹壕を巡らせた宿営地から我々を可能な限り遠ざけ続けることが最も重要だったため、彼らはクラットに布陣した兵のところへ強力な増援を送り、我々に対して数多の砲兵を振り向けることで、ホッツェ中将麾下の師団の前進をシュヴァメンディンゲンの前で止めたのみならず、逆茂木陣地へ前進してきた兵を撃退し、さらにゼーバッハ付近のローゼンベルク公部隊の右側面を脅かすにいたった。殿下はゼーバッハ近くの前衛部隊をロイス公麾下の1個歩兵旅団とアンハルト=ケーテン公の騎兵師団の一部で増援するよう仕向けされられた。同時に伯爵ヴァリス中将に、擲弾兵2個大隊及びフェルディナント大公連隊の歩兵と伴にシュヴァメンディンゲンを経てチューリヒベルクへ行軍し、敵の塹壕と防衛陣地を銃剣突撃で奪うよう命じた。擲弾兵はすばやく最初の凸角堡を奪い、逆茂木陣地へと侵入した。そこでヒラー将軍と、同じく伯爵ヴァリス中将が負傷した。
 敵は逆茂木の背後に優勢な兵力を布陣していたため、前進は不可能だった。しかし彼らはロートリンゲン公を攻撃するのを妨げられた。これはペトラッシュ中将(最初の攻撃で負傷したホッツェ将軍の代わりに指揮を執っていた)にローゼンベルク公麾下の前衛部隊を塹壕から射程距離内まで押し出し、日没時にそこに陣を敷く機会を与えた。
 殿下は5日に敵の塹壕を偵察し、彼らの強力さと有利な状況にもかかわらず、午前2時に攻撃を行い強襲によってそこを奪うことを決断した。そのため殿下は、敵の視界の中で、兵に補給を受けて休息をとるよう命じた。この予想外で威嚇的な様子は、敵を動揺させた。そしてこの新たな試みによるリスクを避けるため、彼らは5日、塹壕に25門の大砲、3門の榴弾砲、18両の弾薬車を残してバーデンの主力のところまで大急ぎで退却した。
 翌日、殿下は強力な前衛部隊をもって塹壕を、そしてすぐ後にチューリヒの町を占拠した。彼は前哨線の指揮官たちに対し、敵の動きを見張るため多くの偵察を出すよう命じた。
 兵を指揮した全ての将軍たちと幕僚士官たちは大いに賞賛された。この日の成功は彼らの勇気と技能の結果だった。
 捕虜の中には大佐(chef de brigade)1人と参謀副官(adjudant-général)2人が含まれていた。
 敵の損害は4000人と見積もられている。我々の分はすぐに判明するであろう。

google book "A Collection of State Papers Relative to the War Against France, Volume 8" London Gazette, p239-241


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